2012-01-19
2012-01-18
君は君の道を見つけて、それに従わなければならない
ベルナール=アンリ・レヴィ リビア叛徒暴虐に関する質問を逃げる
仏リビア軍事介入推進者、シオニストのベルナール=アンリ・レヴィ。2011年11月13日。
身振り手振りの大きさに臆病さが露呈している。司会者を正面から見据えずに横目で見る仕草も彼の動揺を示している。暴力を扇動する者は、必ずしっぺ返しを受けることだろう。
◎ベルナール=アンリ・レヴィ
赤ちゃんを抱いたジプシー女性にレイシストが椅子で殴りかかる
2012-01-17
リチャード・ドーキンス
1冊挫折。
『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス:垂水雄二〈たるみ・ゆうじ〉訳(早川書房、2007年)/過去に二度挫けている。それもあっさりとだ。三度目の正直ということでギアは噛み合ったのだが、残り百数十ページでやめた。段々と後味が悪くなってきた。自分でも理由がはっきりしない。確実なのは辛辣極まりないユーモアは面白いのだが、ニコラス・ウェイドほどの説得力はないことだ。『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』を読んだ後ではインパクトに欠ける。とにかくパラグラフが長いため、どうしても冗長に感じる。ただし米国の宗教情況を思えば致し方ない側面もあろう(ドーキンスはイギリス人)。キリスト教を中心とするドグマ性を真っ向から暴いてみせたという点で歴史的一書になると思われる。ドーキンスは来日した時のインタビューで「仏教は宗教ではない」と発言し、哲学と位置づけている。
意見を言うときは、必ず理由を言わなければならない
@secilia2010
secilia2010 “@mogmemo: この先生ほんとにすばらしいです。対話の神髄をこんなにシンプルに。 RT @buvery すばらしいね、これ。RT『意見を言うときは、必ず理由を言わなければならない』 みやきち日記” http://t.co/qzgYX9T5 @mogmemo”
Jan 17 via Twitter for iPhoneFavoriteRetweetReply
2012-01-16
シュロモー・サンド「イスラエル国家は全てのイスラエル市民に属する」
見よ、説教強盗の生きた見本を。何と日本語訳が刊行されていた。
2012-01-15
マーシャ・ガッセン
3冊目『完全なる証明 100万ドルを拒否した天才数学者』マーシャ・ガッセン:青木薫訳(文藝春秋、2009年)/「今後の読書がつまらなくなるかもしれない」――そんな思いがよぎった。私の中で傑作評伝といえば中丸美繪〈なかまる・よしえ〉著『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』であるが、スリリングの度合いにおいて本書が上回っている。ミレニアム懸賞問題の一つであるポアンカレ予想をロシアの天才数学者グレゴリー・ペレルマンが証明した。副題の100万ドルとはこの懸賞金のこと。ペレルマンはミレニアム賞もフィールズ賞も拒絶した。著者のマーシャ・ガッセンはペレルマンと同世代であり、彼と同じようにロシアの数学専門学校で学んだ女性だ。で、何がスリリングかというと、ガッセンは一度もペレルマンと会うことができなかったのだ。それゆえ資料とインタビューからペレルマンの人物像を手繰り寄せるしかなかった。要はポアンカレ予想を始めとする「犯行」に至る動機と状況証拠を捜査する役回りとなっている。読み物としては、ロバート・カニーゲル著『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』よりはるかに面白い。青木薫の翻訳も実に素晴らしい。
不思議な光を放つ双眸
何なのだろう。この不思議な光は。双眸(そうぼう)に見つめられ身動きができなくなる。じっと見入ると息苦しくなってくるほどだ。眉間には憂愁が刻まれている。が、口元は微笑んでいるようにも見える。首からぶら下げた十字架はエチオピア正教のものだ。杖の握り部分からは年季が窺える。男は何を見てきたのか。天国でないことは確かだろう。彼は言語に絶する苦しみや悲しみを見続けてきたのだろう。それでも運命と受け止め、神の残酷な仕打ちに耐えてきたのだろう。清らかな瞳には一点の後悔も見られない。ただ覚悟の焔(ほのお)が静かに燃え続けている。
2012-01-14
見ざる、聞かざる、聞かざる
三猿(さんざる、さんえん)は「見ざる、聞かざる、言わざる」という智慧を表したものだが、下の3人に知恵はない。一見すると耳を塞いでいるように見えるが、元々彼らに耳はないのだ。愚かな権力者は存在自体が戯画的である。そして彼らの滑稽(こっけい)さが国民に塗炭の苦しみを与える。笑うに笑えない話だ。
寒さ厳しい南三陸町
@sakananomiura
さかなのみうら 南三陸町連日氷点下の日が続いております。一昨日も志津川高校仮設では水道管が凍ってしまい断水状態が続き急遽飲料水を全戸配布しました。しかし、配ろうと思ったペットボトルも凍ってる始末、時間をかけ車の暖房で温めました。全国からお手伝いにお見えになる皆様くれぐれも暖かくしてお越し下さい。
Jan 14 via ついっぷる/twippleFavoriteRetweetReply
2012-01-13
米海兵隊、遺体侮辱映像の兵士二人を特定
米海兵隊の戦闘服を着た男4人が遺体に放尿している映像がネットに出回った問題で、海兵隊の関係者は12日、映像に映っている4人のうちの2人が特定されたことを明らかにした。米国とアフガニスタンではこの映像をめぐり衝撃と怒りが広がっている。
特定された2人の氏名は公表されていないが、第2海兵師団第3大隊(本部ノースカロライナ州キャンプレジューン)に所属する兵士であることを同隊の上層部が確認したという。同隊は昨年2~3月から9~10月にかけてアフガニスタンに駐留していた。
この映像を見たパネッタ米国防長官は「あまりにも嘆かわしい行為だ」と強く非難。海兵隊およびアフガニスタンに駐留する国際治安支援部隊(ISAF)のアレン司令官に対し、直ちに徹底的な調査を行うよう命じたことを明らかにした。
アフガニスタンのカルザイ大統領は「米兵によるこの行為は非人道的であり、強く非難されるべきだ」と述べ、調査と関係者の厳重な処罰を米政府に求めた。
同国の反政府武装勢力タリバーンの広報も、問題の映像を「野蛮」だと非難、「いかなる宗教においてもこうした行為は許されない。この非人道的行為によって、彼らの真の姿が世界に暴かれた」と述べている。
【CNN 2012-01-13】
◎憎悪の連鎖。アメリカ軍兵士がタリバンの死体に放尿で侮辱
2012-01-12
外務省改め従米省
@gogohmatui
山木 外務省を廃止し、従米省にしたらどうでしょう。@magosaki_ukeru 試験問題:「我が国の外交安全保障政策の理念とその具体例を述べよ」 j回答:米国に追随するだけです。具体例は全てが該当するので、一々例示する労力は避けたいと思います。
Jan 12 via webFavoriteRetweetReply
物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
・物語る行為の意味
・物語の反独創性、無名性、匿名性
・『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
・『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
・『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
・『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル
・必読書リスト
筆が重い。読んでから数年が経っているためだ。抜き書きを並べて誤魔化すことにしよう。以下の記事の続きである。
・物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
「世界は何によって動いているのか?」――私は10代の頃からそんな疑問を抱いていた。それゆえ、まず「世界はお金で動いているのだろうか?」と考え続けた。
日経平均は1989年12月29日に史上最高値である3万8957円をつけた。そこからバブル崩壊の坂道を転がり続け現在にまで至る。一般人が気づいたのは数年後のことだ。バブルの酔いを醒ましたのはリストラの嵐であった。
いつまで経っても中小企業の社長たちはバブルの季節を懐かしんでいた。少しばかり巧い話があると飛びつく経営者も多かった。そんな姿を見てはたと気づいた。「お金よりも思惑が先行している」と。
だとすれば思惑はどこから生まれるのか? それは価値観や思想に基づいている。将来のことは誰人にもわからない。一寸先は闇である。古(いにしえ)より人類は将来を占いに託した。文明が発達し情報化やデータ化が進むと計算できるようになった(実際はできないわけだが)。
計る、測る、量るが、諮るを経由して、画る、図る、謀るへと変容を遂げた(読みは全部「はか」る)。思惑とは物語であった。銘々が好き勝手な絵(青写真)を描いているのだ。私の思考は一足飛びに跳躍した。「思想とは物語である」と。
まず実在する歴史が仕上げられなければならず、次いでこの歴史が人間に物語られねばならない(アレクサンドル・コジェーヴ)
【『物語の哲学』野家啓一〈のえ・けいいち〉(岩波現代文庫、2005年/岩波書店、1996年『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』改題)以下同】
コジェーヴはロシアの哲学者で、ヘーゲルの『精神現象学』に息を吹き込んだことで知られる。初出のタイトルからもわかるように、野家は柳田民俗学とコジェーヴを手掛かりにしながら「物語」を解体する。つまり視点は右目が文学で左目が歴史に注がれている。それゆえ脳科学的な見地から批判をすることは賢明ではない。
加えて、歴史的想起なしには、すなわち語られ(oral)たり書かれ(ecrit)たりした記憶なしでは実在的歴史はない。(アレクサンドル・コジェーヴによる脚注)
コジェーヴは前半の本文において、まず実際の歴史的出来事が生起し、さらには完結し、しかる後にその出来事が人間に対して物語られるべきことを説いている。彼によれば、ヘーゲルの『精神現象学』は、実在する歴史的発展が終わった後に、それをアプリオリな形で再構成した一つの物語なのである。しかし、後半の注においては、その時間的順序を逆転させ、「語る」あるいは「書く」という人間的行為によってはじめて実在的歴史が成立することを述べている。その語るという行為を「物語行為(narrative act)」と呼べば、実際に生起した出来事は物語行為を通じて人間的時間の中に組み込まれることによって、歴史的出来事としての意味をもちうるのである。ここでコジェーヴが述べているのは、「歴史」は人間の記憶に依拠して物語られる事柄のうちにしか存在しない、という単純な事実にほかならない。
のっけからこのインパクトである。時間の本質は非可逆性にある。時間はタテ軸を垂直に進む。絶対に後戻りしない。そして歴史や物語は人間――話者、歴史家――を通して立ち上がるのだ。人間が歴史的存在であることを運命づけられているのであれば、我々は記憶の奴隷とならざるを得ない。つまり過去に束縛されて現在性を失ってゆくのである。自我を吟味すれば記憶に辿りつく。
・月並会第1回 「時間」その二
・時間と空間に関する覚え書き
アーサー・ダントの「理想的年代記」を紹介し、野家はもう一歩踏み込む。
歴史的出来事は、この「人間的コンテクスト」の中で生成し、増殖し、変容し、さらには忘却されもする。端的に言えば「過去は変化する」のであり、逆説的な響きを弱めれば、過去の出来事は新たな「物語行為」に応じて修正され、再編成されるのである。これは不思議でも何でもない日常茶飯の事実にすぎない。先の「私が提案した奇襲作戦は味方の部隊を勝利に導いた」という物語文をもう一度取り上げてみよう。後に判明したところによれば、当の部隊は孤立した別の部隊からの支援要請があったにも拘らず奇襲作戦を強行し、対局の戦略を誤って味方に大損害を与えたとしよう。そうなれば、先には称賛に値する行為であった「奇襲作戦の提案」が、「私が提案した奇襲作戦は味方に大損害を与えた」という物語文のもとでは、非難されるべき軽率な行為に様変わりしていることがわかるであろう。ルーマニア革命の前後においてチャウシェスク大統領の評価が一変し、慌てて「過去」を修正した人々がいたことは記憶に新しい。歴史は絶えず生成と変化を続けていくリゾーム状の「生き物」なのである。
このように言えば、直ちに次のような反問が返ってこよう。すなわち、それは過去の出来事の「評価」が変化しただけであり、過去の「事実そのもの」が変化したわけではない、と。だが、これが理想的な年代記作者の視点からの反論であることは、今さら指摘するまでもないであろう。コンテクストから孤立した純粋状態の「事実そのもの」は、物語られる歴史の中には居場所をもたない。脈絡を欠いた出来事は、物語的出来事ではあれ、歴史的出来事ではないのである。ある出来事は他の出来事との連関の中にしか存在しないのであり、「事実そのもの」を同定するためにも、われわれはコンテクストを必要とし、「物語文」を語らねばならないのである。
過去の出来事E1は、その後に起こった出来事E2と新たな関係を結ぶことによって異なる観点から再記述され、新たな性質を身に帯びる。それゆえ物語文は、諸々の出来事の間の関係を繰り返し記述し直すことによって、われわれの歴史を幾重にも重層化して行く一種の「解釈装置」だと言うことができる。いわゆる「歴史的事実」なるものは、絶えざる「解釈学的変形」の過程を通じて濾過され沈澱していった共同体の記憶のようなものである。その意味で、大森荘蔵の言葉を借りるならば、歴史的記述とはまさに「過去の制作」にほかならないのである。
歴史は超越的始点から記述された「理想的年代記」ではない。それは、人間によって語り継がれてきた無数の物語文から成る記述のネットワークのことである。そのネットワークは、増殖と変容を繰り返して止むことがない。言い換えれば、物語文はその本質において可謬的なのであり、クワインの周知のテーゼをもじるならば「いかなる物語文も修正を免れない」のである(このテーゼをクワインの「知識のホーリズム」になぞらえて「歴史のホーリズム」と呼ぶことができる)。そして、このネットワークに新たな物語文が付け加えられることによって、あるいはネットワーク内部のすでに承認された物語文が修正を被ることによって、ネットワーク全体の「布置」が変化し、既存の歴史は再編成されざるをえない。その意味において、過去は未来と同様に「開かれている」のであり、歴史は本来的に「未完結」なのである。
人間は「物語る動物」あるいは「物語る欲望に取り憑かれた存在」である。それゆえ、われわれが「物語る」ことを止めない限り、歴史には「完結」もなければ「終焉」もありはしない。もし「歴史の終焉」をめぐる論議に何らかの意義があるとすれば、それは歴史の趨勢を予見する「超越論的歴史」に引導を渡し、歴史記述における「物語の復権」を促すというその一点にのみ存する、と言うことができる。それは同時に、歴史を「神の視点」から解放し、「人間の視点」へと連れ戻すことにほかならない。
われわれは今、大文字の「歴史」が終焉した後の、「起源とテロスの不在」という荒涼とした場所に立っている。しかし、その地点こそは、一切のイデオロギー的虚飾を脱ぎ捨てることによって、われわれが真の意味での「歴史哲学」を構想することのできる唯一の可能な場所なのである。
歴史とは政治でもあったのだ。
・現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル
・修正し、改竄を施し、捏造を加え、書き換えられた歴史が「風化」してゆく/『一九八四年』ジョージ・オーウェル
歴史論議が過熱しやすいのは、国家のレゾンデートル(存在事由≒自我)を巡る議論であるためだ。
記憶が編集を繰り返していることは脳科学でも明らかになっている。そもそも五官経由の情報を事実と思い込むこと自体が危ういのだ。実際は入力時点において情報の取捨選択がなされている。
・フランス人に風鈴の音は聞こえない/『夢をかなえる洗脳力』苫米地英人
神ならぬ身の人間は、一定の時間-空間的秩序の中で物を見、音を聴き、物事を知るほかはない。見聞きされた事柄はやがて忘却の淵へと沈み、意識の下層に沈澱する。それを再び記憶の糸をたぐって蘇らせようとするとき、われわれは知覚の現場で出会った出来事を残りなく再現することはできない。意識的であろうと無意識的であろうと、記憶それ自体が遠近法的秩序(パースペクティヴ)の中で情報の取捨選択を行い、語り継がれるべき有意味な出来事のスクリーニングを行っているのである。われわれは記憶によって洗い出された諸々の出来事を一定のコンテクストの中に再配置し、さらにそれらを時間系列に従って再配列することによって、ようやく「世界」や「歴史」について語り始めることができる。
事実よりも文脈が重い。物語を支えるのは結構(※物を組み立てて、一つのまとまった組織・構造物・文章などを作り上げること。組み立て。構え。構成。〈『三省堂 大辞林』〉)である。そして人間の脳は物語に沿って構成されるのだろう。
人間の時空的な存在性が実によくわかる。我々は既に宇宙的存在となっている。
しかし、記憶の中にあるのは解釈学的変形を受けた過去の経験だけである。それが知覚的現在でないことはもちろん、知覚的現在と比較して模写の善し悪しを云々できるようなものでもないことは明らかであろう。当の知覚的現在はすでに存在しない以上、模写や比較という捜査はそもそも意味をなさないからである。想起とは「しかじかであった」ことを今現在思い出すことであり、思い出された事柄のみが「過去の経験」と呼ばれるのである。それゆえ、過去の経験は、常に記憶の中に「解釈学的経験」として存在するほかない。われわれは過ぎ去った知覚的体験そのものについて語っているのではなく、想起された解釈学的経験について過去形という言語形式を通じて語っているのである。「知覚的体験」を「解釈学的経験」へと変容させるこのような解釈学的変形の操作こそ、「物語る」という原初的な言語行為、すなわち「物語行為」を支える基盤にほかならない。
人間の経験は、一方では身体的習慣や儀式として伝承され、また他方では「物語」として蓄積され語り伝えられる。人間が「物語る動物」であるということは、それが無慈悲な時間の流れを「物語る」ことによってせき止め、記憶と歴史(共同体の記憶)の厚みの中で自己確認(identify)を行ないつつ生きている動物であるということを意味している。無常迅速な時の移ろいの中で解体する自己に抵抗するためにこそ、われわれは多種多様な経験を記憶にとどめ、それらを時間空間的に整序することによってさまざまな物語を紡ぎ出すのである。記憶の女神ムネーモショネーがゼウスと交わって9人のムーサを、とりわけ叙事詩の女神カリオペーと歴史の女神クレイオーを生んだと考えた古代のギリシア人たちは、まさにその間の機微を知悉していたと言うべきであろう。
しかしながら、現代においては、人間の「物語る」能力は著しく衰退しているように見える。かつては寝物語に枕辺で子供たちに「語り」聞かせるものであった昔話やお伽噺も、今では豪華な絵本を前に「読み」聞かせるものとなっている。炉端で自己の来歴と経験を虚実とりまぜながら物語ってきた老人たちは、すでに核家族の中にはその居場所を持たない。伝承され語り伝えられるべき経験は、今日では実用的な「情報」と化して書棚やフロッピー・ディスクの中に小ぢんまりと納まっている。現代における「物語る欲望」は、あたかもゴシップ・ジャーナリズムの占有物であるかのようである。
私が一言で翻訳しよう。我々は「解釈世界」に生きる存在なのだ。「現実」が「解釈」されるものであることを見失ってはなるまい。目の前に世界が「有る」わけではない。認識されたものが世界であり、世界は解釈によって構築されるのだ。
・人間が認識しているのは0.5秒前の世界/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二
それゆえ、真実は「語る」ことと「騙る」ことの間にある、と言うべきであろう。この「眼ざめて見られる夢」を描き出すためにこそ、彼(※柳田國男)は市民社会の文学者となる道を捨て、民俗学者として口伝えの物語の世界へと分け入ったのである。
この一言が凄い。今読んでも痺れる。これぞシビレエイである。事実の解釈は一人ひとり異なるものだ。そういう意味では皆がバラバラの世界に生きているといっても過言ではない。つまり「語る」は常に「騙(かた)る」をはらんでいるのだ。単純なウソやデマ、あるいは修飾や捏造という意味ではない。厳密にいえば誤解や錯覚を避けることのできない脳の属性であろう。
・視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
これでまだ本書の1/3程度の内容である。昂奮しすぎてしまった。野家はこれ以上ないというタイミングで中島敦を引用する。
文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なふことが多くなった。(中島敦『文字禍』)
当然のように『文字禍』を読む羽目となる。何という読書の至福であろうか。
・言語的な存在/『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー
・父の権威、主人の権威、指導者の権威、裁判官の権威/『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ
イランの核科学者、爆弾テロで死亡 「イスラエルの犯行」と当局
国営イラン通信(IRNA)によると、イランの首都テヘランで11日朝、爆弾テロがあり、核科学者のモスタファ・アフマディ・ロシャン氏が死亡した。イランの治安当局者らは、同国と敵対するイスラエルの工作員による犯行だと主張している。
国営イラン通信(IRNA)によると、オートバイに乗った人物が同氏の車の下に爆弾を仕掛けたとみられる。爆発で同乗者2人が負傷した。
ファルス通信によれば、ロシャン氏は中部ナタンツのウラン濃縮施設に勤務していた。
テヘラン市内では最近、核科学者を狙ったとみられる爆弾テロが続発している。2010年1月には大学教授1人が死亡、同年11月にも今回と同様の手口で科学者1人が死亡した。
【CNN 2012-01-11】
2012-01-11
イギリス~監視カメラ社会と孤独
@fuitsuono
小野不一 イギリス老婦人は外を監視するので有名。スパイ宗主国でもあるゆえか。 RT @hori_shigeki: 他でもないイギリスが、世界一の監視カメラ社会だというのは(事実ですよね?)少なくとも私には、ちょっと意外です。
Jan 10 via KuroTwiFavoriteRetweetReply
@nekojita60
ねこじた イギリス老婦人がそれこそ魔女のようだと書いてあったのはなんだっけ。リンボー先生かも知れぬ。その理由として「孤独」をあげていた。孤独はすなわち他者への監視につながるのである。監視社会とはそういう社会である。
Jan 10 via ついっぷる/twippleFavoriteRetweetReply
雨の石畳に座り込む若者
2012-01-10
朝日新聞「成人の日」社説の望む若者が出現!
@totti81
青木勇気 でも記事は読売という…w RT @sasakitoshinao: 朝日新聞「成人の日」社説の望む若者が出現!(笑。/中学で窓ガラス47枚割られ、壁に「死ね」 (読売新聞) http://t.co/fCCKcd0I
Jan 10 via ついっぷる/twippleFavoriteRetweetReply
・朝日新聞が社説で墓穴 不買運動に発展するか?
朝日新聞が社説で墓穴 不買運動に発展するか?
昨夜来た新聞販売店(非讀賣)と東京新聞で3ヶ月契約。「朝日は減る一方」と嘆息、「助かりました…」と帰って行った。RT @bobbyht 社内改革に期待 @hori_shigeki @kazouille 朝日、社説を書くトップ論説委員ら?の質が嘆かわしい。下剋上を期待するしかない。
— ymtkさん (@ymtkhr) 1月 10, 2012
・成人の日に――尾崎豊を知っているか 朝日新聞社説 平成24年1月9日 月曜日
・小田嶋隆さんtako_ashiの「尾崎豊にカブれていたのは同時代でも十分にイタい人たちで、とてもじゃないけど朝日新聞に入社するタイプじゃなかったということを当時を知らない新成人のみなさんにお知らせしておきます。」
・朝日新聞「成人の日」社説の望む若者が出現!
遠山啓
『数学入門(上)』遠山啓〈とおやま・ひらく〉(岩波新書、1959年)/正真正銘の教科書本。であるがゆえに読むのをやめた。今年は数学本に挑む予定ではあるが、私が求めるのは数学概念と数学センスなのだ。長い間読まれ続けているにもかかわらず版が変わっていない。フォントも小さくて読みにくい。一番腹立たしいのは、岩波の横書きにおけるカンマ&ピリオドの使用だ。文化的自殺といってよい。
2012-01-09
「成人するあなたへ」鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)
本物の孤独と出会おう
成人式でお酒を飲んで暴れている若者が、毎年話題になりますが、彼らは、本当の意味で一度も孤独になったことがない人達だと思います。
孤独には、「本物の孤独」と「偽物の孤独」があります。(中略)
ただ、「本物の孤独」の時間を持った人だけが、うんうんとうなりながら問題に取り組むことができるのです。
【愛媛新聞 2012-01-09】
・覚え書:鴻上尚史「成人するあなたへ」、『愛媛新聞』2012年1月9日(月)付。
2012-01-08
天国と地獄と中国
@wwwwww_bot
笑ってはいけない 生前悪い行いをした者は地獄に、 良い行いをした者は天国に、 中くらいの行いをした者は中国に行くという。
Jan 06 via twittbot.netFavoriteRetweetReply
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
・キリスト教を知るための書籍
・宗教とは何か?
・ブッダの教えを学ぶ
・悟りとは
・お腹から悟る
・身体革命
・物語の本質
・権威を知るための書籍
・情報とアルゴリズム
・世界史の教科書
・日本の近代史を学ぶ
・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
・時間論
・ミステリ&SF
・必読書リスト
氏家〈うじけ〉さんのツイートで青木勇気というライターの存在を知った。
「フラットに読まれるべきものが先に結論付けられてはいないか、このことを問いたいだけだ。そして、その問いに答えられないものは、決して確からしいとは言えない」。多数派か少数派かによって変わる“確からしさ”について - 青木勇気 #BLOGOS http://t.co/FIACdi6W
— 氏家法雄 (@ujikenorio) 2012, 1月 7
・多数派か少数派かによって変わる“確からしさ”について | アゴラ 言論プラットフォーム
BLOGOSは私の趣味に合わないため殆ど見ることがない。何て言うんでしょうな。インチキ臭い(笑)。多分、編集方針がないためだろう。雑多というよりは、まとまりを欠いているというべきか。
早速、本人のブログを読んだ。
・Write Between The Lines.
先の記事もそうだがとにかく文章がいい。読んでいて気持ちがよくなってくる。その上、箴言力(コピーライティングのセンス)があるのだから侮れない。
で、注目に値する記事を発見した。
・「物語」とは何であるか
私の専門分野だ(ニヤリ)。ケチをつけようと思えばどんな角度からもつけることが可能だ(笑)。しかし、私が「物語」に気づいたのは4年前のことである。青木は私より一回り以上も若い。ならば援護射撃をすべきだろう。
私が「物語」を悟ったのは、上杉隆著『官邸崩壊 安倍政権迷走の一年』を読んだことに始まる。それ以前から「思想とは物語である」という持論があったのだが、上杉を通して「物語を編む」営みに初めて気づいた。
私は文筆家ではなく古本屋のため、ここはやはり読書の水先案内としておこう。
その頃、私が吹聴していた「物語論」は、岸田唯幻論の幻想とは違った。世界の構造・結構としての物語性であった。生きることが物語なのではない。我々は物語を生きるのだ。
・唯幻論の衝撃/『ものぐさ精神分析』岸田秀
森達也の『A』はカメラの位置をオウム信者側にしただけで物語を反転させてみせた。
・森達也インタビュー
その意味で私の小さな思いつきが完全な形で表現されたのが、野家啓一〈のえ・けいいち〉著『物語の哲学』であった。
・「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一
もうね、ぐうの音も出なかったよ。当時は野家啓一が神様に思えたほどだ。きちんと書評を書いていないので一両日中にアップする予定。
ここからが私の本領を発揮する地点だ。まずは歴史。理想的年代記が物語を紡げないのであれば、物語を編むのは歴史家の仕事となる。つまり歴史トピックの取捨選択に物語性が込められているのだ。ここでわかるように物語性の本質とは「因果関係」(=起承転結)である。
そこでまず世界史という物語の枠組みを知る必要がある。
・世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
次に歴史という概念を学ぶ。
・読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー
・歴史の本質と国民国家/『歴史とはなにか』岡田英弘
本気で勉強するなら、ここで野家本を再読するのが望ましい。
で、先ほど申し上げた因果関係を木っ端微塵に粉砕するのがこれ。
・歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン
ここからの急降下はジェットコースター級となる。諸君、振り落とされるなよ(笑)。
まずは岸田唯幻論を踏まえた上で脳機能を知っておこう。
・唯脳論宣言/『唯脳論』養老孟司
で、「負の物語」ともいうべき迷信・誤信について書かれたのが以下。
・怨霊の祟り/『霊はあるか 科学の視点から』安斎育郎
・誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
人類が創作した最大の物語は「神」であろう。
・脳は神秘を好む/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
ここで振り出しに戻って物語を見つめる。
・必然という物語/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー
次は変化球になってしまうが、「相関関係=因果関係ではない」ことを学ぶのに欠かせない。
・相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン
医療や製薬会社を取り巻く「業界の物語」と置き換えることも可能だ。
そろそろ最終コーナーに差し掛かる。
・比較トラップ/『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー
更に加速しよう。ラストスパートだ。
・エントロピーを解明したボルツマン/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
・視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
・宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
・『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
・『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
これで大体、「物語の本質」は征服できる。あとは止(とど)めの2冊だ。
・服従の本質/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム
・現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル
物語の正体は確証バイアスであり、確証バイアスから宗教が生まれた。一言で書いてしまうと身も蓋もないように思えるだろうがそうではない。人間の「錯覚できる能力」が物語を紡ぎ出すのだ。
ゆえに困難や危機が訪れるたびに「人類の物語」を更新してゆくことが正しい。個人においても同様である。
ただし真の宗教性に立てば「物語=主役としての自我」から離れることが唯一の道となる。神という創造物は人類にとっての自我も同然であって、それ自体が物語にすぎない。今のところ真の宗教性として認められるのはブッダの初期経典とクリシュナムルティのみである。
最後に青木の著作を紹介しておく。彼の勁草(けいそう)を思わせる柔らかな感性に期待したい。
・物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
・物語
・虐待による睡眠障害/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
・『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍
・『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル
2012-01-07
気がつけば月の光
昨夜、妙な体験をした。
少し前から深夜のサイクリングにハマっている。深々(しんしん)と冷え込んだ闇こそ、独りゆく者に相応しい。繁華街を過ぎれば人と擦れ違うこともない。車すら滅多に通らない。
15分ほどペダルを漕ぐと身体が温まってくる。南浅川のせせらぎがペダルのリズムと同調する。辺り一面は透明な月光に包まれている。生の象徴が太陽であるならば、月は死を象徴しているのだろう。そして生も死も本質は光なのだ。私はそう思う。
最初のうちはあれやこれやを考えているが、ペダルの単調な動きが思考を抑制し、瞑想状態へ誘(いざな)う。街灯の少ない場所だとびっくりするほど星がよく見える。糸筋のような光が無数に降り注ぐ。
細い刃(やいば)のような三日月が、日を増すに連れどんどん大きくなってゆく。あと2~3日もすれば満月だ。
昨夜もいつもと同じように私は月光に包まれていた。しかし何かが微妙に異なった。フワフワした感触があった。「あ!」と気づき、振り返りざまに空を見上げた。月が私を見守っていた。確かに見守られている感覚があった。月に向かって私は声を発した。「Kよ……」と。
クリシュナムルティはKと呼ばれることを好んだ。多分、人格神として祀(まつ)られることを忌み嫌ったのであろう。「自我など記号にすぎない」というメッセージが伝わってくる。
昨日紹介したテキストの全文を読んで私の脊髄に変化が生じた。脳、ではない。身体全体を司る中枢神経だ。
・死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘
「見る」ことは「気づく」ことであり、「気づく」ことは「見る」ことであった。
私は32歳の時に半年間で5人の後輩を喪ったことがある。その後もう一人が逝った。死の理不尽さを呪おうとも思ったが、死という現実を受け容れ、引き摺って生きてゆく道を選んだ。それこそ命の底からブルドーザー並みの馬力を引き出さねばならなかった。
クリシュナムルティは死後の存在については何も語っていない。無記である。だが、「語らない」中に慈悲があるのだ。語られたものは知識となってしまう。知識は死物である。
無記とは沈黙によって欲望を炙(あぶ)り出し、粉砕する行為なのだろう。それを知った瞬間から私は馬力を必要としなくなった。外側から見つめれば悲哀は固体と化しているが、内側に潜り込むことで液状化され、気化してしまった。
単純な昂奮とは違った心臓の高鳴りを覚えた。今までとは別の響きが鼓動に感じられた。静かな感動が脈を通して身体全体に伝わった。
疾走しながら何度も月を見上げた。「本当にKなのか?」と。クリシュナムルティに見守られている感覚が抜けなかった。
しかし私は合理的な人間だ。神はおろか、幽霊や宇宙人の類いは絶対に信用しないし、スピリチュアリズムには唾を吐きかけることを信条としている。幽霊が出てきたら足元で立ち小便をし、神様が登場したら顔にまたがってウンコをすることもやぶさかではない。「ははーん、さては例のテキストに感動したあまり、脳が酔っ払った状態になったのだろう」と自己分析した。
と、その直後である。脚がブルブルと震え出した。手も震え、遂に全身がわなないた。まだ、「そんなバナナ」と言うだけの余裕はあった。
気がつけば月の光があった。月、ではない。ただ月の光が世界を支配していた。そこには私も月も存在していなかった。
家路に就く途中で感じの悪い中年男と擦れ違った。私はいつもの日常に舞い戻っていた。