2021-12-08

心が弱くなるとオバケを創り出す/『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰


・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰
『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰
『心晴日和』喜多川泰
『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰
『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰
・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰
『書斎の鍵 父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰

 ・心が弱くなるとオバケを創り出す

『ソバニイルヨ』喜多川泰
『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰

「人間が創り出す新しいものというのは、なにも、世の中に役立つ素晴らしい発明品ばかりではないということだと、僕は思っています」
「というと?」
「オバケです。僕たちは、あまりにも想像力がたくましすぎるので、自分が経験したことを総合して、この世に存在しないオバケを創り出してしまうのです。あんなことになっちゃうんじゃないか、こうなったらどうしよう、きっとこう思っているはずだって、起こったこともない、ほとんど起こりもしない状況を頭の中で想像しては、それを怖がることに人生を費やす。社会全体がオバケを創り出す雰囲気になっている時代っていうのは、エネルギーを、新しい発明や発見を進めるほうに使うよりもむしろ、別の新しいものを創り出すことに使われたんじゃないかと思うんです。たとえば、ありもしないオバケを創るのに忙しい時代だったとか……。今の森川さんのように」

【『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2015年)】

 バブル景気が弾けてからというもの日本全体をうっすらとした閉塞感が覆っている。雇用のあり方が変わったためと思われるが、努力が報われない・再チャレンジの機会が少ない・いつリストラされるかわからないといった心理情況と、非正規化や平均収入の低下に加えて増税の影響が大きい。つまり可処分所得が減り続けているわけだ。

 資本主義社会において「公務員の待遇を羨む」のは明らかにおかしい。まして小学生が将来「公務員になりたい」などと思うのは世も末と断言していい。今後、デジタルトランスフォーメーション(DX)によって雇用は縮小する。AIやロボットに仕事を奪われるのだ。経営者は人件費をコストと見なし、賃金を上げずに内部留保を溜め込んでいる。こうした動きや背景を踏まえると、世界の潮流は緩やかな社会民主主義を目指すように思われる。

 タイムカプセル社は10年後の自分に宛てた手紙を預かり、10年後にそれを届けることを業務にしている。人それぞれの10年がある。その変化が主題である。過去の自分と向き合った時、人は驚くほどたじろぎ、うろたえ、感慨の波に飲まれる。それを一つの結果ではなく、新たなスタートして描いているところに喜多川泰の技量がある。

聖書の間違いと矛盾/『イエス・キリストは実在したのか?』レザー・アスラン


 ・聖書の間違いと矛盾

キリスト教を知るための書籍

 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
 平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
(「マタイによる福音書」10章34節)

【『イエス・キリストは実在したのか?』レザー・アスラン:白須英子訳(文藝春秋、2014年/文春文庫、2018年)以下同】

「一人の人物が四つの異なった『履歴書』を持っているとしたら、あなたは、その人物を信頼することが出来るでしょうか」(『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士)。できません(キッパリ)。聖書はその慈愛と暴力でもって読む者の精神を二つに切り裂く。このためクリスチャンには二重人格的な傾向が見られる。例えば十字軍救世軍など。帝国主義と社会福祉を両立させるのが彼らのやり方だ。「発見の時代」(Age of Discovery/大航海時代)において各国に派遣された宣教師は、戦争準備段階における斥候(せっこう/スパイ)の役割を担っていた。聖書では神が人間を殺しまくる。

 あまり熱心でないムスリムと、威勢のいい無神論者の入り交じる家庭で育った子供にとって、これは初めて聞く最高に偉大な物語だった。神の導きをこれほど身近に感じたことはそれまで一度もなかった。イランで生まれた私は、自分はペルシア人だからムスリムなのだという程度の自覚しかなかった。宗教と民族はたがいに相関関係にあるものだと思っていたのである。ある宗教的伝統の中に生まれた人の大半がそうであるように、自分の信仰は自分の肌の色と同じくらい生来のもので、とくに意識したこともなかった。イラン革命で家族が仕方なく故郷を脱出してからは、わが家では宗教全般、とりわけイスラームについての話題はタブーになった。(中略)通常の私たちの日常生活から、神の痕跡はほとんどかき消されてしまっていた。
 それは私にとって、むしろ好都合なことだった。1980年代のアメリカで、ムスリムであることは火星人みたいなものだったからである。

 距離があるからこそよく見えるものがある。イスラム教とキリスト教は同じ神を信じているわけだから「信じる土壌」は共通している。宗教とはフィルターのようなものだが、アブラハムの宗教は同系色だと考えてよかろう。

 少なくとも私が教わった福音派キリスト教の根底にあるのは、聖書の言葉の一つ一つが神の霊の導きのもとに真実を伝えるために書かれた、文字通りに呼んで間違いのないものであると無条件に信じることだった。ところがそう信じることは、どう見ても反駁の余地のないほど間違っており、聖書は数千年の間に大勢の人々によって書かれた文書であれば当然予想されるような、おびただしい明らかな間違いや矛盾が山のようにあることに突然気づいた私は、面食らい、精神的な拠りどころを見失ってしまったような気持ちになった。その結果、こういう経験をした多くの人々がそうであったように、私は騙されて高価な偽文書を買わされたような気分になって腹が立ち、キリスト教信仰を捨てた。

 レザー・アスランは宗教学者である。彼は聖書に出てくるイエスではなく、「ナザレのイエス」の生身に迫ろうとする。結論は――覚えていない。読んだのは5年前のことだ。興味のあることですら覚えていられないのに、さほど関心がないことを覚えるのは不可能だ。クリシュナムルティはかつて「イエスは実在したのか?」という質問に対して、「たぶん、いなかったでしょう」と答えた(『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン)。

 紀元前後はまだ紙がなかった時代である。情報の拡散は口コミによった。実在した「ナザレのイエス」を死後に脚色することは可能である。あるいは「ナザレのイエス」を「ドラえもん」のように創造することもできただろう。西洋哲学が存在や実存を巡る議論になるのもイエス実在の不安に根づいたものではあるまいか。

 しかしながら2000年を経た今、「いなかった」ことにはできない。「イエスという情報」が歴然としているからだ。キリスト教世界の歴史的合意を軽んじては差別の謗(そし)りを免れない。イエスという物語は脳神経と親和性があるのだろう。キリスト者は厖大な神学をもって大脳皮質をも制御した。

 西洋一神教と正反対に位置するのが日本の神道である。教祖も聖典も存在しない。つまり信徒を束縛するものが一つもないのだ。あるのは祭祀(さいし)と祈りだけだ。水のような淡白さであるが日本人にはしっかりと根づいている。

2021-12-07

エティ・ヒレスムの神 その二/『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック


『エロスと神と収容所 エティの日記』エティ・ヒレスム

 ・エティ・ヒレスムの神 その一
 ・エティ・ヒレスムの神 その二

キリスト教を知るための書籍

 オランダのユダヤ人女性エティ・ヒレスム[1914年生まれ。アムステルダム大学でスラブ学、法学を学んだ後、ナチ占領下のアムステルダムやヴェスターボルク収容所でユダヤ人のために活動。1943年11月、アウシュヴィッツで虐殺される。戦後、その手紙と日記が出版され大きな反響を呼んだ]はその日記に、彼女が探し求め、発見した「自分自身の神」の記録を残した。手書きの日記は1941年3月に始まり、1943年10月に終わっている。

【『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック:鈴木直訳(岩波書店、2011年)以下同】

 反響を呼ぶのは理窟ではない。真理が散りばめられた言葉である。これが悟りの証(あかし)である。

 エティはまるで自分自身に語りかけるように、神に語りかけた。彼女は何のこだわりもなく、直接、神に話しかけた。そして自己発見と神の発見、自己探求と神の探求、自己創造と神の創造はまるで当然のことのように一体化していた。彼女「自身」の神は、シナゴーグの神でも、教会の神でも、あるいは「無信仰な者たち」と一線を画す「信者たち」の神でもなかった。「彼女」の神は異端を知らず、十字軍を知らず、言語を絶する異端審問の残忍さを知らず、宗教改革も反宗教改革も知らず、宗教の名による大量殺戮テロも知らなかった。彼女自身の神は神学から自由で、教義を持たず、歴史に無頓着で、おそらくそれゆえにこそ慈愛に満ち、弱々しかった。彼女はいう。「祈るとき、私は決して自分自身のためには祈らず、いつでも他者のために祈る。あるいは私の内なるいちばん奥深いものと、時にはばかげた、時には子供っぽい、時には大まじめな対話をする。そのいちばん奥深いものを、私は簡便のために神と呼んでいる」。
 必要とされるのは、宗教的なもののこういした主観的次元を適切に扱いうる宗教社会学的視点だ。

 いや、そんなもんは要らない。個人の悟りを学問の枠組みにはめ込もうとするのが西洋世界の教父的伝統なのだろう。私としては、ただ言葉を味わい、真理の光を見つめ、自己観察の一助にするのが適切だと思う。

 私はブッダとクリシュナムルティの言葉に心酔する一人であるが、実はまだ瞑想を実践していない。エティ・ヒレスムに敬意を表して、今日から瞑想を実行する。彼女への哀悼の念を込めて。

  

パウロと教父/『奇跡を考える 科学と宗教』村上陽一郎


 ・パウロと教父

キリスト教を知るための書籍

 初期教会の建設に最大の功績があったのはパウロであり、パウロはイエスの直接の弟子ではなく、それだけに、当時の関係者としてはほとんど唯一人、ユダヤ教の律法を熟知していたばかりか、ギリシャ的な教養や学問を身につけた人物だった。そして初期キリスト教会が自立し、目標に向かって活動する基盤の整備という仕事が、彼一人の肩にかかったことは、『新約聖書』の後半のほとんどがパウロの仕事であることからも言えるだろう。
 しかしパウロの仕事は、イエスの教えをどう理解し、人々の間にどうやって伝え、どうやって生きて行くことのなかで実践するか、という指針の提供に集中していた。言い換えれば、キリストの教えとは無縁のギリシャ哲学の伝統や、ローマの教養とのすり合わせを行った上で、そうした学問の伝統のなかでも、十分な説得性と合理性とをもってイエスの教えを理解することのできるような、纏まった神学大系を築く作業は、パウロのものではなかった。それは単に他の宗教的な体系に対して自らを守るという消極的な視点ばかりではなく、ヘレニズムの世界全体に通用する宗教的理念の確立という、積極的な意味を持った仕事だった。そしてその作業に、さまざまな形で取り組んだのが、教父と呼ばれる人々だった。

【『奇跡を考える 科学と宗教』村上陽一郎〈むらかみ・よういちろう〉(講談社学術文庫、2014年)】

 誠実な好著であるが、村上がカトリック信徒であることを考慮する必要あり。「ウーーーン」となる文章が目立つ。宗教は思考を束縛し、信仰は感情を支配する。宗教は六根(五感+意識)というフィードバック機能を教理でもって歪める。


 現在のイスラエルは地中海性気候である。比較的温暖だが雨が少ない。上記地図を見れば一目瞭然だがイスラエルを中心とした砂漠世界はイスラム教世界となっている。宗教の伝播(でんぱ)は気候の影響を強く受ける。仏教の場合、南伝北伝に分かれるが気候が厳しい地域では教義も厳しくなる傾向がある。ユダヤ教発祥のキリスト教とイスラム教にも適用可能だろう。またドイツからプロテスタントの火の手が上がったのも気候的な厳しさによるものと私は考えている。

 キリスト教はパウロ教とも言われるが、パウロの名は英語圏ではポール、スペイン語圏ではパブロである(『ニューステージ 世界史詳覧』浜島書店編集部編)。ポール・マッカートニーやパブロ・ピカソの名前はパウロ由来というわけだ。

 ギリシャ哲学(新プラトン主義)とキリスト教を理論的に統合したのがアウグスティヌスである。中世になるとトマス・アクィナスが『神学大全』を完成する。この人、日蓮とほぼ同世代というのも興味深いところである。

 壮大な後付理論だな。あるいは歴史的言いわけ。西洋の修辞学や論理学が胡散臭いのは説得が目的化しているためだ。相手を知る、理解する姿勢が欠けている。我々は『万葉集』民族である。ちょっと肌が合わないわな。

2021-12-06

キリスト教福音派の反知性主義/『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』町山智浩


・『〈映画の見方〉がわかる本 『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで』町山智浩

 ・キリスト教福音派の反知性主義

キリスト教を知るための書籍

「アメリカの知識人階級と大衆のあいだに巨大で不健全な断絶があることが明白になった」
 そう書いたのは『タイム』誌だが、最近ではなく、50年以上前の1952年の記事である。実は、こんな状況は今始まったことではなかった。'72年にマスコミや知識人、大学生の激しい反対運動にもかかわらずニクソンが再選された時も同じことが言われた。ずっとアメリカはこうだった。
 アメリカ人は単に無知なのではない。その根には「無知こそ善」とする思想、反知性主義があるのだ。
 1963年の名著『アメリカの反知性主義』で、歴史学者リチャード・ホフスタッターは、アメリカ人の知識に対する反感の原因のひとつにキリスト教福音主義を挙げている。福音主義とは、福音、つまり聖書を一字一句信じようとする生き方で(特に過激なのは聖書原理主義と呼ばれる)、自らを福音派とするアメリカ人は全人口の3割を占めている。彼らにとって余計な知識は聖書への疑いを増すだけであり、より無知なものほど聖書に純粋に身を捧げることができる。中世ヨーロッパでは聖書以外の書物に価値はなかったが、ルネッサンス以降、書物によって知識と論理的な思考が普及し、近代科学が生まれた。しかしその結果としてキリスト教信仰は弱体化した。しかし、アメリカでは福音派が何度となく巨大な信仰回帰運動を起こし、知性を否定してきた。たとえば福音派のドワイト・L・ムーディ牧師は「聖書以外の本は読まない」ことを誇りとした。
「アメリカの成人の2割は、太陽が地球の周りを回っていると信じている」という調査('05年ノースウエスト大学ジョン・D・ミラー博士)があるが、無理もないのだ。
 ただ、福音派は元来、俗事にすぎない政治には関心が薄かった。それが強力な票田になることに気づいたのは共和党だった。
 アメリカの大統領選挙は、各州ごとに決められた「選挙人」というポイントを、その州で過半数を取った候補が全取りするルールだ。だから2000年の選挙では得票数で勝ったゴアがブッシュに負けるという事態も起こった。この集計方式だと、都市のある東海岸や西海岸の州よりも、人口の少ない南部や中西部や西部の州のほうが1票の重さは重くなる。福音派は田舎に集中して住んでいるので選挙への影響力は大きい。教会やテレビ伝導で信者をごっそり投票に動員することもできる。
 1980年の大統領選挙で、共和党は伝統的モラルへの回帰を唱えて彼らを取り込み、以後、福音派は共和党の強力な支持基盤になった。

【『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』町山智浩〈まちやま・ともひろ〉(文藝春秋、2008年/文春文庫、2012年)】

 先日紹介したが、「アメリカの政財界人、最高裁判事等のエリートは、キリスト教のプロテスタント系の聖公会(せいこうかい)の信者が大多数です」(『宗教で得する人、損する人』林雄介)という話もある。信仰というよりは所属教団のコミュニティ性に束縛されるのだろう。

 町山は昨今、完全に左方向へ舵を切ったが本書は良書である。かつてラジオ番組で父親が在日韓国人であることを吐露していたが、よもやここまで反日振りを発揮するとは予想だにせず。小田嶋隆も歩みを揃えて(町山vs.上杉隆バトルで)からあっち方向へ行ってしまった。一ファンとしては無念極まりない。

 原理主義(ファンダメンタリズム)と聞けば日本人は自動的に「イスラム原理主義」を思うが、アメリカは立派なキリスト教原理主義国家である。ま、大統領が就任する際、聖書に手を置いて宣誓するような国だからね。アメリカ国民はあれを政教一致だとは言わない。で、大統領は「明白な天命」(マニフェスト・デスティニー)を国民に説くという寸法だ。アメリカ以外の国からすれば、全く「明白」ではないのだが。

 アメリカではBLM(ブラック・ライヴズ・マター)運動が活発になってから一気に左傾化が進んだ。彼らが振るう暴力をマスメディアは殆ど報じない。人権に名を借りた国内破壊工作だと私は考える。大統領選挙の混乱も酷かった。現職大統領がSNSを禁じられたのも長く歴史に刻まれる出来事である。それほどトランプが邪魔だったのだろう。左右のユダヤ勢力の抗争が背景にあったと囁かれている。

 更に新型コロナ騒動が社会の変化をドラスティックに推し進めた。国家が国民を管理し、命令するようになったのだ。飲食店や航空会社、旅行代理店などは大打撃を受けた。工場の縮小・閉鎖も増えた。今後はビッグテックと国家の綱引きに注目する必要があるだろう。ウイルス感染については共同歩調をとっているように見える。