つまり「正義」とは、ある共同体における支配的な論理のうち、「人の命」を奪うことが正当化される原理を指す言葉と考えてもいい。
【『「正義」を叫ぶ者こそ疑え』宮崎学(ダイヤモンド社、2002年)以下同】
宮崎学の自伝『
突破者 戦後史の陰を駆け抜けた五十年』(南風社、1996年)を読んだ時の衝撃を忘れることができない。バブル景気崩壊後の澱(よど)んだ空気を吹き払う風のようにすら思えた。私がインターネットを始めた頃(1999年)には通信傍受法廃止を目的に政治団体「電脳突破党」を結党した。
好きな人物ではないが、かといって嫌いになることもできない男である。体を張って生きてきた者には嘘がない。だが全共闘世代に顕著な理論をこねくり回す姿勢が肌に合わない。
昔の正義はわかりやすかった。その質が変わり始めたのはテレビ版「
デビルマン」(1972年)あたりからだと思う。その後「
秘密戦隊ゴレンジャー」(1975年)によって、それまで単独であった正義の味方が集団(組織)となった。きっと正義を一人で担うことができなくなったのだろう。
ポイントその一「正義は人を裁く」。
ロシアの革命家トロツキーは「悪魔でさえ聖書の引用で自分の言葉を飾ることができる」と言った。
ポイントその二「盗っ人には盗っ人の正義がある」。先の言葉と併せれば集団(共同体)内部の正義は利害へと概念が変質していることに気づく。
いったん正義という名の原則を立てると、その原則に反するもの、すなわち「不正義」を排除する。どんな原則であれ、その原則をめぐる集団においてであれ、必ずこの「排除の構造」が現れる。そして「排除の構造」のもとに「人殺し」が正当化され、殺人は正義と化すのである。
教団とは禁忌(タブー)を共有するコミュニティであり、共同体は罰を共有する集団と考えられる。これが「法」(掟)である。宮崎の言葉が浅いのは科学的な視点を欠くためだ。文学レベルにとどまっている。
原理が集団に共有されるように働きかける者がいつの時代にもいる。宗教でも人権でも民主主義でも民族の優秀性でもどんな原理でもいい。旗を振り、正義を唱える者たちだ。正義という名の原理こそ、そしてその旗を振る人間こそ「殺人を正当化する」ものとして、一番疑わなくてはいけない存在であることが、これで解るだろう。
わからない。「魔女狩りは悪しき歴史だ」という言説にさしたる意味はない。なぜそれが起こったかが重要なのだ。英雄とは脳の構造が一段階進んだ人物のことだ。英雄の言葉と振る舞いが人々のシナプス結合を一変させる。その瞬間に時代は変わるのだ。宮崎の言いたいことは理解できるが、親や経営者、はたまた裁判官にまで当てはまってしまう。
日本共産党の機関紙・赤旗のキャッチフレーズは「正義の味方、真実の報道」である。昔の子供たちの素朴な倫理観に訴えた、かなり安易なドラマ「月光仮面」並みのキャッチフレーズではないか。大の大人が口にするのは相当恥ずかしい言葉であり、かなり崩れてしまったとはいえ、我々の世代にはまだまだ根強く残っている「恥の文化」に反するものだ。普通は恥ずかしくてこんなことは言えない。臆面もなく「正義の味方、真実の報道」と口にできる精神に、通常の神経では「ついてはいけない」と思うものだ。
しかし、共産党幹部、支持者はそう思わない。それが正義の怖さだろう。正義を体現していると信じた瞬間から、この言葉が恥ずかしくなくなる。臆面もないとは思わない。自分を疑うことを忘れる。客観性を喪失して、自分が世界の中心になってしまう。幼児的自我の中に埋没する。そして、その正義に従わない者こそ悪と断じてしまうのである。
正義を信じてしまう恐ろしさが、ここにある。しかも従わない者を悪と断ずるだけでなく、罰して矯正しなければならないとまで考え始める。倫理の独占者と化す。つまり、人であることをやめて神の位置に昇ってしまうのである。革命政党が宗教組織になぞらえられ、その論争を神学論争に喩えるのは、正義を信じた瞬間から、それは人間にとって宗教と同じく倫理観に裏打ちされるからだ。
神の位置に昇ることは、正義の体現者となったときから、革命政党が「無謬(むびゅう)性」を打ち出すことでも解る。「党は間違えない」のである。
なんという厚顔無恥。わたしも、よくその一員でいられたものだと、つくづく思う。
赤旗のキャッチフレーズはいみじくもプロパガンダの本質を言い当てている。正確さよりも正しさ。正しさとは「正しいと人々に思わせること」でもある。「私は正しい」。その後に何がくるだろうか? 当然「私に従え」だ。1+1=2くらいわかりやすい公式だ。
縮小を願う組織はあり得ない。常に拡大発展を目的として動くのが組織である。これはやくざであれ、株式会社であれ、党派であれ、同じである。創価学会でいえば、戦前の弾圧による殉教や平和志向などの「信仰の原理」よりも、政治的判断・数値目標・保身などの「組織の論理」を優先するようになるのである。
官僚は、その組織の上に乗ることで自分の立場を成立させている。組織が維持発展することと官僚の利害は一致する。そこで、組織(この場合創価学会の官僚)は、組織の維持すなわち自分たちの存立基盤の強化拡大という路線を選択することになる。教理、宗派の理念に沿い、それを時代とともに進化させる方向は、組織維持の原則と官僚の利害の前に二次、三次の選択肢となっていく。かくして壇上に並んだ幹部は「裏切り者」の集団となる。
政治は宗教を目指し、宗教は政治に向かう。正義とは教条(ドグマ)なのだ。創価学会の機関紙・聖教新聞には「正義」の文字が極太ゴシック体でこれでもかといわんばかりに印刷されている。あたかも嘘をついているようにすら見えるほどだ。共産党の創価学会化と創価学会の共産党化は研究に値すると思われる。なぜなら二つの団体はメカニズムがほぼ一致しているためだ。党の無謬性と指導者の絶対性やオルグと折伏(しゃくぶく)など。
宮崎は「集団化した正義の嘘を見抜け」と言いたいのだろう。アウトローだからこそ見えるものがある。インサイダーは見ざる聞かざる言わざるで臭いのもに蓋(ふた)をする。
本物の正義は他人を説得しない。自(おの)ずから従わざるを得ない光のような性質をはらんでいる。太陽はしゃべらない。ただ暖かさを与えるだけだ。
自分自身の問題でも、また組織の側の問題でも、どんな問題が起こったら、あるいはどんな環境下で自分のどこに抵触したら組織を離れるか、身を退くか。要するにやめる理由を整理整頓しておくべきではないか。
これは千鈞の重みがある言葉だ。自分で自分にルールを課す。身の処し方とはそういうものだ。毒に気づかなければ皿まで食べる羽目となる。離れる。そして離れた後で、離れることからも離れる。そこに自由がある。
宮崎 学
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