2012-12-26
2012-12-25
まばたき:脳リセットの働き? 大阪大などのチームが発表
まばたきするのは脳をリセットし、新たな展開に備えるため――。こんな可能性があるとの研究結果を大阪大や情報通信研究機構未来ICT研究所(神戸市)のチームがまとめ、24日付の米科学アカデミー紀要電子版に発表した。
映像を見ている時、まばたきをするのと同時に、脳で活発に働いている領域が一瞬変化することから得た分析。中野珠実大阪大准教授は「目を閉じることで、物語の流れに区切りをつけて注意を解き、情報処理を円滑にしているとみられる」としている。
ヒトは毎分15~20回まばたきする。目を潤すには毎分3、4回で十分で、頻繁なまばたきの理由は謎。(共同)
【毎日jp 2012-12-25】
眠りは「小さな死」で、まばたきは「ミクロな死」というのが私の持論だ。つまり、まばたきするごとに世界は新しく構成されている。多分それが真実だ。
2012-12-24
石原吉郎、トマス・ウルフ、他多数
15冊挫折。
『解錠師』スティーヴ・ハミルトン:越前敏弥訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、2011年)/語り口がちょっと。
『泡沫桀人列伝 知られざる超前衛』秋山祐徳太子(二玄社、2002年)/2ページでやめる。
『はじめての人の電卓操作入門塾』浜田勝義(かんき出版、2010年)/イマイチ。
『ねじとねじ回し この千年で最高の発明をめぐる物語』ヴィトルト・リプチンスキ:春日井晶子訳(早川書房、2003年/ハヤカワ文庫、2010年)/書き出しが冗長。
『望郷と海』石原吉郎:岡真理解説(みすず書房、2012年/筑摩書房、1972年/ちくま学芸文庫、1997年)/石原の文章は血で書かれている。苦しみのあまり読み通すことができず。気安く読める作品ではない。人生の節目節目で本書を開くことになることだろう。
『天使よ故郷を見よ(上巻)』トマス・ウルフ:大沢衛訳(新潮文庫、1955年/三笠書房、1952年)/フォントが小さい上、旧漢字であった。ブラッドベリが絶賛した作品だ。
『20世紀英米文学案内6 トマス・ウルフ』大澤衛編(研究社出版、1966年)/本の堅牢な作りに驚く。これは参考資料として。
『科学哲学講義』森田邦久(ちくま新書、2012年)/文章がわかりにくい。
『雪』中谷宇吉郎〈なかや・うきちろう〉(岩波新書、1938年/岩波文庫、1994年)/雪国の惨状を知るに連れて私の内側にムラムラと怒りが湧いてきた。で、パタンと本を閉じた。
『科学の方法』中谷宇吉郎〈なかや・うきちろう〉(岩波新書、1958年)/良書。が、古い。
『雪の結晶』ケン・リブレクト:矢野真千子訳(河出書房新社、2008年)/これはオススメ。美しい結晶写真が多数配されている。雪って透明なんだってさ。六角形の不思議に眩暈(めまい)を覚える。
『ドン・キホーテ 前篇1』セルバンテス(岩波文庫、2001年)/他の本が面白すぎるため挫ける。若いうちに読んでおくべきだったな。ひょっとするとキリスト教のパロディなのかもしれない。200ページまで。
『「漢字廃止」で韓国に何が起きたか』呉善花〈オ・ソンファ〉(PHP研究所、2008年)/漢字廃止で論理的思考ができなくなったとすれば、英語圏はどうなるのか?
『祈りの海』グレッグ・イーガン:山岸真訳(ハヤカワ文庫、2000年)/イーガンの作品はどうも訳文が肌に合わない。
『人生の科学 「無意識」があなたの一生を決める』デイヴィッド・ブルックス:夏目大〈なつめ・だい〉訳(早川書房、2012年)/前置きが長い。訳者の賛辞も「売り」が入っていて薄気味悪い。散文だと思って読むべきだろう。
無垢の自信/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
・自由の問題 1
・自由の問題 2
・自由の問題 3
・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
・教育の機能 1
・教育の機能 2
・教育の機能 3
・教育の機能 4
・縁起と人間関係についての考察
・宗教とは何か?
・無垢の自信
・真の学びとは
・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
・時のない状態
・生とは
・習慣のわだち
・生の不思議
・クリシュナムルティ著作リスト
・必読書リスト その五
組織や集団についてあれこれ考えていた時期があった。2年ほど前のことだ。いくつかツイートを紹介しよう(※リンク切れあり)。
【音声】小林秀雄その三。「イデオロギーは匿名ですよ、常に。責任をとりませんよ。そこに恐ろしい力があるじゃないか。それが大衆・集団の力だ」 http://bit.ly/aBBByZ
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 3, 2010
内部告発のない組織は、完全に腐敗しきった組織である。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 11, 2010
というよりは、むしろ集団そのものが暴力として機能すると私は考えます。力を集めたものが集団である以上、組織はヒエラルキー化を防ぐことができません。力という力は必ず何らかの暴力性を秘めています。 RT @ujikenorio: すると宗教が暴力組織として機能しまう。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 15, 2010
世界のいたるところで、ますます多くの党派が結成されたり、たくさんの「主義」が引きも切らずに生まれております。なぜかといえば、混乱が増大すればするほど、私たちはますますこの混迷から救い出してくれるような指導者や組織を渇望するからなのです。(クリシュナムルティ)
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 14, 2010
大首肯。ですから社会環境のあり方としては「流動性」を担保すべきで、それがマーケットの自由競争なわけです。機会均等としての自由。しかし利権が阻害しているのが現状です。(続く) RT @ujikenorio: 具体的には、集合離散の自由度を意識的に維持しながら牽制していくのが妥当
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 16, 2010
利権とは個人的利益ではなく集団的権益の維持・拡大です。すると所属組織からの経済的見返りに人々が支配されている様相が見えてきます。宗教がご利益と罰をもって信徒を束縛するのであれば、これまた経済と考えることが可能です。(続く) RT @ujikenorio: 集合離散の自由度
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 16, 2010
流動化を阻害する最大の要因は土地への呪縛です。村の論理は村八分の論理でもある。火事と葬式(これで二分)以外は完全に無視するわけですから、集団が暴力性をはらんでいるのは明らかです。村人は経済的見返りのため暴力に加担するのです。国家、民族、企業も村です。(続く)
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 16, 2010
我々が正義に憧れてやまないのは、社会に正義が存在しないことを知っているからです。幼い頃にテレビで知った正義の味方は、必ず変身するか仮面を着用してます。これは正義が非日常であることを示唆しています。ありのままの人間が正義を行使することは、まずありません。その意味では神といえそう。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 16, 2010
良心の自由を叫んだことで知られる宗教団体が、個人の良心の声を抑えるために極めて厳しい制裁措置を取る。この現代において実におかしなことであると思う。(『良心の危機 「エホバの証人」組織中枢での葛藤』レイモンド・フランズ)http://bit.ly/c1Rdm3
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 23, 2010
我々は常に迷う。損得と善悪の間で。大人は利に聡い。社会に揉まれる中で、頭を下げたり、煮え湯を飲まされたり、毒饅頭を喰らったりしながら、若き日とは異形な自分が出来上がる。何らかの犠牲を強いられているうちに、いつしか他人を平然と犠牲にするようになるのだ。集団の利益という美名の下で。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 23, 2010
思想が個人のものであれば殴り合いは可能です。これが党派制に基づいたイデオロギーとなるから喧嘩ができないわけです。横槍が入り、後ろから刺されかねない(笑)。必要なのは反逆と破壊。 RT @ujikenorio: 知識とか思想に関しても人間は子供のように殴り合いを続けてと思います
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 23, 2010
是非を問われることもなく、自動的に組み込まれているのが現実。我々はどこかに所属せざるを得ない。で、実は所属が自我を形成している節がある。 RT @ujikenorio: 権力とは何か、組織とは何か、国家とは何か…それに対する原理的考察を割愛したまま、善し悪しの議論がすすんでいく。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 28, 2010
これが人間の家畜化につながり、植民地主義へと発展を遂げた。そして奴隷という商品が流通し始める。 RT @ujikenorio: うまく羊を飼うのが羊飼い。羊を上手くコントロールできないのはウンコな羊飼い。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 28, 2010
奪われること=委ねること、なのかもしれませんね。なぜ我々は奪われていることに気づかないのだろうか? 元々持ってなかったのか? それとも奪い方が巧妙なのか? RT @ujikenorio: 委ねてしまうことの問題
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 28, 2010
宗教的なヒエラルキーは一神教的発想と本仏思想から生まれたものだと思う。神仏に対してさえ、上下関係を築こうとする人間の性(さが)が恐ろしい。1位を設定するのは比較している証拠である。比較における1位は絶対性とは似て非なるものだ。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 10月 17, 2010
そう考えると、社会や集団は排除することで求心性を維持しているような節が窺える。組織は内外に立て分け、人間を分断するのだ。(続く)
— 小野不一さん (@fuitsuono) 10月 23, 2010
ユリーカ、ユリーカ! 共同体、集団、組織は恐怖でもって人々を支配している。つまり共同体を共同体たらしめている力は罪と罰ということ。昨夜、風呂場で悟りを得た(笑)。 RT @ujikenorio: 現世の人間はあらゆる側面でどこかで共同体的人間です。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 11月 17, 2010
あとは以下の検索結果を参照してもらいたい。
・集団:検索結果
その答えをクリシュナムルティが示す。ツイートが多くなってしまったので所感は割愛する。
無垢の自信
私たちは、監獄の中の反逆という問題について話していました。つまり、すべての改革者や理想家、ある結果を生み出そうと絶えまなく活動している他の人たちが、彼ら自身の条件づけの壁の中、彼ら自身の社会構造の中、大勢の集団的意志の表現である文明の文化的な型の中で、いつも反逆しているようすについて、です。それで今、もしも自信とは何か、それはどのようにわいてくるのかがわかったならば、価値があるだろうと思うのです。
自信は創意によって出てきます。しかし、型の中での創意は、【自我】の自信をもたらすだけであり、それは自我のない自信とはまったく違っています。君たちは、自信を持つとはどういうことか、知っていますか。自分の手をつかって何かをしたり、木を植えて育てたり、絵を描いたり、詩を書いたり、大きくなってから橋を架けたり、何か経営の仕事をきわめてうまく果たすなら、自分には何かができるという自信がつきますね。しかし、私たちが今知っている自信は、いつも監獄の中に――共産主義でもヒンドゥー教でもキリスト教でも――社会が私たちのまわりに築いた監獄の中にあるでしょう。監獄の中の創意は確かに、ある種の自信を生み出します。なぜなら、自分には何かができると感じるからです。モーターを設計したり、とても良い医者や優秀な科学者などになれるのです。しかし、社会構造の中で成功したり、監獄の内部を改革し、もっと明るくし、装飾したりする能力によって出てくるこの自信という感情は、本当は【自我】の自信です。自分には何かができると知って、それをするとき自尊心を感じます。自尊心のないまったく異なった自信が出てくるのです。それで、この二つ――自我の自信と自我のない自信の違いを理解できるなら、私たちの生において大きな意義を持つだろうと思うのです。
君たちは、バトミントンやクリケットやサッカーのようなゲームを、とてもうまくやれるとき、ある種の自信の感覚を持つでしょう。自分はかなり上手だという感じがします。数学の問題を解くのが早ければ、それもまた自信の感覚を生み出します。社会構造の中の行為から自信が生まれるとき、そこにはいつもおかしな傲慢さが伴っているでしょう。いろいろなことができたり、業績を上げる力を持つ人の自信はいつも、この自慢や、「それをするのは私だ」という感情に染まっています。それで、業績を上げたり、監獄の中で社会改革をもたらす行為そのものに、自慢とか、【私】がそれをした、【私】の理想が重要だ、【私】の仲間が成功したという感情があるのです。この「私が」「私の」という感覚が、社会的な監獄の中で表現される自信に、いつも伴っているのです。
君たちは理想家がどんなに傲慢なのか、気づいたことがないですか。ある成果をもたらしたり、大改革を成し遂げる政治的指導者がうぬぼれて、自分たちの理想や業績にのぼせているのに気づいたことがないですか。彼らは、彼ら自身の評価では、とても重要です。政治演説を少し読み、改革者を名乗る人たちを何人か見てごらんなさい。彼らはまさにその改革の過程において、彼らの自我を涵養していることがわかるでしょう。彼らの改革派、どんなに広範囲でもやはり監獄の中にあり、したがって破壊的であり、究極的には人間にもっと多くの悲惨と葛藤をもたらすのです。
そこで、君たちがこの社会の全構造、文明と呼ばれる集団的意志の文化の型に精通し、そのすべてを理解してそこを離れ、ヒンドゥー教でも共産主義でもキリスト教でも、自分特有の社会の監獄を離れるならば、そのときには慢心に汚れていない自信が出てくることに気づくでしょう。それは無垢の自信です。それは、完全に無垢であるために何でもしてみる子供の自信に似ています。新しい文明をもたらすのは、この無垢の自信でしょう。しかし、社会の型の中にとどまるかぎり、この無垢の自信は生じてこないのです。
注意して聴いてください。語り手は少しも重要ではないのです。しかし、君たちが言われていることの真実を理解することは、とても重要です。というのも、それが教育でしょう。教育の機能とは、君たちを社会の型にはめこむことではありません。反対に、君たちが完全に深く充分に理解して、それによって社会の型を離れるのを助け、自慢のない個人であるよう、本当に無垢であるがために自信を持つように、君を助けることなのです。
私たちのほとんどみなが、社会に合わせる方法やその改革方法だけに関心を持っていることは、大きな悲劇ではないでしょうか。君たちのする質問のほとんどが、この態度を反映していることに、気づいたことがありますか。君たちは実際は、「どうすれば社会に合わせられるのですか。そうしなければ、お父さんやお母さんはなんて言い、僕はどうなってしまうでしょう」と言っているのです。こういう態度では、君たちが持っているいかなる自信、いかなる創意も滅んでしまいます。そして、君たちはたくさんのロボットのように学校や大学を出て、たぶん大いに有能になるのでしょうが、創造の炎がありません。それで、自分の住む社会、環境を理解して、まさにその過程においてそこを離れることが、とても重要であるわけです。
これは世界中の問題でしょう。人間は生への新しい応答、新しいアプローチを求めています。なぜなら、ヨーロッパでもロシアでもここでも、古い方法が腐敗しかけているからです。生は絶えまない挑戦です。そして、単により良い経済秩序をもたらそうとするだけでは、その挑戦への完全な応答にはなりません。その挑戦はいつでも新しいのです。そして、文化、国民、文明は新しいものの挑戦に完全に応答しきる力がないとき、滅んでしまうのです。
君たちが適切な教育を受けず、この無垢のとてつもない自信を持たないならば、必然的に集団に吸収されて、凡庸性の中で迷ってゆくでしょう。名前に少し肩書きを加えたり、結婚して子供を持ち、それで君たちは終わりでしょう。
私たちのほとんどは怯えていますね。君たちの親も怯えているし、教師も怯えているし、政府や宗教も君たちが完全な個人になるのではと怯えています。なぜなら、彼らはみな君たちに、環境や文化の影響の監獄内に安全にとどまってもらいたいからです。しかし、社会の型を理解することで打ち破り、したがって自分の心の条件づけに縛られないのは、個人だけなのです。新しい文明をもたらしうるのはそのような人たちだけなのです。単に順応するだけの人たちや、自分が他の型によって作られているため、特定の型に抵抗する人たちではありません。神や真理の探究は、監獄の中ではなく、むしろ監獄を理解して、その壁を破るところにあるのです。そして、自由へと向かうこの動きこそが、新しい文化、異なった世界を創造するのです。
【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】