2011-10-15

島田紳助監督『風、スローダウン』/主題歌「季節のない季節」BORO


 僕と島田紳助が出逢ったのは、1979年の冬である。僕たちは大阪の大学の学園祭に出演していた。その大学の仮設楽屋で二人は出逢った。体育系大学のその控え室は、青春を­やり始めたばかりの男子生徒の汗と土の匂いでむせかえるようだった。紳助は相棒の竜介と漫才をやっていた。それはツッパリ漫才と呼ばれ、その大学に通う連中達のような若い­層に、絶対的な支持を受けていた。僕はバンドのメンバーとその年の夏に発表した「大阪で生まれた女」をひっさげ、全国をツアーしていた。その曲はその冬の、その大学祭の時­期には、大ヒットの兆しが見え始めていた。楽屋で年かっこうの似た二人が、打ち解けるのは早かった。僕が鏡の前でポマードをぬっていると、横で紳助もポマードをぬっている­。お互いのポマードを見せ合い、どこのメーカーなのか、そんなことを話したのが一番最初の会話だった。島田紳助にとっても、僕にとっても、芸能界が、この世のすべてだった­頃の話である。

 その日のステージも熱狂的な、夢と愛と希望と、そして幸せに満ちたステージだった。ステージ終了後の、仮設楽屋は狂喜に満ちていた。学生スタッフ達のキラキラ輝く瞳には熱­い青春の涙がいっぱい溢れていて、口々にそれぞれの夢を語っていた。戦い続ける男達は、今も変わらないでいてくれるだろうか……。そして、あの日の、涙や汗や土の匂いは­、今も僕の体にしみついて離れない。

 紳助と竜介と僕は、大阪のABCラジオのDJをやり始めた。その番組は一年半続いた。番組での3人のテーマは、青春と夢だった。大阪中のラジオのスピーカーに向かって僕達­はアジテートしていた。「夢をもて」「勇気を出せ」「強く生きろ」「あの"うさんくさい権力"にだまされるな」言いたい放題のあの番組が、一年半も続いたのは、奇跡だった­のかも知れない。その番組の中で、紳助はリスナーに叫んだ。「僕たちは映画を作るぞ。これが本当の青春映画と言うものを作るぞ。小手先やない。魂からほとばしる青春映画を­……」

 そして、僕もスピーカーの前のリスナー達に誓った。「その映画は、俺が音楽を作る、感動のあまり、泣けて泣けてしょうがないような歌を、俺が歌う」。オーバーに表現してい­るのではなく、本当に、そんなふうに話すDJだった。そして、10年が過ぎ、多くの夢のひとつが叶った。紳助と僕が朝まで語り明かした、夢の一つが叶った。1991.7.6、本当の正しい青春映画『風スローダウン』は、完成した。

「季節のない季節」の詩は、紳助が納得するまで書き変えた。レコードに録音された歌詞は、その中の5コーラスで、本当は11コーラス作った。あの歌は紳助が僕に、創造させ­てくれたと思っている。だからあの歌は、彼だけの為に作ったのかも知れない。(BORO)





30周年記念ベスト・アルバム風、スローダウン-Deluxe Version- [DVD]

 基本的に動画は「斧チャン」で紹介しているが、どうしてもこれはというものについてはアップせざるを得ない。このアルバム(『季節のない季節』)が最後に買ったBOROのCDだった。全体の出来はよくなかった。この曲も音域が狭いため山場がないように聴こえる。だが、それでも尚、彼の声が発するビブラートは長い余韻を残す。若き日に抱いた理想を生涯堅持することは難しい。だからこそ道を誤った時には友が必要となる。二人の友情が続いていることを信じたい。

歌詞

パスカルはできの悪い形而上学者となった


 パスカルときたら、彼の妹の言うところによれば、面白半分に32の命題を解いたが、その後はかなり凡庸な数学者となり、そのうえはなはだできの悪い形而上学者となった。(「ミクロメガス」)

【『カンディード 他五篇』ヴォルテール:植田祐次訳(岩波文庫、2005年)】

カンディード 他五篇 (岩波文庫)

Blaise Pascal 3-statue

2011-10-14

災害時の食事支援について

後方支援の烹炊は、手なれたものだが、火災や災害時の支援時は、加熱調理したもの(衛生事故を避けるため)、食べなれていて精神的に充足感を感じるもの(災害にさらされた精神的ストレスは後になって様々な影響が起こる)、配給しやすいもの(混乱を避けるため)を満たしたメニューにする必要がある
Oct 31 10 via webFavoriteRetweetReply

i RESIST/私は抵抗する


 パレスチナで撮影された写真にロゴをあしらったポスター。生きるとは抵抗すること。飼い慣らされるな。

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大田俊寛と佐藤剛裕の議論から浮かんでくる宗教の危うさ


 その後、まだ続いていた。

大田俊寛の中沢新一批判を「私怨」と決めつけた佐藤剛裕の言いわけ
中沢新一批判をめぐる論争:togetter

 宗教の議論というのは大抵こんな展開となる。学術的な根拠に基づき、専門性の高い詭弁を弄して一般人から懸け離れてゆくのだ。まるで訳知り顔のオールスター戦だ。彼らが言いたいことはただ一つだ。「自分だけが真理を知っている」。ブッダはそれを「我慢偏執」(がまんへんしゅう/我慢=我〈われ〉慢ずる)と切り捨てた。togetterはさしずめ「我慢編集」といったところ。

 宗教者は「自分の正義」に取りつかれている。それゆえ彼らは人の話を聴くことができない。彼らが望むコミュニケーションは「私の教えを聴きなさい」ということに尽きる。

「宗教こそが世界中で争いを生んでいる」と主張に対して、「政治が宗教を利用しているにすぎない」という宗教側からの反論がある。

 歴史をありのままに見つめれば、世界を股にかけたキリスト教の宣教行動は「思想的征服-支配」を目指すものだ。西洋の白人は有色人種を「劣った者」と決めつけた。もともと理性とは「神が創ったこの世界を合理的に考え理解していく能力」を意味した(参照:「解読新書」 Shuya Takemoto Official Blog)。伝統的なヨーロッパ・キリスト思考は、神を信じない人々を動物として認識し、良心の呵責を覚えることもなく殺戮(さつりく)に次ぐ殺戮を行ってきた。そもそも「人間の定義」が違うのだ。

 宗教行為は教える人と教えられる人から成る。つまり宗教は必ず組織化する。そして教団は自分たち以外の信仰は全て悪だと断じる。悪を憎むことは人間にとって自然な感情だ。すなわち教団は「憎悪生産装置」といえる。

 彼らが研鑚するのは真理を求めるためではなく、教団の正義を補強する材料を探しているだけだ。ま、耐震強化みたいなもんだ。リフォームという言葉も何か関連がありそうな気がする。

 宗教が教団の専売特許となり、教団が正義を規定するのであれば、宗教は必ず国家を目指す。そして果てしない戦争を繰り返してゆくに違いない。なぜならば「敵」は滅ぼすべき対象であるからだ。

 組織化、制度化された宗教は既に宗教たり得ない。それは純粋な意味での政治である。だからこそクリシュナムルティは教団を解散したのだ。

 平和主義も民主主義も争っている。いずれも現代の宗教といってよい。

 元々は佐藤が詫(わ)びれば済んだ話だ。実際に佐藤が謝罪したのは大田の指摘から6日後のことであった。