2014-02-07

殺人を研究する/『戦争における「人殺し」の心理学』デーヴ・グロスマン


 貴公子や高僧はかつらをつけた御者に戦車を操らせ、
 昂然と桂冠を戴いて時代の栄華を味わう。
 その足元で、見下され、見捨てられ、槍に取り囲まれた男たち。

 傷だらけの軍にあって死ぬまで戦う者たち、
 戦場の埃と轟音と絶叫に茫然と立ちすくむ者たち、
 頭を割られ、目に流れ込む血をぬぐうこともできぬ者たち。

 胸に勲章を飾った将軍たちは王に愛でられ、
 威勢のよい馬にまたがり、高らかにらっぱを鳴らして行進する。
 その陰で、泥にまみれて城を攻め、無名のまま死んでゆく若者たち。

 だれもが美酒と富と歓楽を謳い、
 堂々たる美丈夫の君主を讃えようとも
 私は土と泥を謳い、埃と砂を謳おう。

 だれもが音楽と豪華と栄光を愛でようとも、
 私は一握の灰を、口いっぱいの泥を謳おう。
 雨と寒さに手足を失い、倒れ、盲いた者どもを讃えよう。

 神よ、そんな者どものことをこそ
 謳わせたまえ、語らせたまえ――アーメン

ジョン・メースフィールド「神に捧ぐ」

【『戦争における「人殺し」の心理学』デーヴ・グロスマン:安原和見訳(ちくま学芸文庫、2004年/原書房、1998年『「人殺し」の心理学』改題)以下同】

 巻頭で「献辞」として紹介されている詩である(一般的な表記はジョン・メイスフィールド)。

 いつの時代も戦争を決めるのは老人で、若者が戦地へ送り出される。手足が凍傷するのは内蔵を守るためだ。我々は国家という人体の手足に過ぎない。あるいは伸びた分の爪かも。

 30cmに満たない足の裏が人体を支える。最も高い位置にあるのは頭だ。「頭(ず)が高い」とはよくいったもので、他人の頭を下げさせるところに権力有する根源的な力がある。

 戦争とは国家が人殺しを命令することだ。他者の命を奪うことが最大の罪であるならば、それ以下の罪――強姦・傷害・窃盗など――は容易に行われることだろう。しかも現代科学は瞬時の大量殺戮を可能にした。

 ハードカバーの書影は射殺された兵士の写真。頽(くずお)れて不自然な格好で息絶え、モノクロ写真であるにもかかわらず粘着性のある血糊(ちのり)が生々しい。

「人殺し」の心理学

 なぜ、殺人について研究しなければならないのか。セックスについて研究すると言えば、やはり同じように、なぜセックスを? と問われるだろう。この二つの問いには共通する部分が多い。リチャード・ヘクラーらはこう指摘している――「神話では、アレス(戦争の神)とアプロディテ(美と愛の女性)の結婚からハルモニア(調和の神)が生まれた」。つまり平和は、性と戦争とをふたつながら超克してはじめて実現するものだ。そして戦争を超克するためには、少なくともキンゼー(米国の動物学者。人間の性行動の研究で有名)やマスターズ(米国の婦人科医。男女の性行動の研究で有名)やジョンソン(米国の心理学者。人間の性行動について研究)のような真摯な研究が必要である。どんな社会にも盲点がある。直視することが非常にむずかしい側面、と言い換えてもよい。今日の盲点は殺人であり、1世紀前には性だった。

 キンゼーはアルフレッド・キンゼイで、他の二人はマスターズ&ジョンソンのウィリアム・マスターズとヴァージニア・ジョンソンだろう。名前表記の不親切さが気になる。著者名もデイヴとすべきではなかったか。

 もうひとつ見逃せない記述がある。

 かつてロバート・ハインラインはこう書いた――生きる喜びは「よい女を愛し、悪い男を殺すこと」にあると。

 性も暴力も接触行為である。ただ力の加減が異なる。人間の愛情と憎悪が同じ接触に向かう不思議。ハインラインの言葉は男の本性を巧みに言い当てている。

 本書によれば普通の人間は殺人行為をためらう傾向があり、戦場で殺人を忌避する行動が数多く見られるという。そりゃ当然だ。同類なのだから。しかし物語のルールを変更すれば人間はいくらでも殺人が可能となる。魔女狩り、インディアン虐殺、黒人リンチ、ルワンダ大虐殺……。

 ゆえに米軍では敵国人をゴキブリ呼ばわりし、徹底的に憎悪することを訓練してきた。

 個人的にはシステマティックに戦争を考えるよりは、フランス・ドゥ・ヴァールのようにヒトの本能から捉えた方が人間の本質に迫れると思う。

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

資本主義経済崩壊の警鐘/『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン


『9.11 アメリカに報復する資格はない!』ノーム・チョムスキー
『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス

 ・資本主義経済崩壊の警鐘
 ・人間と経済の漂白
 ・マンデラを釈放しアパルトヘイトを廃止したデクラークの正体

『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
『アメリカ民主党の崩壊2001-2020』渡辺惣樹

必読書リスト その二

 禁を破り、まだ読み終えていない作品を紹介しよう。第二次大戦後、アメリカが世界で何を行ってきたのかが理解できる。情報の圧縮度が高いにもかかわらず読みやすいという稀有な書籍。2冊で5000円は安い買い物だ。

 少なからぬ人々が中野剛志〈なかの・たけし〉の紹介で本書を知り、翻訳を心待ちにしていたことだろう。


【5分7秒から】

 ナオミ・クラインについては『ブランドなんか、いらない』を挫折していたので不安を覚えた。それは杞憂(きゆう)に過ぎなかった。

 書評の禁句を使わせてもらおう。「とにかく凄い」。序章と第一部「ふたりのショック博士」だけで普通の本1冊分以上の価値がある。CIAMKウルトラ計画で知られるドナルド・ユーイン・キャメロン(スコットランド生まれのアメリカ人でカナダ・マギル大学付属アラン研究所所長。後に世界精神医学会の初代議長〈※本書ではユーイン・キャメロンと表記されている。なぜドナルド・キャメロンでないのかは不明〉)と、マネタリズムの父にしてシカゴ学派の教祖ミルトン・フリードマンがどれほど似通っているかを検証し、同じ種類の権威であることを証明している。

ジェシー・ベンチュラの陰謀論~MKウルトラ

 枕としては巧妙すぎて私は首を傾(かし)げた。だが南米の国々を破壊してきたアメリカの謀略を読んで得心がいった。

 壊滅的な出来事が発生した直後、災害処理をまたとない市場チャンスと捉え、公共領域にいっせいに群がるこのような襲撃的行為を、私は「惨事便乗型資本主義」(ディザスター・キャピタリズム)と呼ぶことにした。

【『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン:幾島幸子〈いくしま・さちこ〉、村上由見子訳(岩波書店、2011年)以下同】

 フリードマンはその熱心な追随者たちとともに、過去30年以上にわたってこうした戦略を練り上げてきた。つまり、深刻な危機が到来するのを待ち受けては、市民がまだそのショック状態にたじろいでいる間に公共の管轄事業をこまぎれに分割して民間に売り渡し、「改革」を一気に定着させてしまおうという戦略だ。
 フリードマンはきわめて大きな影響力を及ぼした論文のひとつで、今日の資本主義の主流となったいかがわしい手法について、明確に述べている。私はそれを「ショック・ドクトリン」、すなわち衝撃的出来事を巧妙に利用する政策だと理解するに至った。

 ショック・ドクトリンというレンズを通すと、過去35年間の世界の動きもまるで違って見えてくる。この間に世界各地で起きた数々の忌まわしい人権侵害は、とかく非民主的政権による残虐行為だと片づけられてきたが、じつのところその裏には、自由市場の過激な「改革」を導入する環境を考えるために一般大衆を恐怖に陥れようとする巧妙な意図が隠されていた。1970年代、アルゼンチンの軍事政権下では3万人が「行方不明」となったが、そのほとんどが国内のシカゴ学派の経済強行策に版愛する主要勢力の左翼活動家だった。

 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の目的も「アメリカのための市場開放」であることは間違いない。しかもフリードマン一派が常に待望している惨事(東日本大震災)がこれ以上はないというタイミングで発生した。あとは枠組みを作って根こそぎ奪うだけのことだ。

 利権が民主主義を脅かしている。政治は経済に侵略され、思想よりも損得で動くようになってしまった。既に巨大な多国籍企業は国家を超える力をもつ。富は均衡を失い富裕層へと流れ、先進国では貧困化が拡大している。このまま進めば庶民は確実に殺される。

 本書のどのページを開いても資本主義経済崩壊の警鐘が鳴り響いてくる。

 私も以前からミルトン・フリードマンに嫌悪感を覚えていたが、そんな彼でさえクリシュナムルティを称賛していたことを付記しておく。(ミルトン・フリードマンによるクリシュナムルティの記事




資本主義の問題に真っ向から挑むマイケル・ムーアの新作 『キャピタリズム~マネーは踊る』(前編)
資本主義の問題に真っ向から挑むマイケル・ムーアの新作 『キャピタリズム~マネーは踊る』(後編)

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『禁じられた歌 ビクトル・ハラはなぜ死んだか』八木啓代
環境帝国主義の本家アメリカは国内法で外国を制裁する/『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人
モンサント社が開発するターミネーター技術/『自殺する種子 アグロバイオ企業が食を支配する』安田節子
『ザ・コーポレーション(The Corporation)日本語字幕版』
帝国主義大国を目指すロシア/『暴走する国家 恐慌化する世界 迫り来る新統制経済体制(ネオ・コーポラティズム)の罠』副島隆彦、佐藤優
パレートの法則/『新版 人生を変える80対20の法則』リチャード・コッチ
アメリカ礼賛のプロパガンダ本/『犬の力』ドン・ウィンズロウ
官僚機構による社会資本の寡占/『独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』響堂雪乃
グローバリズムの目的は脱領土的な覇権の確立/『超マクロ展望 世界経済の真実』水野和夫、萱野稔人
シオニズムと民族主義/『なるほどそうだったのか!! パレスチナとイスラエル』高橋和夫
汚職追求の闘士/『それでも私は腐敗と闘う』イングリッド・ベタンクール
ネイサン・ロスチャイルドの逆売りとワーテルローの戦い/『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 影の支配者たちがアジアを狙う』宋鴻兵
TPPの実質は企業による世界統治
近代において自由貿易で繁栄した国家など存在しない/『略奪者のロジック 支配を構造化する210の言葉たち』響堂雪乃
ヨーロッパの拡張主義・膨張運動/『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
新自由主義に異を唱えた男/『自動車の社会的費用』宇沢弘文
フリーメイソンの「友愛」は「同志愛」の意/『この国はいつから米中の奴隷国家になったのか』菅沼光弘
「我々は意識を持つ自動人形である」/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
ヒロシマとナガサキの報復を恐れるアメリカ/『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎

2014-02-06

数億円単位の寄付を強要する創価学会/『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也


『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし
『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』矢野絢也

 ・数億円単位の寄付を強要する創価学会

『乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』矢野絢也

 2009年の控訴審判決で矢野側(矢野絢也と講談社)が逆転勝訴した。敗訴したのは公明党OBの大川清幸〈おおかわ・きよゆき〉元参議院議員、伏木和雄〈ふしき・かずお〉元衆議院議員、黒柳明参議院議員の3名である。裁判では彼らの脅迫行為が認定された。

 矢野は2008年に創価学会を退会している。まあ、とにかく酷い話だ。公明党の代議士を務めた連中が裁判の証拠改竄(かいざん)までやってのけるのだから。彼らはただ創価学会の指示通りに動いているだけなのだろう。訴訟費用も創価学会の本部が捻出しているのではあるまいか。

 創価学会が行っていることは魔女狩りに等しい。疑心暗鬼に駆られて誰かが「あいつは魔女だ!」と言えば魔女と認定されてしまう構造だ。同じ教団に所属する信者を目の敵(かたき)にすることが教団内部の功績となるのだ。左翼のリンチと同じメカニズムといってよい。

 手口としてはこうだ。まず青年部首脳を使って矢野に政治評論家を辞めさせることを強要。そして翌日にはかつて公明党の同僚議員であった3名が自宅に押し寄せ、矢野の手帖100冊以上を押収した。

 それまで創価学会の汚れ仕事をやらしてきた矢野の手帖は一歩間違えれば池田大作の命取りになりかねない。そんな不安が透けて見える。青年部幹部にしても公明党OBにしても創価学会の手駒に過ぎない。仮に法を犯して表沙汰となっても切り捨てればいいだけのことだ。

 創価学会はかつて言論出版妨害事件(1969年)を起こしているが、その体質はまったく変わっていない事実が浮かび上がる。きっと創価学会にとって「都合の悪いこと」が山ほどあるのだろう。

 公明党OBは一旦は矢野宅を去り、1時間後に再び訪問する。

 驚いてわけを聞くと、3人はあれから公明党本部へ行ったが、そこで藤井富雄元公明党代表(元都議)と大久保直彦元公明党書記長(元衆議院議員)の二人に叱責されたらしい。

【『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也〈やの・じゅんや〉(講談社、2009年)】

 藤井も専ら創価学会の汚れ仕事専門で山口組幹部とも親交があった事実を後藤忠政が『憚(はばか)りながら』(宝島社、2010年/宝島社文庫、2011年)で明らかにした。

 要は藤井と大久保に手帖強奪を指示されて公明党OBの3名は再度矢野宅を訪れたのだ。組長とチンピラの関係を彷彿(ほうふつ)とさせる。そして伏木が創価学会への多額の寄付を強く促した。

 寄付についてはこれだけではなかった。矢野は既に詫びを入れさせられるたびに寄付を強要されていた。

 私が海外出張へ行く時、文春の手記の県で戸田記念国際会館で西口良三〈にしぐち・りょうぞう〉副会長らに脅しと泣き落としで謝罪文を書かされたとき、100万円の寄付を求められている。「それが矢野さんのためです」と言われ、数日後、創価学会本部第一庶務室長で池田名誉会長側近の長谷川重夫氏(現副理事長)に100万円を渡した。そのとき長谷川氏から「罪滅ぼしには財務寄付しかない。寄付をすれば青年部の怒りもおさまるから」と言われた。
 その後、海外出張をへて青年部による吊るし上げ、OB3人の手帖奪取と家探し、寄付の強要という流れである。そして寄付については、この後長谷川氏から「罪滅ぼしのために2億~3億円の寄付をすべきだ」などと繰り返し求められることになるが、それについては後述しよう。

 正義と世界平和を声高に叫ぶ彼らも一皮めくればただの宗教屋であった。

 創価学会は矢野をみくびっていた。ちょっと脅せば組織の言いなりになって寄付も差し出すことだろうと踏んでいたはずだ。実は矢野絢也は創価学会の敵ではなかった。彼らは枯れすすきを幽霊に見立てるように判断を誤った。そして正真正銘の敵を彼ら自身の手で作り上げてしまったのだ。矢野の著作が創価学会の衰亡を決定的なものとしたように思えてならない。

 尚、本書は前著との重複が多く、どうせ読むなら『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』の方がお薦めできる。

「黒い手帖」裁判全記録
矢野 絢也
講談社
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2014-02-05

黒人奴隷の生と死/『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要


『奴隷船の世界史』布留川正博
『奴隷とは』ジュリアス・レスター
『砂糖の世界史』川北稔
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス

 ・黒人奴隷の生と死

『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

キリスト教を知るための書籍

黒い怒り』(※W・H・グリアー、P・M・コッブズ:太田憲男訳、未來社、1973年)をもう一度引用してみよう。
「アメリカは、黒人は劣等であり、雑草刈りと水汲みのために生まれているとの仮説を身につけた生活様式、アメリカは民族精神、あるいは国民生活様式を築き上げたのである。この国土への新移民(もし白人ならば)はただちに歓迎され、豊富に与えられるもののなかには、彼らが優越感をもって対処することのできる黒人がある、というわけである。彼らは黒人を嫌い、けなし、また虐待し、搾取するように求められたのである。ヨーロッパ人にとって、この国が何と気前よく見えたであろうかは容易に想像し得るのである。即ち、罪を身代りに負う者がすでに備えつけられている国であったのである」
 この点まで理解できれば、われわれはもう一歩先へ進まなければならない。奴隷制度がそのように白人にも黒人にも、その後長い傷を与え続けている以上、奴隷制度そのものを、もっと実態に即して理解しなければならないだろう。それも、奴隷制度の存続をめぐる政治的対立とか、奴隷制度の経済的効用とかいったものではもちろんない。一個の人間が奴隷制度のなかで生まれ、奴隷として働かされ、まだ奴隷制度が全盛だった頃に死んでいったことの意味を、もっと理解しなければいけなのである。

【『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要〈さるや・かなめ〉(河出書房新社、1975年『生活の世界歴史 9 新大陸に生きる』/河出文庫、1992年)以下同】

 岸田秀が紹介していた一冊。『ものぐさ精神分析』か『続 ものぐさ精神分析』か『歴史を精神分析する』のどれかだったと思う。岸田の唯幻論は不思議なもので若くて純粋な時に読むと反発をしたくなるが、複雑な中年期だとストンと腑に落ちる。

 近代史の鍵を握るのは金融とアメリカ建国である。これが私の持論だ。

何が魔女狩りを終わらせたのか?

 特に第二次世界大戦以降の世界を理解するためにはアメリカの成り立ちを知る必要がある。稀釈されてはいるがキリスト教→プロテスタンティズム→プラグマティズムが先進国ルールといってよい。そしてアメリカはサブプライムショック(2007年)とリーマンショック(2008年)で深刻なダメージを受け、9.11テロ以降、以前にも増して暴力的な本性を世界中で露呈している。

 アメリカはインディアンから奪い、そして殺し、黒人の労働力で成り立った国だ。彼らが正義を声高に叫ぶのは歴史の後ろめたさを払拭するためである。彼らの論理によればアメリカの残虐非道はすべて正義の名のもとに正当化し得る。もちろん広島・長崎への原爆投下についても。それが証拠にアメリカは日本の被爆者に対して一度たりとも謝罪をしていない。

 奴隷制度は何も合衆国だけの占有物ではない、という反論もあるだろう。たしかに中南米のたいていの国にそれはあったし、ヨーロッパ諸国の多くも無関係ではなかった。しかし国内の奴隷所有勢力が奴隷を開放しようとする勢力と国論を二分して対立し、足かけ5年、両方あわせて60万人の人命を犠牲にするような大戦争に突入した国は、世界のなかでただアメリカ合衆国あるのみである。

南北戦争
南北戦争の原因
アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史

 リンカーン自身が奴隷解放者であったわけではない。リンカーンはイギリスの南部支援を防ぐ目的で奴隷制度廃止を訴えたのだ。単なる政治カードであったことは、その後も黒人差別が続いた事実から明らかであろう。有名無実だ。また具体的には黒人を北部の兵隊とする目論見もあった。

 インディアンを虐殺し、黒人をリンチして木に吊るし、そして自国民同士が殺戮(さつりく)を行うことでアメリカはアメリカとなった。アメリカの暴虐はナチスの比ではない。

アメリカ合衆国の戦争犯罪

 次はどの国の人々が殺されるのだろうか? それが有色人種であることだけは確かだろう。


2014-02-04

言語的な存在/『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー


 言葉で傷つけられたと主張するとき、わたしたちは何を語っているのか。行為(エイジェンシー)の元凶は言葉であり、人を傷つける力だと言って、自分たちを、中傷が投げつけられる対象の位置におく。言葉がはたらく――言葉が自分に攻撃的にはたらく――と主張するが、その主張がなされる次元は、言語のさらなる段階であり、そのまえの段階で発動された力をくい止めようとするものである。ということは存在――どんな検閲行為によっても事前に緩めることができない拘束状態におかれている存在――ということになる。
 では、かりにわたしたちが言語的な存在でなければ、つまり存在するために言語を必要とするような存在でなければ、言葉によって中傷されることはなくなるのだろうか。言語に対して被傷性をもっているということは、言語の語彙のなかでわたしたちが構築されているゆえの、当然の帰結ではないか。わたしたちが言語によって形成されているなら、その言語の形成力は、どんな言葉を使うかをわたしたちが決定するまえに存在しており、またわたしたちの決定を条件づけてもいる。つまり言語は、いわばその先行力によって、そもそもの初めから、わたしたちを侮辱していると言える。

【『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー:竹村和子訳(岩波書店、2004年)】

 人間は物語を生きる動物である。社会は物語を必要とする。歴史は物語そのものだ。我々はルール、道徳、感情、理性、知性を物語から学ぶ。というよりは物語からしか学ぶことができない。こうして人間は「語られるべき存在」となった。続いて書字が記録という文化を生む。人間は「歴史的(時間的)存在」と化した。

 ヒトの脳が大型化したのは240万年前といわれる(『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠)。


 昨夜このあたりを検索しまくっているうちに時間切れとなってしまった。ま、よくあることだ。私は検索しはじめると止まらなくなる癖があるのだ。

 色々調べたのだが、やはり私の直観では脳の大型化と言語の獲得は同時であったように思われる。適者生存が進化の理(ことわり)であるならば、ヒトには何らかの強い淘汰圧が掛かったのだろう。そして言語の獲得が社会を形成したはずだ。脳は神経の、言語は音声の、そして社会は人のネットワークである。つまり脳の大型化はそのまま広範な社会ネットワークにつながる。

 言語の起源については諸説あるが、ジュリアン・レインズは右脳から神の指示語が発したとしている(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』)。

 ま、わかりやすく申せば、卑弥呼みたいなのが突然登場して、人々がそのお告げやら物語に賛同すれば、社会の価値観は共有されるわけだ。

 話を元に戻そう。社会の中で生きる我々は「言語的な存在」であることを回避できない。まず名前という記号があり、性格があり過去があり仕事があり趣味があるわけだが、これらは言葉でしか表現し得ない。私は短気であるが、万人の前で短気を発揮しているわけではない。見知らぬ人の前では誰もが無性格な存在なのだ。

 では反対側から考えてみよう。私という人間を言葉で表現し尽くすことは可能だろうか? 無理に決まっている。例えば私の顔を言葉であなたに伝えることはほぼ不可能である。すなわち「言語的な存在」とは言葉の範疇(はんちゅう)に押し込められた存在なのだ。その意味で確かに言語は「わたしたちを侮辱している」。

 社会というのはおかしなもので個性を発揮する必要に迫られる。例えば蝉を見た時、そこに個性は感じない。蝉という種(しゅ)を感じるだけだ。蝉の側から見ればヒトもそんなものだろう。だが我々は他人と同じであることに耐えられない。私は他の誰とも異なり、かけがえのない存在であることを力説し、願わくは私を重んじるよう説得する。そのために学歴を積み重ね、身体能力を磨くのだ。ってことはだよ、社会ってのは最初っからヒエラルキーを形成していることになる。

 だからこそ語れば語るほど自分がいかがわしい存在となってゆくのだ。

 それゆえ、真実は「語る」ことと「騙る」ことの間にある、と言うべきであろう。

【『物語の哲学』野家啓一】

 うっかり本音を漏らすことを「語るに落ちる」というが、語ることには落とす力が秘められているような気がする。

「私は私だ」という物語から離れる。自己実現などという欺瞞を見抜き、私は何者でもなくただ単に生きる存在であり死にゆく存在である事実を自覚する。これを諸法無我とは申すなり。

触発する言葉―言語・権力・行為体


ブリコラージュ@川内川前叢茅辺