2016-03-11

東京大空襲


 この季節、きまって脳裏をよぎる五行歌がある。〈霊能者という人に/本当に霊が見えるなら/東京なんて/一歩も歩けないと/東京大空襲の生き残りの父〉(唐鎌史行、市井社『五行歌秀歌集2』)◆火炎と熱風をのがれて水辺に逃げた人の多くは酸欠死し、溺死し、凍死した。遺体からにじみ出た脂で隅田川が濁ったという。米軍機B29がおびただしい数の焼夷弾を東京上空から降らせたのは71年前のきょうである◆約10万人が…いや、命に切り捨てていい端数のあるはずがない。「東京大空襲を記録する会」の調査によれば、9万2778人が死亡した◆日本政府は戦後、無差別の大量虐殺であるこの東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイ将軍に、勲一等旭日大綬章を贈っている。東京五輪の年、1964年(昭和39年)のことである。「自衛隊育成の功労者」という名目だが、霊は泣いただろう。〈東京なんて/一歩も歩けない…〉のは道理である。復興を成し遂げて、世紀の祭典に酔ったのか。いまもって理解しがたい◆人はときに、心弾む階段をのぼりながら堕落していく。ほろ苦い歴史の教えである。

【編集手帳 2016年3月10日】

2016-03-09

ジム・アル=カリーリ、ジョンジョー・マクファデン、他


 1冊挫折、1冊読了。

「欲望」と資本主義 終りなき拡張の論理』佐伯啓思〈さえき・けいし〉(講談社現代新書、1993年)/二度目の挫折である。1993年刊だから、まだ保守の肩身が狭かった時代だ。言葉や表現に対する慎重さが読みにくさの原因となっている。

 27冊目『量子力学で生命の謎を解く 量子生物学への招待』ジム・アル=カリーリ、ジョンジョー・マクファデン:水谷淳〈みずたに・じゅん〉訳(SBクリエイティブ、2015年)/流麗な筆致に驚く。訳文も実に読みやすい。がしかし、それでも尚難解である。この手の本はとにかくスピーディーに読むのがコツである。あまり理解しようと努めない方がよい。原始スープからどのようにして生命が誕生したのかはまだわからない。最先端の知は「わからない」手前まで果敢にアプローチする。この不可能に対して何度も何度も挑戦する営みこそが生命誕生の縮図と思えてならなかった。知識が追いつかなくて理解できなくても、確実に昂奮し得る稀有な一書。フランク・ウィルチェック著『物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源』の後に読むのがいいだろう。

2016-03-06

目撃された人々 66

2016-03-05

ジム・ロジャーズ氏:「確率100%」で米国は1年以内にリセッション入り


 ロジャーズ・ホールディングスのジム・ロジャーズ会長は、米経済が1年以内にリセッション(景気後退)に陥ると確信している。

 同氏はブルームバーグテレビジョンのインタビューで、米経済が1年以内にリセッション入りする確率は100%だと言明した。

 ロジャーズ氏は「米国が前回リセッションを経験してから7ー8年が経つ。歴史的に見ても、理由はどうあれ4ー7年ごとにリセッションを経験してきた。少なくともこれまではずっとそうだった」とし、「必ずしも4-7年ごとというわけではないが、債務を見れば分かる。膨大な額だ」と続けた。

 米経済が1年以内にリセッション入りする確率については、大抵のウォール街のエコノミストは33%未満と予想しており、ロジャーズ氏よりずっと低い。

 ロジャーズ氏は無秩序なレバレッジ解消やリセッションを引き起こし得る要因について具体的には説明しなかったが、中国や日本、ユーロ圏で景気が沈滞・減速している状況は、米国に悪影響をもたらし得る経路が数多くあることを意味していると指摘した。

 その上で、投資家が正しいデータに注目すれば、米経済の回復が既に腰折れしつつある兆候が読み取れると説明した。

 ロジャーズ氏は「(米国の)給与税を見れば、既に横ばい状態なのが分かる」とし、「政府が発表する数字ではなく、現実の数字に注意を払うべきだ」と述べた。

 また将来に経済的混乱が生じるとの自身の予測に基づき、同氏はドルをロング(買い持ち)にしている。

 ロジャーズ氏はドルについて、「バブルの状態になる可能性さえある」と指摘。「世界的に市場が急落するというシナリオが現実になったとしよう。そうすれば誰もがドルに資金を振り向け、バブル状態になる可能性はある」と述べた。

 円については、通常はリスクオフの環境で買われる通貨とされているが、日本銀行のバランスシートが膨大かつ引き続き拡大していることから、逃避需要が発生した際に恩恵を受けなくなると分析。2月26日に自身の円のポジションを解消したと説明した。

 原題:Jim Rogers: There’s a 100% Probability of a U.S. Recession Within a Year(抜粋)

Bloomberg 2016-03-05

2016-03-04

ピアノを弾く特攻隊員/『月光の夏』毛利恒之


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
『今日われ生きてあり』神坂次郎

 ・ピアノを弾く特攻隊員

『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

 彼らは公子にむかって上体を折り敬礼した。
「自分たちは三田川(みたがわ)から来ました。目達原(めたばる)基地の特攻隊のものです」
 公子は息をのんだ。
「あす、発(た)ちます。時間がありません。お願いであります。ピアノを弾(ひ)かせてください。こいつは上野の音楽学校のピアノ科の学生だったんです」
 涼(すず)やかなまなざしの明るい活発な感じの隊員が、長身のやや神経質な面ながの隊員を紹介した。長身の隊員はうなずき目礼した。
「死ぬまえに一度、思いっきり、ピアノを弾かせてください」
 公子は、言いようのない衝撃を受けて、胸がつまった。(中略)
 ふたりの隊員たちは、特攻出撃を間近にひかえて、グランドピアノを探しまわったという。おおかたの学校にはオルガンしかなかった。めずらしく鳥栖の国民学校にグランドピアノがあると聞いて、彼らは三田川から十二、三キロの道のりを長崎本線の線路づたいに走るようにしてやってきたのだった。(中略)
 長身の隊員は椅子にかけると、両の手の細い指を鍵盤に走らせた。音がはずみ、舞い、おどる。これまでピアノにふれることもできず、抑えにおさえてきた気持ちが、音色とともに一気にほとばしり出ているように公子は感じた。
「先生、なにか楽譜はありませんか」
 隊員にいわれて、公子はピアノ曲集をさしだした。
「いまベートーヴェンの『月光』を練習しています。この楽譜しかないのですが」
「では、『月光』を弾きましょう。先生、あなたの耳に残しておいてください」
 隊員は楽譜を開いた。ピアノにむかい、姿勢をただすと、鍵盤に両の手の指をそえる。呼吸をととのえ、宙に視線を止めた。万感の思いをひめた瞳が光をおびた。
 沈んだ音色につつまれた幻想的なメロディーが、ゆるやかに流れでる。ピアノ・ソナタ第14番嬰(えい)ハ短調『月光』第1楽章(アダージョ・ソステヌート)……。
 闇の雲間からもれる月の光のように、ときにほの明るく、あるいは暗く、沈鬱に流れる調べは、熱情を潜めてリフレインし、やがて静かに高揚する。隊員はときおり祈るように瞑目し、ひたむきに弾きつづけた。
(ピアノが歌っている!)
 公子は胸をうたれた。すばらしい、こんな演奏は初めて聴く、と公子は思った。
 もうひとりの隊員が上手に楽譜をめくった。彼もまた、音楽に関係していたのだろう。
(たくさんのひとびとをまえに演奏会をなさりたかったろうに……)
 あすにも死地へ出撃しなければならない、このピアニスト志望の青年の胸中を思うと、公子は悲痛な思いに胸をしめつけられた。

【『月光の夏』毛利恒之〈もうり・つねゆき〉(汐文社、1993年/講談社文庫、1995年)】

 涙が噴き出たのは土田世紀の『同じ月を見ている』以来のこと。実話に基づく小説(ノンフィクション・ノベル)である。たぶん特攻隊員のプライバシーに配慮したのだろう。ある小学校で古いピアノが処分されることとなった。定年を控えた女性教師が「ピアノを譲り受けたい」と申し出た。古ぼけたピアノにはあるエピソードがあった。それは45年も前の話だった。感動的なエピソードが全校生徒の前で紹介され、報道を通して多くの人々が知ることとなった。

 特攻隊員がピアノを演奏している間に教頭が生徒たちを集めてきた。感動した生徒たちは「海ゆかば」を歌って送りたいと申し出た。もう一人の特攻隊員がピアノ演奏を買って出た。

 







 実は本書を通して「海ゆかば」を初めて知った次第である。よもやこれほどの名曲とは思わなかった。『万葉集』に収められている大伴家持〈おおともの・やかもち〉の和歌に、信時潔〈のぶとき・きよし〉が曲をつけたもの。

 本書のテーマは「矛盾」である。メディアと特攻隊の矛盾によってその功罪がくっきりと浮かび上がる。そこに日本社会の縮図を見出すことも可能だろう。特攻隊の恥部(ちぶ)に関する緘口令(かんこうれい)は敗戦から半生記を経ても尚生きていた。「誰がしゃべったんだ?」という元隊員たちの姿に戦慄さえ覚えた。同質性を重んじるこの国で弱い者いじめは、たぶん文化として息づいているのだろう。

 もう一度「海ゆかば」を聴いてもらいたい。




 この映像は「ピアノを弾いた特攻隊員」かもしれない。無限の思いと無言のメッセージを感じずにはいられない。

 エピソードを語った公子もメディア(ラジオ番組)に翻弄される。話したことを後悔するほどであった。しかしその気持ちを引っくり返したのもまたメディア(別のラジオ番組)であった。毛利自身も仮名となっているが、ジャーナリズムの魂を見る思いがした。

 映画化にあたっては、九州を中心とした市民・企業・団体により1億円の募金が集められた(Wikipedia)。

2016-03-03

新刊『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ:正田大観、吉田利子訳、大野純一監訳(コスモス・ライブラリー、2016年)

ブッダとクリシュナムルティ―人間は変われるか?

著名な仏教学者らとの白熱の対話録

「あなたはブッダと同じことを言っているのではありませんか?」という第一対話を皮切りに、第一部「五回の対話」ではスリランカのテーラワーダ仏教の学僧ワルポラ・ラーフラや理論物理学者デヴィッド・ボームらとクリシュナムルティとの間に、自我のない心の状態、自由意志、行動、愛、自己同一化、真理、死後の生について、洞察に満ちた対話が展開されている。第二部「なぜわたしたちは変われないのか?」には、人間の意識の根源的な変化・変容を促すための講話と質疑応答が収録されている。

2013年12月05日(木)のツイート

白金(しろかね)


 作家今東光は、谷崎潤一郎と話していて、うっかり「芝のしろがね町の……」と発言したために、「芝はしろかね。白金と書いてしろかねと言うんだ」「牛込のはしろがね。白銀と書いてしろがねと発音するんだ。明治になってから、田舎っぺが東京へ来るようになって、地名の発音が次第に滅茶苦茶になってきたな」と怒鳴りつけられたとのこと(『十二階崩壊』中央公論社、1978年。p.250)

Wikipedia

十二階崩壊 (1978年)

2016-03-01

福田恆存


 1冊挫折。

人間の生き方、ものの考え方 学生たちへの特別講義』福田恆存〈ふくだ・つねあり〉:福田逸〈ふくだ・はやる〉・国民文化研究会編(文藝春秋、2015年)/昭和37、41、50、55年に行われた学生向け講演4本を収録。『学生との対話』小林秀雄と併読するのがよい。小林に比べるとやはり地味な印象を受けるが、亀の歩みにも似た安定感がある。福田と小林は戦後保守の二代巨頭的存在だが、本書は保守の教科書ともいうべき内容で、温厚な精神を感じた。佐伯啓思〈さえき・けいし〉著『「欲望」と資本主義 終りなき拡張の論理』の回りくどさは、福田の言葉に対する考え方を踏襲しているのだろう。マルクス主義の旋風に殆どの知識人が靡(なび)く中で、日本を見失うことのなかった人物の一人が福田恆存であった。

探し求めてきた時間の答え


 若い時分から探し求めてきた「時間」の答えを見つけた。それは、『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年/新装版、2005年)の17ページから22ページのたった5ページの間に余すところなく記されていた。

生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈2〉

月並会第1回 「時間」その一
月並会第1回 「時間」その二
時間と空間に関する覚え書き
あらゆる蓄積は束縛である/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

J・クリシュナムルティ、井上豊夫、兵頭二十八、他


 3冊挫折、3冊読了。

神社は警告する 古代から伝わる津波のメッセージ』高世仁〈たかせ・ひとし〉、吉田和史〈よしだ・かずし〉、熊谷航〈くまがい・わたる〉(講談社、2012年)/ダメ本。テレビ番組の二次創作的内容。「ジン・ネット」(高世が経営するテレビ番組制作会社)を始めとする余計な情報が文章の邪魔をしている。3人がバラバラで書いているのも読みにくくてしようがなかった。取材という事実に引きずられて、情報の抽象化がきちんとできていない。

幕末最大の激戦 会津戦争のすべて』会津史談会編(新人物文庫、2013年)/これまたダメ本。会津礼賛・会津万歳本である。6人の著者は全員福島生まれ。150年を経ても新機軸を打ち出せないところに会津藩の真の敗因があるように思われる。お国自慢のレベルを脱していない。

日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず』加瀬英明、藤井厳喜〈ふじい・げんき〉、稲村公望〈いなむら・こうぼう〉、茂木弘道(もてき・ひろみち)(勉誠出版、2016年)/鼎談(166ページ)だけ読む。各論文に興味なし。加瀬の序文が酷い代物で、まるで選挙の遊説カーさながらである。「フーバーは」の連呼。老いの厳しい現実か。これまたダメ本の典型で、チャンネル桜を見ているような気分にさせられる。フーバー大統領回顧録(邦訳未刊)という都合のいい情報にしがみついただけの書籍。姿勢が左翼と一緒。確固たる視点がない。兵頭二十八が真珠湾奇襲を侵略戦争だと断じているが、これを否定し得るほどの説得力はどこにもない。

 24冊目『予言 日支宗教戦争 自衛という論理』兵頭二十八〈ひょうどう・にそはち〉(並木書房、2009年)/最終章だけ飛ばしたが読了本としておく。兵頭が古い本を読み漁っているせいだと思われるが、時折古めかしい言い回しが見受けられ、嫌な匂いを放つ。最終章はまるで2ちゃんねらーが書いたような代物。タイトルが内容に相応しくない。

 25冊目『果し得ていない約束 三島由紀夫が遺せしもの』井上豊夫〈いのうえ・とよお〉(コスモの本、2006年)/著者は楯の会で副班長をしていた人物。130ページ足らずの手記で、さほど期待していなかったのだが意外な発見が多かった。

 26冊目『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 1』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年/新装版、2005年)/再読。時間の流れが止まる。映像さながらの風景描写が冒頭にあり、個別のやり取りが紹介される。最初に読んだ時は創作かとも疑ったのだが、やはり事実に基づいているのだろう。クリシュナムルティの対機説法である。ブッダの場合、相手の機根(法を受け止めるレベル)に応じて説いたため真の悟りは披瀝していないとの通説がある。「人を見て法を説け」という俚諺(りげん)となって今日にまで伝わる。だがこれは嘘だ。本書を読めば立ちどころに理解できよう。わずか3~4ページでクリシュナムルティは深遠な教えを説いている。対話の妙はクリシュナムルティ・マジックとしか言いようがない。原題を直訳すれば「生の注釈書」。オルダス・ハクスリーに勧められ、クリシュナムルティが初めて書いた著作である。参照:「ただひとりあること~単独性と孤独性/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

2016-02-28

元米兵が語る沖縄戦 大東亜戦争

鉄ちゃんのうどん/『今日われ生きてあり』神坂次郎


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編

 ・特攻隊員たちの表情
 ・千田孝正伍長
 ・鉄ちゃんのうどん

『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

 知ってますか、焼夷弾(しょういだん)ちゅうのは空中で一ぺん炸裂(さくれつ)し、1発の焼夷弾は70発の焼夷筒に分裂して地上に叩(たた)きこまれてくるのです。それも、前の爆撃機がまず油を撒(ま)いて飛ぶ、そのうしろからB公(B29)の大編隊がぐるっと市街地を包み囲んでその外側から焼夷弾を落していく……無差別のみなごろし爆撃ですわ。
 それに、焼夷弾は叩けば消えるから必ず消せ、と軍や役所からきびしく教えこまれていました。みんな必死でその通りにした。気がついたときは、1000度を超える高熱の、逃げ場のない焔(ほのお)の壁にとり巻かれていたのです。こんな殺生(せっしょう)なはなしがおますか。まるで、B29と日本の軍・官が共謀して大阪市民をなぶり殺しにしたようなもンでしょう。

【『今日われ生きてあり』神坂次郎〈こうさか・じろう〉(新潮社、1985年/新潮文庫、1993年)以下同】

 日本人は焼き殺された。沖縄戦では洞窟という洞窟を火炎放射器が襲った。これらの武器はナパーム弾白リン弾へと進化する。「焼き殺す」のは、やはり魔女の火刑に由来するものであろう。つまり罪深き者として神の火で焼かれるのだ。

 原爆を落とされた広島・長崎、そして大空襲のあった東京を除くと、1万人以上殺されたのは大阪府15784人、愛知県13359人、兵庫県12427人となっている(日本本土空襲 > 都道府県別被害数)。

 この章は一人の人物の証言が続く。関西弁の「語り」という文化の底力が哀切をまとって口を突く。

 分隊長をしていたのは新子(あたらし)鉄男という名のうどん職人の倅(せがれ)だった。当時14歳。大阪一のうどん屋になるのが夢だった。

 鉄ちゃんのはなしになると、どうしても受け売りのうどん話になって恐縮ですが、もうすこし辛抱して聞いてやってください。すみません。……わたしもこうして鉄ちゃんからよう聞かされましてね。(中略)
「うどんづくりは水も粉ォも大事やけど、一番むつかしいのンは塩の加減や」
 上手な料理人のことを、塩を上手につかうひと“塩番”(じょうばん)ちゅうのやぜ、と鉄ちゃんは何処(どこ)で聞いてきたのか、大人びた口ぶりでよう言うてました。また、
「うどんを打つときは何も考えず、無心で打つこと。それがコツや」
 でないと、喰(た)べおわってから“ああ美味(うま)かった”というほんののうどんは出来へんのや。

 鉄ちゃんのうどんの師匠である老舗(しにせ)松葉家の主人夫婦が疎開することになった。主は「この松葉家の焼跡で鉄ちゃん、お前(ま)はんの打ったうどんを食べて、お別れの会を盛大になりまひょ。そやさかい、お友達はナンボでも呼んで来なはれ」と伝える。

 汗まみれになって松葉家の焼跡まで辿(たど)りつくと、煉瓦(れんが)は石ころで築いた即製のかまどが二つ、その上に釜(かま)がかけられ、傍には戸板の食台、その上に丼鉢(どんぶりばち)が置かれていました。鉄ちゃんが辰一(=主人)さん夫婦に挨拶(あいさつ)をしているあいだに、わたしたちは水を汲(く)み、薪(まき)を集め、早速、湯を沸かしにかかります。うどんはすでに昨晩、鉄ちゃんと辰一さんが打ちあげて、熟(ね)かせています。
 やがて、焼跡に湯気がたちのぼり、いつも空腹で目をまわしたような顔つきをしている少年たちにはこの世のものとは思えぬダシの匂(にお)いがただよいはじめます。
「まだ、あかんぜぇ」
 鉄ちゃんは道化(おどけ)たような顔つきでわたしたちを制して、ぐらぐら沸きたっている湯でうどんをゆがき、鉢にいれダシをいれ、その最初の一杯をまず、地べたに坐りこんでいる辰一さんに、そして奥さんの喜代子さんに、3杯目を大田原軍曹に渡します。
 辰一さんは両手で抱くようにしたうどん鉢を、ちょっと拝むようなしぐさで、鉄ちゃんの差しだした割箸(わりばし)を片手にとり、前歯でぴしっと割って、ダシを一口すすり、うどんを音をたててすすりこみました。しばらくして辰一さんは、鉄ちゃんのほうにうなずき微笑しました。
「うわぁ、よかった」
 いままで、息をつめるように辰一さんの表情を■(目+貴/みつ)めていた鉄ちゃんが、思わず大きな声をだしたので、わたしたちは大わらいしました。
 鉄ちゃんはそんな笑い声は気にせず、
「新子(あたらし)分隊は唯今より、うどん攻撃にうつる」
 いいながら鉄ちゃんは、にやりとします。
「攻撃は各個前進! そうれ行けぇ!」
 箸と丼鉢をもって、いまか今かと待ちかまえていたわたしらは、手に手に見よう見真似でうどんをゆがき、ダシをそそぎ、音をたててすすりこみます。油揚(あぶらげ)もネギもないまったくの素うどんでしたが、わたしは今でも、あれほど美味(うま)いうどんは此の世にないと思うております。

 それから7日後に鉄ちゃんは焼夷弾で火だるまとなり、全身に火傷(やけど)を負って死んだ。享年14歳。大田原軍曹は鉄ちゃんが義兄弟の契りを交わした人物だった。もう一つのドラマが数十年後に判明する。証言者が知ったのは取材を受ける前年であったという。飲み屋で偶然居合わせ、意気投合した相手がなんと大田原の後輩であったという。

 玉音放送に続いて鈴木貫太郎首相が「日本は無条件降伏した」と言うや否や、大田原軍曹は軍刀を抜き払い、「天皇の軍隊に降伏があるか!」とラジオを一刀両断した。そして再び「天皇の軍隊に降伏はない!」と叫んで抗命出撃をするのである。この章は中日新聞の記事で締め括られている。大田原は佐野飛行場の上空で自爆した。

 困難な時代の中で彼らは生き生きと輝き、そして死んだ。戦後、「あの戦争は間違いだった」とGHQが洗脳した。日本人が死者に対する敬意を失った時、国家としての独立の気構えを失った。昭和20年(1945年)8月15日以降、平和が日本を蝕み続けて今日に至る。

今日われ生きてあり (新潮文庫)

2016-02-26

千田孝正伍長/『今日われ生きてあり』神坂次郎


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編

 ・特攻隊員たちの表情
 ・千田孝正伍長
 ・鉄ちゃんのうどん

『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

〈すべての行動が自信に満ち、純で神をみる如(ごと)き若者たちでした。ですから、佐賀の村びとの隊員たちへの好意は、他の隊とは問題にならぬほど絶大なるものがありました。毎日、朝から何十人といふ老若男女がやってきました。リヤカーに酒や卵、アメ、煮染(にしめ)、おすし、などを乗せて。
「このたびはご苦労さまです……これを、どうぞ召しあがってください」
 と涙をこぼし、拝みながら言ひます。
 夜になると、村の人びとの中で芸自慢なのが歌や踊りで慰問をしてくれました。が、特攻ほがらか部隊の隊員たちのはちきれるばかりの元気な余興は、かへつて逆に村の人びとを慰問する程でありました。なかでも人気者の千田伍長の陽気な、
 ♪鉄砲玉とは おいらのことよ 待ちに待つてた 首途(かどで)だ さらば
  友よ笑つて今夜の飯を おいらの分まで 食つてくれ
 と歌ひながら剽軽(へうきん)な身ぶり手ぶりで踊る特攻唄(とくこううた)は、村の人びとを爆笑させ、そして、涙ぐませました。
 佐賀の村人たちの好意は、このやうに非常なものでしたが、二十歳前後の前途有為な隊員たちの将(まさ)に散らんとするを、これを見送るはなむけとしては、決して多すぎはしなかつたと思ひます。でも隊員の方々は恐縮して、申しわけないやうな顔をして居られました。もちろん、「もうすぐ、特攻隊で死ぬんだぞ」などといふ昂(たか)ぶつたところなど、まつたく見られませんでした。なごやかで、若者らしい元気よさがありました〉(宮本誠也の手紙)〈※庵点を♪に代えた〉

【『今日われ生きてあり』神坂次郎〈こうさか・じろう〉(新潮社、1985年/新潮文庫、1993年)以下同】

 千田孝正伍長は18歳であった。第72振武隊は自分たちで「特攻ほがらか部隊」と名づけるほど陽気な少年たちが集まった。今知ったのだが、あの「子犬を抱いた特攻隊」の写真が彼らである。出撃を2時間後に控えていた。子犬を抱く少年の右隣が千田である。


 前日、千田の密かな行動が女子青年団員に目撃されていた。

「日本を救うため、祖国のために、いま本気で戦っているのは大臣でも政治家でも将軍でも学者でもなか。体当たり精神を持ったひたむきな若者や一途(いちず)な少年たちだけだと、あのころ、私たち特攻係りの女子団員はみな心の中でそう思うておりました。ですから、拝むような気持ちで特攻を見送ったものです。特攻機のプロペラから吹きつける土ほこりは、私たちの頬(ほお)に流れる涙にこびりついて離れませんでした。38年たったいまも、その時の土ほこりのように心の裡(うち)にこびりついているのは、朗らかで歌の上手な19歳の少年航空兵出の人が、出撃の前の日の夕がた「お母さん、お母さん」と薄ぐらい竹林のなかで、日本刀を振りまわしていた姿です。――立派でした、あンひとたちは……」(松元ヒミ子の証言)〈※小さい「ン」の字を半角に代えた〉

 揺れる心を日本刀で断ち切ろうとしたのか。陽気な少年の心は凄絶な不安に苛(さいな)まれていた。19歳とあるのは「数え」のためだろう。

 特攻隊の資料は少ない。GHQの占領に当たって罪を恐れた人々が特攻隊に関する書類や手紙を焼却してしまったためだ。神坂は残された手紙と生存者の証言を絶妙に構成し、一人ひとりを立体的に描き出す。神坂自身もまた特攻の生き残りであった。

 宮本の手紙は長文である。彼は千田の先輩であった。隊員が散華(さんげ)すると周りの人間が遺族に手紙を書いた。切々たる思いが行間に溢(あふ)れる。

 神風特別攻撃隊の創始者・大西瀧治郎〈おおにし・たきじろう〉は特攻を「統率の外道」と断じた。死亡率が100%である以上、統率とも作戦とも呼べるものではなかった。道を外れれば転落する。だが国家は転落しても、特攻隊の死が汚れたものになるわけではない。その数6418名。

今日われ生きてあり (新潮文庫)

特攻(1)少年兵5人「出撃2時間前」の静かな笑顔…「チロ、大きくなれ」それぞれが生への執着を絶った

2016-02-25

特攻隊員たちの表情/『今日われ生きてあり』神坂次郎


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編

 ・特攻隊員たちの表情
 ・千田孝正伍長
 ・鉄ちゃんのうどん

『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

 とめさんは健在であった。81歳。でっぷりと肥(ふと)って、そのためか足の痛みがひどく歩行も不自由らしかった。それでもとめさんは、訪ねて行ったわたしたちのために、杖(つえ)をついて奥座敷まできてくれた。
「ゆう、おさいじゃしたなぁ」
 とめさんは、不作法を詫(わ)びながら畳の上に痛む足を投げだし、あのころの隊員たちの表情を、一つひとつなぞるように話してくれた。
「僕が死んだら、きっと蛍(ほたる)になって帰ってくるよ」
 そう言って出撃した宮川軍曹(ぐんそう)が、翌晩、1匹の“蛍”に化(な)って飛んできたというのは、この左手の庭の泉水のほとりであった。第七次総攻撃に進発した朝鮮出身の光山少尉(しょうい)が、出発の前夜、とめさんにねだられて低い声でアリランの歌を唄(うた)ったのは、次の間の柱のところであった。光山少尉はその柱にもたれ、軍帽をずりさげて顔をかくすようにして唄っていたという。
「僕の生命(いのち)の残りをあげるから、おばさんはその分、長生きしてください」
 そう言って、うまそうに親子丼(おやこどんぶり)を食べて出撃していった一人の少年飛行兵のことを語ると、とめさんは、あの子のおかげで私(あた)ゃこんなにも長生きしてしもうた、と涙をにじませた。

【『今日われ生きてあり』神坂次郎〈こうさか・じろう〉(新潮社、1985年/新潮文庫、1993年)】

 その純粋と待ち受ける悲惨の狭間(はざま)にあって彼らは臆することなく矛盾を生きた。以下のページに遺影と詳しいエピソードがある。

「特攻の真実と平和」板津忠正
ホタルになった特攻隊員(宮川三郎軍曹)

“特攻の母”鳥濱〈とりはま〉トメは89歳まで生きた(1992年没)。



 沖縄という犠牲があり、特攻隊という犠牲があって、本土は守られた。やがて敗戦の精神的空白にマルクス主義が浸透する。その勢いはいよいよ盛んになり、1960年代から70年代に渡る安保闘争で頂点に至る。当時、自衛隊は日陰者として扱われた。戦力放棄を謳った戦後憲法の下(もと)で自衛隊員は公務員と位置づけられた。決起を呼びかけた三島由紀夫に対して、自衛隊員が野次と怒号で応じた時、特攻の精神は死に絶えたのだろう。

今日われ生きてあり (新潮文庫)