・食べても安心な石鹸「シャボン玉石けん」
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石鹸は香料を使っていないため、初めのうちは油っぽい匂いが少々気になる。しかし慣れればどうってことはない。尚、この石鹸は洗髪もできる。文字通り一石二鳥の石鹸だ。
新潮と文春が歩調を合わせて叩く相手というのは、その時々で日本のエスタブリッシュメントにとって潰しておきたい存在なんだよね。これは3、40年前から変わらず。わかりやすい。
— Higashi Shinpei さん (@shinpei23) 6月 14, 2012
従ってヨハネが教えた洗礼も、終末論的聖礼典と規定していいだろうと思う。洗礼を受け、それと結びつく悔改めの義務を果たす者は、きたるべき神の支配に対して潔められるのであり、きたるべき怒りの審判からまぬがれる人の群に属するのである。恐らくオリエント的、非ユダヤ教的観念がこの洗礼運動に影響していたであろう。
【『イエス』R・ブルトマン:川端純四郎、八木誠一訳(未來社、1963年)以下同】
こう推論することが許されるであろう。すなわちイエスはもともと洗礼者の一派に属していた。そしてイエス一派はヨハネ派から分かれたものである、と。
イエスの宣教は【終末論的告知】である。すなわち今や約束の成就は門のところまで来ている、今や神の支配が入来する、という告知である。
もしあなたの目があなたを誘惑するなら、えぐり出して捨てよ。体の一部がなくなる方が、全身が地獄(ゲヘナ)に投げ込まれるのよりましだから。
もしあなたの手があなたを誘惑するなら、切り取って捨てよ。手足が一本なくなる方が、全身が地獄(ゲヘナ)へ行くのよりましだから。(マタイ5・29、30)
ところで【神の支配】とは何を意味するのだろうか。神の支配というとき何を考えたらよいのだろうか。答えは差し当り簡単である。神の支配は人にとって【救い】なのである。それもあらゆる地上的事物に終わりをもたらす【終末論的な】救いなのである。この救いはおよそ救いとして語りうる唯一の救いなのである。だからこそそれは人間から決断を要求し得るのであり、他の財貨と同列に所有したり、ほかの関心事と同列に心を労したりできるものではないのである。この救いは人の前にあれか-これかとして立っている。 だから神の支配を【最高善】と規定するのは無意味なのである――もし最高善を、人が善いと考え得るあらゆる事物の冠、頂点とするならば。
いずれにせよ、神の支配は【倫理の意味での最高善ではない】ことが既にここで明らかである。それは人の意志や行為の目的となる善ではなく、何等かの意味で人の行為によって実現されるもの、その存在のために何等かの意味で人を必要とするものではない。それは終末論的なものとして、絶対に非世界的なのである。
【神の支配はゆえに何か奇蹟的なもの】、それも絶対的に「奇蹟的なもの」であり、今・ここにあるすべてに対立するもの、「絶対他者」、天的なもの(ルドルフ・オットー)なのである。
「神の国」は人間の歴史の中に実現されるものではない。神の国の基を礎え、建て、完成するとは言われないし、言うこともできない。ただ近づき、来たり、あらわれると言われるだけである。それは【超自然的】、【非世界的なもの】である。人間はその救いを「受け」、その中に「入る」。しかし【人間】の共同体や活動が国を構成するのではなく、それはただ神の摂理なのである。
神の支配は同時にユダヤ民族の支配なのである(ダニエル2・44、7・27)。