2021-12-05

暴力に屈することのなかった明治人/『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』小山俊樹


 ・暴力に屈することのなかった明治人

『昭和陸軍全史1 満州事変』川田稔
『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 大蔵と朝山が立ち去って間もなく、西田税〈にしだ・みつぎ〉の家に来客があった。西田も顔を知る茨城の青年、川崎長光〈かわさき・ながみつ〉(血盟団残党)である。
「川崎君じゃないか、さ、上がれ」
 久しぶりに会った川崎を、西田は機嫌よく2階の書斎に上げた。獄中の井上日召(超国家主義者で血盟団の指導者)らは元気である、他の連中にも差し入れをした、などと西田はよく喋った。15分か、20分ほどであろうか。川崎は、うつむき加減に西田の話を聞いていた。だが、様子が変である。
「何をするッ!」
 刹那、川崎は隠していた拳銃を構えた。西田は一喝して川崎に飛びかかる。そのとき、銃弾が西田の胸部を撃ち抜いた。
 だが、西田は怯(ひる)まない。両手でテーブルを押し倒し、それを乗り越えて川崎ににじり寄った。川崎は後退しながら第2弾を撃つ。腹部に銃撃を受けた西田は、なおも川崎に迫る。障子を倒して廊下によろめき出た川崎は、下がりながらも3弾、4弾、5弾と撃ちまくる。左の掌に、左肘に、左肩に。次々と銃弾を喰らいながら、西田は、弾を数えた。ついに川崎が撃ち尽くしたとき、西田は猛然と川崎につかみ掛かった。
 西田の気迫に圧され、階段の際まで下がっていた川崎は、西田とともに階下へ転がり落ちた。西田をふりほどいた川崎が玄関に飛び出すと、夫人が顔を出した。「早くつかまえろ!」と西田が叫び、夫人はとっさに川崎の腰をつかんだが、その手を振り払って川崎は逃げた。
 足袋のまま川崎を追った夫人が玄関に戻ると、西田は壁にもたれて女中のもつコップの水を飲もうとしていた。
「大けがに水はいけませんッ」
 夫人はコップを奪いとった。しばらくして、襲撃を知った北一輝や、陸軍青年将校らが駆けつけ、西田は順天堂大学へ搬送された。銃弾を浴びて2時間が経っていた。

【『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』小山俊樹〈こやま・としき〉(中公新書、2020年)】

 西田は当時30歳。その胆力は鬼神の域に達している。辛うじて一命は取り留めた。4年後の昭和11年(1936年)に二・二六事件が起こり、西田は北と共に首魁として翌年、死刑を執行された。二人をもってしても青年将校の動きを止めることはできなかった。

 十月事件に関与した西田が、その後合法的な活動に舵を切った。これが急進派の恨みを買った。五・一五事件で被害者となった西田が二・二六事件で死刑になるところに日本近代史のわかりにくさがある。

 巻頭には犬養毅〈いぬかい・つよき〉(※本書表記に従う)首相の襲撃場面が詳細に綴られている。「話せばわかる」「問答無益、撃て!」(※三上卓「獄中記」)とのやり取りが広く知られている。3発の銃弾で撃たれても尚、「あの若者を呼んでこい、話せばわかる」と三度(みたび)繰り返した。

 暴力に屈することのなかった明治人の気概を仰ぎ見る。これこそが日本の近代を開いた原動力であったのだろう。夫人の判断とタイミングは絶妙としか言いようがなく、いざという時の生きる智慧が育まれていた時代相まで見えてくる。

 軍法会議にかけられた青年将校に対し、多くの国民が助命嘆願が寄せられた。大正デモクラシーは政党政治の腐敗に行き着き、戦後恐慌(1920年/大正9年)や昭和恐慌(1930年/昭和5年)から国民を守ることができなかった。東北の貧家では娘の身売りが続出した(『親なるもの 断崖』曽根富美子/『昭和政治秘録 戦争と共産主義』三田村武夫:岩崎良二編)。

 第一次世界大戦で近代化を成し遂げた驕(おご)りや油断が日本にあったのだろう。二・二六事件の際も青年将校におべっかを使う将校が多かったという。結局、民意と大御心(おおみごころ)の乖離(かいり)こそが不幸の最たるものであったように思えてならない。

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2021-12-02

三月事件、十月事件の甘い処分が二・二六事件を招いた/『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四


『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』小山俊樹

 ・三月事件、十月事件の甘い処分が二・二六事件を招いた

『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎
『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 そこで民間同志を中心に金策に歩いたところ、つかまえた大口寄進者が尾張の徳川義親〈とくがわ・よしちか〉侯爵(福井藩主松平慶永〈まつだいら・よしなが〉の五男)で、30万円とも37万円ともいわれる大枚入手の見込みがついた。昭和3年、シベリア鉄道で橋本欣五郎と偶然乗り合わせて意気投合した日立製作所の創始者、久原房之助〈くはら・ふさのすけ〉からも援助の見込みがあったとされる。さらに不可解な話もある。桜会を裏面で支えたと思われる参謀本部第五課長だった重藤千秋〈しげとう・ちあき〉大佐の従弟で右翼浪人の藤田勇〈ふじた・いさむ〉が仲介して、橋本欣五郎が大本教(おおもときょう)の出口王仁三郎〈でぐち・おにさぶろう〉と接触し、全面的な協力が約束されたという話が残っている。この陸軍と新興宗教の結びつきは、内務省当局をいたく刺激して、昭和10年12月からの大本教弾圧へとつながった。

【『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四〈ふじい・ひさし〉(草思社、2010年/草思社文庫、2016年)以下同】

 大本教弾圧の話は衝撃的だ。まったく知らなかった。また資金提供する人々がいたところを見ると、クーデターには民意が反映されていたと考えてよさそうだ。

 この計画が本当だったとすれば、桜会はその目的をより鮮明に、その行動をより過激なものにしている。三月事件プロヌンシアミエント(宣言)だったとすれば、この十月事件は政権への短切(たんせつ)な一撃、すなわちクーデターに発展したといえよう。また、満州事変と連動していると見れば、プッチ(一揆)としてもよいだろう。珍妙な閣僚名簿や警視総監まで決めていたことばかりに目が向いて、この十月事件の計画は杜撰(ずさん)で子供じみた企てとされてきた。しかし、よく見ると世界的にもオーソドックスなクーデター計画だった。日本独特な国家体制を活用している点など、むしろ巧妙といえるだろう。

 大東亜戦争敗戦の反動が学生運動であったとすれば、藩閥解消後の反動がクーデターと考えることは可能だろうか? あるいは大正デモクラシーや社会主義者の影響も少なからずあったに違いない。

 閣僚を皆殺しにするという物騒極まりない計画を立てて、血行まであと一歩というところまで行ったのだから、ふつうならば内乱予備や殺人予備で起訴される。ところがこの十月事件の首謀者は、ごく軽い処分で済んだ。身柄を拘束された12人は各地に分散して軟禁、その上で重謹慎、12月の異動で地方へ左遷ということになった。認知を勝手に離れ、騒ぎまくった長勇少佐だけは許されない、予備役編入だと決まりかけたが、第4師団の参謀長だった後宮淳大佐をはじめさまざま救いの手が差しのべられて現役にとどまれた。実働部隊の若手尉官は、目立った者が禁足という程度の処分だった。
 前に終戦時の職務を括弧で示したように、この十月事件の首謀者は、一時的に左遷されたものの、すぐに旧に戻って順調に栄進を重ねることとなる。これでは軍紀、風紀はないも同然だ。なにを仕出かしても憂国(ゆうこく)の至情(しじょう)さえあれば許されるとだれもが思うようになったのだから、二・二六事件が起きるのは必然だといえよう。

 岩畔豪雄〈いわくろ・ひでお〉の見解と同じだ(『昭和陸軍謀略秘史』)。身内に甘い文化はそのまま戦後から今日にまで受け継がれている。てにをはを変えて法律を骨抜きにした官僚や、死亡者が出ても「いじめはなかった」とする学校や教育委員会が責任を取ることはない。原子力発電にも多くの嘘があった。

 これは多分、江戸後期の切腹が形骸化し、詰め腹を切らされたりしたあたりに由来するのではあるまいか。法もさることながら道義において責任を取る者がいなくなれば、青少年の道徳心を涵養することは難しい。

 私は歴史や伝統とは無縁な北海道の地で生まれ育ったが、それでも尚、学童期にあって「可哀想だろう!」という惻隠の情が存在した。極端ないじめはなかったし、むしろいじめっ子が後でやり込められることも多かった。特に女の子たちの眼が鋭かった。泣いている子がいれば必ず誰かが寄り添った。「お前とは絶交だ!」と言っても次の日は仲良く遊んでいた。大人が正常に機能していたのだろう。

 昭和20年の若きエリートは特攻隊となって散華した。現代のエリートが汚職や天下りで富の獲得に余念がないとすれば、もはや選良の名に値しない。

2021-11-30

からだの語源は死体/『日本人の身体』安田登


『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い』高階秀爾
『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登

 ・からだの語源は死体

必読書リスト その四

 古い日本語の「からだ」というのは死体という意味でした。生きている身体は「み(身)」と呼ばれ、それは心と魂と一体のものでした。生きている身体が「からだ」と呼ばれるようになったことで、からだは自分自身から離れて対象化されるようになります。そうすると、自分自身との一体感が薄れるので、専門家である他人の手に委ねても平気なようになるのです。
 それだけではありません。「からだ」の語源である「殻」のように、自分の周囲に強固な境界を設け、他人との壁を設けるようになります。
 このような壁が強いと、能をはじめとする古典芸能のほとんどは演じることができません。古典芸能は、楽譜も曖昧なものだし、指揮者もいない。お互いの呼吸で合わせていきます。しかも、その場その場で。

【『日本人の身体』安田登〈やすだ・のぼる〉(ちくま新書、2014年)以下同】

 日本人が心身二元論になったのは近代以降であるとの指摘だ。ただし仏教では色心(しきしん)二法が説かれていた。色法(しきほう)が物質で心法(しんぽう)が性質である。続いて西洋と日本の体に対する見方の違いが示される。

「裸であることを知る」というのは、ちょっと違和感のある言葉使いです。しかし、この「知る」という言葉が大事です。
「知る(ヘブライ語略)」という行為は、『聖書』の中では神のわざです。「知る」が動詞として使われるのは「神のように善悪を知る」というような使われ方が『聖書』での初出です。
「知る」というのは、ただ単に何かを知ることではなく、善と悪とを知ることであり、これは本来、神だけに許された「神のみのみわざ」でした。アダムとイブの罪の第一は、「知る」という神の行為を手に入れてしまったことだったのです。

 つまり、「上(天)から見ているから知る」ということなのだろう。抽象度が高いのだ。

 聖書で裸をあらわす「マアル:ヘブライ語略」は、アッカド語や、それ以前のシュメール語では「男性性器」を表す言葉です。善悪を「知る」が、やがて性的な行為をも意味するようになったと書きましたが、ヘブライ語の裸にはもともと性器の意味があり、自然に性行為を思い起こさせる言葉だったのでしょう。
 それに対して、日本語の「はだか」は「はだ」+「あか」です。「あか」は赤でもあり「明」でもあります。公明正大なこころを「あかき清きこころ」というように、「あか」には「明るさ」や「清浄さ」のイメージがあります。日本語の「はだか」は、そのように明るく、清浄な、おおらかなイメージをもった言葉なのです。

 温暖湿潤気候の影響が大きい。欧米が家の中でも靴を履いているのは寒さが厳しいためだ。明治以前は裸を見られても羞恥心が湧くこともなかったと書かれている。1970年代に突然始まったストリーキングもキリスト教世界の方がはるかに大きい衝撃があったに違いない。

 身(み)は「実」と同源の言葉で、中身のつまった身体をいいます。その中身とは命や魂ですが、「身」という言葉しかなかった時代には「魂」という言葉もありませんでした。
「身」とは身体と魂、体と心が未分化の時代の統一体としての身体をいいます。
 ちなみに後の時代になって生まれてくる「からだ」という言葉は、もぬけの殻や、空っぽの「から」が語源ではないかといわれていますが、魂の抜けた殻としての「死体」という意味が最初でした。そして「からだ」という語がない時代には「魂」という言葉もなく、『古事記』の中に「たま」という語は出てきますが、そのほとんどが勾玉をあらわす「たま」です。
 ところが「西洋」の古典を読むと、神話ができた頃には、すでに心身は分離していたようです。
 紀元前8世紀半ばごろの作品といわれるホメーロスの『イーリアス』には次のような文章があります。

 怒りを歌え、女神よ……あまたの勇姿らの猛き魂を冥府(アイデス)の王に投げ与え、その亡骸(なきがら)を群がる野犬野鳥の啖(くら)うにまかせたかの呪うべき怒りを。
(『イーリアス』岩波文庫 呉茂一訳)

 勇士の「魂」は冥府の王のもとに行くのですが、その「亡骸」は地上にあって野犬野鳥に食われると歌われます。こんな古い叙事詩で、すでに「魂」と身体である「亡骸」が分離しています。

 二元論がグノーシス主義よりも古かったとは恐れ入谷の鬼子母神である。

 しかし、明治以降に西洋文化が大量に入ってくるようになると、心身二元論が優勢になり、「身」は「からだ」と「こころ」に別(ママ)れてしまい、身体は「からだ」に属するようになります。
「身」が「からだ(殻=死体)」に取って代わられるようになると、身体をモノとして扱うようになります。身体の客体化です。
 そして「からだを鍛える」というような、突拍子もない考えが生まれます。
「鍛える」というのは、「きた(段)」を何度も作る、すなわち金属を鍛錬するために何度も打つというのが本来の意味で、身体をそのように扱うのは「からだ」を自分自身から離したとき、すなわち外在化・客体化してはじめて可能になります。自分自身と身体が一体だったときには、そのようなことは思いもよらなかったでしょう。
 体を鍛えるためのエクササイズなどは、少なくとも江戸時代にはなく、夏目漱石は『吾輩は猫である』の中で当時はやりつつあった「運動(エクササイズ)」を猫にさせて笑っています。(以下引用文略)

 確かに。武術の世界で行われていたのは稽古だ。筋トレやストレッチのような部分に注目するエクササイズは見られない。

 能楽師の見識恐るべし。書評を書きながら検索まみれとなり、挙げ句の果てには読むべき本を63冊追加した。心身二元論は病によって更に引き裂かれる。病は心にまで及び、精神疾患は深層心理学や脳科学によって多種多様な症状に名称を与えられ百花繚乱の感を呈している。近代化は人間をアトム化したが、コンピュータ時代は精神をも分断し解体する。

 体は不調や衰えによって意識される。私が危機感を抱いたのは生まれて始めて肩凝りになった時だ。48歳だった。すぐさま対処法を調べ、1週間で治した。それが体を見つめるきっかけとなった。ウォーキング、ランニング、バドミントン、ロードバイク、ストレッチ、筋トレ、懸垂、ケトルベル、胴体トレーニング、血管マッサージを行ってきた。最終段階に見据えているのは呼吸法~瞑想だ。

 尚、文章に「という」「ように」「なる」が頻発していて折角の内容がくすんでしまっている。ご本人の癖もあるのだろうが筑摩書房編集部の無能が露呈している。

2021-11-29

諸行無常と縁起の意味/『生物にとって時間とは何か』池田清彦


『正義で地球は救えない』池田清彦、養老孟司
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

 ・諸行無常と縁起の意味

時間論
必読書リスト その三

 生物の本質は物質とは独立の霊魂であるとの考えを採らなければ、生物は確かに物質のみで構成されている。しかし、たとえば細胞は、生きて動いている限り、決して構造が確定した物体ではない。ならば細胞とは何か。それは細胞を構成する物質(主として高分子)間の関係性であると、さしあたっては考えるより仕方がない。
 これは細胞に限らず、イヌでもネコでも同じである。プラトンはイヌをイヌたらしめて、ネコをネコたらしめているのは、物体から遊離独立した実在であるイデアであると考えた。これは単純明快で、この上なくわかり易い考えであるけれども、物体から独立して実存しているイデアなるものを、それ自体として研究することは、現代科学の枠組では不可能である。現代科学は、物体あるいは物質の実存性を基底とする研究枠組であり、関係性は、これらの間の関係性として措定されなければならないからだ。常に成立する関係性を明示的に記述できたとき、通常それは法則と呼ばれる。法則もまた不変で普遍の同一性である。たとえば重力法則は常に同一の形式で記述でき、しかも、いかなる時空においても成立しているとされる。
 物理学や化学などの現代科学は、物質と法則という二つの同一性を追求してきたのだ、と言ってよい。この二つの同一性は不変で普遍であり、ここからは時間がすっぽり抜けている。別言すれば、現代科学は理論から時間を捨象する努力を傾けてきたのである。恐らく、不変で普遍の同一性が、我々の存在とは独立に世界に自存するとの構図は錯覚であるが、この構図が大きな成功をおさめてきたのは事実である。

【『生物にとって時間とは何か』池田清彦〈いけだ・きよひこ〉(角川ソフィア文庫、2013年)】

 少し癖のある文章が読みにくい。それでも虚心坦懐に耳を傾ければ池田の破壊力に気づく。関係性は動きの中に現れる。これすなわち時間である。我々はともすると有無の二元論に囚われ、存在を固定しようとする。ところが固定されたものは死物なのだ。なぜなら関係性が見捨てられているからだ。とすれば、クオリアが指す質感もイデアから滴り落ちた樹液の一雫(ひとしずく)なのだろう。

「長嶋茂雄っぽい感じ」とプラトンのイデア論/『脳と仮想』茂木健一郎

 イデアが志向するのはブラフマンだ。「究極で不変の現実」(Wikipedia)は画鋲で留められたあの世である。この世(此岸)との関係性が断ち切られている。

 諸行無常縁起(えんぎ)の意味が見えてくる思いがする。今まで読んできたどの宗教書よりも説得力がある。