光と闇がせめぎ合い、世界を赤と青に染め上げる。立ち込める霧が沈黙を支配する。手前の木の緑色が辛うじて生の痕跡をとどめている。そして山並みの背後から光の合唱が沸き起こるのだ。
2011-09-20
コミュニケーションの可能性/『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子
・『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史
・『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子
・コミュニケーションの可能性
・必読書リスト その二
ALS(筋萎縮性側索硬化症)は神経細胞が徐々に死んでゆく病気(神経変性疾患)で、筋力低下により身体が動かなくなる。進行が早く3年から5年で死に至る。今現在、有効な治療法はない。素人の目には筋肉が死んでいくような症状に見え、筋ジストロフィーと酷似している。
生老病死(しょうろうびょうし)が倍速で進むのだから、本人にとっても家族にとっても過酷な病気である。
母の身体だけではなく、私の人生の歯車も狂いだしているとぼんやりと感じられもした。実際、その日(※母から国際電話があった日)を境に私の関心は、子どもたちから日本の母へと移らないわけにはいかなくなった。
【『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子〈かわぐち・ゆみこ〉(医学書院、2009年)以下同】
川口一家は夫の赴任先であるイギリスで暮らしていた。母親が難病となった以上、帰国しなければならない。自分の負担もさることながら、家族にも新たな負担をかけることになる。子供たちはまだ幼かった。
ロックトイン・シンドロームという名称は医学用語ではなく、状態を示す言葉である。なかでも、まったく意思伝達ができなくなる「完全な閉じ込め状態」はTLSという別名を与えられていた。
TLSとは「トータリィ・ロックトイン・ステイト(Totally Locked-in State=TLS)」のこと。私は本書で初めて知った。精神活動が閉じ込められることを意味するのだろう。
ALSの場合だと最後の砦は瞬(まばた)きや目の動きである。それが失われると次に訪れるのは呼吸停止である。人工呼吸器を装着したとしても最終的に心臓が止まる。意外と見落としがちだが、心臓も筋肉で動いているのだ。
病いの物語に多数の伏線が生じるのは病人のせいばかりではないし、母ではなく私の物語りも始まってしまうのは仕方がないことなのだ。病人たちの傍らにいるうちに、私の物の見方が変化したために夫が離れていったのである。夫の専業主婦だった私が「変わった」のは間違いではないが、夫も妻の体験にはいっさい興味をもたなかった。
介護における夫婦の擦れ違いは決して珍しいことではない。熱意があるほど心理的なギャップが生じる。まず現実の問題として時間が奪われる。当然、介護のために別の何かが犠牲となる。その犠牲に対して齟齬(そご)が生じるのだ。例えば子供にとっては弁当を作ることや、参観日に来ることなどが切実な問題と化すケースがある。川口夫妻は後に離婚する。
強気で生きてきた母親が少しずつ弱音を吐くようになる。
こうして思い返してみると、母は口では死にたいと言い、ALSを患った心身のつらさはわかってほしかったのだが、死んでいくことには同意してほしくはなかったのである。
病気自体がそもそも矛盾をはらんでいる。因果関係に思いを馳せ、「どうして私が」「なぜ今なのか」となりがちだ。難病や重病になるほど本人が放つメッセージも混乱することが多い。矛盾した言葉から本人の気持ちをすくい取ることは想像以上に難しい。
筋力が低下する様相を母親はこう語る。
「地底に沈み込むような感じ」
「体が湿った綿みたい」
「重力がつらい」
「首ががくんとする」
知覚から恐怖が忍び寄る。沈みゆく船の中でじっと浸水を見つめているような心境であろう。そして言葉を失った後の領域を我々は知ることができないのだ。24時間続く金縛り状態、これが「閉じ込め症候群」だ。
神経内科医のもっとも重要な仕事のひとつに、家族をいかにその気にさせられるか、ということがある。「できる」と思わせるか、それとも「できない」と思わせるかは、その医師の心掛けしだいなのだが。
「人工呼吸器といってもメガネのようなものです」との言葉で装着を決意する。やはり命に関わる仕事には、物語を紡ぐ力が求められる。メガネという軽い言葉の裏側に生命を重んじる態度が窺える。しかしながら、これは結構勇気のある発言で、あとあと「メガネと違いますよね?」とケチをつけられるリスクを含んでいるのだ。それ相当の責任感がなければ言えるものではない。
それは予想をはるかに超えた重労働であった。介護疲れとは、スポーツの疲労のように解消されることなどない。この身に澱(おり)のように溜まるのである。
看護師を雇えば、1ヶ月400万円を超す作業を川口は妹と二人で行っていた。介護や看病は労多くして報われることが少ない。実際、「子供なんだから親の面倒をみるのは当然」と考えている親も多く、認知症が絡んでくると虐待に至ることも珍しくない。閉ざされた空間に自分を見失う機会はいくらでも転がっている。介護をしている人たちにも何らかのケアが必要なのだ。
もっとも重要な変化は、私が病人に期待しなくなったことだ。治ればよいがこのまま治らなくても長く居てくれればよいと思えるようになり、そのころから病身の母に私こそが「見守られている」という感覚が生まれ、それは日に日に重要な意味をもちだしていた。
諦(あきら)めには2種類ある。達観と無気力だ。後者は関係性を断絶する。我々の価値観は生産性に支配されている。教育も政治も効果が問われる。実際問題として治る見込みのない病人は病院を追い出され、よくなる見通しの立たない障害者のリハビリ治療は打ち切られる。私はこれを「悪しきプラグマティズム」と名づける。
効用を重んじるあまり、我々はコミュニケーション不能となり、生の重みを見失ったのだ。
川口の達観は一種の悟りといってよい。わけのわからない哲学よりも遥かな高みに辿り着いている。
たとえ植物状態といわれるところまで病状が進んでいても、汗や表情で患者は心情を語ってくる。
汗だけでなく、顔色も語っている。
私は頬を打たれたような衝撃を受けた。川口が示しているのはコミュニケーションの可能性であったのだ。「コミュニケイト」は「つながっている」ことを意味する。その状態とは理解-共感である。これは理解から共感に至るのではなくして同時であらねばならない。すなわち理解即共感であり共感即理解なのだ。
コミュニケーションは情報交換から始まる。通常であれば言葉や声のイントネーション、目つき、仕草、顔色、態度、その他諸々をひっくるめた情報を受け取る。ところが川口は「汗」でわかるというのだから凄い。
やはり、「見る人が見ればわかる」のだ。私の目はまだまだ節穴であることを痛感した。
そう考えると「閉じ込める」という言葉も患者の実態をうまく表現できていない。むしろ草木の精霊のごとく魂は軽やかに放たれて、私たちと共に存在することだけにその本能が集中しているというふうに考えることだってできるのだ。すると、美しい一輪のカサブランカになった母のイメージが私の脳裏に像を結ぶようになり、母の命は身体に留まりながらも、すでにあらゆる煩悩から自由になっていると信じられたのである。
母は病身を通して娘をここまで育てたのだろう。コミュニケーションとはかくも荘厳なのだ。そして理解-共感という悟性がこれほど人生を豊かにするのだ。
実は証拠がある。
・「閉じ込め症候群」患者の72%、「幸せ」と回答 自殺ほう助積極論に「待った」
健常者からすれば「不自由な身体」に見えるが、実際は精神が身体に束縛されているのかもしれないのだ。自由と不自由は紙一重である。川口は介護という不自由の中から自由な境地を開いた。何と偉大なドラマだろう。12年間に及んだ修行といってよい。
逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズ ケアをひらく)
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川口 有美子
医学書院
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・「沈黙の身体が語る存在の重み 介護で見いだした逆転の生命観」柳田邦男
・植物状態の男性とのコミュニケーションに成功、脳の動きで「イエス」「ノー」伝達
・パソコンが壊れた、死んだ、殺した
・ストレスとコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
・いちばん大切なことは、コミュニケーションがとれるということ/『紙屋克子 看護の心そして技術/別冊 課外授業 ようこそ先輩』
・対話とはイマジネーションの共有/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
・コミュニケーションの第一原理/『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー
・死線を越えたコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
・孤独感は免疫系統の力を弱める/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
・チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
・コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ
・言葉によらないコミュニケーションの存在/『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ
・現代人は木を見つめることができない/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
・介護
2011-09-19
苦渋に満ちた少年の顔
その瞳に明日は映らない。No Future。もはや泣くに泣けないのだろう。何度も何度も裏切られ、騙(だま)され、殴られてきたに違いない。あらゆる悲惨を知り尽くした老人のような風貌だ。君が生きる過酷な人生に私は寄り添うことすらできない。だから「許してくれ」という言葉は慎もう。ただ、君を心に抱いて今日から生きてゆこう。
双子のパラドックス
ニュートンの運動法則は空間内の絶対的位置という概念にとどめをさしてしまった。一方、相対論は絶対時間を排除してしまった。そこで何が起こるか、双児を例にとって考えてみよう。双児の一方が山の上に移り住んでおり、もう一方は海辺にとどまっているとすれば、前者は後者よりも速く齢をとるだろう。したがって二人が再会することがあれば、そのときには一方が他方よりも老いていることになる。この例では年齢の違いはごくわずかだが、双児の一方が光速にほぼ等しい速さの宇宙船に乗って長い旅に出るとすれば、違いはずっと大きくなる。旅から帰ってきたとき、彼は地球に残っていた兄弟にくらべてずっと若いだろう。この現象は双児のパラドックスと呼ばれているが、これをパラドックスと感じるのは実は、心の底に絶対時間の概念が巣食っているからなのである。相対性理論では唯一の絶対時間なるものは存在しない。そのかわりに、個人はめいめいが独自の時間尺度をもっているが、これはその人がどこにいるか、どのような運動をしているかによって決まるのである。
【『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング:林一〈はやし・はじめ〉訳(早川書房、1989年/ハヤカワ文庫、1995年)】
・Wikipedia
・双子のパラドックスについて
2011-09-18
シンボルは真実ではない/『いかにして神と出会うか』J・クリシュナムルティ
・シンボルは真実ではない
・真実在
・ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)著作リスト 2
書籍タイトルはクリシュナムルティ・トラップである。ブッダの動執生疑(どうしゅうしょうぎ/執着している心を揺り動かし、疑問を生じさせる化導〈けどう〉方法)と同じ仕掛けだ。
私自身は神の存在をこれっぽっちも信じていないし、いたとしても会いたくはないね。だって、こんな無責任な世界をつくった張本人だよ。植木等にも劣る野郎であることは間違いない。
しかし西洋を中心とする世界は神を中心に動いている。どんなに神と無縁な生活をしていても、西洋的価値観は我が身に降りかかってくる。それが汚染だとしても、現実理解のためにキリスト教を学ぶことは欠かせないのだ。
そして本書は洋の東西を問わず、宗教に関わっている者であれば必読のテキストで何らかの応答を求められる。
永遠不滅なるものを見出すためには、伝統や過去の経験や知識の集積である時間から、自由でなければならない。それは、何を信じるか信じないかといった、未熟でまったく子供じみた質問ではない。そんなことは、本質的な問題とはまったく関係ない。本当に発見したいと願っている真剣な心は、孤立した自己中心的な活動をすっかり放棄し、完全に独りである状態になるだろう。美しさ、永遠なるものの理解が実現されるのは、この、完全な独りである状態においてのみである。
言葉はシンボルであり、シンボルは真実ではないので、危険なものである。言葉は意味、概念を運ぶが、しかし言葉はそれが指し示すものではない。したがって、わたしが永遠なるものに関して語るとき、もしわたしの言葉に影響されたり、その信仰に囚われたりするだけならば、それはとても子供じみていると理解しなければならない。
永遠なるものが存在するかどうかを発見するためには、時間とは何かを理解する必要がある。時間とは最も厄介な代物だ。年表的時間、時間ではかれる時間のことを言っているのではない。どちらも目に見え、必要なものである。ここで話しているのは、心理的継続としての時間である。この継続性なくして生活できるだろうか? 継続性を与えるものは、まさしく思考である。もし何かを絶えず考えるとすれば、それはひとつの継続性をもつ。もし妻の写真を毎日眺めるとすれば、それにある継続性を与えることになる。
この世で、行動に継続性を与えることなく生き、結果として、すべての行動にあらためて初めて出会うといったことが可能だろうか? すなわち、一日中のすべての行動のたびに精神的に死に、その結果、心は過去をけっして蓄積することも、過去から汚染されることもなく、つねに新しく、新鮮、無垢であることができるだろうか? そのようなことは可能であり、人はそのように生きることができる。しかし、それがあなたにとっても本当だという意味ではない。あなたは、自分自身で発見しなければならない。
【『いかにして神と出会うか』J・クリシュナムルティ:中川正生〈なかがわ・まさお〉訳(めるくまーる、2007年)以下同】
最初のパラグラフがわかりにくいことだろう。以下の記事を参照されよ。
・ただひとりあること~単独性と孤独性/『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
「言葉はシンボルであり、シンボルは真実ではない」――まず、ここが難所である。普通に読めば理解できるはずだ。ところが宗教者は教義(=言葉)に支配されているため納得することができない。
まず大前提として言葉は同じ世界にいる人にしか通用しない。方言や外国語など。
もっとわかりやすいのは赤ん坊だろう。彼らに言葉は通じない。耳の不自由な人に声は届かない。別の形の――読唇術および手話――情報が必要となる。
言葉が示すのはイメージ情報である。「私」という言葉には、69億6420万7416人分(17:05現在)のイメージ情報がある。つまり私がいうところの「私」と、あなたが思うところの「私」は別物なのだ。
とすると人の数だけ神仏が存在していると考えてよかろう。無数のイメージが神仏という言葉に収まる。
次にシンボル。シンボルといえば偶像崇拝である。宗教的な偶像は仏像を始め、十字架、イコン、聖骸布(せいがいふ)、遺骨、マンダラなどがある。イワシの頭も含む。
シンボルは当のものではない。象徴、表象は氷山の一角と考えるべきだろう。ハーケンクロイツはナチス党のシンボルであるがナチス党そのものではない。
悟りの内容を言葉にしたものが経典で、図像化したものがマンダラであるが、それらは悟りそのものではない。しかし宗教者は自ら勇んで言葉の奴隷となる。
宗教は言葉のレベルに転落した。それが証拠に宗教という宗教は皆、教義の古さ、緻密さを競い合っているではないか。たぶん宗教は考古学となったのだろう。
「神」と綴った紙を壁に貼ってみよ。拝む人々が増えれば、そこに神が存在する。これは明らかな幻覚、錯覚である。ま、「始めに言葉ありき」という論法でゆけば、神という言葉をつくった時点で神の勝利なのかもしれない。
時間については以下の各ページを参照されよ。
・時間
すでに話したように、言葉、シンボルは、実在ではない。「木」という言葉は、実際の木ではない。したがって人は、言葉に捕らえられないように十分用心しなければならない。言葉、シンボルから自由なとき、心は驚くほど敏感になり、ものを発見する状態になる。
とすれば、真の宗教を求める者は一度教義から離れることが必要だ。言葉に対するイメージを一掃しなくてはならないからだ。イメージは想起できるゆえに過去なのだ。まったく新しいものはイメージすることができない。そして完全に過去を死なせた時、そこに「新しい生」が流れ始める。
衝撃的な一書である。
・教条主義こそロジックの本質/『イエス』R・ブルトマン
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