2009-07-17

言葉の重み/『時宗』高橋克彦


 北条時頼と時宗、時輔(※時宗の異母兄)父子(おやこ)を描いた政治小説。飽くまでも歴史小説という形を用いた政治小説である。鎌倉時代を築いた武士とそれ以前に栄華を誇っていた公家との違い、天皇・将軍・執権というパワー・オブ・バランス、関東における武士の合従連衡などがよく理解できる。

 親子にわたる政(まつりごと)を縦糸に、そして国家という枠組が形成される様を横糸にしながら、物語は怒涛の勢いで蒙古襲来を描く。時頼と日蓮との関係を盛り込むことで、政治・宗教・戦争という大きなテーマが浮かび上がってくる仕掛けだ。お見事。

 私は以下の件(くだり)を読んで衝撃を受けた――

「そなたが関白でよかった」
 上皇は言って基平を見詰めた。
「近衛の一族はそなたを今に生み出すために代々我らの側にあったのじゃな」
 なにを言われたのか基平には分からなかった。それが最上級の褒めの言葉であると察したのは少し間を置いてのことである。
「ははっ」
 感極まって基平は泣きながら平伏した。抑えようにも涙は止まらない。五度に及ぶ混迷の合議、しかも半ば以上諦めていた裁定をたった一通の意見書が覆(くつがえ)したのだ。

【『時宗』高橋克彦(NHK出版、2000年/講談社文庫、2003年)以下同】

 北条家の意向を受けた近衛基平が「蒙古からの国書に返書を出すべきではない」と折衝する。これには、蒙古に対する北条父子の深慮遠謀があり、基平は命懸けで訴え抜いた。最後の最後でようやく基平の意見は採用される。そして、上皇が感謝の意を表明するシーンである。

 真の褒賞(ほうしょう)は「感謝の言葉」であった。何という言葉の重み。金品でも土地でもない。国家を守るために命を張り、それに報いる言葉があれば、人は幸福になれるのだ。日蓮は門下に宛てた手紙の中で「ただ心こそ大切なれ」(「四条金吾殿御返事」弘安2年/1279年)と記しているが、まさしく心を打つものは心に他ならない。

 まだ天下が統一される前の時代に、国の行く末を思い、犠牲を厭(いと)わぬ人々が存在した。歴史に記されることがなかったとしても、礎石になる人生を選んだ男達がいた。

 泰盛は時宗の肩に手を置いて言った。
「そなたがここにおるではないか。そなたであればどんな山とて乗り越えられる。国は皆のものと言い切る執権じゃぞ。そういうそなたの言なればこそ皆が命を捨てたのだ」
 時宗は泰盛を見詰めた。
「そなたが気付いておらぬだけ。新しき国の姿はそなたの中にある。皆はそれを信じて踏ん張った。そなたが今の心を持ち続けている限り、我らも失うことはない」

 安達泰盛の言葉もまた最高の褒賞となっている。真実を知る者からの称賛が、喝采なき舞台を力強く支える。地位でも名誉でもなく、人間と人間とが交わす讃歌こそ究極の幸福なのだ。

   

北条時頼
北条氏略系図
北条時宗
北条時宗(NHK大河ドラマ)
北条時輔
北条時宗が見た北鎌倉を歩く
元寇
蒙古襲来絵詞

2009-07-14

人間とは「ケアする動物」である/『死生観を問いなおす』広井良典


 ・キリスト教と仏教の「永遠」は異なる
 ・時間の複層性
 ・人間とは「ケアする動物」である
 ・死生観の構築
 ・存在するとは知覚されること

必読書リスト その五

 リクエストがあったので広井良典のテキストを紹介する。尚、以下の記事を先に読んでいただきたい――

ネアンデルタール人も介護をしていた/『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠

 本書は時間という概念から死生観を捉え直した一冊。豊富な話題で多様な角度から「永遠」を思索している。その上で4年前に著した『ケアを問いなおす 〈深層の時間〉と高齢化社会』(ちくま新書、1997年)ともリンクさせており、著者の気迫を感じさせる――

 いうまでもなく人間は社会的な生き物であり、他者との様々な関わりの中で自分の存在を確認していく存在である。ケアとは本来「気遣い、配慮、世話」といった意味をもつ言葉で、情緒的な面を含めた他者との関わりを広く含む概念であるが、このように考えていくと、人間とは「ケアする動物」である、という理解が可能になってくる。より詳しく言えば、こうしたケアの関係は、社会性が大きく発達した哺乳類に既に現れているものであるが――「哺乳」という言葉がよく示しているように、そこでは母親との関係が「ケア」の原型となっている――、そうしたケアの関係が個体の成長(情緒的な面のみならず学習あるいは認知的な側面を含む)にとって全面的に大きな役割をはたすようになっているのが人間という生き物においてである。
 いずれにしても、このように人間は「ケアへの欲求」をもっており、その中には「ケアされたい欲求」というものが含まれる。ケアされたい欲求というのは、いいかえると、自分という存在を確かに認めてもらいたい、あるいは自分という存在を肯定され受け容れてもらいたい、という欲求といってよいものであろう。そして人間の場合、そのように自分という存在がしっかりと「ケア」され肯定されているという基本的な感覚があってこそ、自分がいま生きている「この世界」自体がプラスの価値をもって立ち現れ、生への肯定感が強固なものとなる。

【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)】

 人間の“社会性”を“ケア”として捉える発想が極めて斬新だ。「親の死に目に会う」「最期を看取る」といった感覚もこう考えると腑に落ちる。

 大事なのは、「ケアへの欲求」が「したい、されたい」という双方向性を持っていることである。「相身互い」という古めかしい日本語を想起させる。

 実際に介護をするとよくわかるのだが、こちらが介護しているにもかかわらず、妙に癒(いや)されることがあるものだ。非常に不思議な感覚に捉われ、「あ、介護を必要とする人がいるから、自分は介護をすることができるのだな」とたちどころに悟る。それはあたかも、「説法するから偉いわけではなく、衆生がいるおかげで法を説くことができる」とする仏教本来の精神に近い。

 よく考えてみよう。最も人間らしいあり方――つまり動物とは異なる生き方――とは、努力をすることであり、苦痛に耐えることであろう。偉人という偉人はいずれも過酷な運命と対峙し、勇猛果敢に乗り越えている。そうであるならば、身体に障害を抱える方々や難病と闘う人々は英雄と言える。

 ある日の朝礼で、私の上司であり、主治医でもある義兄が、全職員を前にして言った。
「ここに入ってこられる方は、病気やけがと闘って、脳に損傷を受けながらも生き残った勝者です。勝者としての尊敬を受ける資格があるのです。みなさんも患者さんを、勝者として充分に敬ってください」

【『壊れた脳 生存する知』山田規畝子〈やまだ・きくこ〉(講談社、2004年)】

 その上、人間らしさが他者に尽くす利他の行為にあるとすれば、こうした営みを人々から「引き出して」いるのも障害者や病人と言えよう。

 もちろん、介護現場に様々な問題が山積していることは知っている。政府が要介護者を切り捨てようとしている現実も確かに存在する。しかしながらヒトが「ケアする動物」であれば、誰も見ていない介護という営みに「限りない豊かさ」があるはずだ。

 思想とは、行為を捉え直し、行為に意味を付与し、行為を昇華させるものである。思想なき人は、行為に引き摺られ、生き方が些末(さまつ)になってゆく。本書には、蒙(もう)を啓(ひら)く確かな思想性がある。

2009-07-11

ネアンデルタール人も介護をしていた/『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠


 ・ネアンデルタール人も介護をしていた

『病が語る日本史』酒井シヅ

 人類の進化をコンパクトにまとめた一冊。やや面白味に欠ける文章ではあるが、トピックが豊富で飽きさせない。

 例えば、こう――

 北イラクのシャニダール洞窟で発掘された化石はネアンデルタール人(※約20万〜3万年前)のイメージを大きく変えた。見つかった大人の化石は、生まれつき右腕が萎縮する病気にかかっていたことを示していた。研究者は、右腕が不自由なまま比較的高齢(35〜40歳)まで生きていられたのは、仲間に助けてもらっていたからだと考えた。そこには助け合い、介護の始まりが見て取れたのだ。「野蛮人」というレッテルを張り替えるには格好の素材だった。

【『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠(講談社現代新書、2005年)】

 飽くまでも可能性を示唆したものだが、十分得心がゆく。私の拙い記憶によれば、フランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』(早川書房、2005年)には、チンパンジーがダウン症の子供を受け入れる場面が描かれていた。

 広井良典は『死生観を問いなおす』(ちくま新書、2001年)の中で、「人間とは『ケアする動物』」であると定義し、ケアをしたい、またはケアされたい欲求が存在すると指摘している。

人間とは「ケアする動物」である/『死生観を問いなおす』広井良典

 つまり、ケアやホスピタリティというものが本能に備わっている可能性がある。

 ネアンデルタール人がどれほど言葉を使えたかはわからない。だが、彼等の介護という行為は、決して「言葉によって物語化」された自己満足的な幸福のために為されたものではあるまい。例えば、動物の世界でも以下のような行動が確認されている――

「他者の苦痛に対するラットの情動的反応」という興味ぶかい標題の論文が発表されていた。バーを押すと食べ物が出てくるが、同時に隣のラットに電気ショックを与える給餌器で実験すると、ラットはバーを押すのをやめるというのである。なぜラットは、電気ショックの苦痛に飛びあがる仲間を尻目に、食べ物を出しつづけなかったのか? サルを対象に同様の実験が行なわれたが(いま再現する気にはとてもなれない)、サルにはラット以上に強い抑制が働いた。自分の食べ物を得るためにハンドルを引いたら、ほかのサルが電気ショックを受けてしまった。その様子を目の当たりにして、ある者は5日間、別のサルは12日間食べ物を受けつけなかった。彼らは他者に苦しみを負わせるよりも、飢えることを選んだのである。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)】

「思いやり」などといった美しい物語ではなく、コミュニティ志向が自然に自己犠牲の行動へとつながっているのだろう。そう考えると、真の社会的評価は「感謝されること」なのだと気づく。これこそ、本当の社会貢献だ。

 人間がケアする動物であるとすれば、介護を業者に丸投げしてしまった現代社会は、「幸福になりにくい社会」であるといえる。家族や友人、はたまた地域住民による介護が実現できないのは、仕事があるせいだ。結局、小さなコミュニティの犠牲の上に、大きなコミュニティが成り立っている。これを引っ繰り返さない限り、社会の持続可能性は道を絶たれてしまうことだろう。

 既に介護は、外国人労働力を必要とする地点に落下し、「ホームレスになるか、介護の仕事をするか」といった選択レベルが囁かれるまでになった。きっと、心のどこかで「介護=汚い仕事」と決めつけているのだろう。我々が生きる社会はこれほどまでに貧しい。

 せめて、「飢えることを選んだ」ラットやサル並みの人生を私は歩みたい。


頑張らない介護/『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね

2009-07-09

束縛要因/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム


 ・服従の本質
 ・束縛要因
 ・一般人が破壊的なプロセスの手先になる
 ・内気な人々が圧制を永続させる
 ・アッシュの同調実験

『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス
『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ
『マインド・コントロール』岡田尊司
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー

権威を知るための書籍
必読書リスト その五

 社会心理学を確固たる学問の領域に高からしめた名著。人類が犯してきた虐殺の歴史や、オーウェルが『一九八四年』(あるいは『動物農場』)で描いた全体主義の構造を説き明かしたといっても過言ではない。(※『一九八四年』は高橋和久訳で今月復刊予定)

 美しい言葉で人権の重みを説かれるよりも、「人間はこのように反応するのだ」という現実が衝撃的だ。

 ミルグラム実験はアイヒマン実験とも言われる。新聞広告で「記憶に関する実験」の被験者を募集。被験者は教師役と生徒役に振り分けられる。そして、生徒が質問に間違えると電気ショックを与えるというもの。間違いが続くと、電流の強いショックが与えられる。電流は15ボルトから始まり、450ボルトに至る。

 実は生徒役がサクラだった。電流も実際は流れていない。システマティックな実験手法は、被験者が躊躇した際、あらかじめ決められたセリフで実験を促すことになっていた。生徒役が苦痛の叫び声を上げ、反応しなくなっているにもかかわらず、教師役の多くが指示に従ってしまう。ミルグラムはまず、道徳的判断の脆弱(ぜいじゃく)さを指摘する――

 この状況での適切な行動について道徳的判断を下せと言われたら、みんな非服従が正しいと言うだろう。だが実際に進行中の状況で作用するのは、価値判断だけではない。価値観は人に影響するあらゆる力の中で、非常に狭い幅しかない動因の一つでしかない。多くの人は行動の中で自分の価値を実現させられず、自分の行動に不服だったのに、実験を続けてしまった。

【『服従の心理』スタンレー・ミルグラム:山形浩生〈やまがた・ひろお〉訳(河出書房新社、2008年/河出文庫、2012年/同社岸田秀訳、1975年)以下同】

「自由な世界」とは「たった一人の世界」であろう。人間社会は人の数に応じて力学が働き、それぞれのコミュニティが形成する別々の世界がある。「郷に入っては郷に従え」。「実験室に入ったら管理者に従え」。

 個人の道徳観の力は、社会的な神話で思われているほど強いものではない。道徳律の中で「汝、殺すなかれ」といった能書きはずいぶん高い位置を占めるが、人間の心理構造の中では、それに匹敵するほど不動の地位を占めているわけではない。新聞の見出しがちょっと変わり、徴兵局から電話があって、肩モールつき制服の人物から命令されるだけで、人々は平然と人を殺せるようになる。心理学の実験で動員できる程度の力でさえ、かなりのところまで個人の道徳的抑制を取り除いてしまう。情報と社会的状況を計算ずくで再構成すれば、道徳的要因はかなり簡単に脇に押しやれるのだ。

「情報と社会的状況を計算ずくで再構成すれば」とは、評価基準を変えることである。たったそれだけの操作で、殺人を競い合わせることが可能になるのだ。では、あっさりと道徳を踏みつけて服従する背景には何があるのか。ミルグラムは「束縛要因」を指摘する――

 では、人が実験者に服従し続けるのは何が原因なのだろうか。まず、被験者をその状況に縛りつける「束縛要因」がある。被験者自身の礼儀正しさ、実験者を手伝うという当初の約束を守りたいという願望、途中で止めるのが気まずいといった要因だ。第二に、権威と手を切ろうとする決意を弱めるような、各種の調整が被験者の思考の中で起こる。こうした調整は、被験者が実験者との関係を保つ一方で、実験的な葛藤から生じる緊張を和らげる働きを持つ。これは抵抗できない第三者を害するような行動を権威に指示されたとき、服従的な人物の中で生じがちな考え方の典型となる。

 これは、マズローの欲求段階説と照らし合わせるとわかりやすい。我々は平和を享受しながら自己実現を望むが、こんなものは三角形の上の狭い部分に過ぎない。戦争ともなれば、食うことが先決であり、生きることとは相手を殺す意味になるのだ。状況は一変する。

 基本的欲求は三角形の下層になるほど生死に関わっていて深刻だ。つまり、服従心理の深層には、「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」「承認の欲求」が複雑に絡み合っていると考えられる。これを、「生きるための経済的合理性」と言い換えてもいいだろう。

 服従実験は、ヒトという動物が簡単にコントロールされることを証明してしまった。少なからず実験に抵抗した人物も存在した。だが、この人々に妙な理想を託すべきではないだろう。集団力学に抗しきれない人間心理の現実を受け入れるのが先決だ。


2009-07-05

キティ・ジェノヴィーズ事件〜傍観者効果/『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス


『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 ・服従心理のメカニズム
 ・キティ・ジェノヴィーズ事件〜傍観者効果
 ・人間は権威ある人物の命令に従う
 ・社会心理学における最初の実験

『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ
『マインド・コントロール』岡田尊司

権威を知るための書籍

 28歳の魅力的な女性キティ・ジェノヴィーズが1964年に刺殺された。この事件が注目されたのは、38人もの目撃者がいながら、誰一人警察に通報する者がいなかったためだ――

 もっと前の1964年には、ミルグラムとポール・ホランダーは、キティ・ジェノヴェーゼ(ママ)事件についての「解説記事」を『ザ・ネイション』に共同で執筆している。
 キティ・ジェノヴェーセ(ママ)は28歳の魅力的なバーの経営者で、1964年3月13日の夜、クイーンズのキュー・ガーデンにある自分のアパートへ帰る途中に殺された。犯人は彼女の後をつけ、30分以上もの間何度も刺したのである。その後、ジャーナリストが調べたところわかったのは、近所に住んでいた38人がその殺人事件を少なくとも一部分を目撃したか、あるいは「助けて」という叫びを聞いていたが、一人も助けに出てこなかった。これには国中が衝撃を受けた。そして、これは都市生活がもたらす疎外の象徴となったのである。また、この事件は、ニューヨークの二人の心理学者であるコロンビア大学のビブ・ラタネとニューヨーク大学のジョン・ダーレイが「傍観者の効果」についての一連の実験をはじめるきっかけとなった。こうしたことから、一般の人たちも社会心理学に対する興味を持ち始めたのである。
『ザ・ネイション』の記事は、キティ・ジェノヴェーゼが襲われて殺される間、住民たちが何もしないという状況を生んだのが、都市に住むことがもたらす行動上の帰結の一つであるということを指摘する概念的な分析であった。ミルグラムとホランダーが論じたのは、このような治安のよい地域では、暴力行為のようなものが発生するということは思いもかけないし、また、その地域には似合わないということだ。そこで、住民たちの多くは、若い女性が殺されるというような非常事態が発生していることを受け入れることさえもできなかったのである。かわりに人びとはこの出来事を、よりもっともらしく、心を悩ますことのないものであると考えようとした。たとえば、恋人同士のケンカや、酔っぱらいが騒いでいるだけであるというような解釈をしがちになるのである。こうした悲劇的な事件が起こると怒りのために一般大衆の見解は焦点がぼやけてしまうことが多いが、この記事は、合理的でなおかつ断罪的ではないほかでは見られないような考え方を示している。「この38人の目撃者に対して正義という概念から非難をするときには、目撃者たちは殺人を犯したのではなく、それを阻止するのを失敗したに過ぎないということを忘れてはならない。この間には道徳的な点での違いがある」。

【『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス:野島久男、藍澤美紀〈あいざわ・みき〉訳(誠信書房、2008年)】

傍観者 - ありふれた生活、いくつもの週末、日日是好日
Kitty Genovese キティ・ジェノヴェーゼ事件
キティ・ジェノヴィーズ事件
傍観者効果
(※尚、表記に関しては、キティ・ジェノベーゼ、キティ・ジェノヴィーゼなどがある)

 昨年、日本でも同様の事件があった(「バスで携帯を注意の男性に暴行、死なせた58歳を送検」)。尚、Wikipediaのリンク先にJ-CASTニュース「車内レイプしらんぷり 『沈黙』40人乗客の卑劣」という記事があるが、「男が泣いている女性を連れて行ったのだから、レイプを予測できたはずだ」という勝手な憶測に基づいており、読み手のマイナス感情を煽るだけの稚拙な内容となっている。

 ミルグラムの服従実験が1963年に行われている。そして、翌年に起こったこの事件で、それまで軽んじられていた社会心理学がクローズアップされることとなった。つまり、都市化が進むに連れて孤独な人間が増えたという背景があった。

 アッシュの同調実験や、それを発展させたミルグラムの服従実験は、社会という関係性から同調や服従の心理メカニズムを読み解いている。だが、キティ・ジェノヴェーゼ事件における「傍観」は、テレビの影響もあったのではないかと私は考える。テレビという媒体はスイッチを入れた途端、我々に傍観を強いる装置である。決して参加することはできない。それどころか、テレビ局のスタジオにいるギャラリー――あるいはサクラ、またはアルバイト――を第一傍観者とするならば、テレビ視聴者は二重の意味で傍観していることになるのだ。傍観地獄。手も足も出ない。

 日米間の衛生中継が開始されたのが1963年11月22日(日本時間は23日)だった。この時、流れてきたのが何とケネディ大統領暗殺というニュースだった。

初の太平洋横断テレビ中継でケネディ暗殺放映
衝撃のケネディ暗殺(日米衛星中継)プロジェクトX

 実は、私が生まれた年の父の誕生日でもあった。

 当然、アメリカ国内においてテレビは普及していたと見ていいだろう。それまでは、映画やスポーツ観戦など、直接足を運んで見物していた(=傍観者)わけだが、テレビによって傍観は日常的な行為へと昇格した。これ以降、確実に「傍観する癖」がついたはずだ。

 マスコミュニケーションやマスメディアの「マス」とは、「多数、大量」「一般大衆」との意味である。テレビの前で呆(ほう)ける私は自動的に「大衆の一部」となり、細分化・断片化される。この自覚が傍観を強化しているのではないか。ブラウン管の向こう側にいるみのもんたと私との間には、彼岸と此岸ほどの乖離(かいり)がある。

 その意味から言えば、ミルグラムの「阻止するのを失敗した」という指摘は十分冷静なものであるが、私の考えだと「コミット(関与)できる立場を自覚できなかった」ということになる。

 キティ・ジェノヴィーズは、あと10分早く病院に運ばれていれば命が助かったという。しかし、刺されてから既に1時間も経過していた。