2014-02-18

「私は正しい」と思うから怒る/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 怒らないほうがよいとわかっているのに、我々はなぜ怒るのでしょう。
 いつでも、我々には「こういうことで怒ったのです」という理由があります。その理由をひとつひとつ分析してみると、「自分の好き勝手にいろいろなことを判断して怒っている」というしくみがあります。
 人間というのは、いつでも「私は正しい。相手は間違っている」と思っています。それで怒るのです。「相手が正しい」と思ったら、怒ることはありません。それを覚えておいてください。「私は完全に正しい。完全だ。完璧だ。相手の方が悪いんだ」と思うから怒るのです。
 他人に怒る場合は「私が正しくて相手方が間違っている」という立場で怒りますが、自分に怒る場合はどうでしょうか。
 そのときも同じです。
 何か仕事をしようとするのだがうまくいかないという場合、すごく自分に怒ってしまうのです。
 たとえば「自分がガンになった」と聞いたら、自分に対して「なぜ私がガンになったのか」とずいぶん怒るのです。「なぜこの仕事はうまくいかないのか」「どうして今日の料理は失敗したのか」とか、そういうふうに自分を責めて、自分に怒る場合もあります。「私は完璧なのに、なぜ料理をしくじったのか。ああ嫌だ」「私は完璧に仕事ができるはずなのに、どうして今回はうまくいかないのか」と怒ります。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

 この前に絶妙な例えで「怒りという感情が生じるプロセス」を教えている。美しいバラを見て「きれいだ」(愛情)と思う。再び目をやるとそこにゴキブリがいる。「ああ、嫌だ。気持悪い」(怒り)との感情が芽生える。これらの感情は誰のせいにすればよいのか、と。

 感情とはある対象への反応にすぎない。喜びも怒りも自分の内側から湧いたもので、バラが喜ばせてくれたわけでもなければ、ゴキブリが怒らせたわけでもない。ひょっとすると感情は妄想の可能性さえある。いや妄想なのだ。我々は自分勝手に周囲の世界を低いレベルで創造するから互いを理解し合うことができないのだろう。

 怒りの元(原因)は自分の中にある。何らかのきっかけ(条件/縁)によって、怒りという現象(結果)が生じ、自分と周囲に影響を及ぼす(報い)。これを因縁果報という。

 例えば韓国を憎むようになった「きっかけはフジテレビ」という人もいる。確かに。ま、一理ある。と私が思うのはフジテレビに対して同じ感情を抱いて、その物語に乗っかっているためだ。自分の憎悪や怒りそのものを正面から見つめることは決してない。

 とすれば、より多くの人々に共有される感情を煽り、皆が求める妄想を示すところに政治家、宗教家、芸術家、音楽家の役割があるのだろう。感情の手配師。

 またスマナサーラはバラの例えで「受け入れること」(愛情)と「拒絶すること」(怒り)と示す。自我の形成や社会における自己存在性もこうした条件に大きく左右される。

 ああ、わかった! 今書きながら悟った。「感情は比較から生まれる」のだ。

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ

 泥棒にとっては盗むことが正しいのだ。吟味されない正義が何と多いことか。

「怒り」が生まれると「喜び」を失う/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 怒りというのは愛情と同じく、心にサッと現れてくるひとつの感情です。
 私達は自分の家族を見たり、自分の好きな人を見たりすると、心の中にすぐ愛情という感情が生まれます。何かを食べる場合、おいしい食べものを見たときも口に入ったときも、楽しい感情が生まれてきます。それは瞬時に起こるのです。怒りは、愛情と同じように人間の心に一瞬にして芽生える感情です。
 大雑把にいうと、我々人間はこの2種類の感情によって生きていると言えます。ひとつは愛情で、もうひとつが怒りの感情です。

 怒りを意味するパーリ語(お釈迦さまの言葉を忠実に伝える古代インド語)はたくさんありますが、一般的なのは《ドーサ》です。この《ドーサ》という言葉の意味は「穢れる」「濁る」ということで、いわゆる「暗い」ということです。
 心に、その《ドーサ》とうい、穢れたような、濁ったような感情が生まれたら、確実に我々はあるものを失います。それは、《ピーティ》と言って、「喜ぶ」という意味の感情です。我々の心に怒りの感情が生まれると同時に、心から喜びが消えてしまうのです。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

 パーリ語は省略しカタカナを二重山括弧でくくった。

私のダメな読書法」で紹介した通り、気に入ったテキストを見つけると片っ端からデジカメで撮影し、SkyDriveに保存するというのが私のやり方だ。付箋を挟んだままにしておくと本が傷んでしまう。時に半分以上のページに付箋をつけることもあるため本の形が実際に変形したこともある。デジカメのカウンターを何気なく見たところ、既に2万枚を軽く超えていた。Windows8に買い換えたところ、なんと最初からSkyDriveが内蔵されていた。以前より格段に作業効率もアップ。ノートパソコンの15.6インチでも画面を2分割できるので頗(すこぶ)る重宝している。

 ただし問題が一つだけある。ウェブ上からログインできなくなってしまった。で、アップロードしたフォルダの更新日がなぜか全部一緒になっているのだ。タイトルをつけたフォルダーはあいうえお順で表示される。今のところ私に解決策はない。ってなわけでこれまでは読了順に紹介してきたわけだが、今後はランダムに展開してゆく予定である。

 スマナサーラの言葉は極めてやさしい。たぶん中学生でも理解できるだろう。ただしそこでわかったような気になるのが凡夫(ぼんぷ)の浅はかなところだ。人間の残酷さはすべて怒りから生まれる。怒りこそ暴力の温床だ。ゆえに我々の暴力的な現実世界を変革するためには、怒りのメカニズムを知り、勇気を出して怒りを捨て、怒りから離れることが重要なのだ。

 本書は微に入り細を穿(うが)つようにして怒りの様相を示す。短気な私にとっては耳が痛い話ばかりだ。「私が怒るのは怒るだけの理由があり、その理由は絶対に正しい」と誰もが思い込んでいる。これが国民の総意となるところに戦争が生まれる。日本では反中国・半韓国感情が昂(たかぶ)りつつある。中国や韓国の首脳が国際舞台で扇情的な日本叩きを続ければ、日本国民の間で静かに開戦への気運が高まることだろう。

 バブル景気が弾け、失われた20年の間にソフトな暴力が社会を雲のように覆った。貧富の格差、セクシャルハラスメント、パワーハラスメント、児童虐待、いじめ問題、銀行による貸し渋り・貸し剥がし、振り込め詐欺、検察の国策捜査、メディアリンチ、就職時の圧迫面接、増税……。鬱屈した思いや鬱積した感情がはけ口を求めている。そして慢性的な疲労が人々の判断力を誤らせる。

 暴力行為は必ず弱い者に向かう。これが暴力の法則だ。喧嘩っ早い私だって、相手が本物のやくざ者やプロレスラーであれば必ず下手(したて)に出る。日本は韓国や中国と戦争をする可能性はあるがアメリカとは絶対にやらない。

「怒り」が生まれると「喜び」を失う。ということは怒りこそが不幸の最たる原因と考えてよかろう。怒っている人と喜んでいる人とが喧嘩になることはない。「自分は大したものだ」との錯覚から怒りは生まれる。「自分なんて何者でもない」と自覚すれば諸法無我だ。怒りの恐ろしさはエゴを強化するところにある。そして強化されたエゴはどこまでも肥大化し、怒りの波に翻弄されてゆくことだろう。西洋の神を見よ。あいつは怒ってばかりいたよ。

聖書の中で、人を一番殺してるのは誰なの?


怨みと怒り/『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎
テーラワーダ仏教の歩み寄りを拒むクリシュナムルティ/『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ

2014-02-16

香月泰男のシベリア・シリーズ/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆


真の人間は地獄の中から誕生する
・香月泰男のシベリア・シリーズ
香月泰男が見たもの
戦争を認める人間を私は許さない

 もう戦争が終ってから24年、シベリヤから復員して22年になる。
 22年前、私は満州での軍隊生活とシベリヤ抑留生活をモチーフに描きつづけてきた。帰国した翌年に発表した「埋葬」にはじまり、つい最近制作が終ったばかりの「朕」までで、すでに43点になる。いつのまにか“シベリヤ・シリーズ”の名がかぶせられ、私はその作者として多少知られることになった。
 もっとシベリヤを描けという人もいれば、そろそろシベリヤから足を洗ったらどうだとすすめる人もいる。そうはいわないまでも、なぜいつまでもシベリヤを描きつづけるのかという問いを受けることは始終ある。正直の(ママ)ところ、私自身、それがなぜなのかよくわからない。

【『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)以下同】


 特筆すべきは本書に香月の『私のシベリヤ』(文藝春秋、1970年)が収められていることだ。「テキスト部分の復刻」となっているが全部かどうかはまだ確認していない。

 外野はいつだって勝手なものだ。マスメディア、評論家、美術品バイヤー、音楽プロダクション、そして客という名の大衆……。勝手なリクエスト、希望、願望を並べ立てる。本来、批評とは独善と無縁のものであらねばならない。

 ほとんど毎年のように、私はこれが最後の“シベリヤ・シリーズ”だと思いながら絵筆をとってきた。そしてそのたびに描いているうちから、「ああ、あれも描いておかなければ」と早くも次の絵の構想が自然にできあがってくる。描くたびに、こんなものではとてもオレのシベリヤを語りつくしたことにはならない、という気がしてくるのだ。

 香月がシベリアで目撃したものは何だったのか。それを我々は絵を通して見ることができる。真実とは彫琢(ちょうたく)された現実である。個の深き泉が大海に通じる。

 多分ずるずるとこれから先何年もシベリヤを描きつづけることになるのではないかという気がする。もしかしたら私は死ぬまでシベリヤを描くことになるかも知れぬ。

 この言葉通りとなった。否、香月は石原吉郎と同じくシベリアを生き続けたのだろう。描く営みは現在と過去の往還であり、生きることそのものであった。単なる回想から芸術作品は生まれない。創作とは常に現在性を刻印する作業であるからだ。

 私の個展を見にきてくれた戦友がこんなものはみたくないといった。もうシベリヤのことなんか思い出したくもない、といった。私にしたって同じことだ。シベリヤのことなんか思い出したくはない。しかし、白い画布を前に絵具をねるとそこにシベリヤが浮びあがってくる。絵にしようと思って絵にするのではない。絵はすでにそこにある。極端な言い方をすれば私のすることは、ただそこに絵具を添えていくことだけだといってもよい。

 本物の芸術は作為から解脱(げだつ)する。まさに無作(むさ)の境地といってよい。制作が創造へと飛翔する様が見てとれる。


「黒い太陽」に至ってはマンダラと言い切ってよいほどの荘厳さを湛(たた)えている。凡人の苦悩は時間を経ることで達観可能となる。しかし偉大な人物は苦悩した瞬間に苦悩そのものを達観する。悟りとは瞬間を開くものだ。であれば香月の絵は既にシベリアの地で生まれたものと考えてよかろう。

シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界

2014-02-15

真の人間は地獄の中から誕生する/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆


『石原吉郎詩文集』石原吉郎

 ・真の人間は地獄の中から誕生する
 ・香月泰男のシベリア・シリーズ
 ・香月泰男が見たもの
 ・戦争を認める人間を私は許さない

 香月さんのシベリア・シリーズは、いうなれば、絵だけでは伝えきれない情念のかたまりなのである。だから香月さんは、このシリーズの絵に全点「ことば書き」をつけた。シベリア・シリーズは、絵とことばが一体なのである。シベリア・シリーズは、ことばによって付け加えられた情報と情念が一体となってはじめてわかる絵なのである。

【『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)】

 香月泰男〈かづき・やすお〉は死ぬまでシベリアを描き続けた。シベリアとは地名ではない。それは抑留という名の地獄を意味する。

 戦争に翻弄され、国家から見捨てられたシベリア抑留者の数は76万3380人と推定されている。経緯については以下の通りである。

「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治

 私は『香月泰男のおもちゃ箱』(香月泰男、谷川俊太郎)を読んでいたが、香月が抑留者であることは知らなかった。また彼の絵を見たのも本書を読んでからのこと。ブリキ作品とは打って変わった作風に衝撃を受けた。そこには石原吉郎〈いしはら・よしろう〉が抱える闇が描かれていた。彼らは言葉にし得ぬものや、描き得ぬものを表現しようとした。そして死ぬまでシベリアを生き続けたのだ。

 地獄の焔(ほのお)が特定の人々を精錬する。不信と絶望の底から真の人間が立ち上がるのだ。私の内側で畏敬の念が噴き上がる。

 鹿野武一〈かの・ぶいち〉は帰還から、わずか1年後に心臓病で死んだ。管季治〈かん・すえはる〉は政争に巻き込まれ、鉄路に身を投げた。

 国家と人間の不条理を伝えることができる人物は限られている。香月泰男もその一人だ。初めて画集を開いた時、ページを繰るたびに私は「嗚呼(ああ)――」と声を漏らした。「嗚呼、そうだったのか」と。

 香月が描く太陽は、どことなく石原が渇望した海を思わせる。

石原吉郎と寿福寺/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治

 日の丸は抑留者を見捨てたが香月は太陽を描いた。シベリアの抑留者を決して照らすことのなかった太陽を描いた。

 善き人々に対して神は父親の心を持ち、彼らを強く愛して、こう言われる。「労役や苦痛や損害により彼らを悩ますがよい――彼らが本当の力強さを集中できるように」と。怠惰のために肥満した体は、労働のみならず運動においても動作が鈍く、またそれ自体の重量のために挫折する。無傷の幸福は、いかなる打撃にも堪えられない。しかし、絶えず自己の災いと戦ってきた者は、幾度か受けた災害を通して逞(たくま)しさを身につけ、いかなる災いにも倒れないのみならず、たとえ倒れてもなお膝で立って戦う。(「神慮について」)

【『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳】

 香月は絵筆を振るい、石原はペンを握って戦った。その力はシベリアの地で蓄えられた。真の人間は地獄の中から誕生するのだろう。

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戦場へ行った絵具箱―香月泰男「シベリア・シリーズ」を読む
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2014-02-14

快楽中枢を刺激する文体/『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳


『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集
『ウパニシャッド』辻直四郎
『はじめてのインド哲学』立川武蔵

 ・快楽中枢を刺激する文体

・『神の詩 バガヴァッド・ギーター』田中嫺玉訳
『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編
『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン
『イスラム教の論理』飯山陽

 アルジュナはたずねた。
クリシュナよ、智慧が確立し、三昧に住する人の特徴はいかなるものか。叡知が確立した人は、どのように語り、どのように坐し、どのように歩むのか」

 聖バガヴァットは告げた。――
 アルジュナよ、意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)においてのみ満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。
 不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡知が確立した聖者と言われる。
 すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎みもしない人、その人の智慧は確立している。
 亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官をすべて収める時、その人の智慧は確立している。
 断食の人にとって、感官の対象は消滅する。【味】を除いて……。最高の存在を見る時、彼にとって【味】もまた消滅する。
 実にアルジュナよ、賢明な人が努力しても、かき乱す諸々の感官が、彼の意(こころ)を力ずくで奪う。
 すべての感官を制御して、専心し、私に専念して坐すべきである。感官を制御した人の智慧は確立するから。
 人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が彼に生ずる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生ずる。
 怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生ずる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破滅する。
 愛憎を離れた、自己の支配下にある感官により対象に向いつつ、自己を制した人は平安に達する。
 平安において、彼のすべての苦は滅する。心が静まった人の知性はすみやかに確立するから。
 専心しない人には知性はなく、専心しない人には瞑想(修習)はない。瞑想しない人には寂静はない。寂静でない者に、どうして幸福があるだろうか。
 実に、動きまわる感官に従う意(こころ)は、人の智慧を奪う。風が水上の舟を奪うように。
 それ故、勇士よ、すべて感官をその対象から収めた時、その人の智慧は確立する。
 万物の夜において、自己を制する聖者は目覚める。万物が目覚める時、それは見つつある聖者の夜である。
 海に水が流れこむ時、海は満たされつつも不動の状態を保つ。同様に、あらゆる欲望が彼の中に入るが、彼は寂静に達する。欲望を求める者はそれに達しない。
 すべての欲望を捨て、願望なく、「私のもの」という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。
 アルジュナよ、これがブラフマン(梵)の境地である。それに達すれば迷うことはない。臨終の時においても、この境地にあれば、ブラフマンにおける涅槃に達する。

【『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦〈かみむら・かつひこ〉訳(岩波文庫、1992年)】

 クリシュナムルティが常々虚仮(こけ)にしているヒンドゥー教の聖典だ。叙事詩『マハーバーラタ』(全18巻)の第6巻に編入されている。


(『マハーバーラタ』の場面を描いたオブジェ)

 実際に読んで私は驚嘆した。その華麗なる文体と思想の深さに。はっきりいって私程度のレベルでは仏教と見分けがつかないほどだ。もっと正確に言おう。「それってブッダが説いたんじゃないの?」と吃驚仰天(びっくりぎょうてん)する場面が随所にある。

 ってことはだよ、多分ブッダはヒンドゥー教的価値観の「何か」をスライドさせたのだろう。現代の我々が考えるように画然(かくぜん)と新宗教の旗を振ったわけではなかったのだろう。

 読むほどに陶酔が襲う。この文体(スタイル)が秘める力はアルコールや薬物に近い。快楽中枢(側坐核)を直接刺激する美質に溢れている。

 ブッダの弟子たちが根本分裂(大衆部と上座部に分裂した)に至った背景には、ヒンドゥーイズムの復興があったというのが私の見立てである。それゆえに大衆部(だいしゅぶ)はブッダの教えを理論化する過程でヒンドゥー教を仏教に盛り込んだのだろう。

 そして本当に不思議なことだが中国を経て日本に伝わった仏教は完全に密教化しており、その内容はヒンドゥー教と酷似している。和製仏教で世界的に評価されているのは座禅(瞑想の様式化)くらいのものだろう。マントラを仏教と見なすことは難しい。

 ま、バラモン教を安易に否定する仏教徒は一度読む必要がある。

 尚、余談ではあるがクリシュナムルティの名前は第8子であったため、8番目の神であるクリシュナ神に由来している。

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

岩波書店
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2014-02-13

タコツボ化する日本の大乗仏教という物語/『インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』竹村牧男


【大乗】人間は誰でも釈尊と同じ仏となれると考えられている。
【小乗(部派)】人間は釈尊にはほど遠く、修行してもとてもおよばないと考えられている。

【大乗】最終的に仏となり、自覚・覚他円満の自己を実現する。
【小乗】最後に阿羅漢となり、身と智とを灰滅して静的な涅槃に入る。

【大乗】一切の人々を隔てなく宗教的救済に導こうと努力し、利他を重視する。
【小乗】自己一人の解脱のみに努力し、自利のみしか求めない。

【大乗】みずから願って地獄など苦しみの多い世界におもむいて救済行に励む、生死【への】自由がある。
【小乗】業に基づく苦の果報から離れようとするのみで、生死【からの】自由しかない。

【大乗】釈尊の言葉の深みにある本意を汲み出すなかで、仏教を考えようとした。
【小乗】釈尊の言葉をそのまま受け入れ、その表面的な理解に終始する傾向があった(【声聞】といわれる。なお、声聞は本来、弟子の意である)。

【大乗】在家仏教の可能性を示唆した。
【小乗】明確な出家主義。

【『インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』竹村牧男(講談社学術文庫、2004年)】

 実際の本文はページの上下に分けて一覧表記されている。テーブルタグの挿入が面倒であるため、このような書き方となった。

 竹村は大乗【主義者】である。そもそも今時「大乗」「小乗」などと表現すること自体が疑問だ。素人の私ですら「大衆部」(だいしゅぶ)「上座部」(じょうざぶ)と称しているのだ(尚、厳密には大乗=大衆部と言い切れないのだが、小乗というネーミングが大乗側のつけた貶称〈へんしょう〉である以上、大乗を採用するわけにはいかない。現代的に申せば大衆派と出家派くらいの意味合いで構わないだろう)。

 しかも「大乗」を上に置き、説明そのもので「小乗」を否定的に扱うという愚行を犯している。

 日本の仏教学者はいつまでこんな真似をするつもりなのか? 「天台ルール」(五時八教)という前提すらきちんと示さず、完全に密教化した平安仏教-鎌倉仏教を「大乗」と言い切っているのだ。学問として世界に通用するとは思えない。どちらかといえば文学や古典のレベルであろう。そもそも鎌倉時代に南伝仏教(≒上座部)は正確に伝わっていなかったはずだ。そろそろ文学や民俗学の次元から離れるべきだ。

「大乗仏教」と呼ぶから私の逆鱗(げきりん)に触れるのだ。「大乗思想」であれば構わない。

 あとは面倒なんで竹村宛ての簡単な質問を掲げて終えよう。

・「釈尊と同じ仏」はどこにいるのか?
・「最終的に仏」になった人は誰か?
・自己実現は諸法無我に反するのではないか?
・「宗教的救済」の内容を示せ。また「救済されていない」人が他人を救済することは可能なのか?
・「生死【への】自由」と「生死【からの】自由」の意味が不明。
・ブッダは「本意」を説かなかったということか?

 竹村の主張は思想・哲学を志向しているようでありながら、その実は仏教から派生したスピリチュアリズム(密教)を擁護する思考法となっているように映る。

 日本の仏教界は束になって掛かってもティク・ナット・ハンアルボムッレ・スマナサーラにかなわないことだろう。


インド仏教の歴史 (講談社学術文庫)

歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男