これは社会実験だがアメリカには文字通り「What Would You Do?(あなたならどうする?)」(ABC放送)という番組がある。
・催涙スプレー(防犯スプレー)
さらに重大なのは、驚くほど多くの数のアメリカ政府高官がソ連とつながっていたことが、「ヴェノナ」解読文によって判明したことだった。彼らは、そうと知りつつソ連情報機関と秘密の関係をもち、アメリカの国益をひどく損なう極秘情報をソ連に渡していたのである。アメリカ財務省におけるナンバー2の実力者で、連邦政府の中でも最も影響力のある官僚の一人であり、国際連合創立のときのアメリカ代表団にも参加していたハリー・デクスター・ホワイトが、どのようにすればアメリカの外交をねじまげられるかをKGBに助言していたこともわかってきた。
また、フランクリン・ルーズベルトの信任厚い大統領補佐官だったラフリン・カリーは、ソ連のアメリカ人エージェントとして重要な地位にあったグレゴリー・シルバーマスターをFBIが調べ始めたとき、そのことをKGBに通報していた。このため、米政府内の大変有益なスパイ一団を指揮していたシルバーマスターは、捜査を逃れてスパイ活動を続けることができた。当時のアメリカの主要なインテリジェンス機関であったOSS(戦略事務局)で調査部長の地位についていたモーリス・ハルパリンは、数百ページものアメリカの秘密外交通信をKGBに渡していたのであった。
アメリカ政府のすぐれた若手航空科学者だったウィリアム・パールは、アメリカのジェット・エンジンやジェット機についての極秘の設計試験結果をソ連に知らせており、彼の裏切りのおかげで、ソ連はジェット機開発でアメリカが技術的にリードしていた大きな格差を克服し、早期に追いつくことができた。朝鮮戦争で、米軍指導部は自分たちの空軍力なら戦闘空域で敵を制圧できると考えていたが、これは北朝鮮や共産中国の用いるソ連製航空機がアメリカのものにはとうてい太刀打ちできない、と考えていたからである。しかし、ソ連のミグ15ジェット戦闘機はアメリカのプロペラ機よりはるかに速く飛行できただけでなく、第一世代のアメリカのジェット機と比べても明らかに優っていたため、米空軍は大きな衝撃を受けた。その後、アメリカの最新ジェット機のF-86セイバーの開発を急ぐことででやっと、アメリカはミグ15の技術的能力に対抗することができた。アメリカ空軍はようやく優位を得たが、それはアメリカ航空機の設計よりも大部分、米軍パイロットの技量によるものであった。
【『ヴェノナ』ジョン・アール・ヘインズ、ハーヴェイ・クレア:中西輝政監訳、山添博史〈やまぞえ・ひろし〉、佐々木太郎、金自成〈キム・ジャソン〉訳(PHP研究所、2010年/扶桑社、2019年)以下同】
日本の読者がこの本の中でとくに関心をもつのは、ソ連がアメリカの原爆開発「マンハッタン・プロジェクト」に多くのスパイを送り込んでいたため、アメリカの原爆開発の実態を非常によく知っていた、という部分だと思います。事実、1945年の7月にポツダムでトルーマン大統領はスターリンに会い、アメリカは非常に強力な新兵器をすぐに日本に対して使用することができる、と話しましたが、そのときスターリンには驚いた様子は全くありませんでした。おそらくスターリンは原爆について、トルーマンよりも早く、そしてより多くのことを知っていたのでしょう。(日本語版に寄せて)
以来、八田與一〈はった・よいち〉の名前は、嘉南60万の農民の心に刻み込まれ、永遠に消えることはなかった。
不毛の大地として、見捨てられていた広大な嘉南平原の隅々にまで灌漑用水が行き渡るのを見届けて、八田與一は思い出多い烏山頭の地を後にし、家族と共に台北へ去っていった。八田技師と共に工事に携わっていた人々は、作業服姿で大地に腰を下ろした八田技師の銅像を作り、起工地点に据えてその功績を称えた。
素朴な嘉南の農民は、「嘉南大圳(かなんたいしゅう)の父」という畏敬の念に満ちた言葉を贈り、終生八田與一への恩を忘れないようにした。
嘉南大圳の完成は、世界の土木界に驚嘆と賞賛の声を上げさせた。
烏山頭(うさんとう)ダムは東洋では随一の湿式土壌堤であり、その規模において世界に例を見ない。このため、アメリカ合衆国の土木学会は、特に「八田ダム」と命名し学会誌上で世界に紹介した。八田與一の技術の勝利であり、日本の灌漑土木工事の優秀さを、世界に証明するのに十分な土木工事の一大金字塔であった。
嘉南平原が絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたような緑の大地に甦り、台湾最大の穀倉地帯と呼ばれるようになった頃、八田與一は勅任官技師になり「台湾に八田あり」と言われるようになる。やがて、戦雲が世界を覆い包んだ。昭和16年、台湾からも零戦が飛び立ち嘉南平原を軍歌が音をたてて通り過ぎて行った。昭和17年5月5日、フィリピンの綿作灌漑調査を、軍より命ぜられた八田與一は広島県宇品港で大洋丸に乗船し、日本を後にした。
5月8日、五島列島の南を航行中、大洋丸が撃沈された。アメリカ海軍の潜水艦による魚雷攻撃であった。八田與一は、56歳の生涯を東シナ海で終えた。それから3年後、太平洋戦争は敗戦で幕を閉じた。
【『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯』古川勝三〈ふるかわ・かつみ〉(改訂版、2009年/青葉図書、1989年『台湾を愛した日本人 嘉南大圳の父八田与一の生涯』改題)以下同】
八田與一一家。二男六女に恵まれた。 pic.twitter.com/WO9FsLZD4C
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 8月 4
八田與一が青春を捧げた台湾は中華民国に返還され、日本人はことごとく台湾を去らねばならなくなった。
愛する夫を戦争で奪われた外代樹(とよき)は今また夫と共に過ごした台湾を去らねばならぬ苦しみに打ちひしがれ、虚脱したからだを夫の終生の事業であった烏山頭ダムの放水口に踊らせて、45歳の生涯を閉じた。
日本人が去り、日本人の銅像や墓が次々と壊されていく中で、嘉南の人々は御影石を買い求め、日本式の墓石を造り八田技師の銅像のすぐ後に建てた。昭和21年12月15日のことである。以来、嘉南の人々は八田與一の命日になると、烏山頭ダムから一斉に放水して、その功績を偲び嘉南の大地と農民を愛し続けた若き技師の「追悼式」を、毎年欠かすことなく行ってきた。
台湾にある八田與一の銅像と夫妻の墓所。 pic.twitter.com/Qj9oRO7WIR
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 8月 4
1868年に、アジアに異変が起こった。日本が明治維新をおこし、近代国家に変容したのである。
周辺の中国・朝鮮は、儒教という超古代の体制のままだったから、この衝撃波をうけた。
近代国歌である手はじめは、国家の領土を、アジア的「版図」の概念から脱して、西洋式の領土として明確にすることだった。ただし、国際法など法知識については、明治初期政権は、御雇(おやとい)外国人から借りた。
たとえば琉球は、両属(清の版図と日本の版図)だった。
たまたま明治4年(1871)、琉球国の島民66人が台湾の東南海岸に漂着し、そのうち54人が山地人に殺された。山地人は、西海岸の漢人だとおもったという。
日本はあざやかすぎるほどの手を打った。まずその翌明治5年9月、琉球王国を琉球藩にし、国内の一藩とした。清はのどかにもこれに対し、抗議を申し入れなかった。
殺された琉球の島民は、日本人になった。この基礎の上で、使者を北京に送り、清朝に抗議した。
清側は口頭でもって、「台湾の蛮民は化外(けがい)の者で、清国の政教はかれらに及ばない」と答弁した。
日本はその後、一貫してこの口頭答弁を基礎とし、台湾東半分は無主の地であるという解釈をとった。
その後、清国は表現を変えた。両国のあいだで水掛け論がかさねられた。
この時期、明治維新の主勢力だった旧薩摩藩(鹿児島県)が、新政府に不満で、半独立を維持し、他の府県の不平士族とともにいつ暴発するか、きわどい状態にあった。
日本政府は、国内に充満したガスを抜くべく、まったく内政的配慮から、兵を台湾東部に出した。明治7年(1874)のことである。
清国は、おおらかだった。
ほどなく、清国はこの討伐費を日本に支払ったのである。支払うことによって、清国は台湾東部が自国領であることを証拠づけた。
さらに清国は台湾が自国領であることを明確にするために、明治18年(1885)、台湾を台湾省に昇格した。つまり、“国内”になった。“国内”は、10年つづいた。
明治27~28年(1894~95)、日清戦争がおこり、下関条約の結果、台湾は日本領になった。
【『街道をゆく 40 台湾紀行』司馬遼太郎(朝日新聞社、1994年/朝日文庫、2009年)】
たとえば、「自殺は決して罪悪ではない」(本書第40話)ということを書いたところ、それに対しては、何通かの批判の投書と、多くの方からの丁寧なお礼状を頂戴した。礼状はもちろん、身近な人を自殺で亡くされた方々からの封書である。
1通読むたびに涙があふれた。そして、私の発する言葉が、良し悪しはともかく、こうして大勢の人たちの心に様々な思いを呼び起こすのだと知って、襟を正したのである。メディア上で発言するということは、その言葉に対して無条件に責任を負うということだ。まして人の生き方にかかわる言葉なら、なおさらである。
【『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑〈ささき・しずか〉(ちくま新書、2009年)以下同】
そのような人が、もし仮に、自分で自分の命を絶ったとしたら、それは悪事であろうか。一部のキリスト教やイスラム教では、せっかく神が与えてくださった命を勝手に断ち切るのだから、それは神への裏切り行為として罪悪視される。自殺者は犯罪者である。
では仏教ならどうか。仏教は本来、我々をコントロールする超越者を認めないから、自殺を誰かに詫びる必要などない。確かに寂しくて悲しい行為ではあるが、それが罪悪視されることはない。仏教では煩悩と結びつくものを「悪」と言うのだが、自殺は煩悩と無関係なので悪ではないのである。ただそれは、せっかく人として生まれて自分を向上させるチャンスがあるのに、それをみすみす逃すという点で、「もったいない行為」なのだ。
人は自殺などすべきではないし、他者の自殺を見過ごしにすべきでもない。この世から自殺の悲しみがなくなることを、常に願い続けなければならない。しかしながら、その一方で、自分の命を絶つという行為が誇りある一つの決断だということも、理解しなければならない。人が強い苦悩の中、最後に意を決して一歩を踏み出した、その時の心を、生き残った者が、勝手に貶(おとし)めたり軽んじたりすることなどできないのだ。
自殺は、本人にとっても、残された者にとっても、つらくて悲しくて残酷でやるせないものだが、そこには、罪悪も過失もない。弱さや愚かさもない。あるのは、一人の人の、やむにやまれぬ決断と、胸詰まる永遠の別れだけなのである。
@shirayuri_kun たぶん無明が噴出するのだろう。で、遺伝子レベルでスイッチが入ると死を選ぶ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 6月 5
事実を見つめてみよう。「自殺した人がいる」「自殺という選択をした人がいる」――それだけの話だ。そこに「余計な物語」を付与してはいけない。
【無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元】
自殺とは究極の自己免疫疾患であると定義したい。長年にわたって思索してきたが、それ以外に説明のしようがない。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 1月 16