2020-03-08

人は自分が探しているものしか見つけることができない/『心晴日和』喜多川泰


・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰
『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰

 ・人は自分が探しているものしか見つけることができない

『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰
『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰
・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰
『書斎の鍵  父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰
『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰
『ソバニイルヨ』喜多川泰
『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰

「どんな仕事をしていても、自分にとって嫌なことや退屈なことはある。そういう人にとっては仕事そのものが作業であり、苦痛になる。ところが同じことでも誰かの顔を思い浮かべながら、その人に喜んでもらえるようにと考えながらやると、そのことは努力や苦労ではなくなる。その人にとって楽しくてたまらん時間になるんじゃ」
「確かにそうかもしれないわ。時間を忘れて写真を撮っていたもの」
「そうかい。それはよかった。今やお前さんは我々6人の心を癒してくれる専属カメラマンじゃの」
「そう言われると、なんだか嬉しいな。もっと撮りたくなっちゃう。また撮ってきてもいい?」
「もちろんじゃよ。それより、ちょっと話を聞かせてくれんかね? 写真を撮っていて何か気がつくことはなかったかい?」
「そうだなぁ。やっぱり嫌なことを忘れて集中することができたってことかなぁ」
「他にはないかい?」
「そうね、あとは……春らしいものを探して歩いていると、春らしいものって結構いっぱいあるってことね」
 伊之尾は満足げにうなずいている。
「そのことがわかったじゃろ?」
「えっ?」
「お前さんが春らしいものを探して歩いていると、道は春らしいものであふれていることに気づくじゃろ。ところがお前さんが歩いた道は、初めて歩くような外国の道じゃない。いつもお前さんが歩いている道じゃ。
 いつも歩いている道に、お前さんに貼るを感じさせるものがこんなにあふれているってことに以前は気がついていたかな」
「ううん。気がついていなかったわ」
「人間は、自分が探しているものしか見つけることができないんじゃよ」

【『心晴日和』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(幻冬舎、2010年)】

 タイトルは「こはるびより」と読む。いじめられている女子中学生が病院で老人と知り合う。老人は外に出ることができない自分のために春を感じられる写真を撮ってきて欲しいと頼む。新しい出会いを通して少女は少しずつ着実に変わってゆく。

 喜多川作品を読んで私は自己啓発を見直した。それだけではない。自己啓発には後期仏教(大乗)と同じ指向がある。幸福への扉は自分の内部にあるという発想だ。

「イギリス経験論~プラグマティズム~ニューソート~自己啓発」(密教化/『「原因」と「結果」の法則』ジェームズ・アレン)という流れで私は把握しているのだが、後期仏教(大乗)では唯識や華厳経が自己=世界を掘り下げている。

 ここまで見通せればアファメーションが華厳経の焼き直しであることが立ちどころに理解できる。「心は工(たくみ)なる画師(えし)の如く種種の五陰を画く。一切世間の中に法として造らざること無し」(華厳経第十)。世界は心の影なのだ。

アファメーションの解説書/『「言葉」があなたの人生を決める』苫米地英人

 思想が浅い分だけ自己啓発はわかりやすい。脳が妄想を離れることは困難だが自己啓発には妄想を解きほどく効果がある。

 余談であるがカバーのイラストがナンバ歩きになっていておかしい。

宗教は集団形成のツールに過ぎない/『予言がはずれるとき この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』L・フェスティンガー、H・W・リーケン、S・シャクター


『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド

 ・宗教は集団形成のツールに過ぎない

 キリストのはりつけ以来、多くのクリスチャンがキリストの再来を望んできたのであり、それが実現する特定の日付を予言した運動はまれではなかった。しかし、最初期にみられた運動の大部分については、予言のはずれがわかったときに信者たちが経験したかもしれないリアクションに関連して、確実だと思われる形での記録はない。そのようなリアクションについては、ヒューズがモンタヌス派に関して次のような記述を残したように、歴史家がたまたま何かのついでに触れていることがある。

 モンタヌスは2世紀の後半に現れたが、信仰上の問題に関する革新者として現れたのではない。彼が当時の世間に対して行なった個人的な貢献は、我が主の再来が間近に迫っているという固い確信であった。それは、ペブツァ――現在のアンゴラに近い――で起きるはずであった。そして、我が主の真の信者たちは皆、そこへ向かうべきであった。彼の言葉を権威づけるものは言わば内的な霊感であり、新たな予言者としての人格と雄弁によって彼は多数の信奉者を獲得したが、おびただしい数の信奉者が約束の地に群がり、彼らを受け入れるべく新しい町が出現した。【再臨が遅れたことも、その運動に終焉をもたらさなかった。むしろ逆に、そのことは運動に新たな生命と形態を与え】、一種の、選ばれた者たちのキリスト教となった。彼らにとっては、彼らに直接働きかける聖霊のほかには、どんな権威も彼らの新生を導くことはなかったのである……〔傍点は引用者による〕

 この短い記述のなかに、典型的なメシア運動の基本的な要素がすべて含まれている。すなわち、固い信念を持った信者たちがおり、彼等はそれまでの自らの生活を根絶やしにし、新たな場所へ行き、そこに新たな町をつくるという形でコミットする。だが、再臨(さいりん)は起こらない。しかし、我々が注目するように、その運動は止むどころか、この予言のはずれが運動に新たな生命を吹き込むのである。

【『予言がはずれるとき この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』L・フェスティンガー、H・W・リーケン、S・シャクター:水野博介〈みずの・ひろすけ〉訳(勁草書房、1995年/原書は1956年)】

『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』で引用されていた一冊だ。原書刊行が昭和31年である。戦勝国アメリカの余裕が咲かせた花のひとつといっていいだろう。日本では経済企画庁が「もはや戦後ではない」と経済白書に記述し流行語となった頃である。

 キリスト教の代表的な予言(預言とは異なる)はキリスト再臨と終末(ハルマゲドン)である。未だ来ない未来のことは誰にもわからない。そこに人々は不安と希望を抱く。感情がプラスとマイナスに動く要因は経済だ。経済が低迷すると世の中を不安が覆う。ここに予言者が登場する。優れたリーダーとは大なり小なり予言者的性格を帯びている。「確かな未来」を指し示すのがリーダーの役割であるからだ。

 予言を信じて集まった人々が予言の成否を問題としないばかりか、外れても尚強固な結びつきを維持する実態に驚かされる。ヒトの脳にはそうした癖があるのだろう。つまり客観的な合理性よりも、主観的な納得に優位性があるのだ。検証や吟味を不問に付す様を見ると、我々は自分が信じる物語を貫くためならどんな嘘も無視することができる。結局、「予言の好きな人々のコミュニティ」が形成されているわけである。

 宗教は集団形成のツールに過ぎない。もちろん始めに宗教があるわけだが、その宗教は社会や時代という背景から生まれるのだ。ブッダの教えは教団を通して仏教に変質する。教団は教勢を拡大し領土を巡る攻防が繰り広げられる。インドにおいて仏教が廃(すた)れヒンドゥー教が永らえたのも、インド国民の集団形成にはヒンドゥー教の方が相応(ふさわ)しかったのだろう。国民の嗜好や風土に左右される問題で宗教的な正邪は関係がない。

 日本人の占い好きも予言の一種と考えることができよう。私と同世代であれば花びらを千切りながら「好き、嫌い」とやった人も多いはずだ。ま、最後の花びらが「嫌い」で終わると何度でもやり直すからデタラメ極まりないが。

 あらゆる宗教が幸福を約束する。高級な布団が安眠を保証するように。そして信者は不幸に目をつぶる生き方を強いられるのだ。彼らが説く幸福とは不幸への耐性に他ならない。

量子もつれ/『宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか』ルイーザ・ギルダー


『「量子論」を楽しむ本 ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる!』佐藤勝彦監修
『黒体と量子猫』ジェニファー・ウーレット
『量子革命 アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突』マンジット・クマール

 ・量子もつれ

『量子が変える情報の宇宙』ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
『すごい物理学講義』カルロ・ロヴェッリ

必読書リスト その三

 二つの実体が互いに作用すると、必ず「もつれ」が生じる。光子(光の小さな破片)や原子(物質の小さな破片)であっても、原子からなるもっと大きな塵埃(じんあい)や顕微鏡、あるいはネコやヒトのような命あるものであっても同様だ。のちに別の何かと相互作用しないかぎり――ネコやヒトにはそれができないためにその影響に気づかないが――どれほど互いに遠く離れていても、もつれは持続する。
 このもつれこそが、原子を構成する粒子の動きを支配している。まず、互いに作用しあうと、粒子は単独としての存在を失う。どれほど遠く離れていても、片方に力が加えられ、測定され、観測されると、もう片方は即座に反応するらしい。両者の間に地球がすっぽり入るほどの距離があったとしても、だ。だが、そのしくみは未解明だ。

【『宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか』ルイーザ・ギルダー:山田克哉監訳、窪田恭子〈くぼた・きょうこ〉訳(ブルーバックス、2016年)】

 量子には粒子と波動という二つの顔がある。この不思議を思えば幽霊や宇宙人など物の数ではない。初めて二重スリット実験を知った時、頭がこんがらがって理解する気も失せた。


 そしてもっと不思議なのが量子もつれである。例えば強い相互関係にある二つの電子があったとしよう。一つの電子は上向きスピンと下向きスピンの状態を重ね持つことができる。そして観測によって電子Aが上向きスピンであれば電子Bは下向きスピンとなる。この関係は電子AとBが宇宙の両端に存在しても変わることがない。

 もう一度説明しよう。電子は上向きスピンと下向きスピンの状態を併せ持つが観測することで方向性が確定する。片方の電子の向きがわかった瞬間にもう片方の向きが決まるのだ。何光年も離れた二つの電子がもつれているとすれば、光速を超えたスピードで情報がやり取りされていることになる。もしそうだとするなら特殊相対性理論に反する。というわけでアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスが発表された。アインシュタインは量子力学の父であったが星一徹のような厳父であった。しかも死ぬまで子供を認めようとしなかった。

「この宇宙における現象が、離れた場所にあっても相互に絡み合い、影響し合っているという性質のこと」(Wikipedia)を非局所性という。量子もつれが痴情のもつれよりも強力なのは確かだがはっきりしたことは判明していない。個人的には「つながっている」のだろうと睨(にら)んでいる。もう一つは観測が及ぼす影響である。量子もつれは実験によって証明されているが、何光年も離れた状態の量子を同時に観測することは不可能だ。厳密に言えば観測は可能だとしても連絡を取るのに時間がかかる。同時性を証明することができない。

 相対性理論は速度と時間の概念を引っくり返したが、量子もつれは局所性を軽々と超える。実際の電子は原子核の周囲を惑星のように回っているわけではなく、雲のような状態で存在し確率として捉えられる。

2020-03-07

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杖歩行は二動作で行う/『やさしい図解 「川平法」歩行編 楽に立ち、なめらかに歩く 決定版!家庭でできる脳卒中片マヒのリハビリ』川平和美監修


『脳から見たリハビリ治療 脳卒中の麻痺を治す新しいリハビリの考え方』久保田競、宮井一郎編著
『リハビリテーション 新しい生き方を創る医学』上田敏
『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』宮本省三
『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦』宮本省三

 ・杖歩行は二動作で行う

『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか』多田富雄

 川平法では、下肢にマヒが残った人には、歩く時は杖と下肢装具を必ず使用すること、そして、「二動作」での歩行をすすめています。なぜなら「二動作」歩行のほうがスムーズに歩くことができ、マヒ足にかかる負担が少ないからです。
 なかには、再発作後の両側のマヒや運動失調のために立位バランスが悪いなどの理由から「①杖をつく→②マヒ足を振り出し着地させる→③健足を蹴り出す」の「三動作」歩行のほうが、適している人もいますが、多くの「三動作」歩行では、健足でしっかり立ってマヒ足を浮かすことが不十分になり、また健足で蹴り出す力も弱くなります。そのため、マヒ足を引きずったり、遠心力で外側へ振り回したり、かえってマヒが目立つような歩き方になるのです。
「三動作」歩行に慣れてしまうと「二動作」への移行が難しくなりますから、先のような特別な理由がない限りは、「川平法」のリハビリテーションでは、はじめから「二動作」でのトレーニングを行います。

【『やさしい図解 「川平法」歩行編 楽に立ち、なめらかに歩く 決定版!家庭でできる脳卒中片マヒのリハビリ』川平和美〈かわひら・かずみ〉監修(小学館、2014年)】

 川平法(促通反復療法)についてはよくわからないが、本書を読む限りでは一定の効果があると思われる。テキストではわかりにくいので図を引用する。




 左脳にダメージがあれば右半身が麻痺し、右脳だと逆になる。右麻痺には失語症が伴い、左麻痺だと半側空間無視を伴うケースが多い。症状が軽ければ杖歩行が可能だ。

 麻痺側(まひそく)の体の重さは健常者には理解し難い。「重い砂袋がぶら下がっているような感じ」という表現をよく聞く。バランスを取るためには健側(けんそく)側に傾かざるを得ず、体を真っ直ぐにすることができなくなる。

 健康を害した時、人は「動く意味」「動ける可能性」に気づくのだろう。時折、体の不自由なお年寄りが歩いているのを見掛けることがある。外へ向かうバイタリティこそ健康の証である。五体満足でも動かない人々は既に病人といってよい。

 リハビリには技術と知恵が必要だ。理学療法士や作業療法士・言語聴覚士の言いなりになることがリハビリではない。体の声に耳を傾けながら新たな運動能力を開拓してゆくのがリハビリであり、千差万別の症状を自分で読み解きながら工夫を凝らし改良を加えてゆくのが王道だ。

 俗に「同病相哀れむ」と言うが、同じ症状の人々が情報交換できるコミュニティがあれば医療依存・介護任せの現状を打開できることだろう。