2020-11-18
2020-11-12
人類史の99%以上は狩猟採集生活/『売り方は類人猿が知っている』ルディー和子
・『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ
・『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー
・人類史の99%以上は狩猟採集生活
・『ソクラテスはネットの「無料」に抗議する』ルディー和子
・必読書 その三
うつ病、不安障害、パニック障害といった心の病に悩む人たちが多くなっているのは、私たちの脳が、現代の環境にまだ適応していないからだといわれます。
200万年前ごろに始まったとされる旧石器時代に生きていた先行人類のころから、私たちは、進化の歴史の99%以上を狩猟採集生活をして暮らしてきました。農業文明や工業文明になってからの歴史は1%にも満たないのです。私たちの脳は、まだ、群れをつくって狩猟採集生活をしていたころに適応していた心の仕組みから、現代の環境に合った仕組みには変わってきてはいないのです。
遺伝子解説技術の発達によって、現生人類の中には10万年ほど前から故郷アフリカを出て、世界に広がっていったグループがいたことがわかっています。中東・中央アジアに進出したグループもあり、その一部が1万年以上前に日本にたどりつきました。その日本においても長い間狩猟採集生活が続いたわけで、稲作は紀元前3500年ごろには始まっていたといわれてはいますが、農業文明の始まりとなれば紀元前500年ごろでしょう。日本人の場合は、長い進化の時間の中で農業文明や工業文明が占める割合は0.1%です。
【『売り方は類人猿が知っている』ルディー和子(日経プレミアシリーズ、2009年)】
ナンシー・エトコフを思わせるほどの出来映えだ。マーケティング本の枠に収まらない広汎(こうはん)な知識がわかりやすい文章で綴られている。
アメリカでパレオダイエットが持て囃(はや)されている。パレオとはパレオリシック=旧石器時代の略だ。原始人ダイエットとも称する。ダイエットは食習慣の意味だ。加工食品が体に悪いことは以前から指摘されていたが、グルテンフリー~パレオダイエットの流れはそれを不自然な穀物食にまで拡張したものだ。
磨製石器の誕生によって新石器革命と名づけられているが重要なのは農耕(1万年前)と牧畜(5000年前)である。どちらも長い歴史を経て品種改良が施された。と同時に定住革命が起こる。
一般的には第二次世界大戦以後(1945年)を現代と呼ぶが、それ以前の人類は貧困と飢餓を克服していなかった。日本人が食うのに困らなくなったのはたぶん昭和31年(1956年)あたりからだろう(「もはや戦後ではない」が流行語。ついでに書いておくと日本で公害問題が表面化したのも1950年代から60年代にかけてのこと)。
で、鱈腹(たらふく)食べられるようになると今度は食べ過ぎで健康が阻害される羽目となった。中庸や少欲知足は難しいものだとつくづく思う。有吉佐和子が高齢者の認知症問題を取り上げたのが1972年である(『恍惚の人』)。
食べ過ぎているなら食べる量を減らせばいいのだが食欲を抑えるのはかなり難しい。意志の強弱と考えられがちだがそうではあるまい。飢餓を回避する回路が埋め込まれているためだろう。もしも明日、世界から食料が消え失せれば、デブの方が長生きできることは明らかだ。
糖質制限は元々糖尿病患者の食事療法であったが、狩猟生活が長かった人類の歴史を思えば理に適っている。農耕は穀物を食べることを強制する。穀物はいずれも高でんぷん質で消化された後ブドウ糖(糖質)となる。
GI値(グリセミック・インデックス)は食品による血糖値上昇の度合いに注目した指数だが、「主な食品のGI値」を見ると高GI(70以上)の食品は狩猟民族が容易に食べられるものではないことに気づく。穀物の収穫は秋になるまで待つ必要があるし、根菜やイモ類も毎日見つけることは難しいだろう。さほど神経質になることもないと思うが、「食欲の秋」と言うくらいだから秋から冬(貯蔵食品に頼る季節)にかけては、むしろ高GIが望ましいのかもしれない。
マラソンランナーは大会数日前から炭水化物を多く摂取する。軍隊の特殊部隊も同様で作戦数日前からは一切の訓練をやめて炭水化物漬けの食事を摂る。体力を使う場合は好きなだけ米を食べればいい。
我々が伝統と考えていることは人類史のわずかな期間に過ぎない。文明に依存すればするほど家畜化が進む。狼なら大自然の中で生きてゆけるが座敷犬には無理だろう。内なる野生の声に耳を傾けよ。
2020-11-10
混迷する米国大統領選と今後の国際社会
・掛谷英紀コラム 2020年11月08日 21時40分
5回読んだ。大きな溜め息を吐いた。ツイッターで「CFR(外交問題評議会)がバイデンをバックアップした」との情報を見かけた。だとすればキッシンジャーも二股をかけていたのだろう。
新しい世界秩序を構築するためには規制秩序の破壊が前提となる。その意味で米大統領選挙の混乱とバイデン新大統領の登場は最も相応しい出来事といえよう。
大統領選の裏側ではユダヤの左右勢力による綱引きが行われてきたが、旧勢力である軍産複合体が勝利を収めたと見るべきか。
歴史を振り返ればフランス革命を支えたのはユダヤ人(『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳、グループ現代)であり、ロシア革命もまたユダヤ人の手で行われた。アメリカにはイスラエルの人口に匹敵するユダヤ人が住んでいる(イスラエル614万人、アメリカ543万人)。就中ニューヨークに集中しており以前から「ジューヨーク」と揶揄されているほどだ。
かつてのコミンテルンを思えば、現代にあってもっと巧妙かつ緊密なネットワークが構築されていてもおかしくはない。今回の米大統領選挙によって世界は全体主義としての社会主義傾向に拍車がかかることだろう。格差がここまで拡大すれば一般大衆はさしたる疑問を挟むことなく諸手を挙げて賛同するはずだ。
GHQは皇室制度改革を通して戦後日本を改造した。敗戦のショック状態にあって政治家も国民もそれまで守り通した国体を見失った。左翼言論人は皇室制度を階級闘争の槍玉に上げ、あたかも権力者であるかのように吹聴した。
あの天皇陛下をお慕い申し上げ、声の限りに「万歳」を叫んだ国民感情はどこへ行ったのか? 一君万民は民主主義なる言葉で塗り替えられてしまった。
マスコミの影響も見過ごせない。
-(関連質問=ロンドン・タイムス中村浩二記者)天皇陛下はホワイトハウスで、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておりますかおうかがいいたします。
天皇 そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます。
【1975年、天皇記者会見一問一答の中身】
文字では伝わらないが、あまりにも不躾なものの言い方であった。
更に昭和天皇が1989年に崩御され、これをきっかけとしてマスコミが暴走を始めた。1990年、共同通信鹿児島支局が「皇室敬語の廃止」を訴えた。続いて沖縄タイムスが天皇陛下が沖縄を初訪問した1993年、敬語抜きの報道を実践した。そして同年、朝日新聞がこれに同調する。更には北海道新聞が足並みを揃えた(「皇室敬語報道の行方 - 鹿児島大学リポジトリ」を参照した)。左翼の寝技は実に巧妙である。
戦前の武装共産党のリーダーだった田中清玄〈たなか・きよはる〉は獄中で尊皇の精神に目覚めた(『田中清玄自伝』)。徳富蘇峰は終戦後に血を吐く思いで日記を認めた(『徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』』)。だが現在(いま)、田中も徳富もいない。
2020-11-09
瞑想の否定/『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ
・『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ
・人は自分自身の光りとなるべきだ
・瞑想の否定
・『最後の日記』J・クリシュナムルティ
・ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)著作リスト
どんな形であれ、意識的な瞑想は真実ではない。けっしてそうはありえないのだ。故意に瞑想しようと試みることは、瞑想ではない。それは起こるべきものであって、こちらから招き寄せるものではない。瞑想は精神の遊びではなく、欲望や楽しみでもない。瞑想しようと試みること自体が、まさに瞑想を否定している。ただ、あなたがいま考えていること、行為していることだけに気をとめていなさい。見ること、聞くことは、報いも罰もない行為である。行為の技(わざ)は、見方、聞き方にかかっている。形をとった瞑想はすべて、かならず欺瞞や幻影にいたる。なぜなら欲望は盲目だから。 美しい宵で、春のやわらかい光が地をおおっていた。
【『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ:宮内勝典〈みやうち・かつすけ〉訳(めるくまーる、1983年/原書は1982年)】
いつの間にか読むものがなくなったので再読した。宮内の訳文は読みやすい。さほどこなれた文章ではないのだが読んでいると気にならない。点線のように言葉が辿りやすいのだろう。
瞑想の否定である。もちろん瞑想そのものではなく形式・方式に収まった瞑想を指す。これを私は仏教徒への批判と読んだ。悟っていない者が悟った者に額づく時、隷従する精神が悟性の妨げとなる。他人の言いなりになって悟りを開けるのであれば、それは技術となってしまう。よもやブッダが「私に従え」と言うはずもなかろう。
「精神の遊び」という一言が針の如く突き刺さる。悟りへの羨望こそが迷いの本質なのだろう。むしろ迷いをありのままに見つめ、否定も肯定もしないところに悟道がある。
最後の一行で思弁に基づく批判が封じ込められる。内部が偉大なる空(くう)の境地で占められている人は、ただ世界を受容し、ひたと見つめ、世界そのものと化している。
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