2011-09-16

法華経と同じ物語構造/『介子推』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光

 ・法華経と同じ物語構造

・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

 重耳〈ちょうじ〉こと文公は春秋時代の覇者となり、従者の介子推〈かいしすい〉は後漢の時代に神となった。

 読むのは二度目である。棒術の威丈夫といった淡い記憶しか残っていなかった。『重耳』を読んで初めて介子推を理解した。やはり書物には順序というものがある。まず『重耳』を開いてから後に本書を求めるのが正しい。

占いこそ物語の原型/『重耳』宮城谷昌光

『介子推』は『重耳』の余滴(よてき)である。著者は「つらい、とつぶやいて何度か泣いた。そういう体験をもつのは、この小説がはじめてであり、もうないかもしれない」とあとがきに記している。史実は少ない。だが宮城谷は書かずにはいられなかった。棒術の達人というのも創作である。

 つまり介子推という人物は、数千年を経てもなお想像力を掻き立ててやまない存在感があることになろう。人はそれを「魂」と呼ぶ。

 物語は前半と後半に分かれる。前半ではファンタジー的手法を駆使して教育が描かれている。

 だが、石遠〈せきえん〉はちがう。
 屋根をみあげて、草が腐ってきたかな、などという。甕(かめ)の破片を手にとり、土のこねかたが浅かったのだろう、などという。そういう感想のひとつひとつは、たとえば、
 ――形のあるものは、かならずこわれる。
 というような、あきらめにも似た認識からは遠く、ものごとをかならず人の営為のなかでとらえ、人の工夫や努力の足りなさを訴えているようにきこえた。
 おなじことばではないが、そのようなことを介推〈かいすい〉は母にいったことがある。すると母は、
「ああ、石〈せき〉さんは、人の限りということがわかっている人ですね」
 と、即座にいった。
 このこたえのほうが、介推にはむずかしかった。

【『介子推』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】

 見事な導入部である。技術が棒術へと結びつき、生の術=生きる流儀をも示す。この一文が本書全体のストーリーを見事に象徴している。

 村に住む男性が虎に食われる事件が起こる。介推は人知れず虎を討つことを決意する。水を汲(く)みに山へ何度か足を運んでいると仙人のような老人が現れた。老人は「霊木(れいぼく)を探し、その枝を削り、虎を撃て」と命じた。

 棒を手にした介推は、これまで感じたことのない不安をおぼえた。
 虎と戦うことが怖いということではない。
 棒がかるいのである。
 その棒をつかむと、自分まで地から浮きあがりそうに感じる。棒から手をはなすと、自身の体重にもどる。その奇妙さが介推に大いに不安をあたえた。

 介推はまだ子供であった。体重の変動は自我の脆(もろ)さを表現したものだ。棒を扱うだけの技量が彼にはまだなかった。

 あてはない。
 あの老人があらわれるのを待つだけである。
 介推は一昼夜を山中ですごした。
 ――わたしは耳がよくなったのか。
 と、介推は耳に手をあててみた。物音がくっきりときこえる。耳をふさいでみても、物音が小さくなったという感じはしない。
 ――棒のせいであろうか。
 と、おもい、棒をはなしてみても、その感覚に変化はない。

 目が集中力であるのに対して、耳は注意力である。介推は変わった。そして世界も同時に変わった。

 翌日も、山中をさまよっただけでおわった。
 だが、介推は自身が新鮮に洗われたという感動をおぼえた。
 生きている者は、音を発する。
 風に揺れる木も草も、岩清水でさえも、生きている。山中で起居していると、山の呼吸と同化してゆく。その呼吸は、人だけがよりあつまっている里にはないもので、ゆったりと大きく、また深いものである。
 ――あの虎は、この調和を乱している。
 いろいろなものがよりあつまって山はできている。山は和音そのものだといってよい。虎はその和音を破壊しているにちがいない。

 学ぶ意味が巧みに描かれている。本質を見抜く力こそ学問の証であろう。介推は老人と自然から生の本質を学んだ。そして遂に虎を退治する。彼はその偉業を黙して語ることがなかった。

 荒唐無稽と思えばそれまでなのだが、実は法華経の構成と似ている。法華経は霊山会(りょうぜんえ)と虚空会(こくうえ)という二つの場所で説かれる。前者を歴史的次元、後者を本源的次元と捉えることが可能だ。虚空会を文字通り空中と考えれば、単なるSFになってしまう。しかしブッダの悟性の内部世界を描いたものと弁えれば、さほど違和感は覚えない。

 つまり介推のエピソードは事実であるか否かではなく、成長の変化を物語化したものと受け止めるべきなのだ。

 そして介推は重耳の従者となる。19年に及ぶ放浪につき従い、幾度となく重耳の危難を防いだ。遂に刺客である閻楚〈えんそ〉と対決する。

 舎(いえ)にむかう介推のからだのなかに、異常な高鳴りがある。
 閻楚〈えんそ〉の剣を棒でうけたとき、
 ――重公子〈ちょうこうし〉とは、それほどの人か。
 と、実感した。それほどの人というのは、このようなすさまじい剣で狙われる人、ということで、重耳〈ちょうじ〉が存在する尊さというものを、かえってその剣がおしえてくれた。
 ――重公子を守りぬいてやる。
 介推のからだ全体がそう叫んでいた。

 これぞ物語の妙というもの。互いの命を奪い合う格闘の中から見事なコミュニケーション領域を描いている。人と人とが出会うとはこういうことなのだろう。

 介推は無名のままであった。ある時、太子昭〈たいししょう〉という人物を暗殺者の手から救った。この時も介推は尋ねられても決して名乗らなかった。介推の賢明さを見抜いた太子昭は心で呟いた。「これほどの男を賤臣にしたままの主人とは、よほど暗愚な者であろう」と。

 物語はクライマックスを迎える。咎犯〈きゅうはん〉の舌禍ともいうべき事件が起こる。

 このやりとりを、たまたま介推は近くでみていた。
 ――公子はまだ君主になっていないのに、咎犯〈きゅうはん〉はもう賞をねだっている。
 そうみえた。

 重耳は功を遂げようとしていた。咎犯〈きゅうはん〉は一計を案じて古くからの従者を重んじるよう画策した。介推の瞳にはこれが邪(よこしま)なものとして映った。介推に言わせれば、重耳の成功は天命であって配下が誇る性質のものではない。自らの功績を誇示し、報酬を無理強いする咎犯〈きゅうはん〉を介推は許せなかった。

 下(しも)はその罪を義とし、上(かみ)はその姦(かん)を賞し、上下(しょうか)あい蒙(あざむ)く。

 介推がそういったとき、母は、
 ――ああ、この子はまだ閻楚〈えんそ〉と戦っているのだ。
 と、察した。下は臣下のことである。臣下は自分の罪を義にすりかえた。しかも上、すなわち君主はその姦邪(かんじゃ)を賞した。それでは臣下と君主とがあざむきあっていることになる。
「そういう人々がいるところに、わたしはいたくないのです」
 口調は激しくないのだが、強いことばである。

 介推はあまりにも清らかだった。主従の関係に政治を差し挟むことを嫌悪した。

 組織というものは大きくなるにつれて官僚を必要とする。清流は海へと向かう中で必ず大河となって濁る。介子推はその濁りを鋭く察知し忌避したのだろう。どんな世界でも現場を支えているのはこういった人々だ。

 この件(くだり)を読んで、ボクサーの大橋秀行を思い出した。

リング上での崇高な出会い/『彼らの誇りと勇気について 感情的ボクシング論』佐瀬稔

 一つだけケチをつけると、閻楚〈えんそ〉が重耳に介推の功績を語るシーンが曖昧で、『重耳』を読んでいないとストレスを覚えてしまう。著者の気持ちが昂っていたためと善意に解釈することは可能だが、拍子抜けの感は拭えない。


重耳・介子推

弱肉強食


 競争原理の本質は弱肉強食である。ほら、あなたと私も写っているよ。隙(すき)あらば弱いものを押しのけるのが我々の流儀だ。

wolf

フランス領ルイジアナを買収


 ところが、事態はまったく思いがけない方向に進んでしまった。ナポレオンはタレーラン外相を通じて、もっと大きな買い物を提案した。つまりフランスがスペインから返還してもらったばかりの、フランス人がルイジアナとよんでいたミシシッピ川以西の広大な土地を、アメリカ人に買う意志がないかといってきたのである。これはモンローがパリに着く直前のことで、駐仏大使ロバート・リヴィングストンはこの申し出を聞いて仰天した。そしてナポレオンの気が変らないうちにこの驚くべき提案を受け入れるよう、ジェファソン大統領に手紙を書いた。
 こうして1803年4月、どこまで広がっているのか分からないほどの土地ルイジアナを、1500万ドルという金額、後年計算した結果では1エーカー(約4000平方メートル)あたりわずか3セントという値段で、買いとることになったのである。ヨーロッパ人が北米に植民を開始してからまもない1626年には、オランダ人が今のニューヨークのマンハッタン島を、せいぜい40ドル程度の値段で原住インディアンたちと物々交換し、後に「史上最大のバーゲン」とよばれたが、このルイジアナもまた、これに劣らない大バーゲンだったといえるのではないだろうか。というのは、このためアメリカの領土は一挙に2倍にまで拡大されることになったからである。

【『西部開拓史』猿谷要〈さるや・かなめ〉(岩波新書、1982年)】

西部開拓史 (岩波新書)

ルイジアナ買収

猿谷要、ソル・フアナ、ギャズ・ハンター


 3冊挫折。

西部開拓史』猿谷要〈さるや・かなめ〉(岩波新書、1982年)/アメリカ先住民に関する記述が少ないのでやめた。モルモン教についても触れている。

知への賛歌 修道女フアナの手紙』ソル・フアナ:旦敬介〈だん・けいすけ〉訳(光文社古典新訳文庫、2007年)/文章が肌に合わず。220ページの本で解説が50ページというのもどうなのかね?

SAS特殊任務 対革命戦ウィング副指揮官の戦闘記録』ギャズ・ハンター:村上和久訳(並木書房、2000年)/以前から読みたかった本だったが見事な肩透かしを食らった。幼少時の体験を読むとわかるが、明らかに境界性人格障害である。友達が怪我をしたり、亡くなった場面が綴られているが、完全に罪悪感を欠いていて胸が悪くなった。

2011-09-15

進化医学的視点の欠落/『スティグマの社会学 烙印を押されたアイデンティティ』アーヴィング・ゴッフマン


「スティグマ」とは烙印の意。奴隷や家畜に押される焼き印を指すが、英語にはイエスの聖痕の意味もあるようだ。つまり、この言葉には二重の憎悪が仕込まれていると考えてよい。

 わかりにくい本であった。合理性の極まるところに数学が生まれ、悟性から発せられた言葉が詩であるとすれば、どちらからも遠い位置に本書はあると思う。で、翻訳も多分よくない。

 哲学的な慎重さに私のような一般人は耐えることができない。江戸っ子は気が短いのだ。

【スティグマ】という言葉を用いたのは、明らかに、視覚の鋭かったギリシア人が最初であった。それは肉体上の徴(しるし)をいい表す言葉であり、その徴は、つけている者の徳性上の状態にどこか異常なところ、悪いところのあることを人びとに告知するために考案されたものであった。徴は肉体に刻みつけられるか、焼きつけられて、その徴をつけた者は奴隷、犯罪者、謀叛人──すなわち、穢れた者、忌むべき者、避けられるべき者(とくに公共の場所では)であることを告知したのであった。

【『スティグマの社会学 烙印を押されたアイデンティティ』アーヴィング・ゴッフマン:石黒毅〈いしぐろ・たけし〉訳(せりか書房、2001年)以下同】

 烙印の権力構造である。罪を犯した者につけられる負の表象。去勢したり、鼻を削ぐのも同様で「差別のサイン」が見て取れる。

 社会は、人びとをいくつかのカテゴリーに区分する手段と、それぞれのカテゴリーの成員に一般的で自然と感じられる属性のいっさいを画定している。さまざまの社会的場面(セッティング)が、そこで通常出会う人びとのカテゴリーをも決定している。状況のはっきりした場面では社会的交渉のきまった手順があるので、われわれはとくに注意したり頭を使わなくても、予想されている他者と交渉することができる。したがって未知の人が面前に現われても、われわれは普通、最初に目につく外見から、彼のカテゴリーとか属性、すなわち彼の〈社会的アイデンティティ〉を想定することができるのである。

 だから西部劇に登場する保安官はよそ者にうるさいわけだ。わからない者は映画『ランボー』を見よ。

 相手の人にわれわれが帰属させている性格は、予想された行為から顧みて(in potential retrospect)行なわれる性格付与──すなわち〈実効をもつ〉性格づけ、すなわち【対他的な社会的アイデンティティ】(a virtual sosial identity)とよぶのがよかろう。

 人は見かけで判断する。そんなに小難しくいう必要はない。

 未知の人が、われわれの面前にいる間に、彼に適合的と思われるカテゴリー所属の他の人びとと異なっていることを示す属性、それも望ましくない種類の属性──極端な場合はまったく悪人であるとか、危険人物であるとか、無能であるとかいう──をもっていることが証明されることもあり得る。このような場合彼はわれわれの心のなかで健全で正常な人から汚れた卑小な人に貶(おとし)められる。この種の属性がスティグマなのである。ことに人の信頼/面目を失わせる(discredit)働きが非常に広汎にわたるときに、この種の属性はスティグマなのである。この属性はまた欠点/瑕疵(かし)、短所、ハンディキャップともよばれる。スティグマは、対他的な社会的アイデンティティと即自的な社会的アイデンティティの間のある特殊な乖離を構成している。

 言いたいことはわかる。わかるんだけどさ、進化医学的視点が欠落してんのよ(『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス)。「望ましくない種類の属性」の最たるものは疫病(えきびょう)なのだ。それを文化面からしか考えていないから、難解な思考の虜になっているのだろう。

 そこでスティグマという言葉は、人の信頼をひどく失わせるような属性をいい表わすために用いられるが、本当に必要なのは明らかに、属性ではなく関係を表現する言葉なのだ、ということである。

 別に「レッテル」で構わないんじゃないの? バブル経済に向かう途中くらいから「価値観の多様化」といわれるようになった。そしてバブルが崩壊すると今度は「『らしさ』が失われた」と喧伝された。ただし、ステレオタイプの否定は風潮として残っている。

 これには重大な見落としがあって、脳機能(=思考、言語)がアナロジーから生まれたものであるならば、カテゴリー化は避けられないのだ。それゆえ、カテゴライズの正しいあり方を模索するのが合理的だと私は思う。

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 更に異なる思想や文化を学ぶ作業が求められよう。本当は義務教育からきちんとやるべきなんだけどね。

 たとえば精神疾患の病歴がある人たちは、配偶者とか雇主と感情的に激しく衝突するのをまま恐れる。というのは、感情を表出すると、それが精神疾患の徴候とされるのではないかという懸念があるからである。精神的に障害のある者も同様の偶発的問題に直面する。

 知的能力が低い者が何らかの面倒に巻き込まれると、その面倒は多かれ少なかれ自動的に〈知的障害〉に起因するものとされるが、〈通常の知能〉の人が似たような面倒に巻き込まれても、とくにこれといった原因の徴候とは見られないのである。

 弱者不利の原則。うしろゆびさされ組。クラスの嫌われ者には無数の仇名が与えられる。

 そう考えると「見られること」を強く意識する日本人には弱者傾向があるのかもしれない。世間体、見栄坊、名を惜しむ、武士は食わねど高楊枝。

 もともと差別主義者である欧米の連中の差別に関する論考は欺瞞の匂いが強い。「新しい共同」といった言葉も同様だ。共産主義みたいな悪しき人為性を感じてならない。

【付記】原書は1963年の発行であった。進化医学は知らなくて当然である。著者は黒人の公民権運動を見つめていたのだろう。

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ