ラベル 時間論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 時間論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011-09-17

宇宙図の悟り

宇宙図

宇宙図

 前にも書いたが、上記ページのアニメーションを見て私は悟りが閃(ひらめい)いた。直ちに科学技術広報財団に申し込んだのが画像の宇宙図である。

科学技術広報財団(サイズは2種類)

 見るたびに脳が活性化される。137億年を俯瞰するのだからそれも当然だ。最初の悟りを再掲しておく。

時間と空間に関する覚え書き

◆では、宇宙図を見て閃いた悟りを開陳しよう(笑)。視覚が捉えている世界は「光の反射」である。光には速度がある(秒速30万km)。つまり我々に見えているのは「過去の世界」であって「現在という瞬間」を見ることはできない。

◆更に人間の知覚は0.5秒遅れる。つまり「光の速度+0.5秒」前の世界を我々は認識しているわけだ。

人間が認識しているのは0.5秒前の世界/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二

◆例えば北極星。地球上から見える北極星の光は431光年を経たものである。仮に北極星でサッカーの試合をしたとしよう。コイントスが終わっていよいよゲームが始まる。この場合、431年前のゲームを我々が見ていることになる。

諸行無常とは存在の本質を示した言葉であろう。「とどまることを知らない変化」こそが存在の存在たる所以であり、それが生命現象である。しかしながら我々の視覚に映じているのは過去の世界であるがゆえに、「存在の影(あるいは迹〈かげ〉)」しか認識できない。

◆「神」という視点は光に支えられた座標なのだろう。それは「見える世界」に限定される。そうでありながら光の源である太陽を人間は直視することができない。「見えるもの」には名が付与される。言葉は名詞から発生したと考えられている。神は光であるがゆえに「初めに言葉ありき」という構図ができる。

◆相対性理論は空間と時間が絶対ではないことを明かした。例えば光のスピードで走る車をあなたが道路で眺めたとしよう。車内の人達は全く動いておらず、彼らの周囲にある物は全て縮んで見える。車の中では普通に時間が進行しているにもかかわらずだ。

◆車を運転していたのは浦島太郎だった。首都「光速」道路で竜宮城へ行き、3年後に自宅へ帰ったところ、何と300年が経過していた。これを「ウラシマ効果」という。

◆実は我々の生活にもウラシマ効果は存在する。

相対性理論によれば飛行機に乗ると若返る/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン

◆神が光であると仮定すれば、神的世界は光の届く範囲に限定される。そして光は必ず影をつくり出す。なぜなら物体が光をさえぎるからだ。こうして光は「表と裏」という世界を形成する。地球が太陽に照らされる時、光と同じ速度で地球の影は宇宙に伸びる。その先にも闇は広がっている。

◆宇宙全体に光が及ぶことはない。なぜなら宇宙は光速度を上回るスピードで膨張しているからだ。

宇宙にはてはあるのですか?

◆光に支配されたキリスト教的時間観は直線的とならざるを得ない。生→死→復活→永遠、というのがそれだ。これでは系(システム)として閉じていないので必ず矛盾が生じる。

キリスト教と仏教の「永遠」は異なる/『死生観を問いなおす』広井良典

◆仏教は現在性を追求している。仏典においては「将来」ではなく「未来」という言葉が使われる。「将(まさ)に来たらん」とする時間ではなく、「未(いま)だ来たらざる」時間として捉える。厳密にいえば仏教は未来を認めていないのだ。

◆ブッダが説いた原始の教えはプラグマティズムと受け止められがちだが、むしろ現在性を重んじた智慧であったと考えるべきだろう。カースト制度を支える輪廻という物語を解体するには、前世・来世を一掃する必要があった。悟りとは修行の果てに得られるものではなく、ありのままの現在性を捉えることだ。

◆光の速度を超えると虚数の世界が現れる。2乗してマイナスとなるのが虚数だ。量子力学や電磁気学では実際に使われている。膨張する宇宙の果てが虚数の世界であれば、そこはネガとポジが反転する世界だ。生老病死も反転し、光速度を超えた時点で過去へと向かい、久遠元初に辿り着くかもしれない。

◆実際は光速度に近づくほど質量は無限に重量を増す。これがE=mc²。質量が無限大の世界といえばブラックホールだ。地球を2cmに圧縮すればブラックホールが出来上がる(※実際は質量不足で不可能)。そしてブラックホールを取り巻く空間は激しく歪む

◆物理世界における光速度を超えるのは、無意識の直観であり、これこそが悟りなのだろう。

敢えて“科学ミステリ”と言ってしまおう/『数学的にありえない』アダム・ファウアー
月並会第1回 「時間」その一
ブラックホールの画像と動画

2011-07-21

意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ


『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

 ・ユーザーイリュージョンとは
 ・エントロピーを解明したボルツマン
 ・ポーカーにおける確率とエントロピー
 ・嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理
 ・対話とはイマジネーションの共有
 ・論理ではなく無意識が行動を支えている
 ・外情報
 ・論理の限界
 ・意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる
 ・神経系は閉回路

『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
意識と肉体を切り離して考えることで、人と社会は進化する!?【川上量生×堀江貴文】
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン

必読書 その五

 1990年、アメリカ連邦議会は「脳の10年」を採択した。ゲノムプロジェクトも同年開始。10年後にはほぼ全ての遺伝子配列が明らかになった。計画は予想よりも短期間で成し遂げられた。コンピュータ技術が劇的に進化したためだ。

 脳が作ったコンピュータが脳を解明するというのだから面白い。デジタル化によってコンピュータは並列処理を行えるようになった。計算機は一足飛びで脳に近づいた。

 脳科学は飛躍した。だが、「なぜ意識があるのか?」はまだわかっていない。そもそも「意識とは何か」も不明のままだ。「私」という現象を支えているのは意識の反応であり、それをパターン化したものが「自我」だ。

 世界は五感で構成されている。世界は「在る」のではない。ただ世界を「感じて」いるだけだ。世界は快不快、喜怒哀楽、幸不幸によって異なる。人の数だけ世界があると考えてよかろう。

 では脳は何を感受し、意識を発動するのか?

 物質系や生命系の世界の複雑さは、「深さ」、つまり処分された情報量として記述できる。最大の情報量を持つもの、それゆえに最長の記述を要するようなものには、私たちは関心を抱かない。それは、無秩序や乱雑さや混沌と同じだからだ。また、あまりに規則正しく先の読めるものにも心を引かれない。そこにはなんの驚きもないからだ。
 私たちの興味をそそるのは、歴史を持つもの、つまり、閉じて動かぬことによってではなく、外界と相互作用を行ない、途中で大量の情報を処分することによって長い間、存続してきたものだ。だから、複雑さや深さは、〈熱力学深度〉(処分された情報の量)またはそれと密接に関連した〈論理深度〉(情報の処分に要した計算時間)で測定できる。
 会話には情報交換が伴う。しかし、そのこと自体が重要なのではない。交わされる言葉にはわずかな情報しか含まれていない。肝心なのは、言葉になる前に行なわれる情報の処分だ。メッセージの送り手は大量の情報を圧縮し、情報量をごく小さくしてからそれを口にする。受け手はコンテクストから判断し、実際に処分された大量の情報を引き出す。こうして送り手は、情報を捨てることで〈外情報〉を作り出し、その結果生まれた情報を伝達し、相応量の〈外情報〉を受け手の頭によみがえらせることができる。
 つまり、言語の帯域幅(毎秒伝達できるビット数)はいたって小さい。毎秒せいぜい50ビット程度だ。言語や思考で意識はいっぱいになるのだから、意識の容量が言語より大きいはずはない。1950年代に実施された一連の心理物理学実験から、意識の容量は非常に小さいことが判明した。毎秒40ビット以下、おそらくは16ビットを下回る。
 感覚器官をを通じて取り込む情報量が毎秒約1100万ビットであることを思うと、この数字は桁外れに小さい。意識は、五感経由で間断なく入ってくる情報のほんの一部を経験するにすぎない。
 とすれば、私たちの行動は、感覚器官を通して取り込まれながら意識には上らない大量の情報に基づいているはずだ。毎秒数ビットの意識だけでは、人間行動の多様性は説明できない。事実、心理学者は閾下知覚の存在を確認している。(ただし、このテーマに関する研究の歴史には奇妙な空白期間があり、その背景には、そうした研究から得られた知識が商業目的に悪用されることへの具体的懸念と、人間の得体の知れなさに対する獏とした恐れがあるようだ)。

【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之訳(原書、1991年/紀伊國屋書店、2002年)以下同】

 何と毎秒1100万ビットの情報量の99.99%を切り捨てていることになる。謡曲「求塚」(もとめづか/観阿弥作)に「されば人、一日一夜を経(ふ)るにだに、八億四千の思ひあり」とある。人は一日に八億四千万もの念慮を為すというのだ。この時代の億が10万であるとしても、84万ってことになりますな。ちなみに起きている時間を16時間として計算すると、1時間=52500、1秒=14.58という数字が導かれる。何となく16ビット以下に近づいているような気がする(笑)。

 たぶん生存に関わらない情報は捨象(しゃしょう)されるのだろう。家が火事になった場合に求められるのは分析することではなく逃げることだ。そう考えると生きるためには、理性よりも情動を発揮する方が有利なのだろう。

ソマティック・マーカー仮説/『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』(『生存する脳 心と脳と身体の神秘』改題)アントニオ・R・ダマシオ

 なお外情報とはトール・ノーレットランダーシュが命名した概念で、発した言葉に表されていない情報のこと。沈黙が雄弁と化す場合もある。人の心をつかむのも大抵の場合一言である。もっとわかりやすいのは音楽だ。言葉を介さずにメッセージを伝えるのだから。

 膨大な情報を切り捨て、最小限の情報を知覚した脳は意識を発動させる。

 結果に疑問の余地はなかった。〈準備電位〉が動作の0.55秒前に現れ始めたのに対し、意識が始動したのは行為の0.20秒前だった。したがって、決意の意識は〈準備電位〉の発生から0.35秒遅れて生じることになる。言い換えれば、脳の起動後0.35秒が経過してから、決意をする意識的経験が起きたわけだ。
 数字を丸めれば(データの出所が明らかな場合はさしつかえなかろう)、自発的行為を実行しようという意図を意識するのは、脳がその決定を実行し始めてから0.5秒たった後という結論になる。
 つまり、三つの事象が起きている。まず〈準備電位〉が発生し、ついで被験者が行為の開始を意識し、最後に行為が実行される。

 これを読んだ時は腰を抜かした。だってそうだろ、意識する前に脳が動いている(準備電位)というのだから。するってえと、やっぱり自由意志はないものと考えられる。(何度でも紹介するぞ!)

人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二

 体の触覚に関連する脳領域に電気刺激を与えると、体に触れられた、という感覚が生まれる。人間には、皮質への刺激を感知する触覚がない。通常は頭蓋骨が刺激から脳を守っているからだ。脳への刺激はけっしてないのだから、それを感知する生物学的な意味がない。頭蓋が開かれているとしたら、ほかにもっと憂慮すべきことがあるわけで、感覚皮質への刺激で爪先がうずくかどうかなど考えていられない。

 頭蓋骨はパンドラの匣(はこ)だったというわけだ。というよりは、むしろ脳が頭蓋骨から飛び出そうとしているのかもしれない。「こんな狭苦しいところに、いられるかってえんだ!」といった具合に。

 意識とそれが基づく脳内の活動に関するリベットの研究は、大きく二つに分けられる。一つは、ファインスタインの患者に対する一連の実験であり、これが、意識が生じるまでには0.5秒の脳活動を要するという、驚くべき発見をもたらした。この研究の後に、さらに驚嘆すべき発見へとつながる。すなわち、意識は時間的な繰り上げ調整を行ない、その結果私たちは、外界からの刺激の自覚が、実際は刺激の0.5秒後に生じるにもかかわらず、あたかも刺激の直後に生じたかのように感じる。

人間が認識しているのは0.5秒前の世界/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二

 0.5秒遅れの情報を脳が補正している。凄いよね。現在という瞬間の中で過去と未来が目まぐるしく交錯しているのだから。

 意識はその持ち主に、世界像と、その世界における能動的主体としての自己像を提示する。しかし、いずれの像も徹底的に編集されている。感覚像は大幅に編集されているため、意識が生じる約0.5秒前から、体のほかの部分がその感覚の影響を受けていることを、意識は知らない。意識は、閾下知覚もそれに対する反応も、すべて隠す。同様に、自らの行為について抱くイメージも歪められている。意識は、行為を始めているのが自分であるかのような顔をするが、実際は違う。現実には、意識が生じる前にすでに物事は始まっている。
 意識は、時間という名の本の大胆な改竄(かいざん)を要求するイカサマ師だ。しかし、当然ながら、それでこそ意識の存在意義がある。大量の情報が処分され、ほんとうに重要なものだけが示されている。正常な意識にとっては、意識が生じる0.5秒前に〈準備電位〉が現れようが現れまいが、まったく関係ない。肝心なのは、何を決意したかや、何を皮膚に感じたか、だ。患者の頭蓋骨を開けたり、学生に指を曲げさせたりしたらどうなるかなど、どうでもいい。重要なのは、不要な情報をすべて処分したときに意識が生じるということだ。

「私」とはこれほどあやふやな存在なのだ。トール・ノーレットランダーシュは意識という幻想を「ユーザーイリュージョン」(利用者の錯覚)と名づけた。

 世界が感覚で構成されている以上、我々の経験はシミュレーションとならざるを得ない。つまり脳が世界を規定するのだ。そして意識は「私」をでっち上げ、存在の重力を生み出す。

 華厳経(けごんきょう)に「心は工(たくみ)なる画師(えし)の如く種種の五陰(五蘊)を画(えが)く。一切世間の中に法として造らざること無し」とある。仏教は脳科学だったのだ。

「世界も私も幻想だ」というのは簡単だ。それよりも一番大切なことは、生(せい)の川が刻々と流れている事実を知ることだ。この流動性をブッダは諸行無常と鋭く見抜き、「私」の実体は諸法無我であると喝破した。

 世界と私は何と不思議に満ちていることか。


デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
知覚系の原理は「濾過」/『唯脳論』養老孟司
「私」という幻想/『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
信じることと騙されること/『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節

2011-07-11

現象に関する覚え書き


川はどこにあるのか?
月並会第1回 「時間」その一
月並会第1回 「時間」その二
時間とは記憶の残像である

 ・現象に関する覚え書き

『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート





 私が在(あ)るのではなく、私という現象が在る。

2011-05-31

ひらめき=適応性無意識/『第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』マルコム・グラッドウェル


 不況が続くとインチキや引っ掛け、詐欺・窃盗の類いが増える。普段は善良な人々がちょっとした誤魔化しを行い、平均的な人物は悪事に手を染めやすい。悪い連中に至っては被災者を騙すくらいのことを平然とやってのける。

 出版不況も長期化している。で、このようなデタラメ極まりない副題をつけるに至るってわけだよ。まあ酷いね。悪質だ。せっかくの内容を台無しにしてしまっている。

 そもそも原題は「“blink”=ひらめき」(訳者あとがき)である。マルコム・グラッドウェルは「ひらめきが正しい」と主張しているわけではない。「正しい場合もあるし、誤るケースもある」と書いているのだ。このため副題を刷り込まれた読者は、内容にチグハグな印象をもってしまう。後半になると「あれ、どっちなんだ?」と混乱するのだ。光文社の罪は大きい。

 これから本書を読もうとする人には、「副題をマジックで消すこと」をお勧めしておこう。

 フェデリコ・ゼリもイブリン・ハリソンもトマス・ホービングもゲオルギオス・ドンタスも、みんなそれを見たとき「直感的な反発」をおぼえた。そのひらめきに狂いはなかった。わずか2秒、文字通り一目で、その像(※紀元前530年頃に作成されたとするクーロス像)の正体を見抜いたのである。ゲッティ美術館の鑑定チームは14か月かけて調べ上げたが、彼らの2秒にかなわなかった。
 本書『第1感』は、この最初の2秒にまつわる物語である。

【『第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』マルコム・グラッドウェル:沢田博、阿部尚美訳(光文社、2006年)以下同】

 紛(まが)い物といえば骨董品である。有名な美術館であっても偽者をつかませられることがあるようだ。ま、書画骨董の類いは、どことなく信仰と似ている。自分が信じる限りは救われるのだ。

 ところが一流の目利きといわれる人は一瞬で真贋(しんがん)を見分ける。見分けるのだが、具体的な言葉で説明することができない。言葉は思考であり意識であるから、きっと無意識領域で違和感を覚えるのだろう。確かに胡散臭い人物と出会った時などは、「どこがどうってわけじゃないんだが、あの野郎は嘘の臭いがプンプンしていやがるぜ」ってなことが多い。

 果たして脳機能から見ると、どのようなメカニズムが働いているのか?

 このように一気に結論に達する脳の働きを「適応性無意識」と呼ぶ。心理学で最も重要な新しい研究分野のひとつである。適応性無意識は、フロイトの精神分析で言う無意識とは別物だ。フロイトの無意識は暗くぼんやりしていて、意識すると心を乱すような欲望や記憶や空想をしまっておく場所だ。対して適応性無意識は強力なコンピュータのようなもので、人が生きていくうえで必要な大量のデータを瞬時に、なんとかして処理してくれる。

 わかりにくい説明だ。これではヒューリスティクスと変わりがない。コンピュータのようなもの、とは並列処理ができるという意味だろう。取り敢えず「ひらめき=適応性無意識」と憶えておけばいいと思う。

 次に具体的な実験例を示す。

 初対面の人に会うとき、求職者を面接するとき、新しい考えに対処するとき、せっぱつまった状況でとっさに判断しなければならないとき、そういうときに、私たちは適応性無意識に頼る。たとえば学生の頃、担当教官が有能かどうかを判断するのに、私たちはどれくらいの時間を費やしただろう。最初の授業で? それとも2回目の授業のあと? 1学期の終わり?
 心理学者のナリニ・アンバディによれば、学生たちに教師の授業風景を撮影した音声なしのビデオを10秒間見せただけで、彼らは教師の力量をあっさり見抜いたという。見せるビデオを5秒に縮めても、評価は同じだった。わずか2秒のビデオでも、学生たちの判断は驚くほど一貫していた。さらに、こうした瞬時の判断を1学期終了後の評価と比べてみたところ、本質的な相違はなかったという。(中略)これが適応性無意識の力である。

 ここがポイントだ。経験や学習の後に下した判断と、第一印象の判断に相違はない。つまり相手を判断するための情報は量よりも質が問われることを意味する。

 綿密で時間のかかる理性的な分析と同じくらいに、瞬間のひらめきには大きな意味がある。このことを認めてこそ、私たちは自分自身を、そして自分の行動をよりよく理解できる。

 女の直感だ。そして女は直感の奴隷でもある(笑)。

 横方向に合理の世界は広がり、縦方向に直観的英知(ひらめき)が走るのだろう。稲妻のように。

 実験例をもう一つ紹介しよう。

 この実験(サミュエル・ゴスリング)から、一面識もない人物のことを15分間部屋を観察しただけで、長年の知りあいよりも理解できるものだということがわかる。ならば「相手をよく知る」ために会合や昼食を重ねても無駄だ。私を雇っても大丈夫かどうか知りたければ、私の家を訪ねてきて、部屋を見ればいい。(中略)
 この実験も「輪切り」の一例にすぎないのだ。

「輪切り」とはMRI(磁気共鳴画像)に掛けた言葉だ。英知の閃光が見えない内部をも照らすってわけだ。要は「一をもって万(ばん)を知る」ということなんだが、どこに注目するのかが問題だ。しかも相関関係はあったとしても、そのまま因果関係と断定するわけにはいかない。

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

 医者の訴訟リスクは何に由来するのか? この辺りから副題が邪魔になってくる。

 実を言うと、医者が医療事故で訴えられるかどうかは、ミスを犯す回数とはほとんど関係ない。訴訟を分析したところ、腕のいい医者が何度も訴えられたり、たびたびミスしても訴えられない医者がいることがわかった。一方で、医者にミスがあっても訴えない人がかなりの数に上ることもわかった。要するに、患者はいい加減な治療で被害を受けただけでは医者を訴えない。訴訟を起こすのにはほかに「わけ」がある。
 その「わけ」とは何か。それは、医者から個人的にどんな扱いを受けたかである。医療事故の訴訟にたびたび見られるのは、医者にせかされたとか、無視されたとか、まともに扱ってもらえなかったという訴えだ。

 具体的なミスと訴訟に関連性がないとすれば、患者が受けた印象に合理性はない。しかし別の見方をすれば、医師-患者という人間関係において「軽んじられる」ことは患者側のリスク要因となる。だから医学的合理性を欠いてはいるが、社会的な意味合いはあるのかもしれない。

 それにしても驚きだ。訴訟が「好き嫌い」のレベルで行われているというのだから。

 だとしたら、訴えられる可能性を知るのに手術がうまいか下手かを調べても意味がない。医者と患者の関係さえわかればよいのだ。
 医療について研究しているウェンディ・レビンソンは医者と患者の会話を何百件も録音した。ほぼ半数以上の医者は訴えられたことがない。あとの半数は二度以上訴えられている。レビンソンは彼らの会話だけを頼りに、二つのグループの医者に明らかな違いがあることを見つけた。
 訴えられたことのない外科医は、訴えられたことのある外科医よりも、一人の患者につきあう時間が3分以上長かったのだ(前者が18.3分に対して後者は15分)。

 更に補強されたよ(笑)。何だか、ますます民主主義が信用できなくなってきたな。大衆とはポピュリズムの異名だ。

 判断材料は外科医の声を分析した結果だけ。それで十分、威圧感のある声の外科医は訴えられやすく、声が威圧的でなく患者を気遣うような感じの外科医は訴えられにくかった。これ以上【薄い】輪切りがあるだろうか?

 困ったね。何を隠そう私は昔から威圧的な口調で有名なのだ(笑)。その上口が悪い。態度も横柄だ。そのうち誰かから訴えられることだろう。

 他にもウォーレン・ハーディングは見栄えがよかったおかげで、第29代アメリカ大統領になれたという話も出てくる。ま、詐欺師ってえのあ、大体感じがいいからね。

 私は直感的なタイプだ。そして気が短い。時折、「どうしてそんなに怒っているのかわからない」と言われる。説明すると相手は納得するのだが、「そんなことを一々説明させるな!」とまた怒る羽目になる。

 会って話をすれば、かなりのことがわかる。メールやツイッターでも結構わかる。「小野さんと話していると、自分が丸裸にされるようで怖い」と言われたこともある。

 私は昔から違和感を言葉にする努力を自らに課してきた。もちろん時間が掛かった場合もあるが、大体は言葉で説明できる。

 顔色や目つき、声の抑揚、身のこなし方などから伝わってくる情報は意外と多いものだ。クルマに詳しい人であれば、必ずエンジン音に耳を傾けている。

 でも直観を鍛えるのは難しい。だから感情や本能を磨くことを心掛けたい。具体的には感受性である。道を歩きながら光を感じているか。走り出した時の風を感じているか。木を見た時に根の存在を感じているか。二度と見ることのない雲の形に不思議を見出しているか。そんなことが大切なのだろう。



『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』(旧題『ティッピング・ポイント』)マルコム・グラッドウェル
災害に直面すると人々の動きは緩慢になる/『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー

2009-07-14

人間とは「ケアする動物」である/『死生観を問いなおす』広井良典


 ・キリスト教と仏教の「永遠」は異なる
 ・時間の複層性
 ・人間とは「ケアする動物」である
 ・死生観の構築
 ・存在するとは知覚されること

必読書リスト その五

 リクエストがあったので広井良典のテキストを紹介する。尚、以下の記事を先に読んでいただきたい――

ネアンデルタール人も介護をしていた/『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠

 本書は時間という概念から死生観を捉え直した一冊。豊富な話題で多様な角度から「永遠」を思索している。その上で4年前に著した『ケアを問いなおす 〈深層の時間〉と高齢化社会』(ちくま新書、1997年)ともリンクさせており、著者の気迫を感じさせる――

 いうまでもなく人間は社会的な生き物であり、他者との様々な関わりの中で自分の存在を確認していく存在である。ケアとは本来「気遣い、配慮、世話」といった意味をもつ言葉で、情緒的な面を含めた他者との関わりを広く含む概念であるが、このように考えていくと、人間とは「ケアする動物」である、という理解が可能になってくる。より詳しく言えば、こうしたケアの関係は、社会性が大きく発達した哺乳類に既に現れているものであるが――「哺乳」という言葉がよく示しているように、そこでは母親との関係が「ケア」の原型となっている――、そうしたケアの関係が個体の成長(情緒的な面のみならず学習あるいは認知的な側面を含む)にとって全面的に大きな役割をはたすようになっているのが人間という生き物においてである。
 いずれにしても、このように人間は「ケアへの欲求」をもっており、その中には「ケアされたい欲求」というものが含まれる。ケアされたい欲求というのは、いいかえると、自分という存在を確かに認めてもらいたい、あるいは自分という存在を肯定され受け容れてもらいたい、という欲求といってよいものであろう。そして人間の場合、そのように自分という存在がしっかりと「ケア」され肯定されているという基本的な感覚があってこそ、自分がいま生きている「この世界」自体がプラスの価値をもって立ち現れ、生への肯定感が強固なものとなる。

【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)】

 人間の“社会性”を“ケア”として捉える発想が極めて斬新だ。「親の死に目に会う」「最期を看取る」といった感覚もこう考えると腑に落ちる。

 大事なのは、「ケアへの欲求」が「したい、されたい」という双方向性を持っていることである。「相身互い」という古めかしい日本語を想起させる。

 実際に介護をするとよくわかるのだが、こちらが介護しているにもかかわらず、妙に癒(いや)されることがあるものだ。非常に不思議な感覚に捉われ、「あ、介護を必要とする人がいるから、自分は介護をすることができるのだな」とたちどころに悟る。それはあたかも、「説法するから偉いわけではなく、衆生がいるおかげで法を説くことができる」とする仏教本来の精神に近い。

 よく考えてみよう。最も人間らしいあり方――つまり動物とは異なる生き方――とは、努力をすることであり、苦痛に耐えることであろう。偉人という偉人はいずれも過酷な運命と対峙し、勇猛果敢に乗り越えている。そうであるならば、身体に障害を抱える方々や難病と闘う人々は英雄と言える。

 ある日の朝礼で、私の上司であり、主治医でもある義兄が、全職員を前にして言った。
「ここに入ってこられる方は、病気やけがと闘って、脳に損傷を受けながらも生き残った勝者です。勝者としての尊敬を受ける資格があるのです。みなさんも患者さんを、勝者として充分に敬ってください」

【『壊れた脳 生存する知』山田規畝子〈やまだ・きくこ〉(講談社、2004年)】

 その上、人間らしさが他者に尽くす利他の行為にあるとすれば、こうした営みを人々から「引き出して」いるのも障害者や病人と言えよう。

 もちろん、介護現場に様々な問題が山積していることは知っている。政府が要介護者を切り捨てようとしている現実も確かに存在する。しかしながらヒトが「ケアする動物」であれば、誰も見ていない介護という営みに「限りない豊かさ」があるはずだ。

 思想とは、行為を捉え直し、行為に意味を付与し、行為を昇華させるものである。思想なき人は、行為に引き摺られ、生き方が些末(さまつ)になってゆく。本書には、蒙(もう)を啓(ひら)く確かな思想性がある。

2009-06-28

時間の複層性/『死生観を問いなおす』広井良典


『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサスキリスト教を知るための書籍
・『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世(宗教とは何か?

 ・キリスト教と仏教の「永遠」は異なる
 ・時間の複層性
 ・人間とは「ケアする動物」である
 ・死生観の構築
 ・存在するとは知覚されること
 ・キリスト教と仏教の時間論

『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

必読書リスト その五

 広井良典は時間を捉え直すことで、死生観を問い直す。果たして時間は主観なのか客観なのか。また時間は一種類しかないのか。そして広井は、時間の複層性を注視する――

「時間のより深い次元」ということをやや唐突な形で述べたが、たとえて言うと次のようなことである。川や、あるいは海での水の流れを考えると、表面は速い速度で流れ、水がどんどん流れ去っている。しかしその底のほうの部分になると、流れのスピードは次第にゆったりしたものとなり、場合によってはほとんど動かない状態であったりする。これと同じようなことが、「時間」についても言えることがあるのではないだろうか。日々刻々と、あるいは瞬間瞬間に過ぎ去り、変化していく時間。この「カレンダー的な時間」の底に、もう少し深い時間の次元といったものが存在し、私たちの生はそうした時間の層によって意味を与えられている、とは考えられないだろうか?

【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)以下同】

 考えさせられる指摘である。例えば、受精してから誕生に至る十月十日(とつきとおか)の間に、新生児は進化の過程を辿るといわれる。何とはなしに、羊水の中で人類の悠久の歴史が流れているような印象を受ける。あるいは、DNA的時間というのも存在するかも知れぬ。一本の川を宇宙の歴史と考えれば、それこそ無数の時間が流れていそうだ。

 広井の考察は時間と空間との関係に及ぶ――

 こうなってくると、時間と空間とは相互に独立したものではなく、互いに関係し合ったものとなる。つまり、例えば先にふれたようにシリウスまでの距離は8.6光年、一方七夕の彦星であるアルタイルまでの距離は16光年だそうなので、ということは私たちはいつも「8.6光年前のシリウス、16光年前のアルタイル」を同時に見ていることになり、いわば異なる過去に属する星々を「いま」見ていることになる。単純に言えば、「遠い」星ほどその「古い」姿を見ているわけであり、時間と空間はこうして交差する。私たちは宇宙の「異なる時間」をいまこの一瞬に見ている、といってもよいだろう。

 これまた座布団を三枚差し出したくなるような例え話だ。浦島太郎は竜宮城で数日間を過ごしたが、地上では700年が経過していた。こうした時間の複層性が示しているのは何か?――

 つまり、時間というものは、「世界そのものの側」に存在するのではない。それは認識する「人間の側」にあるもので、世界を見る際の枠組み、色メガネのようなものである。

 時間は「私が認識する」ものだった。主観。なぜなら、変化を観測する人物がいないと時間は存在しないからだ。人類が滅亡した時点で時間は消失する。それでも納得できなければ、宇宙が消滅した時点で時間は存在しなくなると言っておこう。

 この相対化の方向を、極限まで推し進めたのがアインシュタインだった、ということができる。相対論の体系では、先にもふれたように、絶対時間、絶対空間の存在は否定され、時間や空間は、事象を観測する主体(座標系)を特定して初めて意味をもつことになる。つまり、時間や空間は認識主体との関係でまさに「相対的」であり、それらとは別に唯一の客観的な時間・空間が存在しているのではない。したがって、異なる個人、たとえばAさんとBさんとは異なる「時間」の中に存在していることになる(ただし、これは光速の有限性ということがあって初めて出てくる結論だから、光速が有限であることがほとんど無視できるような地球上の現象に関する限りは、そうした時空の相対性は事実上無視できるものになる)。
 ふり返って見ると、カントの段階では、先にふれたように時間は世界の側から「人間の側」にもって来られたが、それでもなお、人間の世界の内部では、ある普遍的な、絶対的な(唯一の)時間が存在していたのだった。それがアインシュタインの相対論に至ると、時間はおのおのの個人によって異なるものとなり、唯一の「絶対時間」なるものは存在しなくなる。つまり共通の“時間という色メガネ”すら実は存在しない、というのが相対論の結論である。ニュートンからカント、マッハ、アインシュタインへの歩みは、したがって絶対時間あるいは「直線的時間」というものが解体してゆく歩みであるということもできる。

 まったくもって凄い展開になっている。これは思索の要あり。ある人物の人生を生と死で結べば、それは「直線的時間」といえよう。だが、死へと向かいつつある我々の時間は、あっちへ行ったりこっちへ行ったりとウロウロすることが珍しくない。しかも、時間というものは過ぎてしまえば一瞬なのだ。

 若くして亡くなる人がいると心が痛む。だが、我々は資本主義に毒されてしまい、人生七十年という平均値を8時間労働のように考えている節がある。更に恐ろしいことに、人生そのものを仕事量で判断する傾向すらある。

 広井良典の知的作業は永遠をも峻別しながら、豊穣なる時間を志向している。



物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人
光は年をとらない/『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン

2008-12-31

キリスト教と仏教の「永遠」は異なる/『死生観を問いなおす』広井良典


『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサスキリスト教を知るための書籍
・『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世(宗教とは何か?

 ・キリスト教と仏教の「永遠」は異なる
 ・時間の複層性
 ・人間とは「ケアする動物」である
 ・死生観の構築
 ・存在するとは知覚されること
 ・キリスト教と仏教の時間論

『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

必読書リスト その五

 これはめっけ物だった。試合終了間際のスリーベースヒットといったところだ。2008年、最大の伏兵。

 時間という概念から死生観を捉え直そうと試みて、見事に成功している。それにしても、広井良典の守備範囲の広さに驚かされる。最初はモネからだからね。で、マッハ、アインシュタイン、介護なんぞの話も交えながら、キリスト教と仏教に至る。でもって、これがちゃあんとした連環となっているのだ。お見事。

 で、だ。古本屋のオヤジが手放しで褒めるわけがないわな。多分、この人の慎重な性格と誠実な人柄によるのだろうが、文章が時々すっきりしない。文末が曖昧になり、中途半端なリベラル性が頭をもたげている。あと読点も多過ぎる(特に「、と」の多さは目を覆いたくなるほど)。ま、期待を込めて言うなら、著者の思考はまだまだ洗練される余地があるということだ。

 早速、本題に入ろう。大晦日になっても尚、ブログを更新するような人生にウンザリさせられるよ。キリスト教と仏教の永遠は違っていた――

 キリスト教の場合には、「始めと終わり」のあるこの世の時間の先に、つまり終末の先に、この世とは異なる「永遠の時間」が存在する、と考える。さらに言えば、そこに至ることこそが救済への道なのである(死→復活→永遠という構図)。他方、仏教の場合には、先に車輪のたとえをしたけれども、回転する現象としての時間の中にとどまり続けること、つまり輪廻転生の中に投げ出されていることは「一切皆苦」であり、そこから抜け出して(車輪の中心部である)「永遠の時間」に至ることが、やはり救済となる(輪廻→解脱→永遠という構図)。
 念のために補足すると、ここでいう「永遠」とは、「時間がずっと続くこと」という意味というよりは、むしろ「時間を超えていること(超・時間性)、時間が存在しないこと(無・時間性)」といった意味である。(中略)こうした「永遠」というテーマは、そのまま「死」というものをどう理解するかということと直結する主題である。だからこそ、あらゆる宗教にとって、というよりも人間にとって、この「永遠」というものを自分のなかでどう位置づけ、理解するかが、死生観の根幹をなすと言ってもよいのである。

【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)】

 つまり、だ。キリスト教の永遠は直線の向こう側に存在し、仏教の永遠は輪廻という輪の外側にあるというわけだ。で、どっちにしても「遠く」にあることは確かだろう。手を伸ばして届くようなところに永遠は存在しない。

 そして、永遠の定義が凄い。参ったね。ぐうの音も出ないよ。「超」にせよ「無」にせよ、そこは「比較対象する事象が存在しない世界」になってしまう。結局、認知や認識の外側に“死の世界”が開けているのだろう。

 アインシュタインの相対性理論から考えると、「“自分”という観測者を失った自分」になりそうな気がする。

 例えば、“眠り”は“小さな死”といわれる。私の場合、殆ど夢が記憶に残っていない。そう。夢も希望もない人生なのだよ。で、寝ている間って時間の感覚はないよね。五感だって溶けているような印象がある。「俺は寝ている」という自覚すらない。それからもう一つ。人間は眠る瞬間と起きる瞬間を意識できない。だから、死ぬ時や生れる時はこんな感じではないかと、最近感じている。

 この続きは来年ということで。



仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人
光は年をとらない/『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン
宗教とは何か?