2013-11-20

セックスとは交感の出来事/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・身体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事
 ・インナーボディは「大いなる存在」への入口

『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『日本人の身体』安田登
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

必読書リスト その二

 増刷されたようである。朗報。せっかくなので何か書いておこう。

 セックスとはほんとうは交感の出来事であり、感覚のコミュニケーションの出来事であったはずなのに、それが身体の特定部位の性能の問題にずらされてしまっているのだ。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】

 これは何も今に始まったことではあるまい。巨乳を昔はボイン(日本テレビの「11PM」で大橋巨泉朝丘雪路の胸をからかったのが嚆矢〈こうし〉)と言ったし、「小股の切れ上がった」なんて言葉は、「締まりがよい」とか「具合がよい」などと大差はないと思われる。

 結局のところ「性の商品化」と絡む問題なのだろう。鷲田の論考はここから急激に深まる。

 こういう読み物とかグラビアといった快楽情報が溢れているのは、ほんとうの快楽が他人とのあいだで得られていず、しかも情報は増える一方なので、恒常的な飢餓感や不足感だけが確実に膨らんできているということなのだろう。器官的なものとしての〈性〉ではなく、感情としての〈性〉がもうきちんと語りだされなくなってきている。
〈性〉は、個体と個体のあいだで起こる身体間のもっとも濃密な交通である。これを軸に、親子のあいだの親密な相互接触、さらにはじぶんの身体とのあいだの何重もの厚い関係が交叉しながら、これまで家庭という、複数の身体がなじみあう特異な空間を構成してきた。だから他人の家庭を訪れたとき、だれもが家庭というもののあの異様に濃密な空気にうろたえる。

 情報が性を貧しいものに変えた。当然、「性」は「生」とつながる。ジュディス・バトラーも同じ指摘をしている。

ポルノは経験に取って代わる/『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー

 性を濃密な関係と押し広げているところが卓見だ。確かに他人の家庭は薄気味悪い。私の父は無口であったため、殆ど会話らしい会話がなかった。そんな私からすれば、父親と息子が話しているだけでぞっとさせられる。一方で我が実家は幼い弟妹が小学1年生になる頃までチューをし続けた。他所様から見れば気色悪いこと甚だしいに違いない。

 ま、夫婦の性行為から家族が生まれるわけだから、その延長線上に家族関係も構築されるのだろう。

性はアイスクリームを食べるのに似ている/『エロスと精気(エネルギー) 性愛術指南』ジェイムズ・M・パウエル

 氾濫する性情報のなかで〈性〉はむしろ義務のようなものになっており、そっとやりすごさないとせっかくの関係を壊しかねないという不安が、そこにはある。
〈食〉が自己への暴力へと転化することがあるように(過食や拒食)、〈性〉もまた自己への暴力となりうる。〈性〉の背景にあった〈愛〉や〈家族〉といった観念が、そしてそれを制度化してきた社会的装置が、さまざまな場面できしんでくると、〈性〉の不幸は社会的な問題性をますます深く内にはらむようになる。

 これは確か女性のケースだ。いわゆる処女喪失というテーマだ。「処女」とか「セックス」とか書くのをためらってしまうのも、私の古典的な性意識が為す業(わざ)だと思われる。

 これまた実に鋭い指摘である。不安定な家族関係で育った女性は特に注意が必要だ。特に父親の愛情を知らない――当然離婚も含む――少女が危うい。男性遍歴が激化するケースがある。

 新聞や雑誌を開ければ、援助交際、ブルセラ、投稿写真、ストーカー、家庭内強姦、あるいは中絶という自己への暴力のあとの底深い負い目、「純愛」として語りだされる不倫、自己解放としての身体毀損(ボディ・ピアシング)……と、気が落ち込むようなテーマがならんでいる。それぞれの性が、そしてそれぞれの世代が、共有できる物語を欠いたまま、問題としての〈性〉にむきだしで接触しているという感じがする。

 過剰な性愛は不毛だ。精神はやがて疲労と疲弊に覆われ、擦り切れ、必ず廃(すた)れてゆく。彼女たちの魂は放置自転車のように埃(ほこり)まみれで錆(さ)びついている。不足を補うための行為が、かえって空洞を広げてしまう。

 私がまったく違う例を挙げよう。義父の介護を献身的に行っているという評判の奥さんがいた。私が訪れたところ義父も義母もお嫁さんを手放しで褒めていた。何度か足を運んで気づいた。お嫁さんは義父の身体に触れることが殆どなかった。彼女にとって介護は嫁としての義務であったのだろう。甲斐甲斐しく身の世話をしていたが愛情は感じられなかった。身体の接触なくして要介護者とのコミュニケーションは難しい。仮に脳血管障害由来の失語症などで言葉を失っていても、手を取り肩を組むだけで喜ぶ人々は多い。人間という動物は好意を抱いていれば必ず触れ合うものだ。

 性は本来豊かなコミュケーションであったはずだ。そしてコミュニケーションは交換から交感へと変わり、更には交感が交歓へと昇華するのだ。商品としての性には金銭と肉体の交換しか存在しない。経済的な見返りを求めた結婚も長期的な売買春と考えることができよう。

 中学生となり初めてフォークダンスをした時のあの緊張感を思い出そう。密かに思いを寄せていた女子生徒の手を握った瞬間、私は確かに感電したはずだ(笑)。

クリシュナムルティ『伝統と革命』



伝統と革命―J・クリシュナムルティとの対話

2013-11-18

新幹線での携帯電話


「決まりだからダメ」なのではなく、「周囲に迷惑をかけるからダメ」なのだ。常識よりもむしろ非常識が発想の転換を生み出す。

脱原発は郵政民営化の比ではない壮大な事業 小泉元首相が日本記者クラブで講演




【北里大医学部眼科、県眼科医会主催の市民公開­講座 2013年11月3日 横浜市西区】

2013-11-17

不条理ゆえに我生きる/『灼熱の魂』ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督・脚本


 これは凄かった。レビューの禁句ではあるが「凄い」としか言いようがない。ワジディ・ムアワッド(レバノン出身)の戯曲『焼け焦げるたましい』(原題:Incendies、火事)を映画化した作品だ。レバノン内戦を描いているところから察するとタイトルの意味は「焦土」か。

 冒頭で幼い少年たちが兵士の手で丸刈りにされる。カメラはある少年の踵をクローズアップする。そこには三つの点を描いた刺青が施されていた。このシーンの意味は最後で明らかとなる。

 母親が不可解な遺書をのこして死んだ。双子の姉弟が知らされていなかった父と兄を探し出して、手紙を渡すことを命じる内容だった。物語はロードムービーになるかと思いきや、カットバックで母親の越し方が挿入され、過去と現在が同時進行する。更に後半では兄の人生が加えられる。三重奏が描くのは「謎」だ。もうね、見ている側はプロレス技の卍固めをかけられたような状態となる。

 映像が緊張を強いる。ハンディカメラの手振れが効果を発揮している。そして思いも寄らぬ場面で突発的に暴力シーンが現れる。紛争地帯の日常とはそういうものなのだろう。

 姉弟はカナダから中東へ飛ぶ。母親はかつて政治犯であった。彼女は度重なる拷問に屈することなく13年間を耐え忍んだ。監獄では「歌う女」と呼ばれていた。

 姉弟の出自が明らかとなり、続いて二人がプールで泳ぐ場面が秀逸だ。胎内への回帰。水(プール)が重要なモチーフとして何度も出てくる。

 弟が姉に言う。「1+1=1があり得るか?」と。少し間を置いて姉は過呼吸に陥ったような音を立てる。直後にすべての謎が明らかとなる。

 不条理ゆえに我生きる――これが母親の人生だった。彼女はいくつかの罪を犯した。長男を育てることができなかった。そしてバスの中で出会った子供を救うこともできなかった。拷問は贖罪(しょくざい)であった。そしてその後の人生は更なる贖罪であった。死の直前に母親は真相を知った。そして死の床にあってそれを許した。

「三界は安きことなく、なお火宅の如し」(『法華経』譬喩品)――これこそがタイトルの意味だった。「家は火事です。あちらの家だと思っているのですが、ここなのです」(クリシュナムルティ)。この残酷極まりない世界では「穏やかに生きる者」のみが真の勝者であることを思い知らされた。

ドッグヴィル』の衝撃と『善き人のためのソナタ』のドラマ性を併せ持った稀有な作品である。

灼熱の魂 [DVD]