2014-07-21

信用貨幣と複式簿記/『マネーの正体 金融資産を守るためにわれわれが知っておくべきこと』吉田繁治


「腐敗した銀行制度」カナダ12歳の少女による講演
30分で判る 経済の仕組み
「Money As Debt」(負債としてのお金)
武田邦彦『現代のコペルニクス』 日本の重大問題(2)国の借金
『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康

 ・信用貨幣と複式簿記

『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート
・『紙の約束 マネー、債務、新世界秩序』フィリップ・コガン

株式の資本主義を作った複式簿記

 金属貨幣から離脱した信用貨幣(紙幣)は、株として資本を集めて使う資本主義における(貸借関係を記録する)複式簿記のような大きな発明です。複式簿記も、14世紀から15世紀にベネチア商人の帳簿から生まれています。資本主義は【信用による資本調達の制度】と言っていいものです。信用貨幣と資本主義の複式簿記の発生は、ベネチアで同時でした。

【『マネーの正体 金融資産を守るためにわれわれが知っておくべきこと』吉田繁治〈よしだ・しげはる〉(ビジネス社、2012年)以下同】

 現金の流れだけを追うのが単式簿記(家計簿や小遣い帳)で、複式簿記は貸方・借方というバランスシート方式で資産は負債+資本と必ず一致する。このため複式簿記の方がインチキをしにくい。実は初心者用の複式簿記本しか読んでいないので、その程度しか理解できておらず(涙)。それでも資本主義が借金で回っている事実がよく見えてくる。

ベネチアの複式簿記の記録法によって証券と株が発生

 負債を示す証券と株式は複式簿記から生まれています。複式簿記は、会社が所有する資産を左側に、負債と資本を右側に書きます。実感からは変ですが「資産=負債(簿記の基本)」という構造をもつものです。
 資本主義をつくった株式は、出資した株主にとっては資本という資産です。
 発行した会社にとっては、株主に対し、事業を行った結果の利益を配当する義務がある負債です。
 資本は会社が預かってはいますが会社のものではありません。株主が所有権をもちます。
 株が譲渡可能になって、売買の株式市場ができた理由は、会社の、1.資産・負債の対照構造(バランス・シート)と、2.事業の結果(損益計算書)を真正に公開するということからです。
 株主が、株券という証券を受け取って資本(マネー)を出すのは、銀行預金よりは高い利益配当があるだろうという会社への将来信用からです。こうした「信用」が資本主義をつくったものです。金細工師のバランス・シートに、信用(物的には空洞です)から生まれた株式資本主義の原型が見えます。金利は、貸付金の、未来の不確実性(リスク)をカバーするために生まれたものです。

「資産=負債」という原理に資本主義の本質がある。眼から鱗が50枚くらい落ちたよ。そして株式会社が株主のものであることもよく理解できよう。株主が会社に投資し、会社が事業に投資をする。投資→利益→投資というサイクルが企業活動に運命づけられているのだ。

 現在、主要国の金利が下がっている。その先頭を走っているのが我が日本だ。先進国でいち早くデフレに陥ったためだ。ゼロ金利でもデフレを脱却できないため量的緩和まで行っている。アメリカのQE3(第三次量的緩和)は年内に終了する予定で、FRBは既にテーパリング(量的緩和の縮小)を開始した。FRBが市場に放出した資金を回収すれば、当然のようにドル高圧力がかかる。そこで思いも寄らぬ事態が待ち受けていることだろう。

 金利は「貨幣の時間的価値と信用リスクの対価としての性質を有するもの」(Wikipedia)と考えられているが、それにしても不思議である。マネーの将来価値が低くなることを織り込んでいるわけだから。マネーは金利によって増殖し、増刷されることで価値を下げる。世界各国がインフレターゲット政策を掲げ、健全なインフレ率(2~3%)を設定するのも、金利の為せる業(わざ)なのだろう。

 経済政策が上手くゆかないのはマネーが国境を軽々と超えるためだ。インターネットが普及した現在では一般人の資産すら海外へ移動することはたやすい。マネーはリターンを求めてリスクに向かいバブルを形成し、バブルが弾けるや否や安全な場所へ回避する。逃げ足の速い投機マネーが世界経済を混乱へと招く。

 サブプライム・ショック(2007年)、リーマン・ショック(2008年)を経て、資本主義崩壊が囁かれ始めた。新しい形の世界はまったく見えてこない。だが、やがて人類は必ずカネ以外の価値を見つけることだろう。

マネーの正体

2014-07-19

ビスマルクとロスチャイルド家/『通貨戦争 影の支配者たちは世界統一通貨をめざす』宋鴻兵


『超帝国主義国家アメリカの内幕』マイケル・ハドソン
『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 影の支配者たちがアジアを狙う』宋鴻兵

 ・ビスマルクとロスチャイルド家

 前著刊行後、5000万字の資料を参考にし、1日5万文字を1000日にわたって閲覧して書かれたのが本書である。

 若きビスマルクは勤勉で、勉強好きで、権力と叡智に極端なほどの憧れを抱いていた。彼の政治的野心と抱負はすぐにアムシェルとその養子のマイヤーの気に入るところとなった。ロスチャイルド家はとにかく政治的に有望な青年を育てるのが好きで、伯楽であることを自負していた。彼らはビスマルクが投資する価値のある優良株であると判断した。欧州の近代史上、若いころにロスチャイルド家に援助され、後に世界史において傑出した政治家になった人物には、ビスマルクのほかに、後のイギリス首相、ベンジャミン・ディズレーリ、そしてダービー競馬に勝つこと、資産家の令嬢を嫁にすること、イギリスの首相になること、この3つの夢をすべてかなえたロスチャイルド家の婿のローズベリー、そしてイギリスの名物首相、チャーチルがいた。
 ネイサン・ロスチャイルドは「大英帝国の通貨の発行権を握っている」と公言していた。欧州の名門貴族たちは、彼の金銭的な権勢に屈服せざるを得なかったにもかかわらず、ロスチャイルド家のような新興ユダヤ人「成金」を内心では軽蔑していた。ビスマルクも同じであった。ユダヤ銀行家たちを利用しながら軽蔑していたのである。

【『通貨戦争 影の支配者たちは世界統一通貨をめざす』宋鴻兵〈ソン・ホンビン〉: 橋本碩也〈はしもと・せきや〉監訳、河本佳世〈かわもと・かよ〉訳(武田ランダムハウスジャパン、2010年)以下同】

 資本主義は近代以降、政治とカネを切っても切れないものへと変えた。つまり「政治とカネの問題」というテーマは資本主義の否定につながる矛盾を抱えている。民主主義はカネで動くと理解した方がよさそうだ。政治が国家予算(税金)の分捕り合戦である一面を思えば腑に落ちる。

 驚くべき真実であるが、政治も文化も宗教もマネーを制した者が勝つ。「先立つものは金」というわけだ。そして潤沢な資金はプロパガンダ(広告)に費やされ、マネー獲得の目的に向かって直進する。こうしてあらゆる組織が資本増強を目指す。

 ロスチャイルド家は金融の本質を誰よりも早く知悉(ちしつ)していた。欧州貴族の軽蔑すら彼らの目には好機と映ったことだろう。名誉よりも実利が重いのだから。

 そして近代からアメリカが生まれ、そのアメリカからプラグマティズムが産声(うぶごえ)を上げたのも偶然ではあるまい。教会の権威を嫌い、信仰の実を選んだピルグリム・ファーザーズも宗教上の実利を志向している。



 戦争を通じてビスマルクは金銭の重要性を認識した。特に、大事な時に政治家は往々にして銀行家に屈服せざるを得なかった。デンマーク戦争とほぼ同時期に発生したアメリカの南北戦争リンカーン暗殺について、ビスマルクは次のように述べている。

「アメリカを南北の二つの弱い連邦に分けることは、内戦勃発前から欧州の金融権力者によって決められていたことである」

 カネがなければ戦争もできない。すなわちマネーを制する者は戦争をもコントロールできるのだ。

 20世紀末になりインターネットの普及がマネーの移動を自由自在にした。増殖するマネーはバブルとなって膨らんでは弾ける。バブル-バブル崩壊を繰り返しながらマネーはウイルスのように襲いかかる。バブルは富める者を更に富ませ、中産階級を貧困化する。極端な富の集中が資本主義そのものを崩壊させるのも時間の問題だ。

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将は将を知る/『楽毅』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 孟嘗君〈もうしょうくん〉が楽毅〈がっき〉の家を訪ねる。

 もっとも広い部屋に孟嘗君と従者をみちびきいれた楽毅は、躍(おど)る胸をおさえながら、言辞において喜びをあらわした。
 それにいちいちうなずいた孟嘗君は、ふと淡愁(たんしゅう)をみせ、
「わしが斉(せい)にいるあいだ、将軍は中山(ちゅうざん)で戦っていた。中山王は斃死(へいし)せず、中山の民は熄滅(そくめつ)しなかった。それが中山をあずかっていた将軍の愛の表現であると、わしは臨■(りんし)にいて考えていた。将軍は、まことによくなされた。みごとであったとたれも褒めぬのであれば、ここでわしが天にとどくほどの声で褒めよう」
 と、いった。いつのまにか孟嘗君の目が濡(ぬ)れている。その目をみた楽毅は、自分を囲んでいたものが音をたてて崩れはじめたように感じられた。
 ――ああ、このかたは、人の深奥(しんおう)がわかるのだ。
 と、おもいあたるや、どっと涙があふれた。楽毅はめずらしく泣いた。孟嘗君のまえにいるから泣けたともいえる。孟嘗君も泣いている。このふたりをみて室内にいるすべての者が、涙ぐみ、とくに楽毅の手足となって生死の境を走りぬけ、苦難をしのぎにしのいできた丹冬(たんとう)と趙写(ちょうしゃ)は、背をふるわせて欷歔(ききょ)した。

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)】

 楽毅が孟嘗君とまみえるのは留学していた時以来で二度目のこと。中山は小国であったがゆえに楽毅は将軍となってからも順風満帆とはいえぬ苦境の連続を凌(しの)いできた。将は将を知る。孟嘗君は楽毅の孤独をすくい上げるように自らの思いを述べた。美しい名場面である。

 人は年を重ねるにつれて妥協を余儀なくされ、いつしか腐臭の中に身を置くようになる。自分で自分に言いわけをしながら、やがて他人に言いわけを強いるような存在に変わってゆく。戦うことをやめた瞬間から人は老いる。老いとは成長を失った姿だ。

 孟嘗君と楽毅は勇猛で知られた人物だが、彼らが戦ったのは戦場だけではなかった。将は王ではない。駒(こま)のように扱われることもあった。その中で配下や民を思いやり、大義を追求した。二人は常に風雪にさらされる山頂のごとき高みにいた。

 孟嘗君は楽毅の饗応に対し、細やかな配慮を見過ごすことなく応じた。これが人間と人間の出会いというものなのだろう。心浅くして人を知ることはできない。

   

水野和夫、中原圭介、マックス・ゲルソン、アルボムッレ・スマナサーラ、他


 17冊挫折、2冊読了。

般若心経は間違い?』アルボムッレ・スマナサーラ(宝島社新書、2007年/宝島SUGOI文庫、2009年)/「我こそ正義」という思いがチラチラ透けて見える。著作の多さも仏教者らしくない。解説者としては尊敬できるがつかみどころのない人物でもある。

小さな「悟り」を積み重ねる』アルボムッレ・スマナサーラ(集英社新書、2011年)/これも期待外れ。

老いと死について』アルボムッレ・スマナサーラ(大和書房、2012年)/食傷気味。

生きる勉強 軽くして生きるため上座仏教長老と精神科医が語り合う』アルボムッレ・スマナサーラ、香山リカ(サンガ新書、2010年)/スマナサーラの最大の欠点は声の悪さにある。しかも意図的に飄々と語ることでふざけた印象を与える。これほど多くの著作がありながらも、誰から何を教わったか、修行にまつわる苦労、テーラワーダ仏教の内情については何も書いていない。

イエス復活と東方への旅 誕生から老齢期までのキリストの全生涯』ホルガー・ケルステン:佐藤充良訳(たま出版、2012年)/これは表紙がダメだろうよ(笑)。タイミングが合わなくて中止。世界で400万部のベストセラーらしい。

カリスマ受験講師細野真宏の経済のニュースがよくわかる本 世界経済編』細野真宏(小学館、2003年)/タイトルが醜悪。無駄な改行が多いのも解せない。初心者向けの経済解説で基本的な経済の用語や仕組みについて書かれている。横書き。

円高の正体』安達誠司(光文社新書、2012年)/トンデモ本といってよいと思う。

誰も言わない政党助成金の闇 「政治とカネ」の本質に迫る』上脇博之(日本機関紙出版センター、2014年)/著者は共産党シンパと思われる。文章の独善的なところが赤旗そっくりだ。出版社もサイトを見る限りではそれっぽい。

どっこい大田の工匠たち 町工場の最前線』小関智浩〈こせき・ともひろ〉(現代書館、2013年)/文章を飾りすぎて時々行方がわからなくなる。

鉄を削る 町工場の技術』小関智弘〈こせき・ともひろ〉(太郎次郎社、1985年/ちくま文庫、2000年)/エッセイ風の文章が肌に合わず。

3日食べなきゃ、7割治る!』船瀬俊介(三五館、2013年)/トンデモ本でした。

漢字の字源』阿辻哲次〈あつじ・てつじ〉(講談社現代新書、1994年)/構成にもう一工夫欲しいところ。後半は飛ばし読み。

国家破産 これから世界で起きること、ただちに日本がすべきこと』吉田繁治(PHP研究所、2011年)/ロジックに傾きすぎていて読みにくい。

大恐慌情報の虚(ウソ)と実(マコト)』三橋貴明、渡邉哲也(ビジネス社、2011年)/渡邉哲也の著作を全部読もうと思っていたのだが、これ軽すぎて駄目。砕けた調子が雑談に見えてしまう。編集者に芸が無さすぎる。

ドル・円・ユーロの正体 市場心理と通貨の興亡』坂田豊光(NHKブックス、2012年)/文章が論文のように固くて読めず。

代替医療解剖』サイモン・シン、エツァート・エルンスト:青木薫訳(新潮文庫、2013年/新潮社、2010年『代替医療のトリック』改題)/代替医療を批判することで結果的に西洋医学を礼賛している。発想が逆だ。土俗宗教を嘲笑うことでキリスト教を持ち上げる手法と似ている。西洋医学が効果を発揮しているのは感染症くらいだろう。平均寿命が延びているのは医学の力ではなく衛生によるところが大きい。順序からいえば製薬会社を批判するのが先だ。

ガン食事療法全書』マックス・ゲルソン:今村光一訳(徳間書店、1989年)/残念ながら1/3も読めなかった。関連作品を読む予定だ。マックス・ゲルソンは本書を著した後に不審な死を遂げた。暗殺説が根強い。

 44冊目『インフレどころか世界はこれからデフレで蘇る』中原圭介(PHP新書、2014年)/面白かった。シェール革命によってエネルギー価格が押し下げられ、世界がデフレに向かうという推測。中原によれば、よいインフレ、悪いインフレ、よいデフレ、悪いデフレの4種類があるという。長期的なファンダメンタルズに興味のある人は必読。

 45冊目『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫(集英社新書、2014年)/刮目の一書。資本主義を通した近現代史が俯瞰できる。キリスト教に関する記述もしっかりしていて目配りが行き届いている。やや重複した記述が目立つが、この手の本の中では頭ひとつ抜きん出た傑作だ。必読書入り。

2014-07-14

無我/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『これも修行のうち。 実践!あらゆる悩みに「反応しない」生活』草薙龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 シッダールタは、心とも体とも別の自己――すなわち、アートマン(我)――という考えを超え、ヴェーダで提唱されている誤ったアートマンの考え方の虜になっていた自分に気づいて唖然とした。実在の本質はわかれてはいない。無我――すなわち、アナートマン――こそが存在するすべての本質だった。アナートマンは何か新しい実在を表す言葉ではなく、すべての謬見を破壊する雷のごときものであった。シッダールタはあたかも瞑想の戦場で、無我を旗印に、洞察という名刀をふりかざす将軍のようであった。昼も夜もピッパラ樹の下に坐りつづけ、新しい気づきが稲妻の閃光のように次々と解き放たれていった。

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】

 出家したシッダールタは二人の師につくがやすやすと無所有処に至り、驚くべきスピードで非想非非想処(天界の最上位である有頂天)をも体得した。

2.ゴータマ・ブッダの出家と修行
非想非非想処と涅槃
滅尽定とニルヴァーナ

 悟りには明確な段階があるのだ。

 傍目からはなかなか判断できませんが、それぞれの段階の悟りを開いた人は、自分では自分がどの段階に悟ったか、よくわかるようです。それだけ明確な悟りの「体験」と、それによる心の変化が、悟りの各段階にあるからです。

【『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃(サンガ新書、2009年)】

 諸法無我を悟った瞬間が劇的に描かれているのだが致命的な誤りがある。「無我――すなわち、アナートマン――こそが存在するすべての本質だった」――いくら何でも「本質」はないだろう。たぶん翻訳ミスだと思われる。アナートマンとは否定語のアン+アートマンで無我・非我と訳す。訳語としては非我が相応しいような印象を受けるが、非我だとまだ我の存在を払拭できていない。ゆえに無我が正しいと私は考える。

梵我一如と仏教の関係

 デカルトは徹底した思索の果てに我を見据えた。ブッダは瞑想の果てに我を解体した。我は錯覚であり妄想であった。トール・ノーレットランダーシュは意識の正体を「ユーザーイリュージョン」と喝破した。

「私が存在する」という感覚から欲望が生まれる。人生の悩みは一切が私に基づいている。つまり私とは、神・幽霊・宇宙人に匹敵する錯覚なのだ。生はただ縁りて起こるものだ(縁起)。生は川の流れのように一瞬もとどまることがない。そこに「変わらざる自分」を見出すところに凡夫の過ちがある。自分から離れて、ただ生の流れに身を任すことが自然の摂理にかなっている。インディアンは確かにそういう生き方をしていた。

2014-07-13

語もし人を驚かさずんば死すとも休せず/『日本警語史』伊藤銀月


 3年前に読んだのだが書き忘れていた。書くのが不得手なため、どうしても読む量に追いつけない。多忙であっても読む時間は捻出するが、書く時間は失われる。限りある人生は優先順位によって進んでゆく。

 Google日本語入力に「警語」はない。やがては警句が死語になるのも時間の問題か。警語とは「人を驚かすような、奇抜な言葉」(デジタル大辞泉)である。「警」の字には「注意を与え、身を引き締めさせる。非常の事態に備える」(デジタル大辞泉)の意がある。類語には寸鉄(アフォリズム)など。

 伊藤銀月は萬朝報(よろずちょうほう)の記者をしていた人物で明治~昭和初期の小説家・評論家。

 語もし人を驚かさずんば死すとも休せず 何ぞ警語の日本史あらずして可ならんや

【『日本警語史』伊藤銀月〈いとう・ぎんげつ〉(実業之日本社、1918年/講談社学術文庫、1989年)以下同】

 今調べて初めて知ったのだが前段は杜甫の詩のようだ。

為人性僻耽佳句,語不驚人死不休。(わたしは人となりがすこしかたよった性質のようで、よい詩句を作ることにけんめいになっている。人を驚かすような良い語句を吐きだすまでは死んでも休まないということである)

春・春水 を詠う 律詩、絶句 : 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩 杜甫全詩集1500

 近代デジタルライブラリーに本書の画像がある。

近代デジタルライブラリー

 ある意味においての名物男某なる者ありき。欧米における軽薄なる方面の流行を模(も)して、ただ到らざらんことを恐れ、その人目(じんもく)に新たなる特徴として、元来短く出来たる頸(くび)に、極めて高き襟(えり)を着け、これがためにほとんど咽喉(のど)を締めて頤(あご)を突き上げられたるが如き痛苦(つうく)と不便とを感じつつも、ひとえに外観の犠牲となりて忍耐し、己(おのれ)の足許(あしもと)を見るべく要求する時には、面(おもて)を俯(うつむ)くること能(あた)わざるをもって腰を直角に曲げ、背後(うしろ)より呼びかけられたる場合にも、頸だけ廻らねば、くるりと全身の方向を転ずるの労力に甘んぜるを得ず。かくて、その着くるところの標識たる高襟(ハイカラー)は、同時にその人格の浅薄劣悪をシンボライズするところの標識となり、「ハイカラー!」の一語よく彼を冷殺(れいせつ)もし、時人(じじん)の嘲笑の的とも為し、ついには、彼をして社会に安住するの重量を失わしむるに及びて已(や)みぬ。
 否、この語の感伝力の強大なる、すでにその本来の目的を達するに到りてもなお已みしにあらず、さらに広布(こうふ)して、「ハイカラー」より転化したる「ハイカラ」となり、あるいは「灰殻」(はいから)という宛字(あてじ)によって変形せしめられ、あらゆる皮相の欧化者流を嘲笑する目的に供せられ、女性にしてその頭髪を洋風にする者もまた、「ハイカラ」の部類に編入せらるるを免れざるに到りたるが、広布の範囲大なるに随(したが)って、これに含まるる嘲笑味もまた稀薄とならざるを得ず、何時(いつ)しか、「ハイカラ」の称呼がこれを受けたる者を傷つくる力を失うを致せり。

 ね、面白いでしょ(笑)。文語体の罵倒には短刀のような鋭さがある。ネトウヨ諸君もかくの如き格調高い言説を試みるべきであろう。ハイカラも既に死語だ。私の世代がこの言葉を知っているのは子供の時分にアニメ「はいからさんが通る」が放映されていたためだ。


 時代は歩調を早めた。1900年頃は西洋かぶれを表したハイカラという言葉は、やがて進歩的・お洒落を意味するようになる。今、我々が読むと古い時代にしがみつくジイサンの戯言(たわごと)のように感じるのは、書き手の不明がわかっているからだ。

 ある一時両国の本場所における力士が、正々堂々の角抵(かくてい/相撲)を避け、褌(ふんどし)を緩(ゆる)くして敵の指し手を無効ならしめんことを試むるところの、卑劣なる計画の流行を来(きた)りしより、「緩褌」(ゆるふん)の一語もって軟骨陋心(なんこつろうしん)の政客(せいかく)を冷罵(れいば)するの目的に応用せらるるに到り、人をしてその婉曲(えんきょく)んしてしかも痛切なるに感嘆を禁ずる能わざらしめしも、またこの類にあらずとせざるなり。警語(けいご)とはこれ此(かく)の如きものを意味するなり。

 今なら「八百長」あるいは「出来レース」か。緩褌は政治家の緊張を欠いた姿勢を衝(つ)くものだが、官僚のシナリオを演じる政治家には相応しくない言葉だろう。

 西大陸の植民新たに独立を企て、亜米利加(アメリカ)合衆国建設の萌芽(ほうが)を見るべき機運まさに到らんとせし際、衆心(しゅうしん)なお疑懼(ぎく)の間にあり。このとき、火の舌と焔(ほのお)の気とをもって天より降(くだ)されたる革命の子パトリック・ヘンリーあり。狂的熱弁を揮(ふる)って同胞を鼓舞し、最後に寸鉄殺人的一句を添加して曰く、「未だ諸君の出ずる所何(いず)れに在るかを知らずと雖(いえど)も、予はただ予自身のために祈る。神よ、予に自由を授けよ、しからずんば死を授けよ!」と。自由にあらずんば死。なんぞそれ語の沈痛なる。これを聴く者ためにひとたび■然(しょうぜん/りっしんべん+束)として黙思(もくし)し、しかして後(のち)、頭脳破裂して血液併発(併はニンベンではなくシンニュウ)せるが如き喝采の声を併せたり。この声須臾(しゅゆ/わずかの時間)に波動を伝えて、すなわち、新大陸を震撼するの激浪洪濤(げきろうこうとう)となり、人として革命の歌に合唱を与えざる者あらざるに至りぬ。警語とはそれ此(かく)の如きものを意味するなり。

「自由を与えよ。然らずんば死を(Give me Liberty, or give me Death!)」との有名な言葉が劇的に綴られている。警世の言が人々の胸に突き刺さり、時代を動かした。

 警語は、時として熱語(ねつご)なることあり、冷語(れいご)なることあり、正語(せいご)なることあり、奇語(きご)なることあり、軟語(なんご)なることあり、硬語(こうご)なることあり、柔語(じゅうご)なることあり、豪語なることあり、温語(おんご)なることあり、痛語(つうご)なることあり、甘語(かんご)なることあり、苦語(くご)なることあり、倹語(けんご)なることあり、誇語(こご)なることあり、また、必ずしも毒語(どくご)、悪語(あくご)、邪語(じゃご)なるを妨げざることあり。要するに、これを発する場所と時機とに適応して寸分の過不及(かふきゅう)なく、凱切(がいせつ)にして徹底、人の胸を刺し貫いて、鋒尖(ほうせん)白く脊梁(せきりょう)に出ずるものなれば足れるなり。したがって、警語は如何なる場合にも決して冗漫なるを得ざるの約束に支配せらる。節の長短、調(ちょう)の緩急は、場合によりての手加減あるべしと雖も、必ず常に、十二分に鍛錬緊縮せられて、精髄を結晶せしめたるが如く簡潔純粋なるものならざるべからざるなり。

 結局のところラジオやテレビが警語を死なせたのだろう。そして新聞は官報と堕した。大政翼賛に加担することで新聞記者は筆を折り、戦後はGHQに屈する格好で更に筆を折ったのだろう。既にペン先しか残っていないがゆえに、彼らはキーボードに乗り換えたのだ。

 しかして、警語はある場合においては批評たり、ある場合において形容たり、ある場合において告白たり、ある場合において主張たり、ある場合において論詰(ろんきつ)たり、ある場合において断定たり。

 死んだのは警語ばかりではない。言葉そのものが死につつある。やはり政治や教育の影響が大きいのだろう。歌われるのは恋愛沙汰ばかりで人生そのものが不毛になりつつある。

 もう一つだけ紹介しよう。

 彼等(※江戸っ子)はややもすれば、「蹴飛ばした!」と云い、「蹴飛ばされた!」と云う。

 古今亭志ん生の落語で聴いたような聴かなかったような……。うっちゃったとか、ひっくり返したも使っていそうだ。東京の人の多さがひしひしと伝わってくる。

 なお、ミスター警語といえば斎藤緑雨(『緑雨警語』)であり、アフォリズムとしてはエリアス・カネッティ著『蝿の苦しみ 断想』を推す。

2014-07-06

クリストファー・スタイナー、佐々木閑、齋藤孝、アルボムッレ・スマナサーラ、他


 7冊挫折、4冊読了。

インド仏教変移論 なぜ仏教は多様化したのか』佐々木閑〈ささき・しずか〉(大蔵出版、2000年)/「大乗仏教は、部派仏教の延長線上に現れた、出家者僧団の宗教であった」という説を提示。『仏教研究』誌に掲載された8編の論文が元になっており、後に佛教大学(※本文では仏教大学と表記)の学位論文として提出している。一般人からすれば重複した文章が多く冗長に感じた。私は学術的な意義に興味はなく、閃きを求めているゆえピンとこなかった。横書きというのも致命的だ。

科学するブッダ 犀の角たち』佐々木閑〈ささき・しずか〉(角川ソフィア文庫、2013年)/真面目な科学書。初歩的な内容なのでやめた。

「10年大局観」で読む 2019年までの黄金の投資戦略』若林栄四〈わかばやし・えいし〉(日本実業出版社、2009年)/過去の自分の姿に酔っている節があり薄気味悪い。名の通った元ディーラーだがチョビ髭は伊達じゃなかったのね。ナルシストは苦手だ。

アメリカは日本の消費税を許さない 通貨戦争で読み解く世界経済 』岩本沙弓〈いわもと・さゆみ〉(文春新書、2014年)/前著との重複が多い。たぶん読み返すことはないだろう。

流れよわが涙、と警官は言った』フレドリック・ブラウン:友枝康子〈ともえだ・やすこ〉訳(ハヤカワ文庫、1989年)/名作といわれているがサービス精神が旺盛すぎて安っぽい印象を受けた。後半をパラパラとめくり仕掛けがわかったが、今となってはちょっと古いね。ただし時折キラリと光る名言が出てくるのはさすがである。

竹林はるか遠く 日本人少女ヨーコの戦争体験記』ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著・監訳:都竹恵子訳(ハート出版、2013年)/ベストセラー。米国では中学の教科書に掲載されているとのこと。韓国でも刊行されたが後に発売中止に。『流れる星は生きている』(藤原てい)の方が面白い。若い人たちは読むといい。動画を紹介しておこう。




監獄ビジネス グローバリズムと産獄複合体』アンジェラ・デイヴィス:上杉忍訳(岩波書店、2008年)/学術書。民営化という手法で成立したのが監獄ビジネスだ。犯罪率と関係なくしょっ引かれている模様。これもショック・ドクトリンの影響だろう。

 40冊目『「やさしい」って、どういうこと?』アルボムッレ・スマナサーラ(宝島社、2007年)/内容はいいのだが薄っぺらいスカスカ本。スマナサーラは積極的に出版ビジネスを展開しているように見える。

 41冊目『偏愛マップ キラいな人がいなくなる コミュニケーション・メソッド』齋藤孝(NTT出版、2004年/新潮文庫、2009年)/面白かった。自分の偏愛マップも作ってみたい。齋藤孝の説明能力は評価するが、彼の文章はあまりにもバラ色すぎる。優秀なマーケティング野郎だと思うよ。

 42冊目『本当の仏教を学ぶ一日講座 ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか』佐々木閑〈ささき・しずか〉(NHK出版新書、2013年)/これは読みやすかった。しかも勉強になる。ただし佐々木には閃きが感じられない。何かとオウム真理教を持ち出すところも感心しない。手垢にまみれたやり方だ。佐々木は『服従の心理』をしっかり読んで出直すべきだ。

 43冊目『アルゴリズムが世界を支配する』クリストファー・スタイナー:永峯涼〈ながみね・りょう〉訳(角川EPUB選書、2013年)/アルゴリズム本には必ず金融マーケットの話が出てくる。多少の知識がないとちょっと苦しいかも。「情報とアルゴリズム」に追加した。終盤の失速が惜しまれる。

2014-07-05

近代において自由貿易で繁栄した国家など存在しない/『略奪者のロジック 支配を構造化する210の言葉たち』響堂雪乃


・『独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』響堂雪乃

 ・近代において自由貿易で繁栄した国家など存在しない

 この社会は「文明の衝突」に直面しているのかもしれない。国家の様態は清朝末期の中国に等しく、外国人投資家によって過半数株式を制圧された経済市場とは租界のようなものだろう。つまり外国人の口利きである「買弁」が最も金になるのであり、政策は市場取引されているのであり、すでに政治と背徳は同義に他ならない。
 TPPの正当性が喧伝されているが、近代において自由貿易で繁栄した国家など存在しないのであり、70年代からフリードマン(市場原理主義者)理論の実験場となった南米やアジア各国はいずれも経済破綻に陥り、壮絶な格差と貧困が蔓延し、いまだに後遺症として財政危機を繰り返している。
 今回の執筆にあたっては、グローバル資本による世界支配をテーマに現象の考察を試みたのだが、彼らのスキームは極めてシンプルだ。
 傀儡政権を樹立し、民営化、労働者の非正規化、関税撤廃、資本の自由化の推進によって多国籍企業の支配を絶対化させる。あるいは財政破綻に陥ったところでIMFや世界銀行が乗り込み、融資条件として公共資源の供出を迫るという手法だ。それは他国の出来事ではなく、この社会もまた同じ抑圧の体系に与(くみ)している。
 我々の錯誤とは内在本質への無理解なのだけれども、おおよそ西洋文明において略奪とは国営ビジネスであり、エリート層の特権であるわけだ。除法平価の軍隊がカリブ海でスペインの金塊輸送船を襲撃し、中国の民衆にアヘンを売りつけ、インドの綿製品市場を絶対化するため機織職人の手首を切り落とし、リヴァプールが奴隷貿易で栄えたことは公然だろう。
 グローバリズムという言葉は極めて抽象的なのだが、つまるところ16世紀から連綿と続く対外膨張エリートの有色人種支配に他ならない。この論理において我々非白人は人間とはみなされていないのであり、アステカやインカのインディオと同じく侵略地の労働資源に過ぎないわけだ。
 外国人投資家の利益を最大化するため労働法が改正され、労働者の約40%近くが使い捨ての非正規労働者となり、年間30兆円規模の賃金が不当に搾取されているのだから、この国の労働市場もコロンブス統治下のエスパニョーラ島と大差ないだろう。

【『略奪者のロジック 支配を構造化する210の言葉たち』響堂雪乃〈きょうどう・ゆきの〉(三五館、2013年)】

 前著と比べるとパワー不足だが、言葉の切れ味とアジテーションは衰えていない。テレビや新聞の報道では窺い知るのことのできない支配構造を読み解く。ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』の後塵を拝する格好となったが説明能力は決して劣っていない。

 興味深い210の言葉を紹介しているが、人名やタイトルだけで出典が曖昧なのは三五館の怠慢だ。ともすると悲観論に傾きすぎているように感じるが、警世の書と受け止めて自分の頭で考え抜くことが求められる。元々ブログから生まれた書籍ゆえ、この価格で著者に責任を押しつけるのはそれこそ読者の無責任というべきだ。

 一気に読むのではなくして、トイレにおいて少しずつ辞書を開くように楽しむのがよい。前著は既に絶版となっている。3.11後の日本を考えるヒントが豊富で、単なる陰謀モノではない。

略奪者のロジック
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響堂 雪乃
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アメリカに「対外貿易」は存在しない/『ボーダレス・ワールド』大前研一

読書人階級を再生せよ/『人間の叡智』佐藤優


労働力の商品化
・読書人階級を再生せよ

 そこで私が必要を強く感じるのが、階級としてのインテリゲンチャの重要性です。かつての論壇、文壇は階級だったわけです。編集者も階級だった。その中では独特の言葉が通用して、独特のルールがあった。ギルド的な、技術者集団の中間団体です。国家でもなければ個人でもなく、指摘な利益ばかりを追求するわけでもない。自分たちの持っている情報は、学会などの形で社会に還元する。
 時代の圧力に対抗するにはこういう中間団体を強化するしか道はない。なんでもオープンにしてフラット化すればよい、というものではありません。
 新書を読むような人はやはり読書人階級に属しているのです。ものごとの理屈とか意味を知りたいという欲望が強い人たちで、他の人たちと少し違うわけです。読書が人間の習慣になったのは新しい現象で、日本で読書の広がりが出てきたのは円本が出版された昭和の初め頃からでしょうから、まだ80年くらいのものではないですか。円本が出るまでは、本は異常に高かった。いずれにせよ、現代でも日常的に読書する人間は特殊な階級に属しているという自己意識を持つ必要があると思います。
 読書人口は、私の皮膚感覚ではどの国でも総人口の5パーセント程度だから、日本では500~600万人ではないでしょうか。その人たちは学歴とか職業とか社会的地位に関係なく、共通の言語を持っている。そしてその人たちによって、世の中は変わって行くと思うのです。

【『人間の叡智』佐藤優〈さとう・まさる〉(文春新書、2012年)】

 読者の心をくすぐるのが巧い。しかも本書が文庫化されないことまで見通しているかのようである(笑)。ニンマリとほくそ笑んだ挙げ句に我々は次の新書を求めるべく本屋に走るという寸法だ。

 佐藤優は茂木健一郎の後を追うような形で対談本を次々と上梓している。茂木と異なり佐藤の場合は異種格闘技とも思える相手が目立つ。その目的はここでも明言されている通り「中間団体の強化」にある。佐藤なりの憂国感情に基づく行動なのだろう。

 共通言語に着目すれば佐藤のいう中間団体はサブカルチャー集団とも考えられる。共通言語から文化が生まれ、規範が成り立つ(下位文化から下位規範が成立/『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹)。人々の行動様式(エートス)を支えるのは法律ではなく村の掟、すなわち下位規範である。佐藤は驚くべき精力でそこに分け入る。

 佐藤の該博な知識は大変勉強になるのだが、どうも彼の本心が見えない。イスラエル寄りの立場が佐藤の存在をより一層不透明なものにしている。



問いの深さ/『近代の呪い』渡辺京二

2014-07-04

躍る影と舞う影


 久し振りにtumblrにアクセスしたところ、2枚のイカした画像を発見。


 身体の陰と地面の影が二重奏をかなでる。躍る影は不思議なほど明るさを帯びている。動きを寸断しているにも関わらず彫像のようにどっしりと安定している。ボールの位置がまた見事で右1/3、下1/3に配置。絶妙なバランス感を生んでいる。


 これまた私の好みにドンピシャリの一枚。海水のうねりと下部の陰影が秀逸だ。まるで女性が太陽から産み落とされた瞬間を捉えたような錯覚をおぼえる。海水で歪んだ太陽と弧を描く身体によって円環のモチーフが際立つ。光と影、水と空気、生と死が構成する小宇宙だ。

2014-07-02

アルゴリズムが人間の知性を超える/『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル


『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
・『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
・『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
・『人間原理の宇宙論 人間は宇宙の中心か』松田卓也
全地球史アトラス
『2045年問題 コンピュータが人類を超える日』松田卓也

 ・指数関数的な加速度とシンギュラリティ(特異点)
 ・レイ・カーツワイルが描く衝撃的な未来図
 ・アルゴリズムが人間の知性を超える

『聖者の行進』アイザック・アシモフ
意識と肉体を切り離して考えることで、人と社会は進化する!?【川上量生×堀江貴文】
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
『トランセンデンス』ウォーリー・フィスター監督
『LUCY/ルーシー』リュック・ベッソン監督、脚本
『Beyond Human 超人類の時代へ 今、医療テクノロジーの最先端で』イブ・ヘロルド
『〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』ケヴィン・ケリー
『世界2.0 メタバースの歩き方と創り方』佐藤航陽
メタバースと悟り
『養老孟司の人間科学講義』養老孟司
『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ
『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
『われわれは仮想世界を生きている AI社会のその先の未来を描く「シミュレーション仮説」』リズワン・バーク
『リアリティ+ バーチャル世界をめぐる哲学の挑戦』デイヴィッド・J・チャーマーズ

情報とアルゴリズム

 まず、われわれが道具を作り、次は道具がわれわれを作る。
  ──マーシャル・マクルーハン

【『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル:井上健〈いのうえ・けん〉監訳、小野木明恵〈おのき・あきえ〉、野中香方子〈のなか・きょうこ〉、福田実〈ふくだ・みのる〉訳(NHK出版、2007年)以下同】

 出たよ、マクルーハンが。本当にこの親父はもの思わせぶりな言葉が巧いよな。道具とはコンピュータである。

 われわれの起源を遡ると、情報が基本的な構造で表されている状態に行き着く。物質とエネルギーのパターンがそうだ。量子重力理論という最近の理論では、時空は、離散した量子、つまり本質的には情報の断片に分解されると言われている。物質とエネルギーの性質が究極的にはデジタルなのかアナログなのかという議論があるが、どう決着するにせよ、原子の構造には離散した情報が保存され表現されていることは確実にわかっている。

 波であれば連続的で、量子であれば離散的になる。既に時間も長さも最小単位が存在する(プランク時間プランク長)。

生い立ちから「ディジタル」…「量子論」

 生物の知能進化率と、テクノロジーの進化率を比較すると、もっとも進んだ哺乳類では、10万年ごとに脳の容量を約16ミリリットル(1立法インチ)増やしてきたのに対し、コンピュータの計算能力は、今現在、毎年おおよそ2倍になっている。

 指数関数的に技術革新が行われることで進化スピードを凌駕するのだ。

 これから数十年先、第5のエポックにおいて特異点が始まる。人間の脳に蓄積された大量の知識と、人間が作りだしたテクノロジーがもついっそう優れた能力と、その進化速度、知識を共有する力とが融合して、そこに到達するのだ。エポック5では、100兆の極端に遅い結合(シナプス)しかない人間の脳の限界を、人間と機械が統合された文明によって超越することができる。
 特異点に至れば、人類が長年悩まされてきた問題が解決され、創造力は格段に高まる。進化が授けてくれた知能は損なわれることなくさらに強化され、生物進化では避けられない限界を乗り越えることになる。しかし、特異点においては、破壊的な性向にまかせて行動する力も増幅されてしまう。特異点にはさまざまな面があるのだ。

 アルゴリズムが人間の知性を超える瞬間だ。このあたりについてはクリストファー・スタイナー著『アルゴリズムが世界を支配する』が詳しい。人間がコンピュータに依存するというよりも、人間とコンピュータが完全に融合する時代が訪れる。

 今のところ、光速が、情報伝達の限界を定める要因とされている。この制限を回避することは、確かにあまり現実的ではないが、なんらかの方法で乗り越えることができるかもしれないと思わせる手がかりはある。もしもわずかでも光速の限界から逃れることができれば、ついには、超光速の能力を駆使できるようになるだろう。われわれの文明が、宇宙のすみずみにまで創造性と知能を浸透させることが、早くできるか、それともゆっくりとしかできないかは、光速の制限がどれだけゆるぎないものかどうかにかかっている。

 これが量子コンピュータの最優先課題だ。量子もつれが利用できれば光速を超えることが可能だ。

 この事象のあとにはなにがくるのだろう? 人間の知能を超えたものが進歩を導くのなら、その速度は格段に速くなる。そのうえ、その進歩の中に、さらに知能の高い存在が生みだされる可能性だってないわけではない。それも、もっと短い期間のうちに。これとぴったり重なり合う事例が、過去の進化の中にある。動物には、問題に適応し、創意工夫をする能力がある。しかし、たいていは自然淘汰の進み方のほうが速い。言うなれば、自然淘汰は世界のシミュレーションそのものであり、自然界の進化スピードは自然淘汰のスピードを超えることができない。一方、人間には、世界を内面化して、頭の中で「こうなったら、どうなるだろう?」と考える能力がある。つまり、自然淘汰よりも何千倍も速く、たくさんの問題を解くことができる。シミュレーションをさらに高速に実行する手段を作りあげた人間は、人間と下等動物とがまったく違うのと同様に、われわれの過去とは根本的に異なる時代へと突入しつつある。人間の視点からすると、この変化は、ほとんど一瞬のうちにこれまでの法則を全て破壊し、制御がほとんど不可能なくらいの指数関数的な暴走に向かっているに等しい。
  ──ヴァーナー・ヴィンジ「テクノロジーの特異点」(1993年)

 たぶんエリートと労働者に二分される世界が出現することだろう。いい悪いではなく役割分担として。その時、労働者はエリートが考えていることを理解できなくなっているに違いない。驚くべき知の淘汰が行われると想像する。

 超インテリジェント・マシンとは、どれほど賢い人間の知的活動をも全て上回るほどの機械であるのだとしよう。機械の設計も、知的な活動のひとつなので、超インテリジェント・マシンなら、さらに高度な機械を設計することができるだろう。そうなると、間違いなく「知能の爆発」が起こり、人間の知性ははるか後方に取り残される。したがって、人間は、超インテリジェント・マシンを最初の1台だけ発明すれば、あとはもうなにも作る必要はない。
  ──アーヴィング・ジョン・グッド「超インテリジェント・マシン1号機についての考察」(1965年)

 万能チューリングマシンの誕生だ。仮にコンピュータが自我を獲得したとしよう(「心にかけられたる者」アイザック・アシモフ)。マシンの寿命が近づけば自我もろともコピーすることが可能だ。そう。コンピュータは永遠の生命を保てるのだ。ここに至り、光速と同様に人間の寿命がイノベーションの急所であることが理解できよう。

 自我は個々人に特有のアルゴリズムと考えることができる。そんな普遍性のないアルゴリズムはノイズのような代物だろう。コンピュータが人類を凌駕した時、真実の人間性が問われる。

ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき

ミステリマガジン700/SFマガジン700

ミステリマガジン700 【海外篇】 (ハヤカワ・ミステリ文庫)ミステリマガジン700 【国内篇】 (ハヤカワ・ミステリ文庫)SFマガジン700【海外篇】 (ハヤカワ文庫SF)SFマガジン700【国内篇】 (創刊700号記念アンソロジー)

2014-07-01

カルビー フルグラ 800g×6袋

カルビー フルグラ 800g

 フルーツグラノーラと言えばカルビーフルグラ。複数の穀物を香ばしく焼き上げ、程よい甘さのドライフルーツをミックスした本格シリアル。食物繊維や鉄分がたっぷりで8種類のビタミンが1日に必要量の1/3とれます。

【栄養成分】エネルギー:222kcal、たんぱく質:3.6g、脂質:7.7g、(糖質):32.4g、(食物繊維):4.5g、ナトリウム:91mg、カリウム:127mg、カルシウム:15mg、リン:88mg、鉄:5.0mg、ビタミンA:150μg、ビタミンD:1.67μg、ビタミンB1:0.34mg、ナイアシン:3.7mg、ビタミンB6:0.34mg、ビタミンB12:0.67μg、葉酸:67μg、パントテン酸:1.9mg

大望をもつ者/『楽毅』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 名君とはそういうものだ、といわれれば、そうかもしれない。しかしながら楽毅のおもう名君に武霊王はあてはまらない。なぜなら武霊王は自信過剰のためか、辞儀が高すぎる。
湯王(とうおう)や武王(ぶおう)を鑑(み)よ」
 ほんとうに大望をもつ者は、野人(やじん)にさえ頭をさげ、辞を低くする謙虚さがなくてはならぬ。武霊王にはその種の逸話がまったくない。だから武霊王にはかならず弱点があるはずだと楽毅はおもう。

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)以下同】

 大事業は人を得て成る。一人で築いたものは一代で終わる。精神の広がりは必ず人に伝わる。狭量な人物が大事業を成すことはない。

 精神と精神が打ち合い、魂と魂が通う中に音楽(リズムやメロディ)が生まれる。これがコミュニケーションの本質であろう。打たなければ音は出ない。そうでありながらも大太鼓と撥(ばち)は依存する関係ではない。息を吹き込まれて発する笛の音は息だけでも笛だけでも生まれないのだ。

 常に心を開いていれば必ず人は見つかる。自分の物差しに固執すれば規格外の人を見失う。盛衰興亡の差もここにあるのだろう。

 ――頭の高い者は、足もとが見えない。

 ゆえに躓(つまづ)き、そして転ぶ。時に足をすくわれ、払われる。

 人生(じんせい)の大病(たいびょう)は
 ただこれ一(いち)の傲(ごう)の字(じ)なり

【『伝習録』下巻】

 傲(おご)りが視野を狭め、盲点をつくる。心と目は同時に開く。

   

2014-06-28

ロジクール コンフォートキーボード K290

ロジクール コンフォートキーボード K290

静音フルサイズキーボードで快適タイピング◆Windows 8のキーを備えたフルサイズキーボード個別のテンキーとWindows 8キーへ即座にアクセスでき、フルサイズのレイアウトが素早く正確な入力を実現します。◆パームレスト一体型パームレスト一体型で、タイピングによる手の疲労を軽減します。◆耐久性のあるスマートなデザインスマートなデザインと耐久性を両立し、最大1000万回のキーストロークにも耐えうるよう設計されています。 / ■ 仕様 ■対応OS:Windows 8 / 7接続I/F:USBキーレイアウト:108キー日本語レイアウトキー構造/デザイン:メンブレンキーピッチ:19mmキーストローク:2.65mm押下圧:60g角度調節機能:有ショートカットキー:検索、共有、デバイス、設定、アプリケーションの切り替え、前のトラック再生/一時停止、次のトラック、ミュート、音量ダウン、音量アップ、パソコンスリープモードサイズ:幅459×奥行182.6×高さ20.4mm重量:930gケーブル長:1700mm付属品:保証書、保証規定、取扱説明書メーカー保証:3年間

岩本沙弓、原島嵩、ブライアン・ジョセフソン、安保徹、他


 5冊挫折、3冊読了。

プリーモ・レーヴィへの旅』徐京植〈ソ・キョンシク〉(朝日新聞社、1999年)/前々から読みたかった一冊であっただけに期待外れ感が大きい。在日朝鮮人によるユダヤ人利用としか読めない。

検事失格』市川寛〈いちかわ・ひろし〉(毎日新聞社、2012年)/佐賀市農協事件で冤罪をつくりあげた検事が内情を暴露した本。良書だが弱い。

夢見られた近代』佐藤健志〈さとう・けんじ〉(NTT出版、2008年)/遂に佐藤の著作は一冊も読了できず。

ノーベル賞科学者ブライアン・ジョセフソンの科学は心霊現象をいかにとらえるか』ブライアン・ジョセフソン:茂木健一郎、竹内薫訳(徳間書店、1997年)/読めず。

免疫革命』安保徹〈あぼ・とおる〉(講談社インターナショナル、2003年/講談社+α文庫、2011年)/典型的なトンデモ本。相関関係を因果関係に摩り替えた代物。体験談に基づく手法が健康食品販売を思わせる。新潟大学医学部教授という肩書に驚かされる。

 37冊目『最後のバブルがやってくる それでも日本が生き残る理由 世界恐慌への序章』岩本沙弓〈いわもと・さゆみ〉(集英社、2012年)/36冊目と順番を間違えた。こちらを先に読了。岩本沙弓に外れなし。

 38冊目『経済は「お金の流れ」でよくわかる: 金融情報の正しい読み方』岩本沙弓〈いわもと・さゆみ〉(徳間ポケット、2013年)/アベノミクスの盲点は資源高という指摘が腑に落ちる。元為替ディーラーだけあって浮ついた理論に流されない足腰の強さが窺える。

 39冊目『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』原島嵩〈はらしま・たかし〉(日新報道、2002年)/創価学会の元教学部長による告発手記。矢野絢也の著作と比べるとかなりレベルが落ちる。池田の女性問題にまつわる部分は印象に傾きすぎていて危うい。

先ず隗より始めよ/『楽毅』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 即位した昭王が考えたことは、
 ――父と国の仇を討つ。
 ということであり、に勝つにはどうするか、ということであった。一貫して自分を援けてくれた郭隗(かくかい)にその問いをぶつけた。
「斉はわが国の乱れに乗じて襲ってきて、わが国を破った。わが国は小さく国力もとぼしい。斉に報復するには力不足であることを重々承知している。それでも真の賢士を得て、国事をともにし、先王の恥を雪(すす)ぐのが、わしの願いである。先生、それができる者をみつけてくれまいか。身をもってその者に仕えるであろう」
 それに対する郭隗の答えが、不朽の名言になった。

 王必ず士を致(いた)さんと欲せば、先(ま)ず隗(かい)より始めよ。

 王が賢士をどうしても招きたいと欲しておられるなら、この郭隗にまずお仕えなさい、といったのである。そういった郭隗自身、
「先従隗始」(せんしょうかいし)
 が、人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)し、東海中の島の民にも親しまれる語句になろうとはおもわなかったであろう。それはそれとして郭隗のことばにはつづきがある。
「そうすれば、隗より賢い者が、千里を通しとせずに燕(えん)にやってきましょう」
 ふしぎないいかたである。昭王は眉(まゆ)をひそめた。郭隗はたしかに賢者であるが、国政をあずけてもよいほどの大才ではない。他国にその賢名がきこえているとはおもわれない男である。その郭隗に仕えると、諸国より賢士がやってくるとは、どういうことであろう。
 それについて郭隗は懇々と述べた。(第二巻終了)

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)以下同】

 対話の妙味が問答にあることと、答えには物語が不可欠であることを教える故事だ。歴史を学ぶ目的は温故知新にある。「子曰く、故(ふる)きを温(たず)ねて、新しきを知れば、以って師と為るべし」(『論語』)。物語は未来を志向する。占いがその典型だ(占いこそ物語の原型/『重耳』宮城谷昌光)。現状打開の智慧に物語の本質がある。郭隗の提言は「まず出来ることから始めよ」と受け止めることができよう。このエピソードは第三巻の冒頭で詳細が展開される。

 郭隗は昭王に問われて、つぎのように答えた。
「帝者は師とともに処(お)り、王者は友とともに処り、覇者は臣とともに処り、亡国の主は役(えき)とともに処ります」
 人君として至上の帝者には師があり、その下の王者には友があり、その下の覇者には臣があり、国を滅亡させる者には僕隷(ぼくれい)があるだけである。まずそういった郭隗は、つづいて、
「指を屈して師に仕え、北面して学を受ければ、自分より百倍も才能の豊かな者がやってきます。それより劣る礼ですが、敬意をあらわすために、その人のまえを趨(はし)り、その人よりおくれて息(いこ)い、はじめに問うてのちに黙ってその人の教えをきくようにすれば、自分より十倍もまさる人がやってきます。そうではなく、たがいに趨って礼をやりとりするのでは、自分にひとしい才徳の者しかきません。まして几(き)や杖(つえ)によりかかって、人を眄視指使(べんししし)するようであったら、不浄の者である厠役(しえき)の人しかこないでしょう。もっとも悪いのは、わがままに相手を睨(にら)み、打ちすえ、大声で叱(しか)ることで、それでくるのは奴隷ばかりでしょう」
 と、いい、人君を五種類にわけた。
 もっともすぐれた人君とは、自分が人君であることを忘れるほどの謙虚をしめす人である。これはまさに逆説といえる。王侯は自分の存在がその国でもっとも重く大きなものでなくてはならない。人は自分が存在していることをさまざまな手段をもちいて表現する。さらに、その表現の受け手である相手の反応をみて、異聞の存在を計算する。はやい話が、自分にたいして頭をさげる者が多ければ多いほど尊貴もますのである。だが郭隗の考えでは、自分の存在を無に近づける者のほうが偉いということになる。すなわち人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる。ことばをかえていえば、ひとりの師を得ることは百万の奴隷を得ることにまさる。いま全盛を誇っている斉に勝つほどの富国強兵をなしとげるためには、王としての誇りをなげすてて、賢人に指を屈し身を屈して教えを仰がねばならない。
「いま申し上げたことが、古来賢人を招致するやりかたです。王がほんとうに広く国中の賢人を求めて、その門をたずねたら、天下に評判が立ち、天下の賢人はかならず燕に馳(は)せてきましょう」
「なるほど。では、わしはいったいたれをたずねたらよいのか」
 この昭王の問いにたいして郭隗は逸話をもって答えた。
 こういう話である。
 むかし、ある君主が千金をだしてでも千里の馬を手にいれようとしていた。千里の馬とは、むろん、一日に千里(約400キロメートル)も走ることのできる馬をいう。
 が、3年たっても入手できなかった。宦官(かんがん)のなかでも宮中の掃除をおこなう者を涓人(けんじん)というが、その涓人が君主に、
「どうかその役目をわたしにお命じください。かならず千里の馬をさがしあててまいります」
 と、自信ありげにいった。
「かならずだぞ」
 念を押した君主は涓人に任務をさずけた。涓人は各地を歩き、3か月後に、ついに千里の馬をみつけた。が、不運なことに、その名馬は死んでいた。
「死んでいようが千里の馬は千里の馬だ。その首をわたしに売ってくれ」
 涓人はなんと五百金という大金をだして、馬の首を買いとると、帰国し、復命した。君主が激怒したことはいうまでもない。
「わしが欲しいのは生きている馬だ。どうして死んだ馬を大事にして五百金を捐(す)ててきたのか」
 そうなじられても涓人はいささかも萎縮(いしゅく)せず、
「君は千里の馬であれば死馬でさえ五百金でお買いになったわけです。生馬では、どうか、と世間でとりざたしている者たちは、君が馬の値うちのよくわかるかたであるとおもっておりましょう。まもなく千里の馬を売りにくる者があらわれるでしょう」
 と、いった。はたして1年もたたぬうちに、千里の馬が3頭もやってきたという。
 どこの国の逸話であるかはわからない。話のなかにあった千里の馬が、昭王の求める賢人にあたることはあきらかである。すなわち昭王が賢人を求めるために国中をさがしまわっても、おそらくむだであり、それより身近な者をつかって賢人をさがさせたほうがよいということであろう。郭隗は容(かたち)を端(ただ)して、
「いま王がほんとうに賢人を招きたいとおもっておられるなら、まず隗より始めるべきです。隗のような者でも王に仕えてもらえる。隗よりすぐれている者ならなおさらです。その者にとって千里の道など遠いことがありましょうか」
 と、強い語気でいった。
 遠くにいる賢人をさがすまえに、まぢかにいる賢人に師事しなさい。
 自薦である。
 が、これほどみごとな自薦はほかにない。
 昭王は器量の大きな人である。
 ――いままでの話は、自分を売りこむためのものであったのか。
 とは、おもわなかった。
 郭隗の説述に理を認めた。なるほどむかしから聖王や名君にはみな師がいた。湯王(とうおう)の師である伊尹(いいん)、武王(ぶおう)の師である太公望(たいこうぼう)は在野の賢人である。君主が君主として威張っていては、けっしてみつけることのできない大才である。そのひとりをみつけたことにより、天下がころがりこんできた。とkろが伊尹や太公望は民間人なので、諸侯のたれもがかれらを招く機会を平等にあたえられていたのである。歴史のおもしろさであり、恐ろしさでもある。
 ――頭をさげ、腰をかがめ、指を屈し、辞を低くする者が勝つのか。
 いや、勝利の条件とは、それだけではあるまい。大才をみつめるための姿勢、目の位置、志の高さが問題となろう。とにかく昭王にわかったことは、
 ――おのれを棄てなければ、人はみえぬ。
 ということである。
「郭隗先生」
 昭王は晴れやかな声を発し、郭隗にむかって拝手した。これから自分は郭隗を師と仰ぎ、北面して仕えるであろう、と昭王はいい、実際、郭隗のために黄金台という宮殿を建てた。燕人(えんひと)ばかりでなく、燕をおとずれた他国の者の目をおどろかすに充分な輝きをもった高■(木偏+射/こうしゃ)であり、そのまばゆい光が千里の馬を招きつづけているといえた。

 郭隗はすかさず根拠となる例を示した。これに対する昭王の振る舞いはまさしく「君子豹変」(『中国古典 リーダーの心得帖 名著から選んだ一〇〇の至言』守屋洋)に相応しいものだ。人を求める心の本気が窺える。

 国家や組織の行き詰まりはリーダーに起因する場合が多い。意のままになる者を好み、自分の物差しに合わない人を遠ざけるところから組織は澱(よど)み停滞を始める。巨大組織は腐敗することを避けられない。同族、閨閥(けいばつ)、学閥などが流動化を阻み、社会をタコツボ化する。

 企業が真剣に人材を求めているかどうかは面接態度を見ればわかる。求職者に対して値踏みするような視線を送る企業が大半だろう。圧迫面接というカルト的手法もあるようだが、かような企業が淘汰される運命にあることは間違いない。

 そもそもこの国のエリート選抜システムは受験制度においてペーパーテストを採用している時点で誤っている。教育は私塾レベルの単位で行い、もっと自由な競争をするべきだろう。広く門戸を開けば必ず人材は訪れる。

   


先づ隗より始めよ 十八史略 漢文 i think; therefore i am!
「牛首を懸けて馬肉を売る」(羊頭狗肉)の故事/『晏子』宮城谷昌光

2014-06-26

第二巻のメモ/『楽毅』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 よく光る目が沈黙を重々しいものにした。黙ってすわっていることが、かえって相手を威圧するという人物をはじめてみたおもいの楽毅は、この人物のなかにあるのは年月の厚みばかりではなく、戦場の外にもある死地を果敢に乗り越えてきた自信であろうと観察した。

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)以下同】



 薛公(せっこう)は人にけっして恐怖をあたえない。むしろ、この人には以前どこかで会ったのではないかという親しげなものやわらかさをただよわせている。天下の信望を集める人は、あのようでなくてはなるまい、と楽毅は痛感したことがある。その薛公にくらべると司馬熹(しばい)の人格には深みが不足している。



 若い武将は、ふつう策を好まず、勇猛さを誇ろうとするあまり、戦陣における変化を無視し、応変ということができない。



 主従そろって目が■(目+毛/くら)いなかで、ひとり明察の目を具(そな)えていることは、いかに危ういことか、趙与という男にはわかっている。
 ――ここは魯(にぶ)さをよそおうしかあるまい。



 武将というものは感情を殺すべきときに殺し、ふるまうべきときにふるまうことのできる者をいう。



 現代に酔っている人々は、古人の知恵をつい忘れがちになる。現代にあって古言や古事を学ぶことは、知識を豊かにする以上に、おのれのいたらなさを知ることになり、むしろ学問の神髄とはそこにあるといえる。
 楽毅は3年間の留学でおのれが見えるようになった。ということは、相手をも見えるようになったのである。



「人を相する者は、無私でなければならぬ。その無私に人の運命を映しだす。それゆえ、一瞬であろうと、相手と運命をともにする。相手が吉祥の持ち主であればよいが、凶妖(きょうよう)をもっている場合は、それに憑(つ)かれるの、祓(はら)わねばならぬ。要するに天与の幸を享(う)ける者は希(まれ)にしかおらず、その人に付(ふ)すことによって幸をわけてもらうというのが幸運とよばれているものである。いまかるがるしく天命というが、天命を知る者はかつて天子しかおらず、諸侯でさえ地神を祀(まつ)る者でしかなかった。それゆえ貴殿のような人臣は、天地の命をうかがい知ることはできず、すべては人により運命は左右されるとお考えになるがよかろう。幸運の人にお属(つ)きなされよ」(唐挙)



「国難は人の虚飾を剥(は)ぐ」(楽毅)



 それがわかる丹冬は、
「雲は龍に従い、風は虎に従う、といわれます。聖王が龍虎(りゅうこ)であれば、それにしたがう風雲のゆくすえはさだまりますが、龍虎のいない天地で、風はどう吹き、雲はどう流れるのでしょうか」
 と、きいた。むろん風雲とは楽毅のことである。



 楽毅の心はきれぎれの想念を明るくまとめあげ、ひとつの決断にもってゆくというはずみをうしなっている。



 郊昔(こうせき)の推量は衍(ゆた)かである。しかも妄誕(ぼうたん)へながれてゆかない。



「公子、勇気をもたれることです。勇気とは、人より半歩すすみでることです。人生でも戦場でも、その差が大きいのです」



 天下の才は、天下のために使うべきであり、それが天意というものであろう。ひとりの人物が天業のために不可欠であるのなら、かならずその人物に天啓というものがある。その天啓をさまたげようとする者は、天の怒りを買い、天譴(てんけん)をくだされる。



「なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。わしは聖人でも非凡人でもない。人並みの困難を選ぶだけだ」(楽毅)



 こころざしが高い者は、それだけ困難が多く苦悩が深い



「兵の形は水に象(かたど)る。兵に常勢(じょうせい)なく、水に常形(じょうけい)なし、という」(楽毅)



「私欲を捐(す)て、兵を愛し、天の声、地の声、人の声をきけば、おのずと道はさだまる」(楽毅)