・『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
・『管仲』宮城谷昌光
・『重耳』宮城谷昌光
・『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
・『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
・術と法の違い
・策と術は時を短縮
・人生の転機は明日にもある
・天下を問う
・傑人
・明るい言葉
・孫子の兵法
・孫子の兵法 その二
・人の言葉はいかなる財宝にもまさる
・『孟嘗君』宮城谷昌光
・『楽毅』宮城谷昌光
・『青雲はるかに』宮城谷昌光
・『奇貨居くべし』宮城谷昌光
・『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光
「よくみとどけてくれた。なんじらがみたこと、きいたことは、けっして桃永(とうえい)と屯(とん)にはつたえるな。屯の未来を明るく照らすことにはならない」
【『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、2010年/講談社文庫、2013年)以下同】
屯という児童は出自が不詳で、由来には翳(かげ)がある。永翁〈えいおう〉と桃永〈とうえい〉の三人家族であるが血のつながりはない。子胥(ししょ)は一時期、起居をともにしていた。やがて永翁の家が徒党を組む暴漢に襲われる。永翁にも過去の暗い事情があった。
人に何を伝え、何を伏せるべきか。自分であれば受け止めることができるが、それができぬ人もいる。込み入った感情が交錯すれば、要らぬ誤解を生むことも少なくない。特に責任が大きい立場になるほど難しい場面がある。
その人の「未来を明るく照らす」かどうか。これを判断の基準にすれば間違いない。黙して語らぬことが相手の未来を照らす場合もあるだろう。
子胥(ししょ)にとって時のながれは平凡になった。が、こういう平凡な時をどのようにすごすかによって、非凡な時を迎えた男の価値が決まる。
焦りがあると足元が見えなくなる。目標が遠く感じた時は眼を下に転じて一歩一歩を確実にすることだ。人生に遠回りはない。そう感じさせるのは野心である。地位に固執する人物は地位を得たところで幸福とは限らない。問われるのは仕事である。地位を得ても充実と満足から遠ざかれば元も子もない。
――時のむだづかいのほうが、人生にとって、損失は大きい。
と、子胥はおもった。
だが、生まれてから死ぬまでの時間が、すべて有意義であるという人などひとりもいない。むなしさにさらされている時を、意義のあるものに更(か)えるところに、人のほんとうの心力(しんりょく)と知慧がある。
若い時分に不遇を感じることは多い。しかしながら案外とこうした時期にたくさんのアイディアが生まれるのも確かだ。「尺蠖(せっかく)の屈するは伸びんがため」である。常に何かを目指していれば人生の有限さは邪魔になる。死の意味は中断でしかない。登山の意義が登頂にしかないと考える人は途中の豊かな色彩を見過ごして、小さな花を踏みつけてしまうだろう。ただ無為を恐れて、日々何らかの心魂を傾ければ後悔とは無縁な人生を送ることができる。
――人生の転機は、明日にもある。
漫然と生きる姿勢を衝(つ)く痛切な一言である。そうした明日を望むのではなく、今日その準備ができているかどうかが問われる。