2013-12-24

満面の笑み


 セピア調ではあるが、多分それほど古い写真ではない。カメラによる画質なのだろう。外から戻ったばかりか、あるいは部屋が寒いのか。丼から顔を上げた少女が笑い声を立てる。懐かしい光景だ。無着成恭の『山びこ学校』(青銅社、1951年/角川文庫、1992年/岩波文庫、1995年)に「みんなゲラゲラでんぐりかえる(ひっくりかえる)ほど笑った」とある。でんぐり返るという言葉は北海道でも使う。私が子供の時分は「腹を抱えて笑った」ものだ。今はどうか。「爆笑」という言葉が誤って多用されている。本来は大勢の人々がどっと笑う様子を指す言葉だ。でも今時は一人称でも「爆笑した」と言ってのける。音の響きは威勢がよいのだが、「爆笑」には笑わせられたという受け身の姿勢を感じる。身体の運動を欠いた口先だけの笑いがあちこちから聞こえてくる。時に蔑みが込められることも珍しくない。写真の向こうで笑う少女の顔は天真爛漫そのものだ。強烈な伝染性をもって見る者の眼尻を下げてしまう。年の瀬は人それぞれの苦悩を深める時期でもある。そんな人々にこそこの写真を見てもらいたい。少女につられてマグカップのペコちゃんも笑っているよ。



2013-12-23

反原発ソングまとめて21曲(たぶん最強)


 わかる範囲で新→旧に並べた。


歌詞


歌詞





















チェルノブイリに悲しい雨が降る (Cherunobuiru ni Kanashii Ame ga Furu) - ドラゴンアッシュ / Dragon Ash















歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男


開祖や教団の正統性に寄りかからない
大乗仏教の仏は“真実(リアリティ)の神話的投影”
・歴史的真実・宗教的真実に対する違和感

 さらに、歴史的真実よりも宗教的真実を重んじるとき、必ずしも釈尊に帰れば説得力を持たないこともありうることである。我・法の二空を説き、無住処涅槃を説き、他者への慈悲と永遠の利他活動を説く。こうした大乗仏教は、宗教としては一定の原始仏教部派仏教よりも勝れているという判定は、大いにありうることである。人間として、虚心に宗教性の深みを問うとき、たとえ『阿含経』や『ニカーヤ』が釈尊の語ったことを確かに記録にとどめているとしても、時に非仏説とも批判される大乗経典の方により心を打たれ、より感銘を受けるものがあることも否定しえない事実である。

【『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男〈たけむら・まきお〉(大東出版社、1997年)】

 botの入力をしていたところ目に止まったテキスト。読んだのが5年前なので当時の書評は当てにならない。その後私の価値観が激変しているためだ。

 竹村の学問的アプローチはプラグマティックなもので望ましい姿勢であろう。ただし日本仏教なかんずく鎌倉仏教を擁護する悪臭を放っている。「歴史的真実よりも宗教的真実を重んじる」との言葉づかいにそれが顕著だ。

 ティク・ナット・ハンが法華経の内容に対して「歴史的次元と本源的次元」という枠組みを示している(『法華経の省察 行動の扉をひらく』)。確かに霊山会(りょうぜんえ)と虚空会(こくうえ)を理解するためにはそう解釈せざるを得ない。

 本来であれば「歴史的事実」とすべきであろう(※私の入力ミスである可能性も否定できず)。歴史的事実とはブッダが語った言葉と振る舞いだ。そして宗教的真実とはブッダの悟り以外の何ものでもない。ここから離れて大衆部(だいしゅぶ=大乗仏教)を持ち上げる行為は、悟りを斥(しりぞ)けて理論に接近することを意味する。

 理論が人々を救い、欲望から解き放つのであれば、我々は思考によって所願満足の人生を送ることが可能となる。そんな馬鹿なことなどあるわけがない。

 学術的成果と真の学びとは別物だ。

 学びというのは、不断の、蓄積しない過程であり、「自分自身」というのはつねに変化しつづけるもの、新たな考え、新たな感覚、新たなかたち、新たなヒントです。
 学ぶことは、過去や未来にかかわることではありません。
 私は学び終えたとか、私は学ぶだろうとか言うことはできないのです。
 したがって、精神は絶えず学びの状態でなくてはならないことになりますから、つねに進行中の現在にあり、つねに新鮮なのです。蓄積された昨日の知識を抱えた状態ではないのです。
 それを探ってみるなら、あるのは知識の獲得ではなく、ただ学びということがわかるでしょう。
 そのとき精神はとてつもなく気づき、目覚め、鋭敏に見るようになるのです。

【『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ:竹渕智子〈たけぶち・ともこ〉訳(UNIO、1998年)】

 理論とは説明されるものだ。悟りとは何か、生とは何かを言葉で説明することはできない。テキスト化された言葉は真実から離れてしまう。それゆえソクラテスは書字を嫌ったのだ(『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ)。

 仏法は啓典宗教ではない(『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹)。その一点から開始しなければ、いかなる仏教研究であろうとキリスト教のサブカルチャー的位置に貶(おとし)められてしまうだろう。

 続いてクリシュナムルティが説く「学び」について書く予定だ。

仏教は本当に意味があるのか入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書)あなたは世界だ

真の学びとは/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
タコツボ化する日本の大乗仏教という物語/『インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』竹村牧男
ソクラテスの言葉に対する独特の考え方/『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ

2013-12-22

ジョン・ル・カレ、増田悦佐、マシュー・スチュアート、ギュンター・アンダース、ジャン・ハッツフェルド、他


 12冊挫折、2冊読了。

青い城』モンゴメリ:谷口由美子訳(篠崎書林、1980年/角川文庫、2009年)/『赤毛のアン』シリーズを2冊しか読んでいないので何となく手にした。「青い城」って妄想なんだよね。50歳の私が付き合うべき作品ではなかった(ため息)。Wikipediaによると、「少女期から『赤毛のアン』を愛読していた作家の松本侑子は、1990年代に原書で読み直したところ、中世から19世紀にかけてのイギリス文学のパロディが、大量に詰め込まれていることを発見し、1993年に詳細な注釈つきの『赤毛のアン』の改訳版を刊行した」とのこと。松本侑子訳を読んでみるか。

反撃のレスキュー・ミッション』クリス・ライアン:伏見威蕃〈ふしみ・いわん〉訳(ハヤカワ文庫、2008年)/出だしが乗れず。というか他の本を読んでいるうちに失念していた。

魔女遊戯』イルサ・シグルザルドッティル:戸田裕之訳(集英社文庫、2011年)/巻頭の殺人事件で掃除婦たちがぞろぞろ付いてくるのが不自然。

飛ぶ教室』エーリヒ・ケストナー:池田香代子訳(岩波少年文庫、2006年)/昔は「エーリッヒ」だったよな。小学生の時分、我がクラスでは本書のタイトルが大流行したことがある。「飛ブー」と言いながらジャンピング・ニー・アタックの要領で屁をこくのだ。ナチス前夜に書かれた作品らしいが、どうしても馴染めない西洋の香りがする。

自律神経をととのえるリラクセーション』綿本彰〈わたもと・あきら〉(主婦と生活社、1997年)/飛ばし読み。綿本は粗製乱造気味ではあるが説明能力が高いため、ついつい読んでしまう。あと『綿本彰のパワーヨーガ パーフェクト・レッスン』を読んで卒業する予定。

隣人が殺人者に変わる時 ルワンダ・ジェノサイド生存者たちの証言』ジャン・ハッツフェルド:ルワンダの学校を支援する会(服部欧右〈はっとり・おうすけ〉)訳(かもがわ出版、2013年)/訳が悪い。もっと性差を強調すべきではなかったか。編集の手薄すら感じた。

われらはみな、アイヒマンの息子』ギュンター・アンダース:岩淵達治訳(晶文社、2007年)/それにしても、なぜ公開書簡としたのか。たぶん読んだ方がいいのだろうが、何となく腑に落ちないものを感じつつ本を閉じた。著者はハンナ・アーレントの元夫。

ヒトラーのスパイたち』クリステル・ヨルゲンセン:大槻敦子訳(原書房、2009年)/好著。上下二弾で330ページ、写真も豊富で2800円は安い。ただ私の時間がないだけ。

ドーキンス博士が教える「世界の秘密」』リチャード・ドーキンス著、デイヴ・マッキーン(イラスト):大田直子訳(早川書房、2012年)/今時珍しい大型本だ。出来としては疑問。『ネイチャー』同様、イラストと文字のバランスが悪い。ビル・ブライソンに軍配が上がる。

生の短さについて 他二篇』セネカ:大西英文訳(岩波文庫、2010年)/新訳。茂手木元蔵訳の方がいいのは知っていた。親切な古書店主は読者のために翻訳比較を紹介しようと企てたのだが、師走も迫るとそうそう親切にしているわけにもいかなくなったというわけ。amazonのカスタマーレビューを参照せよ。

怒りについて 他二篇』セネカ:兼利琢也〈かねとし・たくや〉訳(岩波文庫、2008年)/名訳。他の本が色褪せてしまうほどの衝撃を受けた。半分ちょっと読んだのだが、姿勢を正して最初から読み直すことにした。ストア派の凛々しさが堪(たま)らん。

宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』マシュー・スチュアート:桜井直文〈さくらい・なおふみ〉、朝倉友海〈あさくら・ともみ〉訳(書肆心水、2011年)/今年最大の難関であった。とにかく文体が濃密でイギリス文学の薫りを放っている。中世の歴史にこれほど目配りできている作品は初めて。スピノザはダーウィン以前に革命を起こした哲学者であった。彼は合理的思考によって真理を神と表現した。俗人ライプニッツは当時の知性を代表する人物であったが時代の影響から免れることはできなかった。ライプニッツは隠れスピノザ主義者であった。だが彼はスピノザと直接見(まみ)えた後、アンチ・スピノザを標榜した。この謎に迫ったのが本書というわけ。まあ凄いもんだ。この二日間ほどあらん限りの精力を注入して百数十ページを読んだのだが、結局3ヶ月かかって100ページを残してしまった。私が哲学に興味がないためだ。3800円+消費税と値は張るが並みの書籍の4冊分の価値はあるから決して損をすることはない。ホワイト著、森島恒雄訳『科学と宗教の闘争』と同じ光を放つ傑作だ。ジョン・ル・カレと文体がよく似ている。

 63冊目『危機と金(ゴールド)』増田悦佐〈ますだ・えつすけ〉(東洋経済新報社、2011年)/文章が軽いためゴールド万歳本かと思いきやそうでもない。クルーグマン批判などがキラリと光る。最大の瑕疵はリスクを明示していない点だ。その意味でバランスはかなり悪い。ゴールドの歴史、裏づけのない紙幣の役割、コモディティの中でなぜゴールドなのかがよく理解できる。中長期的観点に立てば、ドル円が下がり初めてからゴールド(現物)を買うのが正しい。

 64冊目『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』ジョン・ル・カレ:菊池光〈きくち・みつ〉訳(ハヤカワ文庫、1986年)/旧訳。村上博基訳の評判があまりに悪いため入手し直す。流麗な筆致でぐいぐい読ませる。ただし構成が緻密すぎて時折混乱を招く。もちろん私の脳味噌の問題だ。社員食堂の本棚にあった『スマイリーと仲間たち』を読んだのはもう30年以上前のこと。殆ど記憶に残っていない。カーテンを閉ざした部屋の談合から始まるのだがまるで影絵だ。そして終始会話を基調としてストーリーは進む。本書はイギリス文学の匂いが立ち込める戯曲といってもよい。と突然途中で胸が悪くなった。それ以前の007型スーパーマンスパイから米ソ冷戦構造のリアルな本格スパイを描いた本書が官僚を描いている事実に気づいたためだ。大英帝国の美しい物語は植民地主義に支えれれている歴史を忘れてはなるまい。スマイリーが妻の浮気に平然としているのも不自然である。異彩を放つのは敵方(ソ連情報部)のカーラだ。超然とした振る舞いがどこか映画『ショーシャンクの空に』のティム・ロビンスを思わせる。

2013-12-21

「自民党に復興予算が流れた仕組み」