4~5歳の男の子が自転車に乗る練習をしていた。補助車なし。よろけつつも少しだけ真っ直ぐ走った。私はバイクにまたがったまま擦れ違いざまに目を丸くし、「おお、スゲー」顔をした。少年はニコッと笑った。本当に嬉しそうな表情だった。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年4月25日
2013-04-26
目撃された人々 34
2013-03-02
目撃された人々 33
こちらから挨拶をしても、いつも暗い表情をしている奥さんだった。小学生の息子も何となく暗かった。玄関前の自転車に掛けてあった洗濯物が落ちていた。私が伝えると、ドアを開けるなりパッと花が咲いたように笑った。それ以降、私の顔を見ると笑顔になった。開いたのは心のドアだったのだろう。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年3月1日
2013-02-19
目撃された人々 32
マンションの入口で若いお母さんと擦れ違った。私は軽く会釈をし「こんにちは」と挨拶をした。母親に続いて3歳くらいの女の子がびっくりするほど大きな声で「こ・ん・に・ち・わ!」と返してきた。あれは教え込まれた反応ではない。生命が確かに開かれている声の響きであった。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年2月19日
2013-01-20
2012-12-23
目撃された人々 30
年老いた二人の修道女と擦れ違った。私は小声で「シスター」と呟き、心の中で「姉ちゃん」と翻訳して、忍び笑いを漏らした。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 12月 23, 2012
・目撃された人々(旧)
2012-09-28
目撃された人々 29
よちよち歩きの女の子が恐るべき注意力を払って周囲を見回していた。「初めて見る」驚きにあふれているような瞳であった。その視線が私の顔で止まった。ニヤリと笑って見せたのだが、幼児の目は丸く見開かれたままだった。2~3mと離れたところで若いお母さんが蛇行しながら歩く子供を見守っていた。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 28, 2012
このお母さんが偉いのは子供を誘導せず、自主性に任せていたことだ。きっと彼女も親御さんから大切に育てられたのだろう。擦れ違ってから少し経って私が振り向くと、女児も同時に振り返った。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 28, 2012
私が「見るものは」と呟くと、幼児が「見られるものである」と囁いた。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 28, 2012
最後のは作り話だ。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 28, 2012
・目撃された人々(旧)
2012-07-31
目撃された人々 28
5~6歳の男児が片手をポケットに入れたまま、沈鬱な表情で自転車のペダルを漕いでいた。彼は人生を知ってしまったのだろう。憂愁と悲哀が眉ににじんでおり、やり場のない怒りと行き場のない無気力が頬で交錯していた。あるいは少し歯が痛かっただけのことかもしれない。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 7月 31, 2012
・目撃された人々(旧)
2012-07-30
目撃された人々 27
声が美しかった。そして豊かな響きがあった。声だけ聴いていると60代半ばの女性とは思えなかった。ただし時折、優しい性格が裏目に出て自信のなさそうな態度が見受けられた。初めて会った頃からそれが気になって仕方がなかった。
オフィスでもスリッパを引きずるように歩き、年齢に不相応なほど猫背がひどかった。
さほど親しいわけでもなく個人的なことは殆ど知らない。にもかかわらず私の気を惹く何かがあった。
多分、中年期以降に何かしらの不条理や不遇を経験してきたのだろう。その見えない生乾きの傷が、彼女の声を通して私の胸に響いてくるのだ。
人は生きる気力を失った瞬間に姿勢が歪む。地球の引力に負けてしまうためだ。背骨は悲哀のカーブを描いて湾曲する。
苦しい胸の内を彼女は手放していないことだろう。あるいは死ぬまで抱えてゆく覚悟を決めているのかもしれない。
そんなことをつらつら思っていると、背中をさすりながら「私が一緒に泣いてあげるよ」と言いたい衝動に駆られる。
私自身が精神的にタフなことと関係しているかどうかはわからぬが、心に傷を負っている人を見るとどうしても放っておけなくなる。
お孫さんの写真を見せてくれた時は少女のように微笑んでいた。しかし孫の存在は人生の重力を跳ね返す力とはなり得ないことだろう。
不幸の本質は悲哀と恐怖である。そこから離れるためには誰かに話す必要がある。「話す」が「離す」に通じるからだ。
・目撃された人々(旧)
2012-06-26
目撃された人々 26
雨上がりの日であったと思う。しゃがみ込んで草むしりをしているお婆さんがいた。手際がよく無駄な動きがなかった。麦わら帽子で隠れた顔は真っ黒に焼けていた。
すると塀の内側からひょっこり顔が覗(のぞ)いた。同じ年代の女性であったが、肌の色がまったく違っていた。雇った側が雇われた側を斜め上からじっと見下ろしていた。私の胸に鋭い痛みが走った。「ここで交換されているものは何か?」。
・貿易黒字は失業を輸出していることに等しい/『藤巻健史の実践・金融マーケット集中講義』藤巻健史
経済行為が等価交換であるならば、労賃を返せば白い肌の老婦人は草むしりをするのだろうか? 絶対にやらないね。別の人間を探すだけの話だろうよ。マダムは決して自分の手を汚すことがない。
人間を2種類に分けてみる。働く人々と働かされる人々がいる。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 6月 18, 2012
人間を2種類に分けてみよう。所有する人々と奪われる人々、虐げる人々と虐げられる人々が存在する。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 6月 18, 2012
他人を「働かせる」行為は、誰かを「虐げる」行為なのかもしれない。
簡単な作業ほど働き手は多い。難しい仕事には免許や資格が必要となる。規制がある以上、職業選択の自由は阻害されていると考えてよかろう。
「働かなければ食ってゆけない」――我々が生きる世界は苛酷だ。しかも「働く」ことが「賃金を得る」ことを意味している。資本主義経済は労働を貧しいものに変えてしまった。そして食べることと働くことを完全に切り離すことに成功した。
等価交換の幻想を支配しているのは金融と流通である。そしてこの舞台に広告会社とメディアが演出を施す。経済の実態は消費という反応に堕してしまった。
私は背中越しに胸の中でマダムにつぶやいた。「美食の限りを尽くして、さっさとくたばるがいい」と。アスファルトの道路に唾を吐こうかと思ったが、私の良識が押しとどめた。
・目撃された人々(旧)
2011-12-22
目撃された人々 25
めじろ台駅の前の道を城山方面へ向かうと山王坂がある。我が家からだと上り坂だ。殆どの人が坂の下で自転車を降りて押してゆく。私の自転車は「バイク」と呼べるほどの代物ではないが、21段変速なので何とか必死で漕(こ)いでゆく。ほぼ体力の限界に近い。
昨日、坂の下で3人の小学生が自転車を降りた。私は彼らを追い越した。坂の中ほどに掛かった時、私は自転車を押す小学生に抜かれた。少なからずショックを受けた。まだ低学年と思われる彼らは、半ズボンに長袖という軽装であった。まったく信じ難い話だ。私はといえばヒートテック上下、靴下2枚重ね、タートルネックの上にポケットがたくさん付いたベスト、ネックウォーマー、厚手の手袋とウールの帽子、そして防寒ズボンとダウンパーカーを着用していた。八王子の寒さはかくも手強いものだ。
私は二重のショックを受けた。3日間ほど寝込んでやりたい心境だ。太い溜息を吐いて呟いた。「わかったわかった、俺の負けだよ」と。そして「君らに譲るよ。未来を」と。
坂の上に栄光はなかった。少し心地よい敗北感が空に向かって広がっていった。
・目撃された人々(旧)
2001-04-07
目撃された人々 2
人の好い親父さんだった。
年の頃は還暦を越えたほどであろうか。小太りの身体に赤ら顔が乗っかっていた。商売っ気抜きの笑い声が豪快な人だった。以前、私が勤務していた会社の下請けの社長さんだ。誰からも好かれていた。いなくなった途端その人の陰口を叩くような手合いとは全く違っていた。
その頃私は、職人同士の間で見受けられる低俗な駆け引きや、足の引っ張り合いに業を煮やしていた。黙っていれば幾らでもつけ上がる。怒鳴りつければ下手に出る。そんな大人どもに向って唾を吐きかけてやりたい衝動に駆られたものだ。
下請け会社の社長さんは、必ず私に声を掛けてくれた。若かった私はよく愚痴を吐いた。「こんなクズみたいな連中と働くのは御免こうむりたい。こっちまで人間が愚劣になってしまいそうだ」。親父さんはニコニコしながら黙って私の話しに耳を傾けてくれた。
建築業界は羽振りが好い時は飛ぶ鳥落とす勢いがあるものの、景気が低迷し出すと真っ先に打撃を受ける。バブルが弾けたある日のことだった。
いつもは工場で納品をして帰る親父さんが事務所に現れた。私が振り向き「毎度っ!」とドラ声を上げると、いつになく沈痛な面持ちで作業帽を両手で握り締めて立っていた。
「社長、ちょっと宜しいですか」。親父さんはそういうなり社長の前に歩んでいった。突然大きな声で「社長、仕事を回して下さい。お願いします。社長、本当に……どうかお願いします」。深く腰を折り曲げた悲痛な姿を正視することはできなかった。世の中の厳しさを目の当たりにした私は、食ってゆくとはこういうことなのだと悟った。事務所を出てゆく時に見せた笑顔は、いつものそれとは違った。
バブルの絶頂期には1000万円を軽く上回るドイツ製のクルマを2台も購入した我が社の社長の運も尽きた。彼は最後の最後までクルマを手放すことなく、社員を次々と解雇した。今では残った従業員はわずかに4人しかいないという。
時流の変化、人生の有為転変は誰しも避けられない。クルクルと波の向きに合わせて小ざかしく泳ぎ渡るような人間も数多く見た。
私は今でも時たま、あの親父さんの笑顔を胸に浮かべることがある。あの人の笑顔は、どんな時でも変わらないだろう。否、苦境にあればあるほど輝きを増してゆくに違いない。
2001-03-22
目撃された人々 1
とあるデパートで昼食をとっている時だった。
一つ置いたテーブルの向こうに男二人が腰を下ろした。友人同士ではなさそうだ。年上の方が下手に出ているところを見ると、多分、仕事関係だろう。敬語を使われている方は40歳前後だろうか。少し長めの髪、白い肌におっとりした目鼻立ちの、どこかお坊っちゃん然とした男だった。ウェイトレスがメニューと水、そしてオシボリを手渡す。二人は談笑しながら、オシボリを手にした。坊っちゃん顔が入念に手を拭く。掌(てのひら)をこすった後で、一本一本の指を丹念に拭う。会話は途切れることなく続けられた。彼は相手の顔を真っ直ぐに見つめながらも、オシボリを使用する手の動きを止めない。実にちぐはぐな態度だった。低くはないが落ち着いた声、自然な微笑、そして、手の動きは器用で滑らかだった。緊張の現れではあるまい。ただの綺麗好きなのか。それとも心の内の二面性が表出したのか。あるいは幼児が指をしゃぶる行為に似たものなのか。私は困惑した。
汚れた強化ガラスの窓の向こうで、ビルに切り取られた青い空がひっそりと見えた。彼は薄汚い自分の心を拭っていたのかも知れない。再び目をやると同じ光景が続いていた。ナチス式の敬礼は、潔癖症の高官が握手を嫌う余り考案されたという。
彼等の食事が届くまで私は目が離せなかった。よくもまあ巧みに動く手だ。私が席を立ち、彼等の傍らを通り過ぎた。きちんと折り畳まれた白いオシボリが不潔この上ないものに見えて仕方がなかった。