2017-08-13

人が人材になる過程は木が木材になる過程と似ている/『我が心はICにあらず』小田嶋隆


 ・洗練された妄想
 ・土地の価格で東京に等高線を描いてみる
 ・真実
 ・「お年寄り」という言葉の欺瞞
 ・ファミリーレストラン
 ・町は駅前を中心にして同心円状に発展していく
 ・人が人材になる過程は木が木材になる過程と似ている


『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
・[https://sessendo.blogspot.com/2022/01/blog-post_95.html:title=『コンピュータ妄語録』小田嶋隆]
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆
『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

 人が人材になる過程は、木が木材になる過程とよく似ている。よけいな枝を落とし、虫の食った部分を捨てて、要するに規格化するわけなのだ(生きている木を切り倒して、乾燥させて、丸裸にし、材木にして、切って、削って、風呂場のすのこにするのだ)。そして、言うまでもないことだが、ハッカーという人々は余計な枝が多かったり、幹が曲がっていたり、加工しにくかったりして、人材としては不良品である場合が多い。

【『我が心はICにあらず』小田嶋隆(BNN、1988年/光文社文庫、1989年)】

 ラジオ番組にレギュラー出演するようになった頃から小田嶋は明らかに変わった。その淵源を探ると「日経ビジネスオンラインの連載」(小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」~世間に転がる意味不明/2008年)と『人はなぜ学歴にこだわるのか。』(メディアワークス、2000年/知恵の森文庫、2005年)にあると思われる。

「ア・ピース・オブ・警句」は戦後教育で教え込まれた歴史認識を鵜呑みにしていて馬脚を露(あら)わした感がある。『学歴』の方は読んでいないのだが内田樹〈うちだ・たつる〉が解説を書いていることからも左翼傾向が読み取れる。その後、内田や彼の盟友である平川克美らと『9条どうでしょう』(毎日新聞社、2006年/ちくま文庫、2012年)を刊行する。私が初めて小田嶋の声を耳にしたのも平川のインターネット放送だった。傍(はた)から見れば巧く担がれたようにしか思えない。

 小田嶋はなぜ職歴ではなく学歴を語ったのだろう? やはり小石川高校~早稲田大学という学歴に自信があったためか。


 上には上がいる。元エリート官僚からすれば早稲田・慶応も低学歴になるようだ。小田嶋は学生団体SEALDsを中心とするデモを見学にゆき、挙げ句の果てには生まれて初めての投票にまで及んだ。もはや引きこもり系・オタク系コラムニストを脱して文化人となりつつある。

 ってなわけで初期の小田嶋作品を懐かしむ気持ちがそこはかとなく湧いてきた。明晰な文体、端々に盛られた毒、エッジの効いた皮肉、社会を斜めに見下ろすユーモア――それが小田嶋の魅力であった。

 尚、ハッカーとはハッキングをする人物のことで、犯罪姓の高いハッカーをクラッカーと呼ぶ。

2017-08-11

ソフトパワーとしてのマインド・コントロール/『マインド・コントロール』岡田尊司


『カルト村で生まれました。』高田かや
『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』米本和広
『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広
『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
『杉田』杉田かおる
『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS

 ・ソフトパワーとしてのマインド・コントロール

『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

宗教とは何か?

 テロリストたちは、一部の人が考えていたように、催眠状態のような意識が狭窄した状態で、あやつられてそうした行動をしたわけではなかった。彼らは、自らの覚悟と決心のもとで、そうした行動をとっていた。
 ただ、それは彼らがマインド・コントロールを受けていたことを、何ら否定する根拠にはならない。マインド・コントロールを受けたものは、自らが主体的に決意して自己責任で行動したと思うことが、むしろ普通だからだ。マインド・コントロールが上質なものであればあるほど、コントロールを受けた者(ママ)は、自分が望んでそうすることにしたのだと感じる。
 安っぽいマインド・コントロールの場合には、コントロールする側の作為が正体を現し、欺瞞の痕跡を残してしまう。そうした場合、いつか不信が芽生えた時、それが破れ目にもつながり、マインド・コントロールが解けてしまうことにもなる。
 だが、完璧な形でマインド・コントロールが行われた場合には、すべては必然性をもったことであり、それに出会う幸運をもったのだと感じ、喜び勇んでその行動を「主体的に」選択する。

【『マインド・コントロール』岡田尊司〈おかだ・たかし〉(文藝春秋、2012年/文春新書増補改訂版、2016年) 】

 一般的には閉ざされた環境で身体的抑圧(睡眠不足や暴力など)がある場合を洗脳、それ以外の心理操作および誘導をマインド・コントロールと考えればいいだろう。朝鮮戦争(1950-53年)で捕虜とされた米兵が共産主義を信奉するようになっていた。中国共産党が行ったこの思想改造が洗脳の嚆矢(こうし)である。

 マインド・コントロールという言葉が広く知られるようになったのは統一教会(世界基督教統一神霊協会→世界平和統一家庭連合)の霊感商法が社会問題化した頃だったと記憶する。有名な歌手や女性タレントまでが信者となったことでセンセーショナルな報道が繰り返された。もしも当局が厳格な対応をしていればオウム事件は防げた可能性がある。だが統一教会は勝共連合という下部組織を通じて保守層にがっちりと喰い込んでいた。

 岡田の指摘は重要だ。ソフトパワーとしてのマインド・コントロールが自主的・自発的な行動を導くというのだ。こうしてテロという犯罪が大義に置き換えられる。「必然性」とは完全な物語を意味する。自爆は使命にまで高められる。

 マインド・コントロールは何も特別のことではない。大衆消費社会における全ての広告は消費・購買への誘引で様々なテクニックが応用されている。購入価格を操作することも簡単だ(『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー)。

 群れをなす動物は同調する。逆に言えば同調性を欠いた動物が群れをなすことはできない。つまり集団や社会そのものが形成するマインド・コントロールが存在する。一番わかりやすいのは教育だ。学校であれ家庭であれ教育は強制と矯正の2本柱で行われる。子供を家族や社会という鋳型(いがた)にはめ込み、大人の言いなりにするのが教育の目的である。かつて自由な環境(『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ)で行われた教育はない。枝打ちされて材木になるか、針金でぐるぐる巻きにされた盆栽になるかの違いがあるだけだ。我々は社会適応養成ギブスを着用した星飛雄馬なのだ。

 平均的な人間は自分が見た事実にも目をつぶって周囲の意見に合わせる(アッシュの同調実験)。日本社会でいえば「空気を読む」のが同調で、「KYだ」と認定されるのが同調圧力である。メガデス(大量虐殺)を可能にするのも同調性だ。

 我々を取り巻く様々な集団ごとにそれぞれの同調性が働く。国家を超えても尚、条約やグローバル・スタンダード(世界標準)という同調性が存在する。日本が慰安婦捏造問題を真っ向から否定することができないのも、アングロサクソンやキリスト教といった世界の主流に異を唱える羽目になるからだ。

 高度情報化社会ではあらゆる情報がプロパガンダと化しマインド・コントロールを試みる。人々を騙(だま)せば自分が得をする。高度な知性は「騙す」行為を通して最大限に発揮される。騙すためには相手に偽りの情報を信じさせる必要がある。つまり自分と相手が異なる信念の持ち主であることを理解する必要があるのだ(心の理論)。

 そして我々は騙されることを好む。だから手品を楽しむのだ。また映画・ドラマ・芝居・漫画・小説などのフィクションを楽しむのも同じ理由だ。騙したいエリートと騙されたい大衆で織り成す世界に我々は生きている。

2017-08-10

小倉に投下予定だった原爆


『夕凪の街 桜の国』こうの史代
『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』ジョー・オダネル
『チェ・ゲバラ伝』三好徹
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎

 ・小倉に投下予定だった原爆

 これは知らなかった。ツイッター情報は本当に侮れない。


小倉原爆スクープ!:一条真也の新ハートフル・ブログ

エホバの証人による折檻死事件/『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広


『カルト村で生まれました。』高田かや
『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』米本和広

 ・エホバの証人による折檻死事件

『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
『杉田』杉田かおる
『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS
『マインド・コントロール』岡田尊司
『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 しかし、智彦だけはうまくいかなかった。そのために父親は智彦に暴力を振るい、なんとか更生させようと努めてきた。智彦の父親だけがとりわけ暴力的というわけではない。父親は教団が強調する聖書の次の言葉を忠実に実行してきただけのことである。
「子どもを懲らしめることを差し控えてならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる」(箴言〈しんげん〉23章)
 他のキリスト教団は箴言特有の誇張した表現と解釈するが、エホバの証人は字句通りに受けとめる。

【『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広(文藝春秋、2002年文春文庫、2004年/論創社、2021年)以下同】

『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』の続篇的内容でオウム真理教、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)、統一教会、幸福会ヤマギシ会を取り上げる。ヤマギシ会は宗教団体ではないが、その閉鎖性や洗脳を考慮すればカルトの名に十分値する。正義を掲げる彼らの暴力性は弱者である子供に向けられる。そして正しいがゆえに全く手加減されない。

「ある姉妹(女性信者)が目撃したところによれば、所沢(埼玉県所沢市)の長老は鉄のパイプや自転車のチェーンで叩いていたそうです」

 長老とはエホバの証人における会衆のリーダーで、地域の集まりは教会単位となっている。

「当時の長老は、『泣く、ということは悔い改めていない、反抗の表れだ。泣くのをやめるまで叩きなさい』と教え諭した。それで私もそうした」

 宗教的な正しさはいともたやすく邪悪に結びつく。キリスト教の暴力性は歴史を振り返れば誰もが理解できよう。異端とされるエホバの証人が正当性を示すためには教義や行動を過激化するしかない。

 事件が起きたのは、今から7年前の93年11月23日のことだった。
 広島市の北警察署に、市内に住むAが自首してきた。
 北署員が現場に急行したところ、4歳の二男がA宅の脱衣場で死亡していた。検死を行ったところ、両頬やくるぶしなどに数ヵ所の痣や内出血が認められた。血が滲んだ新しい傷痕のほか、数日は経っていると思われる痣も多くあった。このため、Aを殺人容疑で逮捕するとともに、折檻を知りながら放置していた妻も保護責任者遺棄致死の疑いで逮捕した。
 夫婦が属していた会衆は広島市の安佐南区にあった祇園会衆(現在は発展して三つの会衆に分かれている)だった。ここでの懲らしめのムチは長さ50センチのゴムホースだった。当時この会衆にいた元女性信者は「子どもが集会中に居眠りをすれば、親はトイレに連れていき、ゴムホースで叩きました。“体罰”は日常的でした」と語る。

 信者とは他人に操られることを自ら選ぶ生き方を意味する。ま、洗脳希望者といってもよい。

 事件前日の夜、Aはゴムホースで血が滲むほどに二男を叩いたあと、家から閉め出した。翌朝様子を見に行くと、息子の息は止まっていた。そのあとあわてて脱衣場に運んだという。
 判決はAに保護背筋者遺棄致死罪は適用して懲役3年(執行猶予4年)の刑を申し渡し、事件は終わった。
 この折檻死事件は、エホバの証人の中では特異なケースである。私が恐ろしいと思ったのは、事件そのものよりもそのあとの会衆の空気である。同じ会衆に属していた当時はまだ信者だった人が語ったところによれば、一人の子どもが死んだというのに、自分を含め会衆の誰一人としてムチによる懲らしめを反省せず、「組織と教えは正しいが、あの人が個人的にやりすぎたんだ」と仲間うちで話しただけで終わった。事件をきっかけに組織を離れた人は一人もいなかった。祇園会衆の長老も「不幸な事件が起きた。今後Aさんの家に近づかないように」と報告しただけだった。不幸な事件ゆえにA一家を支えるのが宗教の役割だと思うのだが、Aと仲の良かった信者が拘置所に面会に行くと、長老が自宅にやってきて、「なぜ指示を守らないのか。Aさんには会ってはなりません」と叱責した。
 事件後、一つだけ会衆内で変わったことがある。それはムチがゴムホースからアクリル樹脂の棒に変わったことだ。

 自分の中で一番最初に芽生えた小さな疑問を手放した瞬間から人は判断力を奪われる。もちろん何を信じようが自由ではあるが、信じることによって情報処理能力が狂うのだ。信者の脳は現実よりも教団の正しさを証明することを重視する。そしてより大きな善のために小さな悪がまかり通るようになる。

 社会の価値観は時代によって移り変わるが道徳には時代を経てきた人間の良心がある。徳を拒む人がいないのはやはりそこに普遍性があるためだろう。宗教が興(おこ)る時、必ず社会的価値との衝突がある。多くの人々を苦しめる手垢まみれの常識を否定するのが宗教の役割であると思うが、道徳まで否定すれば単なる反社会的集団に転落してしまうだろう。そのようなあり方が人々の共感を得るのは難しい。

 いつの時代も子供は殺されてきたがエホバの証人による折檻死事件は教義が事件を教唆(きょうさ)した可能性が窺える。

 これに対するエホバ信者の反論が以下のページにある。

「エホバの証人せっかん死事件の嘘」:エホバの証人を攻撃する道具にされてしまうブロガー達

 信者は事実に目をつぶる。彼が見つめているのはエホバの正義だけだ。余談になるが偶像を否定するエホバのくせにマイケル・ジャクソンの肖像をアイコンにしていて笑った。親がエホバ信者であるのは広く知られているがマイケル本人もそうだったのだろうか?

 閉鎖的なカルト集団が行う児童虐待は「現代のミルグラム実験」(『服従の心理』スタンレー・ミルグラム)といってよい。

 尚、本書は万人が読むべき秀逸なノンフィクションであると思うが、米本和広と統一教会に妙な関係があるようなので必読書には入れていない(やや日刊カルト新聞:本紙記者を誹謗中傷する自称“ルポライター”米本和広氏、その社会的問題性に迫る)。

2017-08-07

ヤマギシ会は児童虐待の温床/『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』米本和広


『カルト村で生まれました。』高田かや

 ・ヤマギシ会は児童虐待の温床

『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広
『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
『杉田』杉田かおる
『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS

『マインド・コントロール』岡田尊司

(※ヤマギシ会の集団農場へ)いま話題の「船井総合研究所」は94年の10月に「岐阜県庁の職員と岐阜市内の中小企業経営者34人」を従えてやってきているし、96年11月には評論家の鶴見俊輔が訪問している。
 EM菌や『脳内革命』の春山茂雄を絶賛してやまない船井幸雄を長とする総合研究所の面々が訪れ、その一方日本を代表する評論家が訪れる。ただ面食らうばかりだが、日本の社会がヤマギシ会に幻惑されているのではないかとすら思えるほど、多士済々たる人物が集団農場を見学しているのだ。
 53年に発足したヤマギシ会(当時は山岸会)は、そもそも養鶏家である山岸巳代蔵(1901~61年)が提唱したヤマギシズムを実践し、〈無所有一体〉の〈ヤマギシズム社会〉を実現せんとする団体である。

【『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』米本和広(洋泉社、1997年/宝島社文庫、1999年/新装版、2007年)以下同】

 船井幸雄はスピリチュアル系で鶴見俊輔は進歩的文化人(=左翼)の筆頭である。資本主義に嫌気が差すと誰もが自給自足コミュニティを思いつくことだろう。トルストイも実際に行った(トルストイ運動)。人が集まる事実を思えば何らかの魅力があるのは確かだろう。目新しいものを好む著名人が評価することも決して珍しくはない。島田裕巳〈しまだ・ひろみ〉に至っては今でも評価している(「ヤマギシ会はまだやっていた」島田裕巳)。

 正式名称は幸福ヤマギシ会である。「売り上げ規模では農事組合法人のトップに位置している」(Wikipedia)というのだから侮れない。ヤマギシズム社会実顕地は全国に展開。幸か不幸か私はヤマギシ会の商品を見たことがない。

 出発点で掲げた理想はどのような団体であれ正当性がある。集団を運営してゆく過程で邪教化するのだ。正しさを強制する瞬間から誤った手段がまかり通るようになる。

 ヤマギシ会の悲惨さは子供たちの姿を見ればわかる。

 健二も思い出を口にするようになった。
「ヤマギシ会では上級生に首をしめられたり、ぶっ殺す、と脅された。いつもいつもいじめられていた」
「6年生に首を締められたんだよ」
「お腹が痛くても、病院に連れていってくれなかった」
「宿題ができないと、(施設の)廊下に正座させらたんだ」
「世話係(学園の担当者)がものすごく怖かった」
「親しい友だち同士で話をするときは、『俺たちは親から捨てられた子』と言っていたんだ」
 自殺を企てた健二の親はいったい、どう感じているのか。そのことを口にすると、教師の顔は暗くなった。
 授業参観のあとで、両親を校長室に呼び、ひととおりの経過を説明したが、母親は動揺した素振りを見せず、平然とした態度で、こう話したという。
「ヤマギシ会でのびのび育ち、自分で自分を見つめられるようになって欲しいと願って、ヤマギシに入れたのです。ヤマギシに入れたことをもって、親の愛情不足と思われては困ります」「(健二が)飛び降りてもいいし、死んでも構いません。家の中でも、そんなに死にたいのなら死ねばいいと言っています。あの子はみんなの気を引こうとしただけなのです」
 近くにいた教師が食い止めていなかったら、わが子は確実に怪我をしていたか、死んでいたというのに、である。

「正しさ」が人々を抑圧し、そのはけ口が弱者に向かう。子供たちは満足に食事も与えられない。実顕地に入った途端、私有財産は没収され、親子は離れ離れで生活することになる。虐待された児童は誰にも助けを求めることができない。

 幸福への願いは不幸の反動である。幸福を追い求め続ける人々に真の幸福が訪れることはないだろう。欲望は果てしなく強化され、どこまで行っても満たされることはない。ヤマギシ会の人々は生活の保障を手に入れる代わりに子供たちの幸福を犠牲にしている。

 ヤマギシ会の生産品を購入する人々は児童虐待に加担していることを自覚すべきだろう。