2016-03-01

J・クリシュナムルティ、井上豊夫、兵頭二十八、他


 3冊挫折、3冊読了。

神社は警告する 古代から伝わる津波のメッセージ』高世仁〈たかせ・ひとし〉、吉田和史〈よしだ・かずし〉、熊谷航〈くまがい・わたる〉(講談社、2012年)/ダメ本。テレビ番組の二次創作的内容。「ジン・ネット」(高世が経営するテレビ番組制作会社)を始めとする余計な情報が文章の邪魔をしている。3人がバラバラで書いているのも読みにくくてしようがなかった。取材という事実に引きずられて、情報の抽象化がきちんとできていない。

幕末最大の激戦 会津戦争のすべて』会津史談会編(新人物文庫、2013年)/これまたダメ本。会津礼賛・会津万歳本である。6人の著者は全員福島生まれ。150年を経ても新機軸を打ち出せないところに会津藩の真の敗因があるように思われる。お国自慢のレベルを脱していない。

日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず』加瀬英明、藤井厳喜〈ふじい・げんき〉、稲村公望〈いなむら・こうぼう〉、茂木弘道(もてき・ひろみち)(勉誠出版、2016年)/鼎談(166ページ)だけ読む。各論文に興味なし。加瀬の序文が酷い代物で、まるで選挙の遊説カーさながらである。「フーバーは」の連呼。老いの厳しい現実か。これまたダメ本の典型で、チャンネル桜を見ているような気分にさせられる。フーバー大統領回顧録(邦訳未刊)という都合のいい情報にしがみついただけの書籍。姿勢が左翼と一緒。確固たる視点がない。兵頭二十八が真珠湾奇襲を侵略戦争だと断じているが、これを否定し得るほどの説得力はどこにもない。

 24冊目『予言 日支宗教戦争 自衛という論理』兵頭二十八〈ひょうどう・にそはち〉(並木書房、2009年)/最終章だけ飛ばしたが読了本としておく。兵頭が古い本を読み漁っているせいだと思われるが、時折古めかしい言い回しが見受けられ、嫌な匂いを放つ。最終章はまるで2ちゃんねらーが書いたような代物。タイトルが内容に相応しくない。

 25冊目『果し得ていない約束 三島由紀夫が遺せしもの』井上豊夫〈いのうえ・とよお〉(コスモの本、2006年)/著者は楯の会で副班長をしていた人物。130ページ足らずの手記で、さほど期待していなかったのだが意外な発見が多かった。

 26冊目『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 1』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年/新装版、2005年)/再読。時間の流れが止まる。映像さながらの風景描写が冒頭にあり、個別のやり取りが紹介される。最初に読んだ時は創作かとも疑ったのだが、やはり事実に基づいているのだろう。クリシュナムルティの対機説法である。ブッダの場合、相手の機根(法を受け止めるレベル)に応じて説いたため真の悟りは披瀝していないとの通説がある。「人を見て法を説け」という俚諺(りげん)となって今日にまで伝わる。だがこれは嘘だ。本書を読めば立ちどころに理解できよう。わずか3~4ページでクリシュナムルティは深遠な教えを説いている。対話の妙はクリシュナムルティ・マジックとしか言いようがない。原題を直訳すれば「生の注釈書」。オルダス・ハクスリーに勧められ、クリシュナムルティが初めて書いた著作である。参照:「ただひとりあること~単独性と孤独性/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

2016-02-28

元米兵が語る沖縄戦 大東亜戦争

鉄ちゃんのうどん/『今日われ生きてあり』神坂次郎


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編

 ・特攻隊員たちの表情
 ・千田孝正伍長
 ・鉄ちゃんのうどん

『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

 知ってますか、焼夷弾(しょういだん)ちゅうのは空中で一ぺん炸裂(さくれつ)し、1発の焼夷弾は70発の焼夷筒に分裂して地上に叩(たた)きこまれてくるのです。それも、前の爆撃機がまず油を撒(ま)いて飛ぶ、そのうしろからB公(B29)の大編隊がぐるっと市街地を包み囲んでその外側から焼夷弾を落していく……無差別のみなごろし爆撃ですわ。
 それに、焼夷弾は叩けば消えるから必ず消せ、と軍や役所からきびしく教えこまれていました。みんな必死でその通りにした。気がついたときは、1000度を超える高熱の、逃げ場のない焔(ほのお)の壁にとり巻かれていたのです。こんな殺生(せっしょう)なはなしがおますか。まるで、B29と日本の軍・官が共謀して大阪市民をなぶり殺しにしたようなもンでしょう。

【『今日われ生きてあり』神坂次郎〈こうさか・じろう〉(新潮社、1985年/新潮文庫、1993年)以下同】

 日本人は焼き殺された。沖縄戦では洞窟という洞窟を火炎放射器が襲った。これらの武器はナパーム弾白リン弾へと進化する。「焼き殺す」のは、やはり魔女の火刑に由来するものであろう。つまり罪深き者として神の火で焼かれるのだ。

 原爆を落とされた広島・長崎、そして大空襲のあった東京を除くと、1万人以上殺されたのは大阪府15784人、愛知県13359人、兵庫県12427人となっている(日本本土空襲 > 都道府県別被害数)。

 この章は一人の人物の証言が続く。関西弁の「語り」という文化の底力が哀切をまとって口を突く。

 分隊長をしていたのは新子(あたらし)鉄男という名のうどん職人の倅(せがれ)だった。当時14歳。大阪一のうどん屋になるのが夢だった。

 鉄ちゃんのはなしになると、どうしても受け売りのうどん話になって恐縮ですが、もうすこし辛抱して聞いてやってください。すみません。……わたしもこうして鉄ちゃんからよう聞かされましてね。(中略)
「うどんづくりは水も粉ォも大事やけど、一番むつかしいのンは塩の加減や」
 上手な料理人のことを、塩を上手につかうひと“塩番”(じょうばん)ちゅうのやぜ、と鉄ちゃんは何処(どこ)で聞いてきたのか、大人びた口ぶりでよう言うてました。また、
「うどんを打つときは何も考えず、無心で打つこと。それがコツや」
 でないと、喰(た)べおわってから“ああ美味(うま)かった”というほんののうどんは出来へんのや。

 鉄ちゃんのうどんの師匠である老舗(しにせ)松葉家の主人夫婦が疎開することになった。主は「この松葉家の焼跡で鉄ちゃん、お前(ま)はんの打ったうどんを食べて、お別れの会を盛大になりまひょ。そやさかい、お友達はナンボでも呼んで来なはれ」と伝える。

 汗まみれになって松葉家の焼跡まで辿(たど)りつくと、煉瓦(れんが)は石ころで築いた即製のかまどが二つ、その上に釜(かま)がかけられ、傍には戸板の食台、その上に丼鉢(どんぶりばち)が置かれていました。鉄ちゃんが辰一(=主人)さん夫婦に挨拶(あいさつ)をしているあいだに、わたしたちは水を汲(く)み、薪(まき)を集め、早速、湯を沸かしにかかります。うどんはすでに昨晩、鉄ちゃんと辰一さんが打ちあげて、熟(ね)かせています。
 やがて、焼跡に湯気がたちのぼり、いつも空腹で目をまわしたような顔つきをしている少年たちにはこの世のものとは思えぬダシの匂(にお)いがただよいはじめます。
「まだ、あかんぜぇ」
 鉄ちゃんは道化(おどけ)たような顔つきでわたしたちを制して、ぐらぐら沸きたっている湯でうどんをゆがき、鉢にいれダシをいれ、その最初の一杯をまず、地べたに坐りこんでいる辰一さんに、そして奥さんの喜代子さんに、3杯目を大田原軍曹に渡します。
 辰一さんは両手で抱くようにしたうどん鉢を、ちょっと拝むようなしぐさで、鉄ちゃんの差しだした割箸(わりばし)を片手にとり、前歯でぴしっと割って、ダシを一口すすり、うどんを音をたててすすりこみました。しばらくして辰一さんは、鉄ちゃんのほうにうなずき微笑しました。
「うわぁ、よかった」
 いままで、息をつめるように辰一さんの表情を■(目+貴/みつ)めていた鉄ちゃんが、思わず大きな声をだしたので、わたしたちは大わらいしました。
 鉄ちゃんはそんな笑い声は気にせず、
「新子(あたらし)分隊は唯今より、うどん攻撃にうつる」
 いいながら鉄ちゃんは、にやりとします。
「攻撃は各個前進! そうれ行けぇ!」
 箸と丼鉢をもって、いまか今かと待ちかまえていたわたしらは、手に手に見よう見真似でうどんをゆがき、ダシをそそぎ、音をたててすすりこみます。油揚(あぶらげ)もネギもないまったくの素うどんでしたが、わたしは今でも、あれほど美味(うま)いうどんは此の世にないと思うております。

 それから7日後に鉄ちゃんは焼夷弾で火だるまとなり、全身に火傷(やけど)を負って死んだ。享年14歳。大田原軍曹は鉄ちゃんが義兄弟の契りを交わした人物だった。もう一つのドラマが数十年後に判明する。証言者が知ったのは取材を受ける前年であったという。飲み屋で偶然居合わせ、意気投合した相手がなんと大田原の後輩であったという。

 玉音放送に続いて鈴木貫太郎首相が「日本は無条件降伏した」と言うや否や、大田原軍曹は軍刀を抜き払い、「天皇の軍隊に降伏があるか!」とラジオを一刀両断した。そして再び「天皇の軍隊に降伏はない!」と叫んで抗命出撃をするのである。この章は中日新聞の記事で締め括られている。大田原は佐野飛行場の上空で自爆した。

 困難な時代の中で彼らは生き生きと輝き、そして死んだ。戦後、「あの戦争は間違いだった」とGHQが洗脳した。日本人が死者に対する敬意を失った時、国家としての独立の気構えを失った。昭和20年(1945年)8月15日以降、平和が日本を蝕み続けて今日に至る。

今日われ生きてあり (新潮文庫)

2016-02-26

千田孝正伍長/『今日われ生きてあり』神坂次郎


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編

 ・特攻隊員たちの表情
 ・千田孝正伍長
 ・鉄ちゃんのうどん

『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

〈すべての行動が自信に満ち、純で神をみる如(ごと)き若者たちでした。ですから、佐賀の村びとの隊員たちへの好意は、他の隊とは問題にならぬほど絶大なるものがありました。毎日、朝から何十人といふ老若男女がやってきました。リヤカーに酒や卵、アメ、煮染(にしめ)、おすし、などを乗せて。
「このたびはご苦労さまです……これを、どうぞ召しあがってください」
 と涙をこぼし、拝みながら言ひます。
 夜になると、村の人びとの中で芸自慢なのが歌や踊りで慰問をしてくれました。が、特攻ほがらか部隊の隊員たちのはちきれるばかりの元気な余興は、かへつて逆に村の人びとを慰問する程でありました。なかでも人気者の千田伍長の陽気な、
 ♪鉄砲玉とは おいらのことよ 待ちに待つてた 首途(かどで)だ さらば
  友よ笑つて今夜の飯を おいらの分まで 食つてくれ
 と歌ひながら剽軽(へうきん)な身ぶり手ぶりで踊る特攻唄(とくこううた)は、村の人びとを爆笑させ、そして、涙ぐませました。
 佐賀の村人たちの好意は、このやうに非常なものでしたが、二十歳前後の前途有為な隊員たちの将(まさ)に散らんとするを、これを見送るはなむけとしては、決して多すぎはしなかつたと思ひます。でも隊員の方々は恐縮して、申しわけないやうな顔をして居られました。もちろん、「もうすぐ、特攻隊で死ぬんだぞ」などといふ昂(たか)ぶつたところなど、まつたく見られませんでした。なごやかで、若者らしい元気よさがありました〉(宮本誠也の手紙)〈※庵点を♪に代えた〉

【『今日われ生きてあり』神坂次郎〈こうさか・じろう〉(新潮社、1985年/新潮文庫、1993年)以下同】

 千田孝正伍長は18歳であった。第72振武隊は自分たちで「特攻ほがらか部隊」と名づけるほど陽気な少年たちが集まった。今知ったのだが、あの「子犬を抱いた特攻隊」の写真が彼らである。出撃を2時間後に控えていた。子犬を抱く少年の右隣が千田である。


 前日、千田の密かな行動が女子青年団員に目撃されていた。

「日本を救うため、祖国のために、いま本気で戦っているのは大臣でも政治家でも将軍でも学者でもなか。体当たり精神を持ったひたむきな若者や一途(いちず)な少年たちだけだと、あのころ、私たち特攻係りの女子団員はみな心の中でそう思うておりました。ですから、拝むような気持ちで特攻を見送ったものです。特攻機のプロペラから吹きつける土ほこりは、私たちの頬(ほお)に流れる涙にこびりついて離れませんでした。38年たったいまも、その時の土ほこりのように心の裡(うち)にこびりついているのは、朗らかで歌の上手な19歳の少年航空兵出の人が、出撃の前の日の夕がた「お母さん、お母さん」と薄ぐらい竹林のなかで、日本刀を振りまわしていた姿です。――立派でした、あンひとたちは……」(松元ヒミ子の証言)〈※小さい「ン」の字を半角に代えた〉

 揺れる心を日本刀で断ち切ろうとしたのか。陽気な少年の心は凄絶な不安に苛(さいな)まれていた。19歳とあるのは「数え」のためだろう。

 特攻隊の資料は少ない。GHQの占領に当たって罪を恐れた人々が特攻隊に関する書類や手紙を焼却してしまったためだ。神坂は残された手紙と生存者の証言を絶妙に構成し、一人ひとりを立体的に描き出す。神坂自身もまた特攻の生き残りであった。

 宮本の手紙は長文である。彼は千田の先輩であった。隊員が散華(さんげ)すると周りの人間が遺族に手紙を書いた。切々たる思いが行間に溢(あふ)れる。

 神風特別攻撃隊の創始者・大西瀧治郎〈おおにし・たきじろう〉は特攻を「統率の外道」と断じた。死亡率が100%である以上、統率とも作戦とも呼べるものではなかった。道を外れれば転落する。だが国家は転落しても、特攻隊の死が汚れたものになるわけではない。その数6418名。

今日われ生きてあり (新潮文庫)

特攻(1)少年兵5人「出撃2時間前」の静かな笑顔…「チロ、大きくなれ」それぞれが生への執着を絶った