貴公子や高僧はかつらをつけた御者に戦車を操らせ、
昂然と桂冠を戴いて時代の栄華を味わう。
その足元で、見下され、見捨てられ、槍に取り囲まれた男たち。
傷だらけの軍にあって死ぬまで戦う者たち、
戦場の埃と轟音と絶叫に茫然と立ちすくむ者たち、
頭を割られ、目に流れ込む血をぬぐうこともできぬ者たち。
胸に勲章を飾った将軍たちは王に愛でられ、
威勢のよい馬にまたがり、高らかにらっぱを鳴らして行進する。
その陰で、泥にまみれて城を攻め、無名のまま死んでゆく若者たち。
だれもが美酒と富と歓楽を謳い、
堂々たる美丈夫の君主を讃えようとも
私は土と泥を謳い、埃と砂を謳おう。
だれもが音楽と豪華と栄光を愛でようとも、
私は一握の灰を、口いっぱいの泥を謳おう。
雨と寒さに手足を失い、倒れ、盲いた者どもを讃えよう。
神よ、そんな者どものことをこそ
謳わせたまえ、語らせたまえ――アーメン
ジョン・メースフィールド「神に捧ぐ」
【『戦争における「人殺し」の心理学』デーヴ・グロスマン:安原和見訳(ちくま学芸文庫、2004年/原書房、1998年『「人殺し」の心理学』改題)以下同】
巻頭で「献辞」として紹介されている詩である(一般的な表記はジョン・メイスフィールド)。
いつの時代も戦争を決めるのは老人で、若者が戦地へ送り出される。手足が凍傷するのは内蔵を守るためだ。我々は国家という人体の手足に過ぎない。あるいは伸びた分の爪かも。
30cmに満たない足の裏が人体を支える。最も高い位置にあるのは頭だ。「頭(ず)が高い」とはよくいったもので、他人の頭を下げさせるところに権力有する根源的な力がある。
戦争とは国家が人殺しを命令することだ。他者の命を奪うことが最大の罪であるならば、それ以下の罪――強姦・傷害・窃盗など――は容易に行われることだろう。しかも現代科学は瞬時の大量殺戮を可能にした。
ハードカバーの書影は射殺された兵士の写真。頽(くずお)れて不自然な格好で息絶え、モノクロ写真であるにもかかわらず粘着性のある血糊(ちのり)が生々しい。
なぜ、殺人について研究しなければならないのか。セックスについて研究すると言えば、やはり同じように、なぜセックスを? と問われるだろう。この二つの問いには共通する部分が多い。リチャード・ヘクラーらはこう指摘している――「神話では、アレス(戦争の神)とアプロディテ(美と愛の女性)の結婚からハルモニア(調和の神)が生まれた」。つまり平和は、性と戦争とをふたつながら超克してはじめて実現するものだ。そして戦争を超克するためには、少なくともキンゼー(米国の動物学者。人間の性行動の研究で有名)やマスターズ(米国の婦人科医。男女の性行動の研究で有名)やジョンソン(米国の心理学者。人間の性行動について研究)のような真摯な研究が必要である。どんな社会にも盲点がある。直視することが非常にむずかしい側面、と言い換えてもよい。今日の盲点は殺人であり、1世紀前には性だった。
キンゼーはアルフレッド・キンゼイで、他の二人はマスターズ&ジョンソンのウィリアム・マスターズとヴァージニア・ジョンソンだろう。名前表記の不親切さが気になる。著者名もデイヴとすべきではなかったか。
もうひとつ見逃せない記述がある。
かつてロバート・ハインラインはこう書いた――生きる喜びは「よい女を愛し、悪い男を殺すこと」にあると。
性も暴力も接触行為である。ただ力の加減が異なる。人間の愛情と憎悪が同じ接触に向かう不思議。ハインラインの言葉は男の本性を巧みに言い当てている。
本書によれば普通の人間は殺人行為をためらう傾向があり、戦場で殺人を忌避する行動が数多く見られるという。そりゃ当然だ。同類なのだから。しかし物語のルールを変更すれば人間はいくらでも殺人が可能となる。魔女狩り、インディアン虐殺、黒人リンチ、ルワンダ大虐殺……。
ゆえに米軍では敵国人をゴキブリ呼ばわりし、徹底的に憎悪することを訓練してきた。
個人的にはシステマティックに戦争を考えるよりは、フランス・ドゥ・ヴァールのようにヒトの本能から捉えた方が人間の本質に迫れると思う。