2011-09-29

パレスチナの子供たち


 パレスチナに生まれたというだけで、子供たちがこんな目に遭わされている。ユダヤ教は邪教としか考えられない。イスラエルはヒトラー以上の悪党だ。

Kids Right 2 Live

Israel Killed family this child

gal_gaza_bombing_12

People in Palestine

GAZA HOLOCAUST

虫けらみたいに殺されるパレスチナの人々/『「パレスチナが見たい」』森沢典子

2011-09-28

合理的な思考と関係性の構築/「民主主義における正義」武田邦彦 2011年9月27日


 3.11以降、武田邦彦(中部大学)は毎日のようにホームページを更新し、次々とテレビやインターネット放送に出演し、国会や政治家の勉強会にも招かれている。これだけでも十分尊敬に値するのだが、この人が凄いのは「学問への信頼」という姿勢であり、政治性や損得を退け、学問に照らした合理性を堂々と語っている一点にある。

 明朗でいつもニコニコしている。明快な語り口で淀むところがない。更に該博な知識と絶妙な比喩で問題の本質を炙(あぶ)り出す。

 原子力行政や事故対応などについて声を上げた学者は少ないながら他にもいた。彼らは学問の底力を満天下に示したといってよい。

 そして私は思った。「その他大勢の学者連中は何をしているのだろうか?」と。国内で大惨事が起こっている時に、通常通りのカリキュラムをこなしているのだろうか? 立ち上がる学者や教育者はあまりにも少なかった。つまり「学問は死んだ」のだ。

 いかなる分野の学問であろうと、東日本大震災に結びつけ、東電原発事故を問うことは可能であろう。それすら怠っている職業教師は教壇から降りるべきだ。

 武田に至っては近頃、音声のメッセージまで発信している。「伝えずにはいられない」という思いが、彼を駆り立てているのだろう。武田こそ「先生」と呼ばれるのに相応(ふさわ)しい大人であると思う。

【「技術者の倫理」という講義で】「何が正義なのか?」「自分が正しいと考えるものは正しいわけではない」「正しいというのは、神様が決めるか、偉人が決めるか、相手が決めるか、法律で決めるか――主にはこの四つで定まっていると考えてよい」



NYC - Metropolitan Museum of Art - Jacques-Louis David - The Death of Socrates

 遵法(じゅんぽう)精神を明らかにすることで科学者・技術者としての分際を弁える姿勢を教えている。その謙虚さが政治家は元より、政治家を選ぶ国民にまで突きつけられるのだ。

 一見すると単純な原理を示しているようでありながら、正義と民主主義というテーマは哲学・宗教の領域に踏み込むものである。

 この国の最大の不幸は、国家を運営する政治家や官僚、そして大企業が「正しさ=利権」という価値観から脱却できないところにある。これほどの犠牲を払いながら、目を覚ますことなく旧態依然とした判断しかできないのだ。

 反原発を口にすると、「じゃあ電気はどうするんだ? 代替案を出せ」などという馬鹿者がいるが、原発導入が国民の相違に基づくものでない以上、それを考えるのは政治家の仕事だ。

 もしも現行法で東京電力を潰せないとすれば、法律に不備があるとしか言い用がない。贈収賄、独占禁止法、私有地における電柱問題、意図的な高額メニューの設定など、突っつくところはいくらでもあると思う。

武田邦彦【動画】

放射能と生きる (幻冬舎新書)君が地球を守る必要はありません (14歳の世渡り術)リサイクル幻想 (文春新書)

環境問題はなぜウソがまかり通るのか (Yosensha Paperbacks)環境問題はなぜウソがまかり通るのか2 (Yosensha Paperbacks)環境問題はなぜウソがまかり通るのか3 (Yosensha Paperbacks)

パレスチナに自由を!

End the occupation & sufferings

Gaza ..

PALESTINE

Palestine.

Palestine Grafities

Palestine Grafities

Palestine

楽観主義


「物事というものは、見かけの半分も悪くはないものですよ」

【『少女パレアナ』エレナ・ポーター:村岡花子訳(角川文庫、1962年)】

少女パレアナ (角川文庫クラシックス)パレアナの青春 (角川文庫)

2011-09-27

アシッド・アタック(酸攻撃)


 アシッド・アタック(酸攻撃)なる言葉を初めて知った。

女性に酸を浴びせて顔を損壊させる事件の裏に何があるのか

 検索したところ、様々なページがあった。

酸に焼かれた少女 : セイダ&ナイラのストーリー(パキスタン)
アシッドアタック 酸を浴びせられた女性たち パキスタン
女性の一生を台無しにするアシッドアタック
画像検索

 地の果てまで追いかけても同じ目に遭わせてやるべきだ。犯人には凌遅刑(りょうちけい)が相応(ふさわ)しい。













緑の雫


 まるで緑の雫(しずく)が滴(したた)り落ちてくるようだ。あるいは飛沫か。マイナスイオンという言葉には科学的根拠がなく、デタラメなマーケティング用語であることは知っているが、写真からは清々しい「気」のようなものが伝わってくる。背景が明るい黄緑で、焦点を合わせたもみじの青葉が暗いのも面白い。通常とは逆のコントラストである。既にYumi氏の画像を何枚もtumblrで紹介しているが、リブログされる率が極めて高い。

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戦略の誤りは戦術では補えない


 戦術や作戦レベルでの間違いは、方法論のレベルで発生したものなので後とで修正が効く可能性があるが、政治レベルや戦略レベルの間違いは、目的そのもののレベルで発生したものなので、結果としては取り返しのつかないことにつながる。戦略の成功というのは絶対に保証できるものではなく、つねに「政策のセンス」や「軍隊の能力」、そしてその二つの間の「対話」によって左右されるものだ。したがって、良い戦略というのは常にこの「対話」の中から生まれなければならない。

【『戦略の格言 戦略家のための40の議論』コリン・グレイ:奥山真司〈おくやま・まさし〉訳(芙蓉書房出版、2009年)】

戦略の格言―戦略家のための40の議論

戦略と戦術

2011-09-26

少年と語るマスード

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 時系列が定かではないが、いずれも2001年4月4日に撮影されたものだ。「パンジシールの獅子」と恐れられた男の顔が思わず綻(ほころ)んだ。少年は何をお願いしたのだろうか。マスードの周囲にはいつも人がいる。彼は簾(すだれ)の向こう側に鎮座(ちんざ)するようなことがなかった。クリシュナムルティにも共通している点である。

アフガンの英雄アフマド・シャー・マスード/『マスードの戦い』長倉洋海

獅子と呼ばれた男―アフガニスタンからの至急報マスードの戦い (河出文庫)アフガニスタン敗れざる魂―マスードが命を賭けた国ぼくが見てきた戦争と平和

圧迫面接という手法を根絶するための妄想


 圧迫面接をご存じだろうか? 不況時における就職は企業に有利な買い手市場となる。クレーム処理やトラブル対応の能力を問う目的で、威圧的・高圧的・居丈高な質問を面接で繰り返すことを圧迫面接という。

Wikipedia

 株式会社ネットマイルの面接担当者がGoogle+で実況中継をしたらしい。

架空?の「罵倒面接」を実況中継 苦しい弁明を乗り切るお詫びの作法とは
Google+で採用面接を“実況中継”して炎上 社員の投稿をネットマイルが謝罪「架空のもの」
Google+で架空面接“実況”のネットマイル社員、社内処分へ
ネットで男性社員が「採用面接」実況 勤務先は「架空のもの」とした上で謝罪
株式会社ネットマイルの池田達成さん、専門学生(30歳)が面接している様子をGoogle+で実況
株式会社ネットマイルの池田達成、30歳専門学生の採用面接をネットで実況し炎上→嘘でした @netmile1

 実は教員採用試験の面接においても圧迫面接は行われてきた(※都道府県によって異なる)。

恐怖の圧迫面接

 怖そうな試験管に、全くの真顔で最初は、試験管「君の言っていることがわからない」といわれ、次に、試験管「何を言いたいの? 完結に述べて」と吐き捨てられ、最後には、試験管「結局机上の空論なんじゃないの? 現場では無理なんだよ」と怒られた……。

【上記ブログより引用】

 ま、体裁を変えた「いじめ」といってよい。「現場では無理なんだよ」だと? 一体お前らがどんな教育成果を上げたというのだ? 選ぶ側の傲慢さが全開となっている。

 暴力が容認される世界では暴力で対抗するしかない。これが私の持論だ。プーラン・デヴィを見よ。

両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ

 私はスーザン・ソンタグよりも積極的に暴力を容認する立場だ。欧米が世界を牛耳っている間は。

 では早速、教員採用試験を妄想してみよう。

「あなたが尊敬する人物は?」山口二矢〈やまぐち・おとや〉です。

Assassination of Asanuma

浅沼稲次郎暗殺事件(1960年10月12日)

 青年は圧迫面接を伏し目がちで無言のままやり過ごす。

「そんな姿勢じゃ、現場では無理なんだよ!」と罵声が響き渡る。合図を待っていたかのように青年は立ち上がり、座っていたイスを振りかざす。怒鳴った男の口は半開きで震えている。青年は居並ぶ連中を見下ろしながら「静かにしていてください。声を上げてはいけません」と言うなり、イスを男の頭部に叩きつけた。

 中年の女性が失禁した。「今から私の言う通りにしてください。そうでなければ、この男性と同じ目に遭わせます。いいですね」。青年は全員の身分証明証と免許証を携帯電話で撮影した。続いて携帯電話を渡し、一人ひとりに住所と電話番号を言わせた。自宅の留守番電話に録音したのだ。

 イスを元に戻し、再び腰を掛けた。パックリと開いた男の頭部から青年の足元まで血が流れていた。

「さて皆さん、こうしたことが教育現場で起きたら、どのように対応するのか見せてください」
「また、あなたたちが圧迫面接という形で行使する暴力と、私が振るった暴力との違いを教えてください」

「わ、わ、わたしたちは教育委員会の指示に従っているだけです」。そう答えた男の腕をつかみ、青年は彼の小指を捻(ひね)り上げた。乾いた小枝の折れるような音がした。男は指をかばいながら低い声で泣き出した。

「確か、ナチス高官のアドルフ・アイヒマンも裁判で同じことを言ってましたね。その答えは不合格です」

 青年は胸ポケットからアイスピックを取り出した。「私が不採用になるのは一向に構いません。ただ、皆さんがこれ以上、圧迫面接を続けるようでしたら、このアイスピックがあなた方の心臓に突き立てられると思ってください」

 彼は何事もなかったように面接会場を去っていった。(完)

 なお教員採用試験における圧迫面接は2011年度から殆ど行われていないようである。テロが起こる前でよかったね。

面接官「我社であなたを採用するとして、我社にどんなメリットがありますか?」 俺「ぐぬぬ……」



先ず隗より始めよ/『楽毅』宮城谷昌光

2011-09-25

行動


「うまくいかないかもしれないけど、いくかもしれない。とにかく、やってみることだわ」

【『レイチェル・ウォレスを捜せ』ロバート・B・パーカー:菊池光〈きくち・みつ〉訳(ハヤカワ・ノヴェルズ、1981年/ハヤカワ文庫、1988年)】

レイチェル・ウォレスを捜せ (ハヤカワ・ミステリ文庫―スペンサー・シリーズ)

まだ中毒になっていない人のためのtumblr入門


 tumblr(タンブラー)の話をしよう。初秋の季節、日曜日の昼下がりにはtumblrの話題が相応(ふさわ)しい。

 ま、何をどう使おうと自由なわけだが、tumblrについては画像共有ミニブログと認識するのが正しい。ファン(フォロワー)の殆どが外国人のため、日本語の文章は理解されない。実態としては動画も共有(リブログ)されにくい。

 tumblrは静かに始めたい。そうでないとあっと言う間に中毒に陥る。「これなしではやっていけない身体」になってしまうのだ。

 まずtumblrに登録する。「tumblr」という表記も間違えると恥ずかしいので辞書登録しておく。次に以下のページで「テーマ」を決める。

tumblr Theme Garden

 ここで慌ててはいけない。コーヒーを飲むことをお勧めしよう。

 そして必ずflickr(フリッカー)に登録する。flickrにはtumblr共有ボタンがあるからだ。登録したばかりだと、「t」ボタンが表示されないことがあるようだが、以下のページを参考にされよ。

新機能のFlickr共有ボタンで写真単位の共有が楽になった
Flickr、真剣に「ソーシャル」との連携を狙う?! 「Share This」機能によりTwitterやFacebookでの簡単共有機能を実装
flickr BLOG(英語)

 自分で撮影した画像を広めたい人は、ある程度ファンの数が増えてから行うべきだろう。

 ここから白紙状態のtumblrをあなたの色で染めることとなる。コレクター、キュレーターとしての一歩を踏み出すのだ。鹿島茂の言葉を噛み締めておきたい。

『子供より古書が大事と思いたい』鹿島茂

 最初の画像は「ダッシュボード→Tumblrの人気ページを見る」から行えばよい。気に入った画像をクリックし、ページ上部の「リブログ」ボタンを押すだけだ。

 またURL指定もできるので、ウェブ上の画像であれば何でもポスト可能だ(画像URLを指定)。YouTubeなどの動画もURLだけでアップできる。

 フォローする人数はあまり増やさない方がいいと思う。twitterと一緒で収集がつかなくなるからだ。私は10人しかフォローしていない(ファンは99人)。

 フォローする人の探し方は、気に入った画像をアップした人のtumblrへジャンプ。「アーカイブ」を見る。アーカイブのリンクがない場合は、URLの末尾に「/archive」を付ければ閲覧できる。これも辞書登録しておこう。で、パッと見た瞬間の印象で決める。少々訓練が必要だが、慣れればどうってことはない。

 私の基本的な手法は、flickrでどんどんお気に入り(You→Your Favorites)を増やし、それをtumblrにポストするというものだ。重複することがないよう、ポストした画像はお気に入りから削除する。ここで求められるのは英語キーワードによる検索能力だ。

 色々調べてみると、「ポストする画像を探すのに苦労している」などという声が散見されるが、全く信じ難い話である。私は抑制するのに苦労しているのだ。tumblrの容量は1日あたり75枚までとなっている(容量オーバーした場合の規制解除は16:20)。

 比較的人気があると思われるテーマは、夕日、海、水、消失点、建築様式(アーキテクチャー)、モノクロ、美男美女といったところだ。私は貧困、差別、暴力などのリアリティに関心がある。

 更にtumblrを電子書籍のような体裁にするサービスもある。

puble

 画像の海で波乗りを楽しむのがtumblrライフといえる。

onologue
Bloggerへの画像アップはflickr経由がよさそう&tumblrとの連携について
tumblrに見る危険性
画像はflickrにアップするのが正しい

2011-09-24

Fuck you God


 詳細は不明だが地雷の被害だと思われる。「神よ、くたばれ」という叫びは届くだろうか。神様は天上でふんぞり返って、一人の子供すら満足に救うことができない。少年は中指を立てることもできなくなってしまった。

【※ノートの上部がやけに白い。「FUCK YOU GOD」の文字は細工されている可能性がある。 10月2日】

fug



 やはり創作であった。本物はこちら。

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 Deanne Fitzmaurice(サンフランシスコ・クロニクル)が撮影。イラク戦争の爆発で瀕死の重傷を負ったイラク人少年。彼を治療するオクラホマ州の病院に関するシリーズでピュリッツァー賞を受賞している。

ピュリッツァー賞受賞作品集

エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?


エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか? 1/2 投稿者 otoken4u


エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか? 2/2 投稿者 otoken4u

エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか? デラックス版 [DVD]内部告発エンロン

エンロンの衝撃―株式会社の危機青い蜃気楼―小説エンロン (角川文庫)なぜ巨大企業はウソをついたのか―エンロンが見せた虚像と実像 (PanRolling Library)

読書の技術


 書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えてくるのには、相当な時間と努力を必要とする。人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、読書の技術というものも、そこ以外にはない。

【『モオツァルト・無常という事』小林秀雄(日産書房、1949年/新潮文庫改版、1961年)】

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

ニュートリノの速度は光の速度より速い、相対性理論と矛盾 CERN


 素粒子ニュートリノが質量を持つことの最終確認を目指す国際共同実験OPERA(オペラ)の研究グループは22日、ニュートリノの速度が光速より速いことを実験で見出したと発表した。確認されれば、アインシュタイン(Albert Einstein)の相対性理論に重大な欠陥があることになる。

 実験では、スイスの欧州合同原子核研究機構(European Centre for Nuclear Research、CERN)から730キロ先にあるイタリアのグランサッソ国立研究所(Gran Sasso Laboratory)へ、数十億のニュートリノ粒子を発射。光の到達時間は2.3ミリ秒だったが、ニュートリノの到達はそれよりも60ナノ秒ほど早かった(誤差は10ナノ秒以下)。ニュートリノの速度は毎秒30万6キロで、光速より毎秒6キロ速いことになる。

 OPERAのスポークスマンを務める物理学者のアントニオ・エレディタート(Antonio Ereditato)氏は、「ニュートリノの速さを知るための実験だったが、このような結果が得られるとは」と、本人も驚きを隠せない様子。発表に至るまでには、約6か月をかけて再検証や再テストなどを行ったという。

 研究者らはなお今回の結果には慎重で、世界中の物理学者らに精査してもらおうと、同日ウェブサイト上に全データを公開することにした。結果が確認されれば、物理学における理解が根本から覆されることになるという。

物体を貫通するのに加速?

 ニュートリノは、太陽などの恒星が核融合を起こす時の副産物だ。電気的に中性な粒子で、極めて小さく、質量を持つことが発見されたのはごく最近のこと。大量に存在しているが検出は難しいことから「幽霊素粒子」とも呼ばれる。

 ただし、アインシュタインの特殊相対性理論に沿えば、物質は真空では光より速く移動することができない。

 ニュートリノは地球の地殻を含めて物体を貫通して移動しているが、「移動速度が(貫通により)遅くなることはあっても光速以上に加速することはあり得ない」と、データの再検証に参加したフランスの物理学者、ピエール・ビネトリュイ(Pierre Binetruy)氏は、疑問点を指摘した。

 2007年に米フェルミ国立加速器研究所(Fermilab)で同様の実験に参加した英オックスフォード大(Oxford University)のアルフォンス・ウィーバー(Alfons Weber)教授(素粒子物理学)は、光速より速いニュートリノが現行の理論と相容れないことを認めた上で、測定誤差の可能性を指摘し、同様の実験を行って結果を検証する必要性を説いた。

 フェルミで行われた実験では、やはりニュートリノの速度が光速をやや上回っていたが、結果は測定誤差の範囲内だったという。

4次元とは別の次元?

 理論物理学者は、ニュートリノの予想外の速さを説明するための新たな理論を構築する必要に迫られるだろう。

 先のビネトリュイ氏は、ニュートリノが4次元(空間の3次元+時間)とは別の次元への近道を見つけたのかもしれないと話した。「あるいは、光速は最速とわれわれが思い込んでいただけなのかもしれない」

AFP 2011-09-23

「光より速いニュートリノ」をめぐる誤解
第一種過誤を恐れる物理学者、第二種過誤を恐れる経済学者
大型ハドロン衝突型加速器(LHC)とスモール・ビッグバン

2011-09-23

悟りの閃光


 瞑想とは現在と出会い、瞬間に生きる術(じゅつ)である。過去を完全に葬ると真の英知が光を放つ。悟りとは理解の異名である。

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瞑想は格闘技だ

子供の絵に見られる世界観の発達


 子どもたちは幼いとき平面的な絵を描きます。年長になると、それが立体的になってくる。このような表現様式の発達は、子どもに見える世界、つまり子どもの世界観の発達に対応しているのでしょう。子どもに影の存在を教え、より現実に近い知覚を与えるもの、それが父の存在の認識です。父存在(それは神と呼ばれることもあります)の掟に従って生きるほかない自己を認識すること、それによって子どもは人間になるのです。

【『インナーマザーは支配する』斎藤学〈さいとう・さとる〉(新講社、1998年)】

インナーマザーは支配する―侵入する「お母さん」は危ない

2011-09-22

パキスタン情報当局、米国を狙った攻撃に関与=米当局者


 パキスタンの情報機関である統合情報部(ISI)が、同国を拠点とする武装勢力「ハッカニ・ネットワーク」に対して米国を標的にした攻撃を働きかけた証拠が数多くあると、複数の米当局者が警告している。
 2人の米当局者と米パ関係に詳しいある情報筋によると、9月13日にアフガニスタンの首都カブールで起きた米大使館と北大西洋条約機構(NATO)本部への攻撃について、米情報当局が報告書の中で、ISIがハッカニに指示もしくは要請したものだと指摘。ただ、この情報の裏付けはまだ取れていないという。
 また、米政府の内部調査に詳しい別の当局者は、少なくともISIがハッカニに対し、米国を標的にした攻撃をけしかけていたことが諜報を通じて強く示唆されていると述べた。
 マレン米統合参謀本部議長も今週に入り、ハッカニに対して行動を取るようパキスタン側に求めていた。
 ISIによるハッカニへの関与が事実だとすれば、今年5月の米軍によるウサマ・ビンラディン容疑者の殺害作戦で悪化していた米国とパキスタンの関係はさらに冷え込むとみられる。

ロイター 2011-09-22

読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー


 ・読書の昂奮極まれり

『歴史とはなにか』岡田英弘
『世界システム論講義 ヨーロッパと近代世界』川北稔
『歴史の起源と目標』カール・ヤスパース

世界史の教科書
必読書リスト その四

 1961年の1月から3月にかけて行われた連続講演を編んだもの。その2年後に生まれた私が、ちょうど50年後に読んだことになる。

 数ページをパラパラとめくったところで「名著!」という文字が極太ゴシック体で点滅する。脳内ではシナプスが次々と発火し、それまではつながらなかった回路を連続的に形成する。長い間、どんよりと疑問に思ってきたことが氷解し、疑問にまで至っていないモヤモヤしたものまでが一掃された。まさしく天才本(てんさいぼん)といってよい。

 歴史とは「物語化された時間」である。物語は時系列に沿って進行するため歴史的であることを免れない。時間は過去から未来へと一直線上を進むためだ。

 生老病死というリズムが人生の前提である以上、人間そのものが歴史的存在といえる。

「歴史とは何か」という問題に答えようとする時、私たちの答は、意識的にせよ、無意識的によせ、私たちの時代的な地位を反映し、また、この答は、私たちが自分の生活している社会をどう見るかという更に広汎な問題に対する私たちの答の一部分を形作っているのです。

【『歴史とは何か』E・H・カー:清水幾太郎〈しみず・いくたろう〉訳(岩波新書、1962年)以下同】

 歴史は事実そのものではない。歴史家の目に映ったものが歴史として綴られるのだ。つまり、あらゆる歴史は歴史家の立ち位置に束縛されている。写真はカメラマンの位置からしか撮影することができない。

 魚が魚屋の店先で手に入るように、歴史家にとっては、事実は文書や碑文などのうちで手に入れることが出来るわけです。歴史家は事実を集め、これを家へ持って帰り、これを調理して、自分の好きなスタイルで食卓に出すのです。

 とすると、素材を知ることなくして歴史という料理を味わうことはできない。更に用いられなかった材料をも見抜き、その理由を察知することが求められよう。それができなければ、与えられた歴史を鵜呑みにするしかない。

the history of history

 現代のジャーナリストなら誰でも知っている通り、輿論を動かす最も効果的な方法は、都合のよい事実を選択し配列することにあるのです。事実というのは、歴史家が呼びかけた時にだけ語るものなのです。いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発現を許すかを決めるのは歴史家なのです。ビランデルロの作品中のある人物であったかと思いますが、事実というのは袋のようなもので、何かを入れなければ立ってはいない、と言ったことがあります。1066年にヘスティングスで戦闘が行なわれたことを知りたいと私たちが思う理由は、ただ一つ、歴史家たちがそれを大きな歴史的事件と見ているからにほかなりません。シーザーがルビコンという小さな河を渡ったのが歴史上の事実であるというのは、歴史家が勝手に決定したことであって、これに反して、その以前にも以後にも何百万という人間がルビコンを渡ったのは一向に誰の関心も惹かないのです。

 ある出来事に意味を吹き込むのが歴史家の仕事であるならば、歴史家は神と同じ場所に位置するものと考えてよい。捏造(ねつぞう)、偽造、割愛、削除を自由に行えるのだ。ま、数百年後に出されたジャンケンみたいなものだろう。

 また当たり前のことではあるが、大衆の平凡な営為に歴史的価値はなく、平均値としてのみ記録される。

 歴史的事実という地位は解釈の問題に依存することになるでしょう。この解釈という要素は歴史上のすべての事実の中に含まれているのです。

 これが一つ目の急所だ。「歴史とは解釈である」。実は政治も宗教も科学も芸術も解釈である。脳機能の根幹を成すアナロジーは解釈そのものだ。すなわち思考とは解釈の異名である。

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 E・H・カーに導かれてはたと気づく。「言葉は解釈を超えられない」ことを。解釈とは説明である。「自分」というフィルターを通した逆理解である以上、解釈はバイアス(歪み)を避けられない。そもそも認知そのものにバイアスが掛かっている(認知バイアス)以上、進歩・進化・昇華・脱構築といったところで、情報の書き換えにすぎないのだ。結局、「上書き保存」ということだ。

 てにをはのレベルであればどうってことはないのだが、「大虐殺はあったのか、なかったのか」なんて次元になると国家間でぶつかり合う羽目となる。議論の内容は細密を極め、さほど関心のない人から見ると、まるで量子世界のように映る。

 紀元前5世紀のギリシアがアテナイ市民にとってどう見えていたか、それは私たちはよく知っていますけれども、スパルタ人にとって、コリント人にとって、テーベ人にとって――ペルシア人のこと、奴隷のこと、アテナイの住民であっても市民でない人々のことまで持ち出そうとは思いませんが――どう見えていたかということになりますと、私たちは殆ど何も知らないのです。私たちが知っている姿は、あらかじめ私たちのために選び出され決定されたものです、と申しましても、偶然によるというよりは、むしろ、意識的か否かは別として、ある特定の見解に染め上げられていた人たち、この見解を立証するような事実こそ保存する価値があると考えていた人たちによってのことであります。それと同様に、中世を取扱った現代の歴史書のうちで、中世の人々は宗教に深い関心を抱いていた、と書いてあるのを読みますと、どうしてそれが判るのか、本当にそうなのか、と私は怪しく思うのです。

 あらゆる分野で古い解釈と新しい解釈とが争い合っている。こうした議論は必ず資料に依存する。「書かれたもの」が正義としてまかり通るのだ。誤っている可能性はこれっぽっちも考慮されない。

History

 信心深い中世人という姿は、それが真実であっても、真実でなくとも、もう打ち壊すことはできません。なぜなら、中世人について知られている殆どすべての事実は、それを信じていた人たち、他の人々がそれを信じるのを望んでいた人たちが私たちのためにあらかじめ選んでくれたものなのですから。そして、恐らくその反対の証拠になったであろうと思われる別の沢山の事実は失われていて、もう取り戻すに由ないのですから。死に絶えた幾世代かの歴史家、記録者、年代記作家の永代所有権によって過去というものの型が決定されてしまっていて、もう裁判所に訴える余地も残されておりません。

 歴史とは加工された記録なのだ。古(いにしえ)の権力者が暦(こよみ)を支配してきた事実を思えば、更に意味合いが深まる。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

 すべての歴史は「現代史」である、とクローチェ(1866-1952、イタリアの哲学者)は宣言いたしました。その意味するところは、もともと、歴史というのは現在の眼を通して、現在の問題に照らして過去を見るところに成り立つものであり、歴史家の主たる仕事は記録することではなく、評価することである、歴史家が評価しないとしたら、どうして彼は何が記録に値いするかを知り得るのか、というのです。

 過去を「見る」ことはできても、過去へ「行く」ことはできない。

 コリングウッドの見解は次のように要約することが出来ます。歴史哲学は「過去そのもの」を取扱うものでもなければ、「過去そのものに関する歴史家の思想」を取扱うものでもなく、「相互関係における両者」を取扱うものである。(この言葉は、現に行なわれている「歴史」という言葉の二つの意味――歴史家の行なう研究と、歴史家が研究する過去の幾つかの出来事――を反映しているものです。)「ある歴史家が研究する過去は死んだ過去ではなくて、何らかの意味でなお現在に生きているところの過去である。」しかし、過去は、歴史家がその背後に横たわる思想を理解することが出来るまでは、歴史家にとっては死んだもの、つまり、意味のないものです。ですから、「すべての歴史は思想の歴史である」ということになり、「歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである」ということになるのです。歴史家の心のうちにおける過去の再構成は経験的な証拠を頼りとして行なわれます。しかし、この再構成自体は経験的過程ではありませんし、事実の異なる列挙で済むものでもありません。むしろ、再構成の過程が事実の選択と解釈とを支配するのです。すなわち、正に、これこそが事実を歴史的事実たらしめるものなのです。

 これが2番目のホシ(急所)だ。歴史の相対性理論、あるいは歴史の縁起観ともいうべきか。過去と現在を往来する眼差しの中に歴史は立ち上がる。

 下界は見えるが山頂の見えない登山のようなものか。

 歴史家は過去の一員ではなく、現在の一員なのです。

 歴史修正主義を見れば一目瞭然だ。

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 まだまだ書き足りないのだが、ひとまず結論を述べよう。既に二日がかりで書いている。

 ここで、歴史における叛逆者あるいは異端者の役割について少し申し上げなければなりません。社会に向って反抗する個人という通俗的な姿を描き出すのは、社会と個人との間に、偽りの対立を再び導き入れることになります。どんな社会にしろ、全く同質的ということはありません。すべての社会は社会的闘争の舞台であって、既存の権威に向って自分を対立させている個人も、この権威を支持する個人に劣らず、その社会の産物であり、反映であります。

 人間は社会的動物であるというよりも社会の産物なのだ。文化や価値観といったところで、最終的には言語と思考に収斂(しゅうれん)される。つまり言葉を親から教わる時点で否応(いやおう)なく社会と関わりを持ってしまうのだ。

 歴史における偉人の役割は何でしょうか。偉人は一個の個人ではありますけれども、卓越した個人であるため、同時に、また卓越した重要性を持つ社会現象なのであります。

 偉人は一個の存在であると共に社会現象なのだ。これは凄い。凄すぎる。

 私が攻撃を加えたいと思うのは、偉人を歴史の外に置いて、突如、偉人がどこからともなく現われ、その偉大さの力で自分を歴史に押しつけるというような見方、「ビックリ箱よろしく、偉人が暗闇から奇蹟の如く立ち現われて、歴史の真実の連続性を中断してしまう」というような見方にほかなりません。今日でも、私は、次に掲げるヘーゲルの古典的な叙述は完璧なものだと考えております。

「ある時代の偉人というのは、彼の時代の意志をその時代に向って告げ、これを実行することのできる人間である。彼の行為は彼の時代の精髄であり本質である。彼はその時代を実現するものである」

 E・H・カーの指摘は複雑系科学とも完全に一致している。特定の個人に光を当てれば当てるほど、その人物は一般人から懸け離れた存在となる。ブッダやイエスを考えるとわかりやすい。彼らをヒューマンファクターとして捉えるのか、それとも現象として捉えるのかという問題だ。大雑把にいえば神はヒューマンファクターで、仏は現象といえる。

歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

 近代世界における変化というのは、人間の自己意識の発展にありますが、これはデカルトに始まると言えるでしょう。

 ここからクライマックスに至る。

 現世的社会は教会によって形作られ、組織されていたもので、それ自身の合理的生命を持つものではありませんでした。民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だったのです。近代の歴史が始まったのは、日増しに多くの民衆が社会的政治的な意識を持つようになり、過去と未来とを持つ歴史的実体としてその各自のグループを自覚するようになり、完全に歴史に登場して来た時です。社会的、政治的、歴史的意識が民族の大部分に広がり始めるなどというようなことは、僅かな先進諸国においてさえ、精々、最近200年間のことでした。

 私の意識は吹っ飛んだ。気がついた時はリングの上で大の字になっていた。いや本当の話だよ。

 すなわちデカルトが自我を発明(『方法序説』1637年)し、それ以前の民衆は「歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」と喝破(かっぱ)している。

 歴史とは自覚的なものなのだ。

 自我と経済が結びついて近代の扉は開かれた。産業革命~資本主義、市民革命~国民国家という構図だ。

 そうすると民主主義という概念は、歴史の主体者であることを民衆に吹き込む思想なのだろう。しかしながら我々は「現象」であることを免れないのだ。カーの見識は自由意志のテーマにも深く関わってくる。

 読書の昂奮極まれり、という一書である。

E・H・カーの『歴史とは何か』再読



歴史という物語を学ぶための教科書
世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
コロンブスによる「人間」の発見/『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世
自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
新約聖書の否定的研究/『イエス』R・ブルトマン
ニーチェ的な意味のルサンチマン/『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均
宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
宗教と言語/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
歴史という名の虚実/『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
あたかも一角の犀そっくりになって/『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
大衆は断言を求める/『エピクロスの園』アナトール・フランス