2011-05-17

遠くにある死


 東日本大震災直後から考え続けてきたことがある。まずはこの映像をご覧いただきたい。


 仙台市名取川河口付近に押し寄せた津波だ。ヘリコプターのカメラは明らかに配慮しており、逃げ惑う車をアップで撮ることはなかった。

 どうして誰も泣かないのだろう? なぜ誰も悲鳴を上げないのだろう? カメラマンもアナウンサーも私も。さっきまで走っていた車の中には人がいる。彼、あるいは彼女が目の前で死につつあるにもかかわらず、「まったく凄いもんだな」と津波を眺めているのだ。

 被災者が撮影した動画も同様だ。被害の惨状に悲鳴を上げることはあっても、流されている人や車を見て泣いた人はいなかった。

東日本大震災まとめ30本

 それどころか逃げ遅れた人々を見て「馬鹿だな」と言う声も聞かれた。

 不思議なもので閉ざされた空間には安心感を与える何かがある。車や家の中にいると何となく大丈夫なような気がする。たぶん母親の胎内にいた頃の記憶が喚起されるためなのだろう。パソコンやヘッドホンにも同じ効果があると思う。

 津波に流されたからといって死んだかどうかはわからない――心のどこかでそんなふうに誤魔化している自分がいる。そもそも「流された」という事実に対して想像力が及ばない。

 苦悶の表情、断末魔の叫び声、途絶える息……そうした情報からしか我々は死を感じ取れないのだろうか。

 もう一つ。我々は自分との距離に応じて悲哀の度合いが変わる。道端に見知らぬ人の遺体があっても、我々が泣くことはない。つまり、身内や友人など自我の延長線上にある人間関係の中で我々は悲しむのだ。

 私も実際に経験しているが、多くの死に接すると心のどこかが擦り切れてくる。そして涙が涸れ果てる頃には胸の奥で噴き上げたマグマが岩のように変質して何も感じなくなってしまうのだ。私の心は悲しむ機能を失った。

 例えば目の前で妻が死んだとしよう。それでも私は傍観者以外の立場をとることができない。なぜなら経験したことのない死を想像することは不可能だからだ。

 死は遠くにある。私の死も。

 永遠に続く物語。そんなものは誰も読まないことだろう。朝が夜となるように、そして夜が朝となるように物語には区切りがある。

 終わりはいつくるのだろう? 「今が終わりである」というのがブッダの教えである。止観(しかん)とは時間の連続性を断つ行為である。明日はない。あるのは今この瞬間だけだ。生は現在の中にしか存在しない。

 終わった生と流れる生とがある。そうであるならば、終わった死と流れる死もあることだろう。見える世界と見えない世界がある。実はまばたきするたびに新しい世界が立ち上がっているかもしれないのだ。

 死という現実と生という現実がある。豊かな生があるのだから、豊かな死だってあるはずだ。生の光で死者を照らすしか道はない。だから、苦しくとも生の焔(ほのお)を絶やしてはならない。亡くなった人々と共に生きてゆこう。

2011-05-16

憎悪/『蝿の苦しみ 断想』エリアス・カネッティ


 憎悪には独特の心拍数がある。

【『蝿の苦しみ 断想』エリアス・カネッティ:青木隆嘉〈あおき・たかよし〉訳(法政大学出版局、1993年)】

 これを「不正脈」と名づけよう。鼓動はマイナスからカウントされ、ゼロで悪事に至るのだ。

ローラン・トポール「知性は才能の白い杖である」/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル


 知性は才能の白い杖である。知性がなければ才能は転んでしまう。
(ローラン・トポール/ポーランド出身のフランスの作家・画家。ブラックユーモアで知られる〈原文表記はロラン・トポール〉)

【『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル/吉田城〈よしだ・じょう〉訳(大修館書店、1988年)】

 一寸先は闇だ。予測はできても見ることはかなわない。だから「白い杖」となる。知性がなければ、手探りで匍匐(ほふく)前進する羽目となる。才に任せて走ってしまえば石につまずいてしまうことだろう。

 アントニオ・R・ダマシオによれば存在の背景にあるのは感情である。だが知性や理性がなければ「話し合う」ことが成り立たなくなる。感情は条件反射的であるが、知性は調和を目指す。

 学ばずしてせっかくの才能を腐らせている人の何と多いことか。子供たちは、学校教育というベルトコンベアーの上で才能を殺され、記憶競争によって知性すら抑圧されている。(参照:ケン・ロビンソン「学校教育は創造性を殺してしまっている」

毒舌というスパイス/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル
民主主義の正体/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル

2011-05-14

軍司貞則


 1冊挫折。

 挫折19『ナベプロ帝国の興亡』軍司貞則〈ぐんじ・さだのり〉(文藝春秋、1992年/文春文庫、1995年)/大手芸能プロダクションを描いたノンフィクション。面白い。時間がないため半分でやめる。戦後史として読むことも可能だ。もっと芸能界の暗部に踏み込めば売れただろうに。

日本に宗教は必要ですか?/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳


世界中の教育は失敗した
手段と目的
理想を否定せよ
創造的少数者=アウトサイダー
公教育は災いである
・日本に宗教は必要ですか?
目的は手段の中にある

 面白い動画があったので紹介しよう。


 問題はこの問いを「誰が」発しているのか、である。番組内ではムスリムとクリスチャンだ。つまり、「宗教が必要だ」と説く人物は宗教者に限られる。

 彼らは当然の如く宗教を語る。だが肝心なことが抜け落ちている。宗教の定義が示されていない。ま、アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)にとっては聖典ということになるのだろう。すなわち「教義」である。

 数千年間にわたって続いたから、それを「正しい」とするのであれば、最も正しい人類の行為は「戦争」ということも可能だ。確かに教義は変わらないかもしれないが、「解釈」は時代によって変わる。そして思想的に袂を分かった人々が分派を形成するのが宗教の歴史であった。

 よく考えてみよう。宗教は教義とそれに基づく行為と考えられているが実際は違う。いかなる宗教であれ、人々を支配しているのは教団である。そして教団が勢力の拡張を目指すところにプロパガンダが生じる。布教とはマーケティング、宣伝、顧客開拓の異名だ。教義に基づくはずの信仰が、教団の政治性に取り込まれているのが実態だ。

 教義は言葉にすぎない。言葉は人間にとってコミュニケーションの道具であり、翻訳機能として働く。同じ言葉であっても、人によって意味が微妙に異なるものだ。それゆえ対話とは互いに歩み寄りながら、言葉を手掛かりにして心を探る行為といってよい。

 我々は衝撃を受けると「言葉を失う」。あるいはモヤモヤした思いや不安は「言葉にならない」。もの凄いありさまは「筆舌に尽くし難い」。結局、言葉は氷山の一角であり、象徴(シンボル)にすぎないのだ。

 言葉で織り成されるのは「思考」である。「悟り」から生まれた宗教が思考の範疇(はんちゅう)に収まるわけがない。簡単な例を示そう。美しい夕焼けを見て、何も考えられなくなるほどの感動を覚えたことは誰しもあるだろう。その光景や感動を「言葉で表現する」ことは可能だろうか? ま、不可能だわな。感動を伝えるのは、あなたの興奮の度合いを示す表情や顔つき、身振り手振りであって、言葉ではない。

 じゃ、もう一つ例を挙げるよ。あなたは自転車の乗り方を言葉で説明できるだろうか?

論理ではなく無意識が行動を支えている/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 とすると、悟りを説明することには限界があると考えるべきだろう。これが「教義の限界」だ。

 宗教は組織化された信念ではありません。宗教は真理の探究ですが、それはいかなる国のものでも、いかなる組織化された信念のものでもなく、それはいかなる寺院、教会、あるいはモスクの中にもありません。真理の探究なしには、いかなる社会も長くは存続できないのです。そして真理が存在していないかぎり、社会は必然的に災いを起こすのです。

【『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】

「組織化された信念」とは教団性と言い換えてよい。教義に依存し、教団に隷属する宗教は、党の方針に従う政治と瓜二つだ。

 宗教者は「宗教を疑う」ことを知らない。このため論理的な整合性を無視して「信じる」ことで超越する。破綻する論理を信じることで、人格も破綻してゆく。ここから差別が芽生えるのだ。信じる者と信じない者とを分け隔て、冷酷さや暴力性が瀰漫(びまん)しはじめる。

 キリスト教とイスラム教を見よ。彼らは自分たちの歴史を反省することができない。侵略に次ぐ侵略、女性蔑視、性への偏見、同性愛者の抑圧、奴隷制度、魔女狩りなど、その残虐性は類を見ないほどだ。

 かつて宗教が人類を救ったことは一度もなかった。この事実が宗教の無力さを証明している。歴史的な宗教は権力者にとっては抑圧の道具として効果を発揮した。

 真の宗教は自由を目指す。教団に所属することが信仰ではない。単独であることの至福が宗教なのだ。



ただひとりあること~単独性と孤独性/『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
党派性
偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル