2013-10-09

10月8日、新100ドル紙幣が発行


 個人的にはトリッキーな金融引き締めであると考えている。

New $100 Bill Printing Costs More than 120 Million Dollars





2013-10-08

Tax Dollars At War


 何となく理解できるが翻訳を切望。

ラーシュ・ケプレル


 2冊読了。

 46、47冊目『催眠(上)』『催眠(下)』ラーシュ・ケプレル:ヘレンハルメ美穂訳(ハヤカワ文庫、2010年)/2日で読了。傑作。個人的には『チャイルド44』以来のヒット。ラーシュ・ケプレルは匿名作家のペンネームだってさ。ところが本国スウェーデンで刊行される前に20ヶ国以上に翻訳権を売ったということで話題をさらい、ある新聞が正体を読み解いてしまったらしい。北欧ミステリにはリリシズムがある。たぶん冬から春の変化に敏感なためだろう、と道産子の私は考える。凄惨な一家惨殺事件から始まり、何と前半で犯人がわかる。カットバックを多用することで物語全体が不思議な複層を帯びる。中盤で精神科医である主人公エリックの過去が挿入される。やや長いのだがここが新たな展開の重要な伏線となっている。タイトルの催眠とは催眠療法のこと。夫婦関係の行き詰まりや、子供が特殊な病気であることもリアリズムを深めている。ひとつ難点を挙げると、ヨーナ・リンナ警部とエリックが「ぼく」を使用しているために二人のキャラクター分けが上手くいっていないことだ。時々どっちがどっちだかわからなくなる。ついでにもう一つ書いておくと、二人の犯人が異様に強すぎること。

2013-10-05

ブライアン・グリーン、ジェフリー・ディーヴァー、長崎新聞社「累犯障害者問題取材班」、他


 17冊挫折、4冊読了。

脳の探究 感情・記憶・思考・欲望のしくみ』スーザン・グリーンフィールド:新井康允監訳、中野恵津子訳(無名舎、2011年)/図はよいのだが文章がまるでダメ。「脳の本 紹介・書評」で知った1冊。

覚醒(上)』山本譲司(光文社、2012年)/初の小説作品か。何となく言いわけめいたものを感じたのでやめた。

賭ける仏教 出家の本懐を問う6つの対話』南直哉〈みなみ・じきさい〉(春秋社、2011年)/南は僧衣をまとった哲学者だ。彼が宗教者である必要はないだろう。

ヒトはなぜ神を信じるのか 信仰する本能』ジェシー・ベリング:鈴木光太郎〈すずき・こうたろう〉訳(化学同人、2012年)/冗長。あまりにも冗長すぎる。それだけで説明能力を疑ってしまう。これほどの期待外れも久々。

人生がときめく片づけの魔法』近藤麻理恵(サンマーク出版、2010年)/良書。読み終えていないのだが「必読書」に入れた。このお嬢さんは顔つきがよい。文体にもそれが表れている。

素人が書いた複式簿記』岡部洋一(オーム社、2004年)/時間がないため後回し。

シーシュポスの神話』カミュ:清水徹訳(新潮文庫、1969年)/西洋の哲学は「考え過ぎ」だ。ま、それだけ神の束縛が強いのだろう。最初とシーシュポスの件(くだり)だけ飛ばし読み。

動物農場 おとぎばなし』ジョージ・オーウェル:川端康雄訳(岩波文庫、2009年)/新訳。高畠文夫訳と比較しようと思ったのだが時間がなかった。悪くはないと思う。

チャンピオンたちの朝食』カート・ボネガット・ジュニア:浅倉久志訳(早川書房、1984年/ハヤカワ文庫、1989年)/文章が肌に合わず。ボネガットはまだ1冊も読んでない。

ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』NHKスペシャル取材班(角川書店、2012年)/出だしの文章がよくない。まるでスピード感がない。

人間革命をめざす池田大作』高瀬広居〈たかせ・ひろい〉(有紀書房、1965年)/資料。確認したい文言があったため。

中国英傑伝(上)』海音寺潮五郎(文藝春秋、1971年/文春文庫、1978年)/宮城谷昌光が触れていたので読んでみた。過去に海音寺作品の数冊を手に取ったが読み終えた本は1冊もない。

複式簿記のサイエンス 簿記とは何であり、何でありうるか 簿記学対話』石川純治(税務経理協会、2011年)/知識のない私には難しすぎた。

カネと暴力の系譜学』萱野稔人〈かやの・としひと〉(河出書房新社、2006年)/文章の構成が悪い。萱野にしては雑な仕事だ。

身ぶりと言葉』アンドレ・ルロワ=グーラン:荒木亨訳(新潮社、1973年/ちくま学芸文庫、2012年)/こんなに厚いとは思わなかった。後回し。

「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき』スコット・ペイジ:水谷淳〈みずたに・じゅん〉訳(日経BP社、2009年)/著者は集合知と群衆の叡智を混同している。日経らしくタイトルもおかしい。多様な意見が正しいのであれば、世界はとっくに平和になっているはずだ。

宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体(下)』ブライアン・グリーン:青木薫訳(草思社、2009年)/詳細は下記に。

 42、43冊目『死の教訓(上)』『死の教訓(下)』ジェフリー・ディーヴァー:越前敏弥〈えちぜん・としや〉訳(講談社文庫、2002年)/佳作だが読む人を選ぶ作品だ。まだ人気がなかった頃の作品である。それでも面白かった。捜査主任のビル・コードが主人公だが本当の主役は娘のセアラだ。驚くべきことに読者が共感できるのは学習障害を抱えたこの少女に限られている。これは学習障害を理解させるために敢えて行った設定であろう。事件後の大学側の対応と比較するとより一層浮き彫りになる。

 44冊目『居場所を探して 累犯障害者たち』長崎新聞社「累犯障害者問題取材班」(長崎新聞社、2012年)/良書。新聞記事のため物足りなく感じるのは仕方あるまい。累犯障害者については本書から入り、次の順番で読むのがよい。『獄窓記』→『続 獄窓記』→『累犯障害者』→『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」

 45冊目『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体(上)』ブライアン・グリーン:青木薫訳(草思社、2009年)/ブライアン・グリーンにも外れがない。血沸き肉踊る天才本だ。これこそ私が求めていた一書である。今まで知り得た科学知識も本書によって一段と整理された。が、しかしである。下巻で挫けた。チンプンカンプンだった。私の知識ではちょっと追いつけない。ってなわけで、2~3年勉強してから再び取り組む予定だ。こちらも「必読書」入り。

2013-10-02

真のコミュニケーション/『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン


『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている』山村武彦
『人が死なない防災』片田敏孝
『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ
『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
・『群衆の智慧』ジェームズ・スロウィッキー

 ・集合知は群衆の叡智に非ず
 ・集合知は沈黙の中から生まれる
 ・真のコミュニケーション

『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳
『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環、水谷緑まんが
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

必読書リスト その五

 本書を読んでいると人と人とのつながりを考えさせられる。果たして我々の日常に「対話」と呼べる行為があるだろうか? また他人に対しては傾聴を求めがちだが自分は傾聴しているだろうか? そして集合知が求められるのはどのような場面だろうか?

 多くの人は自らの完全性を、自らの宗派の完全性と同じく絶対のものだと確信しています。あるフランス人女性は、ちょっとした姉妹喧嘩で「でも、つねに正しい人など会ったことがないわ。私以外はね」と言いました。(ベンジャミン・フランクリン)

【『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン:上原裕美子〈うえはら・ゆみこ〉訳(英治出版、2010年/原書、2009年)以下同】

 その意味では誰もが何らかの「信仰」を持っていると考えてよい。信者の辞書に「自問自答」は存在しない。もちろん「懐疑」も。

 フランクリンは、(中略)言葉数は少ないながら、宗教の不可謬性と、「自分はつねに正しい」と思いたがる人間ならではの性質を並べて論じてみせた。不可謬性を信じるのは時代遅れであり、民主主義が求めるものとは真っ向から対立すると主張し、個人または少集団がつねに正しい、または唯一の解決策を持っていると考えると、集団は危険な存在となると警告した。

 ただし民主主義も多様性から一気に衆愚へ傾く場合がある。特に不況で国民の間にストレスが蔓延している時は要注意だ。

 民主主義は脆弱な同意だ。集団の力と技術、そして理性を共有する人の力に依存している。だが真の民主主義はパワーになる。他者の意見に耳を傾けることを通じて、互いの差異と団結とを意識することのできる新しい集合体が生まれる。

 マスメディアが正常に機能していない以上、間接民主制(代議制)が集合知を発揮するとは思えない。種としてのヒトのコミュニティはやはりインディアンなどの部族程度が望ましいのではないだろうか。直接「声が届かなければ」集合知には至らないと私は考える。

「真の対話(ダイアログ)とは、ふたり以上の人間が、相手の前で自分の確信を保留できることによって生じる」(デヴィッド・ボーム)

 クリシュナムルティと対談している割にはボームの『ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ』は面白くなかった。

 集まっていたごく普通の人たちが、「聞く耳がある」ではなく、「聞く力がある」という態度で、互いの意見に耳を傾けた。

 ここは「聴く力」とすべきである。「聴」の字は「聡」や「徳」に通じているような気がする。それにしても見事な表現だ。

 集団の構成員は、それぞれが独自の目で世界を見ている。それぞれの情報はすべて貴重であり、同時に、全体を構成する一部でもある。場合によっては厄介だ。

 それぞれの情報は「部分情報」なのだ。ゆえに部分を統合させる作業が必要となる。各人が部分に固執してしまえば全体を見失う。「聴く」ことが石段となって高い視点を生み出す。

 そして集合知に欠かせないのは「よい方向への逸脱(ポジティブ・デビアンス)」であるという。逸脱が豊かな幅を形成する。

「どんなコミュニティや組織にも、あるいは社会的集団の中にも、例外的なふるまいや行動をして、よい結果を得ている存在がいる。……こうした“ポジティブ・デビアント(よい方向に逸脱した人たち)”は、自分では意識することなく、集団全体に成功をもたらす道を見つけている。彼らの秘密を分析し、分離し、のちに集合全体で共有すればいいのだ」(デヴィッド・ドーシー)

 一言でいえば「ユニーク」ということだ。多彩な表現力が新たな発見につながる。

 そして、特定のスタンスから一歩下がれば、全体の秩序やパターンも見えてくる。

「下がる」とは「離れる」こと。自分の部分情報から離れて全体の景色を見るのだ。

 エマソンは生の全容を、その矛盾と変則性を、学びに向けた欠かせない道として受け入れていた。神が作ったすべてのものにはヒビがあり、そのせいで人は未完成であると同時に、その裂け目から光が入る、と考えていたことは有名だ。

 エマソンは上手いことを言う。世界は神が造った不良品だ。

「精神は、それぞれに自分の家を建てる」(エマソン著『自然論』)

 その家を外から眺める人の何と少ないことか。皆、家の中から窓の外を眺めている。

 分断と細分化へ向かうのではなく、いつわりの合意、見せかけの団結に向かおうとする。このパターンにおいて、集団の構成員は沈黙と服従を選ぶ。集団内の不一致を明らかにするよりも、団結の幻想を守りたいと考える。

 これこそ集合知を阻む一凶である。知性を眠らせて隷属に向かう同調圧力が働くのだ。太鼓持ちやスネ夫タイプがいると集合知は生まれ得ない。

 ヘウムに住む賢者たちは愚か者だ、と言う者がいます。信じてはいけません。ただ、いつも愚かな出来事が彼らに起きるだけなのです。
  ――ソロモン・シモン『ヘウムの賢者たちと、その楽しいお話』より

 邦訳未完。知の力は内省的なものだ。無知の自覚が知の扉を開く。独善性は世界を歪める。北朝鮮やオウム真理教の正義を参照せよ。

 何かが真実であると確信すると、確証バイアスの呪いのもと、人はそのバイアスを裏付けるデータだけを探そうとする。真実であると思っていることに逆らうかもしれないデータは、すべて否定するか、「意訳」しようとする。

 一を聞いて十を知る人もいれば、一を見て9.9を失う人もいる。人間とは解釈する動物である。もちろん自分の都合に合わせて。認知レベルの誤謬を我々は自覚することができない。

誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

「わたしは人間だ。人間にかかわることなら何だって、ひとごととは思えない」
 共和制ローマの劇作家テレンティウス(紀元前195?~159年)の戯曲『自虐者』より

「私は人間である。人間のことで私に関係のないものなど何もない」(プビリウス・テレンティウス・アフェル

 テレンティウスはアフリカ人でかつて奴隷だった人物。自分が受けた苦しみを通して人類にまで眼(まなこ)を開いた。他者と関わり合う姿勢の中に集合知の萌芽がめばえる。

 衆愚は引力だ。あらゆる集団に発生し、知と反対の方向へと引きこもうとする。

 衆愚は黒々とした奔流となって暴走する。衆愚は声高に正義を叫びながら人々を邪悪な方向へと導く。大衆は考えることよりも走ることを好む。パンとサーカスがあれば完璧だ。

「思慮深く意欲的な少数の人間の集まりだけが世界を変えられる」マーガレット・ミード

 とすると野次と怒号が飛び交う国会はやはり人数が多過ぎるのだろう。群衆は責任を欠く。人影の後ろから石を投げるようなのばっかりだ。

 ボストン・フィルハーモニーの指揮者ベン・ザンダーは、(中略)「シンフォニー」という言葉はもともと「シン(共に)」と「フォニア(響く)」を組み合わせた言葉だと説明した。

 集合知が機能する人数の参考になりそうだ。

 4人の著者名から成る本書そのものが集合知の結晶と思えてならない。スコット・ペイジ著『「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき』も開いたが全くレベルが違う。

 本書はビジネスに活かすような代物ではない。真のコミュニケーションを具体的に示した正真正銘の傑作である。



コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ