2017-05-08

日本の仏教は祖師信仰/『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司


『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉

 ・日本の仏教は祖師信仰

『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ

――日本の仏教とテーラワーダがもっとも違うのは、どこでしょうか。
スマナサーラ●違いはたくさんありますが、いちばんはやはり日本の仏教がいわゆる祖師信仰だという点でしょうね。祖師信仰では、その宗派を開いた祖師さんの言うことは何でも、自分ではちょっとどうかなと思っても、信仰しなさいと強要します。つまり、祖師の色に染まるんですね。

【『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司〈ようろう・たけし〉(宝島社、2004年/宝島SUGOI文庫、2014年)以下同】

 スマナサーラ本の書評はページ末尾のラベルをクリックのこと。養老孟司と編集者の鼎談(ていだん)である。誰に対しても媚びることがない養老に、スマナサーラが低姿勢に出ているのが面白かった(笑)。

 端的な日本仏教批判が本質を鋭く衝(つ)いている。「自らをたよりとして、法をよりどころにせよ」(『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元訳)というのがブッダの遺言であった。後期仏教(大乗)の思想的な飛翔が無意味なものであるとは思わないが、ブッダの前に立ちはだかる夾雑物と化している側面が確かにある。

 日蓮宗日興門流の一部では日蓮本仏論を唱えており、ブッダよりも日蓮を上位としている。こうした思想の背景には日本特有の本地垂迹(ほんぢすいじゃく)論があり、神を仏の化身と捉えることで神仏習合を可能たらしめた。つまり日本仏教は父がブッダで母が神道という混血なのだ。

 鼎談の続きを紹介しよう。

――日本の仏教は祖師を信仰しますが、テーラワーダはお釈迦さまを信仰するんですね。
スマナサーラ●いえ、そうじゃないんです。むしろ「お釈迦さまの説かれた教えを信じて実践する」と言ったほうが正しいですね。
 それに、そもそもお釈迦さまは、信仰には断固として反対していたんですよ。私を拝んでどうなるのかと。
――どうして信仰に反対なのですか?
スマナサーラ●お釈迦さまが説いたのは、「真理」です。真理は、誰が語っても、いつの時代でも変わらないものです。お釈迦さまは真理を提示して、「自分で調べなさい、確かめなさい、研究しなさい」という態度で教えたんです。「私を信じなさい」とは、まったく言っていません。

ブッダは信仰を説かず/『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ

 西洋で宗教一般を批判する際、仏教を除外するのはこのためである。仏教は宗教というよりも哲学に近いとの見解からだ。その妥当性は不問に付しても仏教の際立った独創性を示す証左にはなるだろう。

 ブッダが悟ったのは「法」である。空海(774-835年)は宗教的天才であったが大日如来を本尊として立てた。やはり異流儀と言わざるを得ない。あれこれ考えると日本仏教で目ぼしいのは道元(1200-1253年)くらいではないだろうか。「ゼン」(禅)が西洋世界に広まったのも思想の普遍性を示しているように思われる。


序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり/『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集、『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵
「私」という幻想/『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ

2017-05-04

「私」という幻想/『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ


『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『無(最高の状態)』鈴木祐
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース

 ・「私」という幻想
 ・悟りとは認識の転換

ジム・キャリー「全てとつながる『一体感』は『自分』でいる時は得られないんだ」
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン
『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

悟りとは
必読書リスト その五

 みなさん、それぞれに「私」という単位を主体にして生きていらっしゃることと思います。つまり、何はともあれ、この世に生きているからにはまず最初に「私」という自意識なり、肉体があり、その「私」の集合体が家族であり、国であり、世界であるというわけです。

 それでは悟りとは何かというと――最初から端的に言ってしまいますが――その「私」というものが幻想であり、虚構であることを自覚することなのです。

【『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ〈なち・たけし〉(明窓出版、2011年)以下同】

 つまり「私」はないということ。「で、そう言っているお前さんは誰なんだ?」と言われそうだな(笑)。「私」とは思考や感情の主体である。近世哲学の祖とされるフランス野郎は「我思う、ゆえに我あり」と語った。キリスト教の場合、神という絶対的な位置から全てが始まるため存在論に傾く。それに対して仏教は現象論だ。デカルトが「我」に思い至る2000年前にブッダは諸法無我と説いた。

 デカルトの方法的懐疑は思考のレベルであり、しかも自我や神を疑うまでに至っていない。野郎の論法でいけば生まれたばかりの赤ん坊や動植物は存在しないことになる。また「我眠る、ゆえに我なし」と言われたらどう反論するのか?

預流果(よるか)恐るべし」――これが本書を読んだ率直な感想である。

 例えば日蓮の『開目抄』(1272年)という遺文には「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず」とある。「我れ」だらけで「あんたホントに悟ってんの?」と言いたくなる。こうした自意識を知った信者が祖師信仰(『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司)に向かうのは当然の成り行きといえよう。

 那智タケシが悟りを開いたのは上司に叱られている時であった。もうこれには吃驚仰天(びっくりぎょうてん)である。那智は「自我が落ちた」(身心脱落〈しんじんだつらく/元は心塵脱落〉)と禅語で表現している。

 実は、宗教的信念との同化は、これまたエゴイズムの延長線上にあるものなのです。彼らもまた「私の神のために」生き、そして死んでいるのであって、「他人の神のために」という発想は皆無だからです。それどころか「他人の神を殺す」ために、彼らは自分の命も投げ出すのです。というわけで、現代の国家的宗教のほとんどは、エゴイズムの問題を解決するばかりか、助長し、拡大化している始末なのです。
 一つの宗教への信仰は、人類を殺しこそすれ、救わない。個々人の信仰による救済はともかくとして(宗教の問題は後に触れます)、これはまず歴史的事実として私たちが認識しなくてはいけないことだと思います。

 一つ悟れば物事の本質が見えてくるのだろう。一神教の神は自我の延長線上にあり、仏を神格化(妙な表現ではあるが)した後期仏教(大乗)も同じ罠に嵌(はま)っている。教団は党となった。

 農耕――すなわち経済の発展によって、「私」のために生きるようになった我々は、戦争、テロリズム、核、宗教分裂といった危機にさらされた恐ろしい時代を生きています。
 20世紀は二つの大戦によってかつてない数の人間が死んだ激動の時代でしたが、今世紀はそれ以上の悲劇が待ち構えているかもしれません。いや、おそらく待ち構えていることでしょう。

 農業革命が蓄え=富を誕生させ、都市革命が交易を発達させた。続いて精神革命(枢軸時代)~科学革命~産業革命を経て、現在の情報革命に至る。

 精神革命とは二分心ジュリアン・ジェインズ)から脳が統合化され意識が芽生えた時代と私は捉える。

 インドのバラモン教(古代ヒンドゥー教)が説いたカルマ(業)の教えは自我意識を過去世から来世まで延長したものだ。西洋風に言えば「我苦しむ、ゆえに我(≒カルマ)あり」ということだ。諸法無我とはアートマン(真我)の否定である。「我」(が)は存在しないのだから思考や感情は幻想である。人生とは一種のメタフィクションなのだろう。

 トール・ノーレットランダーシュは意識のことを「ユーザーイリュージョン」(利用者の錯覚)と名づけた。



呪術の本質は「神を操ること」/『日本人のためのイスラム原論』小室直樹

悟りには段階がある/『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃


 ・悟りには段階がある

『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』大竹晋
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ

悟りとは

 また、傍目(はため)からはなかなか判断できませんが、それぞれの段階の悟りを開いた人は、自分では自分がどの段階に悟ったか、よくわかるようです。それだけ明確な悟りの「体験」と、それによる心の変化が、悟りの各段階ごとにあるからです。お釈迦さまやお坊様方が、「あなた(あの人)は、悟りのこの段階に悟りました」と、お弟子や信者さんの悟りを認定(授記〈じゅき〉)することもよくありました。

【『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃〈ふじもと・あきら〉(サンガ新書、2009年)以下同】

 まったく酷い文章である。言葉の混乱は明晰さと相容れない。説明能力というよりもコミュニケーションの姿勢に問題があるように思う。悟りは明晰さを伴う。だが明晰=悟りではない。詐欺師は皆一様に説明能力が高い。

 後期仏教(大乗)で「授記」とは記別を授けることで、将来的な成仏のお墨付きである。悟りの認定であるとは初めて知った。

 余談となるがブッダに近侍し多聞第一と謳われたアーナンダ(阿難)が阿羅漢果に至ったのはブッダ死後のことである。この事実は悟りに導くことが不可能であることを示すものだ。

 四つの階梯(※預流果〈よるか〉、一来果〈いちらいか〉、不還果〈ふげんか〉、阿羅漢果〈あらかんか〉)に一つずつ悟り、最後に完全な阿羅漢果に悟るとする、いわゆる「漸悟」説です。二つ目の見解は、「一気にパッと完全に悟る」と主張する、いわゆる「頓悟」説です。パッと悟ると主張するのものは、北伝部派仏教の一派・説一切有部(せついっさいうぶ)の『倶舎論』(くしゃろん)に基づく倶舎宗など、いわゆる「小乗」仏教の説です。
 説一切有部と同じく「小乗」に分類される南伝の上座部が保持するパーリ語経典では、『倶舎論』と同様に、預流、一来、不還、阿羅漢の四段階の悟りを説きますから、上の分類に従えば、徐々に悟る「漸悟」説ということになります。

 それぞれの内容については「四向四果」(しこうしか)を参照せよ。

『わかっちゃった人たち』などで紹介されている人々の悟りは預流果(よるか)と考えられる。「預流果で消える煩悩は無知に基づく三つだけ」と藤本は偉そうに述べるが、果たして預流果に至った宗教者はどの程度いるのか? 私は既に半世紀以上生きてきたが一人しか知らない。

 尚、仏道の目的である解脱(げだつ)とは一切の執着から離れて涅槃(ねはん/ニルヴァーナ)に至ることだが禅定には八つの段階がある。

 初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → 空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処 → 滅尽定(滅尽定とニルヴァーナ

 最後の「滅尽定」が解脱と考えていいだろう。「八解脱」(「ブッダ伝」第17章 ウッダカ仙人にも学ぶ)という言葉もあるようだ。

 非想非非想処が「有頂天」である。

 涅槃とは「吹き消す」意である。つまり悟りの段階とは煩悩が消えてゆく様相を示すもので生命の自由度を表している。

 ブッダ以前にもブッダ(目覚めた人)と呼ばれた人々は存在した。釈迦族のゴータマ・シッダッタ(パーリ語読み。サンスクリット語ではガウタマ・シッダールタ)のみがブッダと呼称されるのはその悟りが空前絶後の深さと高さを伴っていたためだ。ブッダの言葉は経典化された。そしてテキストが重視されればされるほどブッダの悟りは霞(かす)んでいった。

 仏教東漸(とうぜん)の歴史において宗教的天才は何人も登場したが、ブッダと肩を並べる人物は一人も見当たらない。私が知る限りではクリシュナムルティただ一人である。

2017-05-02

西洋におけるスピリチュアリズムは「神との訣別」/『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース


『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『無(最高の状態)』鈴木祐
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン

 ・西洋におけるスピリチュアリズムは「神との訣別」
 ・悟ると過去が消える

『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン


悟りとは
必読書リスト その五

 こういう目覚め、見ること、まあ呼び名はどうでもいいとして、それは過去にどんなことをしてきたとか、逆に何をしてこなかったかということにはまるで関係なく起こる。つまりこれは人が左右できるようなことではないのだ。(ジェフ・フォスター)

【『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース:古閑博丈〈こが・ひろたけ〉訳(ブイツーソリューション、2014年)以下同】

 あまりよくは知らないのだがジェフ・フォスターという人物はノンデュアリティ(非二元)のリーダー的存在のようだ。ついでにもう一つ白状しておくと最近よく目にするノンデュアリティもよくわからない。

 当てずっぽうの説明を試みよう。1960年代にカウンターカルチャーのムーブメントが起こる。ロックが世界を席巻し、若者は髪を伸ばし、ドラッグに手を染めた。ヒッピーはルンペンではない。それまでの西洋のあり方に対するプロテスト(抵抗)行動であった。アメリカはベトナム戦争をする一方で公民権運動というジレンマを抱え込んだ。この時、物から心へという価値観の変化が現れ、ニューエイジが誕生する。我々日本人からするとニューエイジは仏教の基本知識を心理学の言葉で飾り立てたケーキのように見えるが、西洋の歴史においては一つの重要な転換点と見なすことができよう。

 ワンネス(単一性、調和)とかホリスティック(全体性)とかトランスパーソナル(超個的)というキーワードが特徴である(『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之)。その延長線上にノンデュアリティがあると考えてよかろう。

 ニューエイジの総本山は神智学協会(『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール)であった。そしてクリシュナムルティが祀(まつ)り上げられる。既に神智学協会と袂(たもと)を分かっていたにもかかわらず(『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス)。

 西洋におけるスピリチュアリズムは「神との訣別」であると私は考える。多用されるリアリティという言葉が示すのは「神が支配する世界」の否定であろう。

 本書のタイトル『わかっちゃった人たち』は軽妙よりはやや軽薄に傾いているが、「期せずして悟ってしまった」様子を巧みに表現している。すなわち悟りに修行は必要ない。

 その秘密は想像したのとはまるで違う。それは宗教も、イデオロギーも、信念も、そして「覚醒」や「悟り」といった概念も超越したものだ。自由だ。何の条件もない。その秘密は今にありすぎて、それについて何か言ったところで、そんな言葉はすぐに灰になってしまう。それはどんな目標とも、達成とも、欲求とも、後悔とも、スピリチュアルな成就とも、世俗的な失敗とも、まったく関係がない。自分とはまったく何の関係もないのだ。それは今あって、ここにある。これはトニー・パーソンズの言葉で言えばオープン・シークレット、つまり公然の秘密だ。あまりにうまく隠されていて、あらゆるものとして現れているのに、文字どおりあらゆるものとして現れているのに、人にはそれが見えないのだ。(ジェフ・フォスター)

 もちろん悟りに段階があることは知っている(『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃)。だが訳知り顔で「段階がある」と語る人よりも、実際に悟った人の言葉が重い。

 悟りが気づきであれば、単純に「見えるか」「見えないか」の違いしかないのだろう。彼らの言葉は一様に単純でわかりやすく、理窟をこねくり回すような姿勢は微塵もない。何にも増して「静か」である。他人に対して何かを強要するようなところがない。欲望を超越したというよりは、脳のシステム構成が変わったような印象を受ける。欲望から離れることが目的なのではなく、欲望に基づく価値観が真実を見失わせていることに気づかされる。

 クリシュナムルティは訪れる悟りを「他性(アザーネス)」と表現してる(『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ)。クリシュナムルティは理想も努力も否定する(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。修行は悟りを保証するものではない。

 私が世界であれば(『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ)、欲望に基づく私の行動が世界の混乱を招いている事実に気づく。自(おの)ずから調和を目指す行為や言動となることだろう。過去の怒りや恨みから離れることも可能だ。私は悟っていない。悟っていない瞳に映るのは誤った世界である。だから私の感情は決して正しくない。悟れば世界はありのままに見える。

2017-04-26

輪廻する缶コーヒー/『恋ノチカラ』相沢友子脚本


正しいキレ方
・輪廻する缶コーヒー

 実に3月11日以来ずっと見続けてきた。「ほとんどビョーキ」(※山本晋也の決め台詞)である(笑)。かつて『狼/男たちの挽歌・最終章』(ジョン・ウー監督、1989年)を100回以上視聴しているが、不思議なほど取り憑(つ)かれてしまうのはスタイル(文体)に惹(ひ)かれるためだ。冒頭のスピーディーな展開とサリー・イップの歌声を紹介しよう。


 はたと気づいた。「ああ、輪廻(りんね)か」と。厳密に言えば『狼』の場合は因果応報であるが、プラスとマイナスの違いこそあれ「繰り返し」という意味では同じだ。『恋ノチカラ』では缶コーヒーが本宮籐子(深津絵里)と貫井功太郎(堤真一)の間を往還し輪廻する。

 籐子は以前、仕事でミスをし上司に絞られた際に、たまたま通りかかった貫井から励ましを受け缶コーヒーを手渡された。独立した貫井の事務所に籐子は引き抜かれるが実は人違いであった。一旦は元の会社へ戻ろうとした籐子だが貫井に対する嫌がらせを知り、貫井企画で働くことを選ぶ。籐子は貫井と木村壮吾(坂口憲二)に缶コーヒーを渡す。

 次は貫井が仕事で行き詰まり事務所の空気が不穏になる。貫井と木村が衝突。事務所を出ていった貫井の後を籐子が追い掛ける。公園のベンチに座り込む貫井に籐子は肝コーヒを差し出した。ドラマの白眉ともいうべき部分だ。なんと堤真一はここで科白(せりふ)を間違えている(笑)。貫井は怒りのあまり缶コーヒーを地面に叩きつけた。籐子は思いのたけを吐き出し走り去る。翌朝、「昨日は悪かったな」と貫井が缶コーヒーをお返しする。

 貫井がデザインしたという設定の缶コーヒーなのだが野暮ったいデザインでセンスが悪い。そもそも貫井のファッションがその辺のオッサンと変わりがなくてとてもデザイナーには見えない。しかも堤真一は酷いガニ股で歩く姿が絵にならない。

 ま、悪口はいくらでも言える。そもそも広小路製薬の仕事を依頼されたのは籐子の必死な行動によるものであり、散々嫌がらせをしてきた吉武宣夫(西村雅彦)を貫井企画に引き抜いたのも籐子の功績である。そんな彼女をドラマの後半に至るまで軽々しく扱わせるのはストーリー設定がおかしい。フジテレビだから仕方がないのか?

 輪廻する缶コーヒーは偶然生まれたものだろう。最初から考えていたのであれば最後にもう一捻(ひね)りありそうなものだ。貫井への恋心を抑えきれなくなった籐子は辞める決心をする。一人名残りを惜しむように事務所で思いに耽(ふけ)る籐子。貫井の席に座り、クルクルと椅子を回しながら両手を伸ばし天井を見上げ、微笑みながら涙を流す。デスクの上には缶コーヒーが置かれていた。


 人間はシンメトリー(左右の対称性)に美を感じる。輪廻という考え方はヒンドゥー教や古代エジプト・ギリシャなど世界各地に見られる。多分、四季の移り変わりや繰り返される星の運行から生まれたのだろう。雨-川-海といった水の循環とも関係があるのかもしれない。いずれにせよ輪廻をシンメトリーと捉えれば美や秩序を見出すことは容易だ。

 私が何度もこのドラマを繰り返し見続けてきたこと自体が輪廻に思える(笑)。我々は同じことを繰り返すのが好きなのだ。食事から仕事に至るまで日常生活の行動は同じことの繰り返しである。映画や小説は起承転結の繰り返しで、スポーツはルールの繰り返しに過ぎない。そして人類は戦争と平和を繰り返す。

 繰り返すことと繰り返さないことの間に人生の個性があるのだろう。よく「同じ過ちを繰り返すな」という。これが実は簡単なようでなかなか難しい。仏教で説く業(カルマ)とは行為のことだが、繰り返しによって強化された癖との意味合いが強い。

 もう、『恋ノチカラ』はしばらくの間見ない。輪廻から離脱する。

恋ノチカラ4巻セット [DVD]