2013-05-08

シュリニヴァーサ・ラマヌジャン

Srinivasa Ramanujan (center) with Godfrey Harold Hardy (extreme right) at Trinity College, Cambridge. c. 1914-1918.

 中央に写っているのがラマヌジャンである。

「(数学者に点数をつけるとすれば)自分は25点、リトルウッドは30点、ヒルベルトは80点、ラマヌジャンは100点」(G・H・ハーディー

G・H・ハーディはラマヌジャンを警戒した/『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』ロバート・カニーゲル
アインシュタインを超える天才ラマヌジャン/『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』ロバート・カニーゲル
ラマヌジャンは千年に一人の天才
ラマヌジャンの『ノート』
ラマヌジャンの『ノート』
シュリニヴァーサ・ラマヌジャン

無限の天才―夭逝の数学者・ラマヌジャン天才の栄光と挫折―数学者列伝 (文春文庫)心は孤独な数学者 (新潮文庫)

陣痛促進剤の投与基準違反77% 出産の脳性まひ補償


 出産時の事故で脳性まひになった子供に補償金を支払う「産科医療補償制度」の対象事案を分析した結果、陣痛促進剤を使用したケースの7割超で学会が設けた使用基準を守っていなかったことが8日、日本医療機能評価機構の調査で分かった。

 産科医療補償制度は同機構が運営し、脳性まひになった子供について過失の有無にかかわらず補償金を支払う。2009年に始まり、12年末までに465件を審査、うち425件の補償が決まった。今回は188件の分析結果をまとめ、公表した。

 同機構によると、出産時の何らかの事故によって子供が脳性まひになった188件のうち、陣痛促進剤が使われていたのは56件。うち77%に当たる43件で、日本産科婦人科学会が設けた指針に基づく用法などの基準を逸脱していた。

 基準逸脱の内訳(複数回答)は「陣痛促進剤の初期投与量が基準より多かった」が34件で最も多く、「投与の増加量や間隔に問題があった」(32件)、「最大投与量が基準より多かった」(2件)と続いた。基準を守らないと、強すぎる陣痛や子宮の破裂を引き起こす恐れがある。

 基準逸脱が脳性まひの直接の原因とされたのは1件で、他に影響を与えた疑いがあるケースが6件あった。

日本経済新聞 2013-05-08

2013-05-07

渇愛の原語は「好ましい」「いとおしい」/『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英


『つぎはぎ仏教入門』呉智英

 ・渇愛の原語は「好ましい」「いとおしい」

『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑
『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉

宮崎●愛の問題はどうですか。たとえば「ダンマパダ」や「ウダーナヴァルガ」で、ブッダは繰り返し「愛する者に会うことなかれ」と戒めています。なぜかというと、「愛」もその対象も必ず変滅するからです。経典には「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない」とすら記されてある。

呉●トリシュナー(サンスクリットの「渇き」)だね。愛の問題はね、いろんなところで何度も言ってますが、日本人の中で愛がものすごく大きな原理になってきたのは1970年ぐらいからで、それまではそんなに愛っていうのは大きな原理ではなかった。

宮崎●ダンマパダの、この偈の“愛”はパーリ語のピヤで、渇愛というよりは単純に「好ましい」「いとおしい」ぐらいの語意なんですが、それでもこのように否定的に語られているのが興味深い。

【『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英〈くれ・ともふさ〉(サンガ、2012年)】

 宮崎哲弥が“評論家の師匠”と呼ぶ呉智英との対談。マンガネタも豊富。一日で読み終えた。

 同様のテーマは『大パリニッバーナ経』でもアーナンダとのやり取りで「婦人を見るな」とブッダが断言する件(くだり)がある。

 ここらあたりでつまずく人も多いと思われるので少々解説しておこう。

 仏教の哲学性は万人に共通する「苦」を見つめることであった。仏典で仏は医師に喩(たと)えられる。マッサージ師ではない。つまり極言すればブッダの狙いは「抜苦」にあったわけで、最初から「与楽」を目指したものではない。

 果たして苦はどこから生まれるのか? ブッダの瞳は「我」(が)を捉えた。更に我の構成要素をも見極め、瞑想の深度は時空を超えて遂に成道(じょうどう)する。

 日本では愛と聞けば大半の人々が恋愛を思う。呉が1970年台からと指摘しているのは、ベトナム戦争反対運動のラブ&ピースや、ビートルズからフォークを経てニューミュージックに至るサブカルチャー・ムーブメントを指すのだろう。恋愛結婚が増えたのも戦後になってからのことだ。

 恋愛は愛なのだろうか? 私の10代を振り返ってみよう。恋愛感情は断じて愛ではなかった。単なる欲望であった(笑)。それこそ渇愛そのものだ。ただただ相手を手に入れたいという衝動に駆られていた。恋愛が美しいのは、ま、そうだな、最初の1週間くらいだろうな。10年以上連れ添った夫婦を見てごらんよ。半分以上はそっぽを向いているから。

 ブッダが明かしたのは苦と快楽が表裏一体であることだった。欲望がプラスに傾くと快楽で、マイナスに傾くと苦になるわけだ。愛憎もまた表裏一体だ。

 美味しいものを食べれば食べるほど、日常の食事がまずくなるようなものだ。快楽が比較を生み、比較が不幸を感じさせる。比較には限度がない。欲望は更なる高みを目指す。

 愛する者がいるゆえに悲哀が深まる現実を見失ってはなるまい。愛と喪失感は比例関係にある。だがこの愛は仏教的視座に立てば「自我の延長」と見ることが可能だ。

 好き嫌いというのは反応である。道徳的な理由であろうと進化的な理由であろうと反応に過ぎない。生の本質は反応である。政治・経済・科学・宗教・文化といってもそこにあるのは反応だ。

 我々の人生はビリヤードの球みたいなものだ。ある時は教育というキューでつつかれ、またある場合には他人が決めたコースを無理矢理走らせられる。そしてメディアは常に大衆の欲望を操縦する。

「好きこそものの上手なれ」とも言う。確かに技術においてはそうだろう。しかしこれが人生に反映されると機械的な生き方となってゆくことを避けられない。

 欲望は現在性を見失わせる。満たされぬ渇(かわ)きに支配された人は荘厳な夕日の美しさに決して気づくことがない。彼の目は自分の将来しか見つめていないからだ。

知的唯仏論さみしさサヨナラ会議宮崎哲弥 仏教教理問答つぎはぎ仏教入門 (ちくま文庫)