2012-10-08

迫真の肖像力


 いやはや、またぞろ凄いのを発見したよ。「偽りの画像が生む本物の迫真性」で紹介した klikatu's photostream に匹敵する衝撃を受けた。記事タイトルの肖像力とは「肖像が持つ力」ではない。「肖像を捉える力」である。私は画像処理を施した写真はあまり好きじゃないのだが、被写体の本質を引き出すためのデフォルメであれば歓迎する。数枚見ただけで、「これは厳選しなければ膨大な数になってしまう」と憂慮しながらも、tumblrにこれだけの枚数をアップした。撮影者は意図的に物語性を排除していると思われる。悲哀や寂寥(せきりょう)はない。ただ「ありのままの事実」にアプローチしているだけだ。その率直さが写真に独立性を与えている。どの作品を見ても心が震える。震えてならない(枚数が多いため画像を小さくしてある。是非ともクリックして元画像をご覧いただきたい)。

Sleepy Melody Bad Medicine This City Never Sleeps Full Eclipse Echoes of My Soul Cracking Under Pressure Retrograde Saturn Three's a Crowd Heights Sub Life Old Wine Last Exit A Busy Day Half Life Minefields Silent Night Persisting Century I'd Love To Change The World November Prelude to Eternity Life is a Journey - Not a Destination Blowin' in The Wind After Midnight Regrets Unregistered Minds

Alέxandros Bairamidis' photostream

既知からの自由



 これをクリシュナムルティは「既知からの自由」と表現した。

暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ

「慈悲の瞑想」アルボムッレ・スマナサーラ


 このマントラはよい。思わず一緒に口ずさんでしまった。アルボムッレ・スマナサーラはスリランカの上座部仏教(テーラワーダ仏教)シャム派の日本大サンガ主任長老を務める人物(Wikipedia)。著作も数多く刊行されている。







怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)怒らないこと 2―役立つ初期仏教法話〈11〉 (サンガ新書)死後はどうなるの? (角川文庫)原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章

仏教分裂の歴史/『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ

2012-10-07

本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ


 ・ただひとりあること~単独性と孤独性
 ・三人の敬虔なる利己主義者
 ・僧侶、学者、運動家
 ・本覚思想とは時間論
 ・本覚思想とは時間的有限性の打破
 ・一体化への願望
 ・音楽を聴く行為は逃避である

『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 3』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 4』J・クリシュナムルティ

 サンニャーシ、同胞愛の士そしてユートピア主義者のいずれも、明日のため、未来のために生きている。かれらは世間的な意味では野心的ではなく、栄光も富も人に認められることも望んでいない。しかしかれらは、もっと微妙な形で野心的なのである。ユートピア主義者は、世界を再生させる力があると彼の信じているある集団と自分を一体化させていた。同志愛の士は、精神的高揚を渇望しており、サンニャーシは自分の目標に到達することを願っていた。いずれも彼ら自身の成就、目標達成、自己拡張に汲々としていた。かれらは、そうした願望こそが、同胞愛を、そして至福を否定するものであることが分かっていないのだ。
 いかなる種類の野心も――それが集団のため、自己救済、あるいは霊的(スピリチュアル)な成就のためであれ――行為を先へ先へと引き延ばすことである。願望は常に未来に関わるものであり、何かになりたいという願いは、現在において何もしないことである。現在(いま)は明日よりもはるかに重要な意義を持っている。【いま】の中に一切の時間があり、そして【いま】を理解することがすなわち、時間から自由になることなのである。何かに【なろうとすること】は、時間を、悲嘆を持続させることである。【なること】は、【あること】を含まない。【あること】は、常に現在におけることであり、【あること】は、変容の至高形態である。【なること】は、限定された持続にすぎず、根源的変容は、ただ現在のうちに【あること】のうちにのみある。

【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年)】

 書名で検索したところ自分で書いた記事を発見した。削除しようかとも思ったのだが、面倒だからそのままにしておく。私の場合、45歳を過ぎてから精神的に目まぐるしい変化を遂げているので主張の変化が激しい。

 今回紹介してきたのは「三人の敬虔なる利己主義者」と題された冒頭のテキストである。オルダス・ハクスレーに促されて書き始め、クリシュナムルティにとっては初めての著作となった(※それ以前に講話集は刊行されている)。

 第二次世界大戦が迫る中で平和を説くクリシュナムルティを人々は受け入れなかった。トークの途中で去ってゆく人々もいた。戦争が始まり、クリシュナムルティは1940年から4年間にわたって講話を中断した。

コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ

 人々が殺戮へと駆り立てられる中でクリシュナムルティは沈黙のうちにペンを執った。

 最初に書かれたのは「時間の終焉」についてであった。これはデヴィッド・ボームとの対談集タイトルにもなっている(『時間の終焉 J・クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集』渡辺充訳、コスモス・ライブラリー、2011年)。

 人生には限りがある。その時間的限定性を打ち破ろうとすれば、ただ現在に生きるしか道はない。将来や来世は所詮自我の延長戦だ。あたかも連続ドラマのように「続く」と終わりたいわけだ。残念ながら続かないよ(笑)。自我なんてものは、脳内で反復し続ける反応に過ぎないのだから。その意味から申せば、「心」や「命」という言葉は概念としては存在するが決して実在するものではない。ゆえに諸法無我となるわけだ。


 時間的有限性を死後に延長するのではなくして、現在という瞬間に無限に押し広げてゆく。これが本覚思想の本質である。検索してみたところ、私以外には本覚思想を時間論で捉えている人はいないようだ。嚆矢(こうし)と威張ってみせたいところだが、ま、クリシュナムルティのパクリに過ぎない(笑)。

「【なること】は、【あること】を含まない」――簡にして要を得た言葉は悟りそのものだ。しかも、「なること」に潜む野心まで明かしている。理想とは形を変えた欲望なのだろう。我々は自我を満たすためにあらゆるものを利用する。時間的な経過が欠乏感を埋めることは決してない。今日よりは明日に、そして今世よりは来世に希望を託しながら現在の不幸を忍ぶ。

 簡単な思考実験をしてみよう。もしもあなたが「明日までの命」と医師に告げられたとしたら、最後の24時間は中途半端で無駄な時間なのだろうか? 大病を経験した人々の多くが劇的な生の変貌を遂げる。医師の井村和清は『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』の中で「世界が光り輝いて見えた」体験を綴っている。これが本覚(ほんがく)だ。






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時間を超える/『こうして、思考は現実になる』パム・グラウト
愚かさをありのままに観察し、理解する
『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
自由は個人から始まらなければならない/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ