2012-02-18
2012-02-17
イラン大統領インタビュー 2009年9月22日 選挙 核問題 イスラエル
フランス2のインタビュー。反対運動に仏外相ベルナール・クシュネールの関与を指摘。イランイスラム共和国大統領マフムード・アフマディネジャード。
不思議な物語性
2012-02-16
2012-02-15
若きパルチザンからの鮮烈なメッセージ/『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
・『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
・『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
・『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
・『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
・『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
・『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
・『アウシュヴィッツは終わらない これが人間か』プリーモ・レーヴィ
・若きパルチザンからの鮮烈なメッセージ
・無名の勇者たちは「イタリア万歳」と叫んで死んだ
・パルチザンが受けた拷問
・『石原吉郎詩文集』石原吉郎
ファシズムとはムッソリーニ率いるファシスト党(全国ファシスタ党)のイデオロギーであって、厳密にはナチズムと区別する必要がある。
一緒くたになってしまった理由だが「(ナチズムに)敵対する社会主義・共産主義陣営であるスターリンやコミンテルンは、ナチズムはイタリアのファシスト党のイデオロギー『ファシズム』の一種であると定義し、『ファシズム』と呼んだ」(Wikipedia)ためだ(社会ファシズム論)。
先に白状しておくが、私はこのあたりの歴史に詳しくない。往々にして独裁者は政治的混乱の中から登場する(Wikipedia)が、黒シャツ隊からファシスト党への流れから見ても、ムッソリーニに対して一定数の国民からの支持があったことは確かだろう。ヒトラーもまた同様である。
ムッソリーニは抜かりなく、ヴァチカンからの支持も取りつけた。
本書はイタリア・パルチザンが処刑直前にのこした遺書を集めた作品だ。私は20代で一度開いたのだが読み終えることができなかった。バブル景気の余韻に浸っていたわけではなかったが、自分と同年代の死を正面から見つめることは困難を極めた。20年を経て私は彼らの父親の世代となった。我が子の最期を見届けるような思いで再び重いページを開いた。絶版となることを恐れて購入した3冊の本は真新しいままだった。
前にも書いたが、キーボードの叩きすぎで数年前から腱鞘炎となり、近頃は右の中指がおかしくなってきた。そんなわけで以前のような入力は難しいので、細切れの書評となることをお許し願いたい。
若きパルチザンからの鮮烈なメッセージはまず翻訳者を直撃した。今回は河島英昭の「解題」のみを紹介する。
イタリアの民衆はファシズムの試練に耐えた。その苦しみと、戦い抜いた喜びの上に、今日のイタリアの文化は築かれている。あまりにも重いこの歴史的事実への反省なしに、私たちはイタリアの文化を語ることができない。文学もまた文化の一環である以上、反ファシズム闘争への考察を抜きにしては、それを直接の基盤とする戦後イタリアの文学を、語ることができない。と同時に、イタリアの文学を検討する場合には、敢えて言うが、たとえばルネサンス文学の研究をするときにさえも、この視点をはずすわけにはいかない。ダンテを論ずるときにも、ペトラルカ研究を行なうさいにも、あるいはマンゾーニを紹介するときにも、この視点をはずして、私たちの文学的営為は一歩も前へ進めないだろう。
なぜならば、ファシズムの試練に耐えた今日のイタリアの文化が、絶えまなく、私たち自身の文化への反省を促すからであり、また他の文化への考察を進めれば進めるほど自国の文化への反省は深まってゆき、ある意味では外国の文化の研究ほど自国の文化の脆弱な基盤を明るみに引きだすものはないからである。その危うい緊張関係において、文学者もまたおのれの研究の基盤を築かねばならないのであり、虚ろな象牙の塔に籠って文化を説くことの滑稽さを、私たちは承知しているつもりだ。
しかしながら、いつまでも覚えておこうと決意する、永遠の瞬間が、たちまちに日常の雑事の波間に見失われていくように、私たちはとかく歴史的事実のあいだに埋めこまれた真実を忘れがちである。戦後三十数年を経て、日本におけるイタリア文化の研究や紹介も、乏しいながら種は播かれた、と言ってよいであろう。そしてその望ましい種を実らせるためにも、彼我の文化の土壌になるべき反ファシズム闘争の差異を、その貴重な経験の有無を、ここに改めて確認しておく必要がある。そのために、ささやかながら、私たちは本書を訳出した。しかも私たちの意図は、いわば外面から考察を加える、状況や運動の研究あるいは分析に対して、民衆の個々人の心のなかのありさまを内面から少しでも明らかにしたい、という点にある。文学もまた、その固有な方法によって、歴史における文化研究の一端を、担わねばならないであろう。
【『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編:河島英昭、他訳(冨山房百科文庫、1983年)「解題」河島英昭、以下同】
力のこもった名文である。私は兼ね兼ね冨山房(ふざんぼう)が出版界の良心であると思ってきたが、まったくもって冨山房に相応(ふさわ)しい名調子だ。
河島の視点はパルチザンをイエスになぞらえる。歴史紀元の基準をパルチザンに合わせよ、というのだから当然だ。それゆえ分水嶺という言葉は正確ではない。パルチザンに至る過去と、パルチザン以降の未来を分かつのだから、それはゼロ地点を意味する。
それは断じて抵抗ではなかった。ファシズムへの攻撃であった、と「序」のなかでE・E・アニョレッティは書いている。「いまは慣例に従って、イタリアにおける解放運動を〈レジスタンス〉と呼んでおこう。だが、それが抵抗ではなく、あくまでも攻撃であり、主体的な行動であり、理念上の革新であって、何ものかを【保持しようとする試みでなかった】ことだけは、決して忘れないようにしたい」(本書8ページ、傍点は引用者)。この言葉には、みずから立ちあがって戦い抜いた者たちの、自信が漲(みなぎ)っている。そしてその結果の上に、イタリアの民衆は戦後の新しい文化を築いた。政治的にはまず国民投票によって君主制が廃止され、共和制が確立されたのである。
その意気やよし。ここにイタリア抵抗運動の魂がある。ファシズムやナチズムがスタイリッシュであったのに対し、多くのパルチザンは普段着であった。彼らを歌った作品も朴訥なリズムの曲が大半だ。着の身着のままで立ち上がったところに彼らの強みがある。
それにしても、イタリアにおいて、なぜ反ファシズム闘争が可能であったのか? 本書の《手紙》の老若男女の書き手たちは、どのようにして個人の苦しみと歴史の苦しみによく耐えたのか? この疑問に対する答えは、掛け替えのないこれらの魂の記録の一篇一篇の行間に、いわば無限の深淵となって、垣間(かいま)見えるであろう。それらを覗(のぞ)きこむたびに、私たちは目の眩(くら)む思いがする。それはあたかもすぐれた詩に出会ったときの衝撃に似ている。一瞬後に、私たちは閉じたおのれの瞼(まぶた)の裏に、永遠の暗い輪を認めるであろう。死が永遠であるがゆえに、それは死から発せられた一つの答えだ。思うに、本書ほど死の影に満ちみちた記録は少ない。しかも個々の戦士は、みずからの意志で、死に立ち向かったのである。
V・E・フランクルやプリーモ・レーヴィは生き延びた。だから彼らが書いた悲惨な経験にはまだ救いがある。しかし本書の手紙はその全てが遺書なのだ。情報の圧縮度が桁違いであることは言うまでもない。「最期の言葉」が400ページ上下二段に渡って綴られているのだ。中途半端な根性で読み終えることができるわけがない。死にゆく彼らの手を握る覚悟が読者に求められるのだ。
1920年代から40年代にかけて、イタリアの民衆はファシズムから反ファシズムへと、激しい思想の変革を遂げた。もちろん、A・グラムシやP・ゴペッティのように、すぐれた思想家や知識人たちが果たした指導的役割の重要なことは、言うまでもない。しかし、それに劣らず重要なのは、民衆が彼ら自身の生活のなかで、結果的に思想の変革を果たしたという事実である。その変革は日々のなかでの、個々人の精神の軌跡が、そして彼らの共通の理想を支えた叙事詩的クリフが、本書のなかには読みとれるであろう。
確かにそうであろう。だが歴史を文学的に形容するだけでは物足りない。やはり厳密な情報分析と複雑系的アプローチが必要だ。
・歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン
最後に、不幸にしてイタリアの民衆と同じく、困難な状況下におかれた日本人にとって、昭和18(1943)年から昭和20(1945)年にかけて、抵抗運動が、ましてや解放闘争が、ほとんど存在しなかった事実を、確認しておかねばならない。この甚だしく不幸な時期にあって、いわば体制の犠牲者としての魂が、なかったわけではない(たとえば『きけわだつみのこえ』のように)。だが、私たちは苦しい共感をもってそれらの記録に接することがあっても、それらが〈レジスタンス〉の記録で【なかった】ことだけは忘れないでおきたい。なぜならば、彼らの銃口は――たとえば学徒動員された兵士のそれは――【別の方角】へ向けられていたのであるから。本書の手紙本文や略歴から容易に読みとれることだが、イタリア抵抗運動のパルチザン兵のなかには、正規軍からの脱走者が数多く含まれていた。銃口の向きを変えるためには、おのれの肉体の消滅を賭けて、思想の変革を果たさなければならない。
奇しくも今日のツイートで『きけ わだつみのこえ』を紹介した。
・近藤道生と木村久夫/『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』日本戦没学生記念会編
苦労というものは固有のものである。他人が軽々しく論じることは避けるべきだろう。しかし河島の指摘は我々日本人の肺腑(はいふ)を貫き、深い自省を促す。我々は罪を問うこともなく、罰を連合軍に委ね、「過ちは 繰返しませぬから」と国民の連帯責任にすることで戦争の罪科を水割りのように薄めてしまった。
つまり日本におけるファシズムが実はまだ終わっていない可能性がある。河島が「銃口の向きを変える」と書いているのはそのことだ。
抵抗運動とは何か? それは殺されることを意味する。
・画像(※ハングルのためイタリアかどうかは不明)
・Partisan:画像検索
一朝事ある時に私は立ち上がれるだろうか? 「立て!」と若きパルチザンの叱声が耳の中で谺(こだま)する。
2012-02-14
米議会 イスラエルロビーが平和活動家へ暴力行為
「私たちの国(=アメリカ)の経済が苦境にあり、私たちの子供も大学に行けず困っているときに、私たちの議会がイスラエルの戦争犯罪を支持するために、毎年私たちの税金から30億ドル与えるのは憤慨すべきです」
2012-02-13
宗教とは何か?
・キリスト教を知るための書籍
・宗教とは何か?
・ブッダの教えを学ぶ
・悟りとは
・物語の本質
・権威を知るための書籍
・情報とアルゴリズム
・世界史の教科書
・日本の近代史を学ぶ
・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
・時間論
・身体革命
・ミステリ&SF
・必読書リスト
忘れないうちに記録しておく。いきなり読んでも理解に苦しむことと思われるので、せめてキリスト教の知識を身につけてから読むことが望ましい。
・『世界のしくみが見える 世界史講義』茂木誠
・『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳
・『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン
・『イスラム教の論理』飯山陽
・『ものぐさ精神分析』岸田秀
・『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
・『唯脳論』養老孟司
・『カミとヒトの解剖学』養老孟司
・『死生観を問いなおす』広井良典
・『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
・『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』高橋昌一郎
・『知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性』高橋昌一郎
・『感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性』高橋昌一郎
・『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ
・『巷の神々』(『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』)石原慎太郎
・『マインド・コントロール』岡田尊司
・『宗教で得する人、損する人』林雄介
・『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世
・『サバイバル宗教論』佐藤優
・『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
・『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
・『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル
・『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス
・『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
・『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
・『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
・『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
・『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
・『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
・『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
・『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
・『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博
・『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
・『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
・『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』デイヴィッド・イーグルマン
・『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
・『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
・『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ
・『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
・『苫米地英人、宇宙を語る』苫米地英人
・『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
・『いかにして神と出会うか』J・クリシュナムルティ
・『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ
・『生の全体性』J・クリシュナムルティ、デヴィッド・ボーム、デヴィッド・シャインバーグ
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・宗教とは何か?/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
・宗教とは何かを理解するための6つの諸類型かんたんなまとめ
・宗教とは何か
・宗教とは何か?
・「宗教とは何か」真宗大谷派 福壽山 圓光寺
2012-02-12
有澤玲、佐藤俊樹、宮崎学
2冊挫折、1冊読了。
『面白いほどよくわかる世界の秘密結社 秘密のベールに隠された謎の組織の全貌』有澤玲〈ありさわ・れい〉(日本文芸社、2007年)/ちょっと当てが外れた。陰謀史観を斥けながらも胡散臭さを払拭できていない。記述が短いせいもあるのだろう。日本文芸社の「学校で教えない教科書」シリーズは当たり外れが大きい。
『社会学の方法 その歴史と構造』佐藤俊樹(ミネルヴァ書房、2011年)/良書である。紙質もよく、ミネルヴァ書房の気合いが窺える。しかし残念なことに私の余生は限られている。一から社会学を学ぶ時間はないのだ。20代で社会学に興味のある人にとっては格好のテキストといってよい。
10冊目『「正義」を叫ぶ者こそ疑え』宮崎学(ダイヤモンド社、2002年)/主旨には同意するが、論の進め方が拙いと思う。宮崎は左翼のイデオロギーから脱却できていない。多分、私よりもロマンチストなのだろう。明らかに読みが誤っている箇所もある。武闘派左翼、やくざ者の倅、解体屋、週刊誌記者といった過去の遍歴が妙に中途半端な視点となっている。左翼やリベラリストはどうしても部分的な政策について反対する姿勢が目立つ。グランドデザインが描けていないから、批判が形を変えた依存に見えてしまう。
エンリケ航海王子
ポルトガル・リスボン市西部ベレン地区のテージョ川岸にある大航海時代の記念碑「発見のモニュメント」。エンリケ航海王子はパトロンであって一度も航海には出ていない。彼はまたキリスト騎士団の指導者でもあった。1314年にフランスのテンプル騎士団が滅んだ。しかしポルトガルのテンプル騎士団は1319年に改称を認められてキリスト騎士団となった。後の大航海時代(15~17世紀)を牽引したのは彼らであった。ヴァスコ・ダ・ガマやコロンブスの義父もキリスト騎士団の構成員である。そして大航海とは投資の異名であった。
・資本主義経済の最初の担い手は投機家だった/『投機学入門 市場経済の「偶然」と「必然」を計算する』山崎和邦
・簿記の歴史 ひろがる世界と株式会社
・大航海時代後の海商
・「エンリケ航海王子が目指した先は?」1
・「エンリケ航海王子が目指した先は?」2
・「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
再び歴史学者の自由を殺す法案 アルメニア民族虐殺問題
2011年12月22日。第二次世界大戦中のユダヤ人民族大虐殺を否定する者を処罰するゲッソー法に続き、第一次大戦中のトルコによるアルメニア人民族大虐殺の否定を処罰する法案がフランスの議会で可決された。
2012-02-11
ロジャー・スミス
1冊読了。
9冊目『血のケープタウン』ロジャー・スミス:長野きよみ訳(ハヤカワ文庫、2010年)/南アフリカ出身の作家によるノワール。中々面白かった。ギャンブルで身を持ち崩したアメリカ人が犯罪に手を貸すことを強いられ、挙げ句の果てに南アフリカへ逃亡する。悪徳警官のルディ・バーナードと夜警のベニー・マングレルが三つ巴となってメロディを奏でる。三人が三人とも追い詰められており、これが疾走感を生んでいる。逆説的ではあるがノワール(暗黒小説)は断固たる掟を描くことで、建て前としての法治国家を嘲笑する作品であることが望ましい。ストーリー上では判断ミスを巧みに設定できるかどうかが肝心で、これを登場人物のキャラクターに委ねてしまうと駄作になる。南アフリカではネックレスという処刑方法があるが、内側からの視点で書かれていて参考になる。
作家の禁じ手/『耽溺者(ジャンキー)』グレッグ・ルッカ
・『守護者(キーパー)』グレッグ・ルッカ
・『奪回者』グレッグ・ルッカ
・作家の禁じ手
・『暗殺者(キラー)』グレッグ・ルッカ
・『逸脱者』グレッグ・ルッカ
・『哀国者』グレッグ・ルッカ
ハードボイルドの文体は一人称が好まれる。三人称だと神の視点となってしまうからだ。もちろん創造者である作家は神として君臨するわけだが、リアリズムという大地を離れて作品は成立しない。その意味で本書は作家の禁じ手を犯したといってよい。
アティカス・コディアック・シリーズの番外編で、ブリジット・ローガンが主役となっている。解説で北上次郎(目黒考二)が絶賛している。「ようやくブリジットに会えた! それが何よりもうれしい」と。金のために書かれたような文章だ。まったく信用ならない。鼻ピアスで身長が185cmのブリジットはシリーズ第1作に登場した時からやさぐれたキャラクターとして描かれている。そしてタイトルの「ジャンキー」とはブリジットのことだ。
作家が登場人物を堕落させたり蹂躙(じゅうりん)することは最もたやすいことだ。そもそも私立探偵であるブリジットが囮(おとり)となって潜入捜査をする必然性があまり感じられない。過去の経緯(いきさつ)もさほど強いものではない。単純に考えればアティカスに頼んでやっつけてもらった方が手っ取り早いだろう。つまりリスクの選択自体に問題があるのだ。
私に言わせれば、著者がブリジットを汚(けが)してしまっただけの話だ。このためアティカスの配慮が優柔不断にしか見えない。前巻でアティカスと関係を持ってしまったライザの身勝手さも実に底が浅い。大体、警護を生業(なりわい)とする者は果断に富んでいるのが当たり前で、善良な優柔不断さとは無縁であるはずだ。
シリーズの寿命を延ばすためにブリジットを一度落としておく必要があったのだろうか? もしも今後の布石のためにブリジットに薬をやらせたとすれば、グレッグ・ルッカの大成は望めない。
人間の行動には常にふたつの理由がある。
もっともらしい理由と、真の理由が。
――J・P・モーガン
【『耽溺者(ジャンキー)』グレッグ・ルッカ:古沢嘉通〈ふるさわ・よしみち〉訳(講談社文庫、2005年)以下同】
このエピグラフは著者にこそ突きつけられるべきだ。
などとケチをつけたところで、文章がいいので読めてしまうんだよね(笑)。
ヤクの夢はそんなに親切じゃない――それは感覚の狂喜であり、
持たざることの利点のひとつは、散らかってもたかが知れていることだろう。
「創意工夫のかけらもないね」
「人生の黄昏どきに慈しむ思い出が欲しいのよ」
どちらも声音の芯に同質の威厳がこもっていた。
「家族ってのは常に過大評価されるんだ」
干上がったヤク中は右や左に、重力を打ち負かすほどの角度をつけて傾いている。
もうそれ以上、ついてやれる嘘はなかった。
「じつに気高い行為だな、シスター」
「義憤のかたまりだ」
次の作品がダメなら、グレッグ・ルッカには見切りをつける予定だ。
2012-02-10
文化でシオニズムへ対抗する イラン大統領と対面したデュードネ
2009年12月。フランスのお笑いタレント、デュードネは反シオニスト的発言によりユダヤイスラエルロビーの圧力で国内活動を妨げられていた。イラン大統領アフマディネジャードはデュードネに映画製作の費用を提供した。
2012-02-09
猪瀬直樹の差別観
@rom_emon
ロムえもん 野宿者排除が行われているさなかの副都知事のツイート https://t.co/gPtR3sbo QT @inosenaoki: こんな時間に起きている人は気質(かたぎ)じゃないね。イッパツ当てる山師か、ただの怠け者でゆくゆくは路上生活者か、歌舞伎町の人か、それとも大型トラックで高
Feb 09 via ついっぷる/twipple Favorite Retweet Reply
@inosenaoki
猪瀬直樹 こんな時間に起きている人は気質(かたぎ)じゃないね。イッパツ当てる山師か、ただの怠け者でゆくゆくは路上生活者か、歌舞伎町の人か、それとも大型トラックで高速を疾走する運転手か、三交代の工場労働者か、病院や老人ホームではたらく使命感を生きる人か、惰性の受験生か、売れない作家か。
Feb 08 via web Favorite Retweet Reply
2012-02-08
関岡英之
1冊読了。
8冊目『拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる』関岡英之(文春新書、2004年)/アメリカが日本に突きつける「年次改革要望書」を広く知らしめた一書。今読んでも内容は古くなっていない。アメリカが国益を実現するための仕掛けにメスを入れる。関岡は公開された情報で、ここまで切り込んでいる。日本はほぼ完全な属国であり、アメリカ国内の州以下の存在に貶(おとし)められている。結局、戦争に負けるとはこういうことなのだろう。終盤の「万人が訴訟する社会へ」は、TPPを予見する内容だ。日本を取り巻く政治力学を知るには格好のテキストだ。
8冊目『拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる』関岡英之(文春新書、2004年)/アメリカが日本に突きつける「年次改革要望書」を広く知らしめた一書。今読んでも内容は古くなっていない。アメリカが国益を実現するための仕掛けにメスを入れる。関岡は公開された情報で、ここまで切り込んでいる。日本はほぼ完全な属国であり、アメリカ国内の州以下の存在に貶(おとし)められている。結局、戦争に負けるとはこういうことなのだろう。終盤の「万人が訴訟する社会へ」は、TPPを予見する内容だ。日本を取り巻く政治力学を知るには格好のテキストだ。
2012-02-07
2012-02-06
アニミズムという物語性の復権/『ネイティヴ・アメリカンの教え』写真=エドワード・S・カーティス
昨日、色々と調べたところ「ネイティブ・アメリカン」なる言葉が政治用語であることを知った。
全米最大のインディアン権利団体「AIM(アメリカインディアン運動)」は「ネイティブ・アメリカン」の呼称を、「アメリカ合衆国の囚人としての先住民を示す政治用語である」と批判表明している。
【Wikipedia】
言い換えに対する議論
近年、日本のマスコミ・メディアにも見られる、故意に「インディアン」を「ネイティブ・アメリカン」、「アメリカ先住民」と言いかえる行為は、下項にあるように「インディアンという民族」を故意に無視する行いであり、民族浄化に加担している恐れがある。
この呼び替え自体はそもそも1960年代の公民権運動の高まりを受けて、アメリカ内務省の出先機関である「BIA(インディアン管理局)」が使い始めた用語で、インディアン側から出てきた用語ではない。
この単語は、インディアンのみならず、アラスカ先住民やハワイ先住民など、アメリカ国内の先住民すべてを指す意味があり、固有の民族名ではない。
また、「ネイティブ・アメリカン」という呼称そのものには、アメリカで生まれ育った移民の子孫(コーカソイド・ネグロイド・アジア系民族など)をも意味するのではないかという議論もある。
【同】
というわけで本ブログも「アメリカ先住民」から「インディアン」へとカテゴリー名を変更した次第である。差別問題はかように難しい。わたしゃ、「インディアン」の方が差別用語だと思い込んでいたよ。
インディアンの思想はアニミズムである。精霊信仰だ。我々日本人にとっては馴染み深い考え方である。神社には必ずといっていいほど御神木(ごしんぼく)が存在する。
科学的検証は措(お)く。人間社会は物語性がなければ枠組みを保つことができない。そしてグローバルスタンダードの波は、キリスト教世界――より具体的にはアングロサクソン人――から起こってアジアの岸辺を洗う。問題はキリスト教だ。
キリスト教は人間を「神の僕(しもべ)」として扱い奴隷化する。そして神の代理人を自認するアングロサクソン人が有色人種を奴隷化することは自然の流れだ。例えばスポーツにおける審判に始まり、裁判、社外取締役などは明らかに神の影響が窺える。
ヨーロッパはまだ穏やかだが、アメリカのキリスト教原理主義は目を覆いたくなるほど酷い。元々、ファンダメンタルズ(原理主義、原典主義/神学用語では根本主義)という言葉はプロテスタントに由来している。それがいつしかイスラム過激派を詰(なじ)る言葉として流通するようになったのだ。
キリスト教世界は十字軍~魔女狩りと、神の命令の下(もと)で大虐殺を遂行してきた。魔女狩りを終焉させたのが大覚醒であったとする私の持論が確かであれば、虐殺の衝動はヨーロッパからアメリカへ移動したと見ることができる。
・何が魔女狩りを終わらせたのか?
つまり近代史の功罪はアメリカ建国の歴史を調べることによって可能となる、というのが私のスタンスである。
アングロサクソン人はアメリカ大陸に渡り、虐殺の限りを尽くした。インディアンは間もなく壊滅状態となった。なぜか? それはあまりにもインディアンが平和主義者であったためだ。人を疑うことを知らない彼らはアルコールを与えられ、酔っ払った状態で土地売買の契約書にサインをさせられた。文字を持たないインディアンはひとたまりもなかった。
アングロサクソン人が葬ったインディアン。彼らの思想に再び息を吹き込み、その物語性を復興させることが、キリスト教価値観に対抗する唯一の方途であると私は考える。
・安田喜憲
われらは教会をもたなかった。
宗教組織をもたなかった。
安息日も、祭日もない。
われらには信仰があった。
ときに部族のみなで集(つど)い、うたい、祈った。
数人のこともあった。
わずか2~3名のこともあった。
われらの歌に言葉は少ない。
それは日ごろの言葉ではない。
ときとして歌い手は、音調を変えて、
思うままに祈りの言葉をうたった。
みなで沈黙のまま祈ることもある。
声高に祈ることもある。
年老いたものが、ほかのみなのために祈ることもある。
ときにはひとりが立ち上がり、
みなが互いのために行なうべきことを
ウセン(※アパッチ族における創造主。大いなる霊)のために行なうべきことを、語ることもあった。
われらの礼拝は短かった。
チリカワ・アパッチ族 酋長
ジェロニモ(ゴヤスレイ)〈1829-1909〉
【『ネイティヴ・アメリカンの教え』写真=エドワード・S・カーティス:井上篤夫訳(ランダムハウス講談社文庫、2007年)以下同】
・ジェロニモ
・『ヒトデはクモよりなぜ強い 21世紀はリーダーなき組織が勝つ』オリ・ブラフマン、ロッド・A・ベックストローム
原始のよりよき宗教性が脈動している。宗教コミュニティはタブーを共有するところに目的がある。タブーを様式化したものが戒律だ。ところがインディアンの信仰には断罪的要素が少ない。このあたりも研究に値すると思われる。
そして私が注目するのは「祈り」が願望を意味していない事実である。既成宗教なかんずく新興宗教は人々の欲望をくすぐり、財布の紐を緩くさせようとあの手この手で勧誘をする。あの世をもって脅し、この世の春を謳歌するのは教団のみだ。
インディアンの信仰はコミュニケーションを闊達なものにしていることがわかる。真の祈りは、願いとも誓いとも無縁なものであろう。聖なるものに頭(こうべ)を垂れ沈黙に浸(ひた)るところに祈りの本義があると私は考える。
インディアンが羽根飾りを身につけているのは、
大空の翼の親族だからだ。
オグララ・スー族 聖者
ブラック・エルク〈1863-1950〉
インディアンは誇り高い。彼らは「神と共に在る者」だ。彼らの言葉は具体性に満ちながらも高い抽象度を維持する。形而下と形而上を自在に往来する響きが溢れる。
わたしは貧しく、そのうえ裸だ。
だが、わたしは一族の酋長だ。
富を欲しいとは思わないが
子どもたちを正しく育てたいと思っている。
富はわれらによいものをもたらさない。
向こうの世界にもっていくことはできない。
われらは富を欲しない。
平和と愛を欲している。
オグララ・スー族 酋長
レッド・クラウド(マクピヤ=ルータ)〈19世紀後半〉
「富よりも平和を」――我々が完全に見失った価値観である。富は社会をズタズタにする。富は人間をして暗い道へと引きずり込む。富は光り輝き、社会に影を落とす。
古きインディアンの教えにおいて
大地に生えているものはなんであれ
引きぬくことはよくないとされている。
切りとるのはよい、だが、根こそぎにしてはならない。
木にも、草にも、魂がある。
よきインディアンは、大地に生えているものを
なんであれ引きぬくとき、悲しみをもって行なう。
ぜひにも必要なのだと、許しを請(こ)う祈りを捧げながら。
シャイアン族
ウッデン・レッグ〈19世紀後半〉
持続可能性のモデルがここにある。
・世界中でもっとも成功した社会は「原始的な社会」/『人間の境界はどこにあるのだろう?』フェリペ・フェルナンデス=アルメスト
変化の激しい社会は変化によって滅ぶ。
それにしても彼らの相貌は力強い線で描かれたデッサンのような趣がある。眼光から穏やかな凛々しさを発している。
インディアンの言葉を編んだ本はいずれも散慢なものが多い。それでも開く価値はある。人間が放つ光は神にもひけを取らない。彼らの英知と悟性が21世紀を照らしてくれることだろう。
ルワンダの子供たち 1994年
・ルワンダ大虐殺の爪痕
・強姦から生まれた子供たち/『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』写真、インタビュー=ジョナサン・トーゴヴニク
2012-02-05
貴志祐介、トレヴェニアン、鈴木一之、中村圭志
4冊挫折。
『新世界より(上)』貴志祐介〈きし・ゆうすけ〉(講談社、2008年/講談社文庫、2011年)/文庫化されたので読んでみた。一行目で挫ける。「深夜、あたりが静かになってから、椅子に深く腰掛けて、目を閉じてみることがある」。「閉じて」と「みる」「ある」が混乱を招く。また、「深夜」は大抵静かなものだ。文体に贅肉がつきすぎている。
『シブミ(上)』トレヴェニアン:菊池光〈きくち・みつ〉訳(ハヤカワ文庫、1987年)/ドン・ウィンズロウ著『サトリ』の前段階として読んだのだが面白くなかった。
『景気サイクル投資法 裏バフェット型手法とは』鈴木一之(Pan Rolling Library、2008年)/現物だった。文章はよいのだが中身は薄い。
『人はなぜ「神」を拝むのか?』中村圭志〈なかむら・けいし〉(角川oneテーマ21、2011年)/まず表紙の肩書きが気になる。「宗教批評家」。屋上屋を架すではないが、ダニの上に寄生するダニみたいなものか? そんな疑念を払拭できない。著者本人は「少しずっこけたトーン」(「おわりに」)のつもりらしいが、単なる軽薄の間違いではないのか? 二度目の「やれやれ」(15ページ)で完全に読む気が失せた。お前の投げやりな態度に付き合うつもりはないよ。ここのところ量産が目立つ中村だが、金輪際読むことはないだろう。
『新世界より(上)』貴志祐介〈きし・ゆうすけ〉(講談社、2008年/講談社文庫、2011年)/文庫化されたので読んでみた。一行目で挫ける。「深夜、あたりが静かになってから、椅子に深く腰掛けて、目を閉じてみることがある」。「閉じて」と「みる」「ある」が混乱を招く。また、「深夜」は大抵静かなものだ。文体に贅肉がつきすぎている。
『シブミ(上)』トレヴェニアン:菊池光〈きくち・みつ〉訳(ハヤカワ文庫、1987年)/ドン・ウィンズロウ著『サトリ』の前段階として読んだのだが面白くなかった。
『景気サイクル投資法 裏バフェット型手法とは』鈴木一之(Pan Rolling Library、2008年)/現物だった。文章はよいのだが中身は薄い。
『人はなぜ「神」を拝むのか?』中村圭志〈なかむら・けいし〉(角川oneテーマ21、2011年)/まず表紙の肩書きが気になる。「宗教批評家」。屋上屋を架すではないが、ダニの上に寄生するダニみたいなものか? そんな疑念を払拭できない。著者本人は「少しずっこけたトーン」(「おわりに」)のつもりらしいが、単なる軽薄の間違いではないのか? 二度目の「やれやれ」(15ページ)で完全に読む気が失せた。お前の投げやりな態度に付き合うつもりはないよ。ここのところ量産が目立つ中村だが、金輪際読むことはないだろう。
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