2019-12-14

青はこれを藍より取りてしかも藍より青し/『中国古典の言行録』宮城谷昌光


青はこれを藍より取りて
   しかも藍より青し《荀子》

 これを読んだ方は、おや、と思うかもしれない。「青は藍より出でて」ではないのか。
 たしかに「元刻版」であれば、そうなのだが、その本より古い本では、さきの箇所は、「青はこれを藍より取りて」となっている。(中略)
 このつづきは、どうなっているのか。『荀子』の説くところを、すこしたどってみよう。
「氷は、水からできるが、水より冷たい。【墨なわ】にぴったりするまっすぐな木も、たわめて輪にすると、コンパスにあてはまるほど、まるくなる」
『荀子』によれば、人間はもとの素朴な性より、ぬけでることができるが、そうさせる大きな推進力は、学問であり、見聞であり、正しい人に親しむことであるという。それを一言でいえば、
「自身の環境整備」
 である。べつな言い方をすれば、時代の流れに、即応できる自分に、過去の自分を、つくりかえることである。
 となると、「出藍」のニュアンスは、ちょっとちがうのではないか。青が弟子で、藍が先生ではなく、青も藍も自分のことをいっているのである。
 青は、新しい自分で、藍は、古い自分、あるいは、青は、洗練された自分で、藍は、素朴な自分、といってもよい。そのように自己改革をすることで、時代の波にのること、時代にひきずられて傷つかないようにすることを、『荀子』はおしえているのではあるまいか。

【『中国古典の言行録』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(海越出版社、1992年/文春文庫、1996年)】

「勧学篇第一」の冒頭は「君子曰く、学は以(もっ)て已(や)む可からず」から始まり、「青は――」と続く。

勧学篇第一(1) | 新読荀子
高等学校古典B/漢文/学不可以已 - Wikibooks
青はこれを藍より取りて藍より青し(出藍の誉れ) 勧学篇第一 荀子 漢文 i think; therefore i am!

 学問研鑽に終わりがないことを勧めているゆえ、「今日より明日へ」と成長を促す文であるのは確かだろう。儒家(じゅか)の学とは礼法であり、荀子が性悪説に傾いていたことを踏まえれば、「師を超越する」という発想が出てくるようには思えない。

 荀子が紀元前313年に生まれたとすれば、孔子の死後から150年余りが経過している。その人となりはまだ生々しく人口に膾炙(かいしゃ)していたことだろう。日本は弥生期で古墳時代の前である。2000年以上も前に学問が人間の可能性を開くことを高らかに宣言する人物が存在した。果たして現代の知識人の言説が2000年後の人々の胸を打つことがあるだろうか?

 枢軸時代を経てからというもの人間は小粒になる一方だ。民主政となってからも歴史に名を残すのは悪人が殆どだ。権勢を振るうアメリカ大統領にしても名を残すのは暗殺されたケネディくらいではあるまいか。ヒトラー、スターリン、毛沢東、ポル・ポトの4人は虐殺者として長く歴史に記されることだろう。

 ヒトの宗教的感情を新たに喚起することは可能だろうか? 新時代の教祖はミュージシャンとして現れるというのが私の見立てだが、もはや言葉(歌詞)にそれほどのメッセージ性を持たすことが困難になりつつある。言葉が情報に格下げされたとなれば教祖が人である必要はない。人工知能(AI)が我々を幸福へと誘(いざな)ってくれることだろう。

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