2014-04-05

『学生との対話』小林秀雄:国民文化研究会、新潮社編(新潮社、2014年)

学生との対話

「さあ、何でも聞いて下さい」と〈批評の神様〉は語りかけた。伝説の対話、初の公刊! 「僕ばかりに喋らさないで、諸君と少し対話しようじゃないか」――。昭和36年から53年にかけて、小林秀雄は真夏の九州の「学生合宿」に5回訪れた。そこで行われた火の出るような講義と真摯極まる質疑応答。〈人生の教室〉の全貌がいま明らかになる。小林秀雄はかくも親切で、熱く、面白く、分かりやすかった!

信ずることと知ること/『学生との対話』小林秀雄:国民文化研究会・新潮社編
超能力に対する態度/『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』
集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ

2014-04-04

紳士服「AOKI」の詐欺商法発覚

紳士服「AOKI」の詐欺商法発覚
AOKI 詐欺行為発覚の顛末

 ニュースサイト HUNTER(ハンター)は実によい仕事をしている。

他人によってつくられた「私」/『西田幾多郎の生命哲学 ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』檜垣立哉、『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人


 それに、「私」が経験していることとは、それが何かの意味を持つ以上、実は「誰か」の経験であることのたどり返しであるという部分も大きい。
 そもそもが、本当に、「私」に独自のものとして見ていることなどあるのだろうか。「私」が何かを感じていても、その感じ方自身、「他人」にょってどうしようもなく刷り込まれたものでしかないのではないか。また「私」の経験とは、ある意味で「他人」の経験である「過去」の「私」によって感じられた事柄が、いかんともしがたく介在している、そうしたものではないか。その意味で見ることや感じることは、「私」のコントロールを、はじめから外れているのではないか。
 こうした事態を、哲学はさまざまな仕方で論じている。西田と同時代のいくつもの思考が、「私」以前に作動しているような、こうした場面を解き放っている。

【『西田幾多郎の生命哲学 ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』檜垣立哉〈ひがき・たつや〉(講談社現代新書、2005年)】

 このくどい文章も西田の影響を受けているのだろう。「その感じ方自身」は自体とすべきだ。苫米地英人がもっと明快に書いている。

 つまり、あなたが見ているのは【過去の自分にとって価値のあるもの】だけであり、それは【他人によってつくられた世界】なのです。
 あなたの生きている世界は、すべて【他人によってつくられた世界】なのです。あなたの見ているもの、あなたの行動、あなたの思考は他人によってつくられている可能性が高いのです。
 これは、たいへん怖ろしいことです。もしも、ある一部の権力者によってメディアがコントロールされてしまえば、あなたは【他人によってつくられた人生】を生きるしかないのです。「自由」は完全に奪われてしまいます。

【『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(フォレスト出版、2011年)】

 檜垣の文章が同じ場所をグルグル回っているのに対して、苫米地はどんどん前へ進んでいる。哲学が考えることであるなら、考えすぎた挙げ句に足がもつれて転んでしまう。更に決定的なことは哲学によって救われた人を私は見たことがない。ま、私の知能レベルだと澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉のエッセイくらいしか理解できない(『「自分で考える」ということ』)。

 私が半世紀前に誕生した時、私は何ひとつ「つくっていない」。確かに「他人によってつくられた世界」だ。そして価値観は親を始めとする大人たちの態度(教育や言動ではない)によって形成された。子は親の顔色を窺う。褒められたり叱られたり貶(けな)されたり無視されたりする中で我々は社会のルールを学んだ。ま、くそ下らないルールではあるが。

 私とは私の過去である。過去と同じ一貫性のある反応を我々は個性と呼ぶ。各人が「私」という物語を編んでいるわけだ。諸法無我とは「私」という幻想に鉄槌(てっつい)を下した言葉である。「私」とは私の欲望の異名でもあった。「私」に固執するから喧嘩となり、戦争に至る。私のもの、私の考え、私の神こそが争いの原因だ。

 よく考えてみよう。ただ、「私」という受信機があるだけだ。それゆえ反応の仕方を少しずらしたり変えたりすることで世界は別の顔を現す。世界が退屈なのは君が退屈なせいだ。世界がつまらないのはお前がつまらない人間だからだ。厳密にいえば世界とは「私の世界」に他ならない。だから、あんたの世界と俺の世界は別物だ。俺の世界は満更でもないよ。

 ただ、愚かな政治によって私の世界が侵食されているのは確かだ。

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欽定訳聖書の歴史的意味/『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
我が子の死/『思索と体験』西田幾多郎
「或教授の退職の辞」/『西田幾多郎の思想』小坂国継

長時間睡眠自慢/『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆


愛国心への疑問
ギネス認定はインチキ
個性は伸ばすものではなく、勝手に伸びるものだ
勝ち上がってくる力士
・長時間睡眠自慢

 少し前に以下のページを見つけた。面白かった。

中野翠と斎藤美奈子

 女性のコラムニスト(当初「女流」と書いたが差別用語っぽいのでやめた)といえばこの二人しか頭に浮かばない。女性とコラムは相性が悪いのだろうか? たぶん違う。女に世の中のことをあーだこーだと言われたくない男が多いだけのことだろう。中野翠〈なかの・みどり〉はどこか品を捨てきれないところがあるし、斎藤美奈子は才が走りすぎる嫌いがある。二人が長時間睡眠を自慢しているのが面白い。だが、まだまだ甘い。

 素晴らしい天気だ。昨晩の11時から朝の7時まで寝て、午前10時から午後5時まで昼寝をした。
 15時間睡眠。こんなにも素晴らしい空の下で、私はただ眠り続ける。薄もやのかかった憂悶を遠い記憶の底に沈めて。移動曲馬団の無口な象のように。もちろん夢は見ない。空に太陽のある限り。

【『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆(朝日新聞社、2005年)以下同】

 小田嶋がアルコールに耽溺(たんでき)し、ほぼ廃人に近い状況で書かれた一冊である。廃人というのは私の想像にすぎないが当たらずとも遠からずだと思う。その後、彼は酒と手を切った。

「移動曲馬団の無口な象」ときたもんだ。曲馬団ってえのあサーカスのことね。これが「サーカスの無口な象」だとニュアンスがまったく違う。サーカスの象だと何となく愛嬌を感じる。移動曲馬団だといかにも脇役という匂いがプンプンする。

頑張らない介護」でも紹介したが、「私の祈りは空しく、努力は報われず、私のささやかな願いは線路工夫の口笛のように風の中に消えてしまった」(『我が心はICにあらず』)という文章も忘れ難い。時折漂う詩情が胸を鷲掴みする。

 せっかくなんでもう少し紹介しよう。酔っ払いの名調子だ。

 なあ、ねえちゃん、言っておくぞ。あんたがセクシーなのは魅力的だからじゃない。ただ露出面積が多いってだけで、それは魅力とは別のものだ。元来、魅力というのは手の届かない存在に対して感じるものだ。それが、あんたたちときたら、手が届きそうどころか、手を伸ばすまでもなく既に剥き身で転がっている。

 これを差別と捉えるのは誤りだ。なぜなら女性の露出は犯罪を誘発する要因となり得るが、男の露出が犯罪を誘発することは考えられないからだ。露出狂はまた別の話である。

 JTの諸君は知っておいた方が良い。愛煙家は、君達を憎んでいる。愛煙家は、煙を愛しているのではない。タバコを愛しているのでもなければ、ましてJTを愛しているなんてことは、絶対にない。
 というよりも、愛煙家という名称自体が、悪質なプロパガンダなのであって、喫煙者の正体は依存症患者にすぎない。誰も好んで煙を吸い込んでいるのではない。煙を吸わないと呼吸が苦しいという自縄自縛の状態に追い込まれているがゆえに、余儀なく呼吸を楽にするために肺を傷つけている、と、それだけの話だ。
 たとえば、シャブ中を愛粉家と言うか? ジャンキーを愛針家と呼ぶのか?
 たばこ(ママ)が心の日曜日なら、シャブは夏休みか? アヘンは心の大晦日。
 で、心の日曜日は諸君の給料日で、誰の命日なんだ?

 中毒と格闘する苦しみが滲み出ている。現在、小田嶋はCS放送やラジオのレギュラーを抱えていることもあって、昔に比べると毒が少なくなった。選挙の投票にも行くようになった。まったく信じられない事態である。それでも現代の戯作者(げさくしゃ)たり得るのは小田嶋しかいない。

イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド

レオナード・クワン (Leonard Kwan)



ハワイアン・スラック・キー・ギター・マスターズ・シリーズ10 ケアラズ・メレ~ハワイ、甘き香りのギター~スラック・キー(紙ジャケット仕様)The Legendary Leonard Kwan : The Complete Early Recordings

スラック・キー・ギター

2014-04-03

被爆を抱えた日常/『夕凪の街 桜の国』こうの史代


 ・被爆を抱えた日常

『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』ジョー・オダネル
『チェ・ゲバラ伝』三好徹
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎
小倉に投下予定だった原爆

 死体を平気でまたいで歩くようになっていた
 時々踏んづけて灼けた皮膚がむけて滑った

 地面が熱かった靴底が溶けてへばりついた

 わたしは
 腐ってないおばさんを冷静に選んで
 下駄を盗んで履く人間になっていた。

【『夕凪の街 桜の国』こうの史代〈ふみよ〉(双葉社、2004年)】

 昭和20年8月7日、広島。これは原爆が落とされた翌日の出来事である。その地獄絵図にどうしても私の想像が及ばない。私が知っている暴力は殴ったり蹴ったりするレベルのものだ。人間が人の形を維持したまま炭化したり、影しか残っていなかったりするのは一瞬の出来事である。そこに感情を喚起する余地はない。まったくない。化学反応のように始末あるいは処分されただけだ。それもボタンひとつで。

 マンガ作品としてはそれほど評価できない。物語が寸断されており、出来損ないのモザイク画みたいになってしまっている。ただし描こうとしたテーマは素晴らしいと思う。被爆を抱えた日常はそこはかとなく死とあきらめ、倦怠感に包まれている。

 広角で描かれた淡い景色が味わい深い。原爆ドームのカットを見るだけでも本書を読む価値がある。ラストにかけて絵は消え失せ、主人公の科白(せりふ)だけが続く。そこに強い憎悪は見られない。庶民の感覚からすれば「どうして?」という疑問は浮かんでも、この惨劇を遂行した人間の姿が浮かび上がってこないためだろう。人間の所業とは思い難い残酷を繰り返すのが人類の業(ごう)なのか。

 アメリカは原爆投下に関して一度も謝罪をしていない。そのアメリカに安全を保障してもらうというのだから日米安保ほど不思議なものもあるまい。原爆を落とされた唯一の国が戦後、アメリカの核の傘の下に入るというのも理解しにくい。傘から核が振ってくる可能性はないと言い切れるのか?

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)
こうの 史代
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