2014-10-17

集団化した正義の嘘を見抜け/『「正義」を叫ぶ者こそ疑え』宮崎学


 つまり「正義」とは、ある共同体における支配的な論理のうち、「人の命」を奪うことが正当化される原理を指す言葉と考えてもいい。

【『「正義」を叫ぶ者こそ疑え』宮崎学(ダイヤモンド社、2002年)以下同】

 宮崎学の自伝『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた五十年』(南風社、1996年)を読んだ時の衝撃を忘れることができない。バブル景気崩壊後の澱(よど)んだ空気を吹き払う風のようにすら思えた。私がインターネットを始めた頃(1999年)には通信傍受法廃止を目的に政治団体「電脳突破党」を結党した。

 好きな人物ではないが、かといって嫌いになることもできない男である。体を張って生きてきた者には嘘がない。だが全共闘世代に顕著な理論をこねくり回す姿勢が肌に合わない。

 昔の正義はわかりやすかった。その質が変わり始めたのはテレビ版「デビルマン」(1972年)あたりからだと思う。その後「秘密戦隊ゴレンジャー」(1975年)によって、それまで単独であった正義の味方が集団(組織)となった。きっと正義を一人で担うことができなくなったのだろう。

 ポイントその一「正義は人を裁く」。

 ロシアの革命家トロツキーは「悪魔でさえ聖書の引用で自分の言葉を飾ることができる」と言った。

 ポイントその二「盗っ人には盗っ人の正義がある」。先の言葉と併せれば集団(共同体)内部の正義は利害へと概念が変質していることに気づく。

 いったん正義という名の原則を立てると、その原則に反するもの、すなわち「不正義」を排除する。どんな原則であれ、その原則をめぐる集団においてであれ、必ずこの「排除の構造」が現れる。そして「排除の構造」のもとに「人殺し」が正当化され、殺人は正義と化すのである。

 教団とは禁忌(タブー)を共有するコミュニティであり、共同体は罰を共有する集団と考えられる。これが「法」(掟)である。宮崎の言葉が浅いのは科学的な視点を欠くためだ。文学レベルにとどまっている。

 原理が集団に共有されるように働きかける者がいつの時代にもいる。宗教でも人権でも民主主義でも民族の優秀性でもどんな原理でもいい。旗を振り、正義を唱える者たちだ。正義という名の原理こそ、そしてその旗を振る人間こそ「殺人を正当化する」ものとして、一番疑わなくてはいけない存在であることが、これで解るだろう。

 わからない。「魔女狩りは悪しき歴史だ」という言説にさしたる意味はない。なぜそれが起こったかが重要なのだ。英雄とは脳の構造が一段階進んだ人物のことだ。英雄の言葉と振る舞いが人々のシナプス結合を一変させる。その瞬間に時代は変わるのだ。宮崎の言いたいことは理解できるが、親や経営者、はたまた裁判官にまで当てはまってしまう。

 日本共産党の機関紙・赤旗のキャッチフレーズは「正義の味方、真実の報道」である。昔の子供たちの素朴な倫理観に訴えた、かなり安易なドラマ「月光仮面」並みのキャッチフレーズではないか。大の大人が口にするのは相当恥ずかしい言葉であり、かなり崩れてしまったとはいえ、我々の世代にはまだまだ根強く残っている「恥の文化」に反するものだ。普通は恥ずかしくてこんなことは言えない。臆面もなく「正義の味方、真実の報道」と口にできる精神に、通常の神経では「ついてはいけない」と思うものだ。
 しかし、共産党幹部、支持者はそう思わない。それが正義の怖さだろう。正義を体現していると信じた瞬間から、この言葉が恥ずかしくなくなる。臆面もないとは思わない。自分を疑うことを忘れる。客観性を喪失して、自分が世界の中心になってしまう。幼児的自我の中に埋没する。そして、その正義に従わない者こそ悪と断じてしまうのである。
 正義を信じてしまう恐ろしさが、ここにある。しかも従わない者を悪と断ずるだけでなく、罰して矯正しなければならないとまで考え始める。倫理の独占者と化す。つまり、人であることをやめて神の位置に昇ってしまうのである。革命政党が宗教組織になぞらえられ、その論争を神学論争に喩えるのは、正義を信じた瞬間から、それは人間にとって宗教と同じく倫理観に裏打ちされるからだ。
 神の位置に昇ることは、正義の体現者となったときから、革命政党が「無謬(むびゅう)性」を打ち出すことでも解る。「党は間違えない」のである。
 なんという厚顔無恥。わたしも、よくその一員でいられたものだと、つくづく思う。

 赤旗のキャッチフレーズはいみじくもプロパガンダの本質を言い当てている。正確さよりも正しさ。正しさとは「正しいと人々に思わせること」でもある。「私は正しい」。その後に何がくるだろうか? 当然「私に従え」だ。1+1=2くらいわかりやすい公式だ。

 縮小を願う組織はあり得ない。常に拡大発展を目的として動くのが組織である。これはやくざであれ、株式会社であれ、党派であれ、同じである。創価学会でいえば、戦前の弾圧による殉教や平和志向などの「信仰の原理」よりも、政治的判断・数値目標・保身などの「組織の論理」を優先するようになるのである。
 官僚は、その組織の上に乗ることで自分の立場を成立させている。組織が維持発展することと官僚の利害は一致する。そこで、組織(この場合創価学会の官僚)は、組織の維持すなわち自分たちの存立基盤の強化拡大という路線を選択することになる。教理、宗派の理念に沿い、それを時代とともに進化させる方向は、組織維持の原則と官僚の利害の前に二次、三次の選択肢となっていく。かくして壇上に並んだ幹部は「裏切り者」の集団となる。

 政治は宗教を目指し、宗教は政治に向かう。正義とは教条(ドグマ)なのだ。創価学会の機関紙・聖教新聞には「正義」の文字が極太ゴシック体でこれでもかといわんばかりに印刷されている。あたかも嘘をついているようにすら見えるほどだ。共産党の創価学会化と創価学会の共産党化は研究に値すると思われる。なぜなら二つの団体はメカニズムがほぼ一致しているためだ。党の無謬性と指導者の絶対性やオルグと折伏(しゃくぶく)など。

 宮崎は「集団化した正義の嘘を見抜け」と言いたいのだろう。アウトローだからこそ見えるものがある。インサイダーは見ざる聞かざる言わざるで臭いのもに蓋(ふた)をする。

 本物の正義は他人を説得しない。自(おの)ずから従わざるを得ない光のような性質をはらんでいる。太陽はしゃべらない。ただ暖かさを与えるだけだ。

 自分自身の問題でも、また組織の側の問題でも、どんな問題が起こったら、あるいはどんな環境下で自分のどこに抵触したら組織を離れるか、身を退くか。要するにやめる理由を整理整頓しておくべきではないか。

 これは千鈞の重みがある言葉だ。自分で自分にルールを課す。身の処し方とはそういうものだ。毒に気づかなければ皿まで食べる羽目となる。離れる。そして離れた後で、離れることからも離れる。そこに自由がある。

「正義」を叫ぶ者こそ疑え
宮崎 学
ダイヤモンド社
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2014-10-15

「日本のヤクザと裏社会」菅沼光弘 2006年10月19日

養老孟司、池田清彦、吉岡忍


 1冊読了。

 77冊目『バカにならない読書術』養老孟司、池田清彦、吉岡忍(朝日新書、2007年)/前半100ページが養老のエッセイ、後半が鼎談(ていだん)となっている。タイトルは『バカの壁』(新潮新書、2003年)に因(ちな)んだのだろうが、慣用句のため「(費用も)バカにならない」とも読めてしまう。どうせつけるのなら「バカにならないための読書術」にするべきであった。養老のわかりやすさを前面に出した軽い筆致があまり好きではないのだが、相変わらず着眼点が鋭く、特に「挨拶が苦手な自分」の原因が判明した件(くだり)は感動的だ。読み聞かせについても書かれているので若いお母さんの手引きとなろう。鼎談も面白い。ただ2回以上読める本ではない。3人の関係性について何も書かれていないのが不親切で、結局、養老におんぶに抱っこという企画のようだ。

2014-10-14

付加価値税(消費税)は物価/『あなたの知らない日本経済のカラクリ 対談 この人に聞きたい!日本経済の憂鬱と再生への道』岩本沙弓


『円高円安でわかる世界のお金の大原則』岩本沙弓
『新・マネー敗戦 ――ドル暴落後の日本』岩本沙弓

 ・湖東京至の消費税批判
 ・付加価値税(消費税)は物価

 富岡幸雄(中央大学名誉教授)は中曽根首相が売上税を導入しようと目論んだ時に、体を張って戦った人物。元国税実査官。月刊『文藝春秋』の1987年3月号に寄稿し、三菱商事を筆頭に利益がありながら1円も税金を支払っていない企業100社の名前を列挙し糾弾した。売上税は頓挫した。

岩本●結局8%、10%に消費税が上がると、スタグフレーション(不況でありながら物価上昇が続く状態)にもなりかねません。
 今、円安で物価は上がっているけれど、所得は上がっていません。上がったところで一時金、ボーナスだけで、固定給までは上げようとしていない。

富岡●そのことは、日本の大企業の経営姿勢に問題があると同時に、会社法との関係があります。【会社法は年次改革要望書、つまりアメリカの要求によってできた】もの。だから日本の経営者は会社法の施行後、経営のあり方をアメリカナイズした。短期利益、株主利益中心主義です。利益の配当という制度が剰余金の配当制度に変わり、利益がなくても株主には配当をすることができるのです。

岩本●そのしわ寄せが従業員に来ていますよね。付加価値の配分が歪んでしまって、配当がものすごく多くなる一方で労働への分配が減るという現象が起きています。

【『あなたの知らない日本経済のカラクリ 対談 この人に聞きたい!日本経済の憂鬱と再生への道』岩本沙弓(自由国民社、2014年)以下同】

 年次改革要望書については関岡英之著『拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる』が詳しい。

 流れとしては、日米構造協議(1989年)→年次改革要望書(1994年)→日米経済調和対話(2011年)と変遷しているが、日本改造プログラムであることに変わりはない。非関税障壁を取り除くために日本社会をアメリカナイズすることが目的だ。で、規制緩和をしてもアメリカ製品が日本で売れないため、遂にTPPへと舵を切ったわけだ。多国間の協定となれば拘束力が強くなる。

富岡●繰り返しますが、【付加価値税というのは税金じゃない。物価、物の値段】なの。
 人間は物を買わなければ生きていけないんですから、付加価値税は「生きていること」にかかる税金です。人間と家畜、生きとし生けるものにかかる「空気税」みたいなものです。生きることそれ自体を税の対象物とするのは、あってはならないことです。

岩本●しかし先生、私自身も最初にそう言われてもピンとこなかったように、消費税が物価であるということを一般の国民はなかなか理解できないのではないかと思うんですが。

富岡●単純に考えていいんですよ。だってお腹が空いたら駅の売店でパンを買うでしょう。それが本来1個100円だとしたら、それが105円になる。105円払わないとパンは食えない。それが物価というものです。だから消費税は、消費者を絶対に逃れられない鉄の鎖に縛りつける税金。悪魔の仕組みなんです。

 これはわかりやすい。消費税を間接税と意義づけるところに国税庁の欺瞞がある。

消費税は、たばこ税と同じ「間接税」なのか?法人税と同じ「直接税」なのか?
消費税は間接税なのか

富岡●トランスファープライシング。日本の親会社が海外関連企業と国際取引する価格を調整することで、所得を海外移転することです。
 移転価格操作とタックスヘイブンを結びつけて悪用すれば、税金なんてほとんどゼロにできてしまうテクニックがある。
 簡単に説明するとね、日本にAというメーカーがあるとします。A社は税金の安いカリブ海などのタックスヘイブンに海外子会社Bをつくって、そのB社に普通よりも安い値段――たとえば本来の卸価格が80円だとすれば、70円などで売る。そしてB社はアメリカにあるもうひとつの子会社である販売会社のC社に100円で売る。実際にアメリカで売るのはC社です。
 これをすることで、日本にあるA社は利益を減らすけれど、タックスヘイブンにあるB社に利益が集中する。要するに、会社を3つつくれば、税金なんてすぐなくなっちゃうの。

 タックスヘイブン(租税回避地)に関しては次の3冊がオススメ。

マネーロンダリング入門 国際金融詐欺からテロ資金まで』橘玲
タックス・ヘイブン 逃げていく税金』志賀櫻
タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・シャクソン

 ただしマネーロンダリングについてはアメリカが法的規制をしたため、ブラックマネーと判断されれば米国内の銀行口座は凍結され、彼らと取引のある金融機関も米国内での業務を停止させられる。こうなるとドル決済の取引がほぼ不可能となる。

 大局的な歴史観に立てば、やはりサブプライム・ショック(2007年)~リーマン・ショック(2008年)で金融をメインとする資本主義は衰亡へと向かいつつある。既に新自由主義は旗を下ろし、国家による保護主義が台頭している。

 不公平な税制が改善される見込みはない。どうせなら全部直接税にしてはどうか? 正しい税制が敷かれていれば、税金を支払うことに企業や国民は誇りを抱くはずだ。

 尚、湖東同様、富岡の近著『税金を払わない巨大企業』に対する批判も多いので一つだけ紹介しよう。

巨大企業も税金を払っています。 - すらすら日記。Ver2

あなたの知らない日本経済のカラクリ---〔対談〕この人に聞きたい! 日本経済の憂鬱と再生への道筋

サードマン現象は右脳で起こる/『サードマン 奇跡の生還へ導く人』ジョン・ガイガー


 どうやら極限状態で命と向き合った人びとに起こる共通の体験があるらしく、おかしな言い方かもしれないが、それまで耐えてきた艱難辛苦を思えば、その体験はおそろしくすばらしいことなのだ。人間の忍耐力の限界に達した人たちが成功したり生還したりした背景には見えない存在の力があったという、突飛とも思えるこの考えは、極限的な状況から生還した多数の人びとの驚くべき証言にもとづいている。彼らは口をそろえて、重大な局面で正体不明の味方があらわれ、きわめて緊迫した状況を克服する力を与えてくれたと話す。この現象には名前がある。「サードマン現象」というものだ。

【『サードマン 奇跡の生還へ導く人』ジョン・ガイガー:伊豆原弓(いずはら・ゆみ)訳(新潮文庫、2014年/新潮社、2010年『奇跡の生還へ導く人 極限状況の「サードマン現象」』改題)】

 別名は守護天使。ま、守護神と考えてよかろう。文庫本の改題は誤解を与える。「サードマン」が存在となっているためだ。飽くまでも「サードマン現象」と考えることが望ましい。

 山野井泰史の手記にもサードマンが現れる。しかし生還へと導いたわけではない。ただ現れただけだ。本書は「生還へと導かれた人々」の話を集めているが、必ずしもそうではないことを心に留めておく必要がある。

 これはたぶん右脳に起こる現象なのだろう。ジュリアン・ジェインズの理論(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』)で解けそうな気がする。もっと強烈な体験をすると教祖になるのだ。現代社会は左脳に支えられているため我々には不可思議と映るが、言語の誕生以前は日常的にそのような出来事があったと想像する。

 例えとしてはよくないが幼児は夢と現実の区別がつかず、夜中に激しく泣き出すことがある。古代人であれば「夢のお告げ」と受け止めたことだろう。コンスタンティヌスもその一人だ(『「私たちの世界」がキリスト教になったとき コンスタンティヌスという男』ポール・ヴェーヌ)。

 あるいはサードマンが現れても生還できなかった人々もいるに違いない。8000メートル級の高所登山で幻覚・幻聴は頻繁に起こる。それが原因で山から飛び降りてしまう人もいる。たまたま幸運だったケースだけ取り上げるのはやはり問題がある。

 いずれにせよ右脳には知られざる豊かな世界が眠っている。ジル・ボルト・テイラー著『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』を読めば、人は瞬時に悟りに至ることが理解できる。

サードマン: 奇跡の生還へ導く人 (新潮文庫)

イエスの復活~夢で見ることと現実とは同格/『サバイバル宗教論』佐藤優