・聖書の間違いと矛盾
・キリスト教を知るための書籍
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
(「マタイによる福音書」10章34節)
【『イエス・キリストは実在したのか?』レザー・アスラン:白須英子訳(文藝春秋、2014年/文春文庫、2018年)以下同】
「一人の人物が四つの異なった『履歴書』を持っているとしたら、あなたは、その人物を信頼することが出来るでしょうか」(『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士)。できません(キッパリ)。聖書はその慈愛と暴力でもって読む者の精神を二つに切り裂く。このためクリスチャンには二重人格的な傾向が見られる。例えば十字軍と救世軍など。帝国主義と社会福祉を両立させるのが彼らのやり方だ。「発見の時代」(Age of Discovery/大航海時代)において各国に派遣された宣教師は、戦争準備段階における斥候(せっこう/スパイ)の役割を担っていた。聖書では神が人間を殺しまくる。
あまり熱心でないムスリムと、威勢のいい無神論者の入り交じる家庭で育った子供にとって、これは初めて聞く最高に偉大な物語だった。神の導きをこれほど身近に感じたことはそれまで一度もなかった。イランで生まれた私は、自分はペルシア人だからムスリムなのだという程度の自覚しかなかった。宗教と民族はたがいに相関関係にあるものだと思っていたのである。ある宗教的伝統の中に生まれた人の大半がそうであるように、自分の信仰は自分の肌の色と同じくらい生来のもので、とくに意識したこともなかった。イラン革命で家族が仕方なく故郷を脱出してからは、わが家では宗教全般、とりわけイスラームについての話題はタブーになった。(中略)通常の私たちの日常生活から、神の痕跡はほとんどかき消されてしまっていた。
それは私にとって、むしろ好都合なことだった。1980年代のアメリカで、ムスリムであることは火星人みたいなものだったからである。
距離があるからこそよく見えるものがある。イスラム教とキリスト教は同じ神を信じているわけだから「信じる土壌」は共通している。宗教とはフィルターのようなものだが、アブラハムの宗教は同系色だと考えてよかろう。
少なくとも私が教わった福音派キリスト教の根底にあるのは、聖書の言葉の一つ一つが神の霊の導きのもとに真実を伝えるために書かれた、文字通りに呼んで間違いのないものであると無条件に信じることだった。ところがそう信じることは、どう見ても反駁の余地のないほど間違っており、聖書は数千年の間に大勢の人々によって書かれた文書であれば当然予想されるような、おびただしい明らかな間違いや矛盾が山のようにあることに突然気づいた私は、面食らい、精神的な拠りどころを見失ってしまったような気持ちになった。その結果、こういう経験をした多くの人々がそうであったように、私は騙されて高価な偽文書を買わされたような気分になって腹が立ち、キリスト教信仰を捨てた。
レザー・アスランは宗教学者である。彼は聖書に出てくるイエスではなく、「ナザレのイエス」の生身に迫ろうとする。結論は――覚えていない。読んだのは5年前のことだ。興味のあることですら覚えていられないのに、さほど関心がないことを覚えるのは不可能だ。クリシュナムルティはかつて「イエスは実在したのか?」という質問に対して、「たぶん、いなかったでしょう」と答えた(『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン)。
紀元前後はまだ紙がなかった時代である。情報の拡散は口コミによった。実在した「ナザレのイエス」を死後に脚色することは可能である。あるいは「ナザレのイエス」を「ドラえもん」のように創造することもできただろう。西洋哲学が存在や実存を巡る議論になるのもイエス実在の不安に根づいたものではあるまいか。
しかしながら2000年を経た今、「いなかった」ことにはできない。「イエスという情報」が歴然としているからだ。キリスト教世界の歴史的合意を軽んじては差別の謗(そし)りを免れない。イエスという物語は脳神経と親和性があるのだろう。キリスト者は厖大な神学をもって大脳皮質をも制御した。
西洋一神教と正反対に位置するのが日本の神道である。教祖も聖典も存在しない。つまり信徒を束縛するものが一つもないのだ。あるのは祭祀(さいし)と祈りだけだ。水のような淡白さであるが日本人にはしっかりと根づいている。