その短命を私は嘆く。雪だるまよ……。大きいのは2メートルを超えるものから、小さいのは雛人形サイズまであったのに、太陽が放つ情け容赦ない光によって無惨な姿をさらしている。雪だるまの存在は消え果てた。もう跡形もない。いつの日か私もまた。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 2月 10
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その短命を私は嘆く。雪だるまよ……。大きいのは2メートルを超えるものから、小さいのは雛人形サイズまであったのに、太陽が放つ情け容赦ない光によって無惨な姿をさらしている。雪だるまの存在は消え果てた。もう跡形もない。いつの日か私もまた。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 2月 10
昨日、子供たちが雪と戯れていた。擦れ違うたびに「寒くないの?」と声を掛けたが、皆の笑顔が返ってきた。10歳くらいの男の子は元気一杯に「ただ今、除雪作業の任務を遂行中であります!」と。自然と触れ合うことの少ない都会の子らにとって雪は天からの贈り物だ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 2月 9
たいていの人は「偏り」(バイアス)イコール「偏見」ととらえるが、新しい研究では違う意味で使われる。“無意識のバイアス”とは、その人の行動と意図が相反する状況を指す。厄介なのは、当の本人が操られていると感じないことだ。自分のバイアスを都合よく解釈し、意図していなかった行動も、自分で判断を下して行なったものだと主張する。バイアスにはこっけいなものもあれば、無害なものもある。役に立つものも多い。しかし人の生死に関わる例として、私はいつもシェークスピアを思い浮かべる。悪知恵の働くイアーゴはオセロを丸め込み、妻が不貞を働いたと思い込ませる。無意識のバイアスはこのイアーゴのように、あからさまにではなく巧妙に人を操る。操られた側は重大な判断ミスを犯すが、それが間違いだとは思わない。バイアスがそれほどの力を持つのは、人間がその存在に気づかないからだ。
【『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム:渡会圭子〈わたらい・けいこ〉訳(インターシフト、2011年)】
フリードマンはキャメロンと同様、「生まれながらの」健康状態に戻すことを夢のように思い描き、それを使命としていた。人間の介入が歪曲的なパターンを作り出す以前の、あらゆるものが調和した状態への回帰である。キャメロンは人間の精神をそうした原始的状態に戻すことを理想としたのに対し、フリードマンは社会を「デパターニング」(※パターン崩し)し、政府規制や貿易障壁、既得権などのあらゆる介入を取り払って、純粋な資本主義の状態に戻すことを理想とした。またフリードマンはキャメロンと同様、経済が著しく歪んだ状態にある場合、それを「堕落以前」の状態に戻すことのできる唯一の道は、意図的に激しいショックを与えることだと考えていた。そうした歪みや悪しきパターンは「荒療治」によってのみ除去できるというのだ。キャメロンがショックを与えるのに電気を使ったのに対し、フリードマンが用いた手段は政策だった。彼は苦境にある国の政治家に、政策という名のショック療法を行なうよう駆り立てた。だがキャメロンとは違って、フリードマンが抹消と創造という彼の夢を現実世界で実行に移す機会を得るまでには、20年の歳月といくつかの歴史の変転を要した。
【『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン:幾島幸子〈いくしま・さちこ〉、村上由見子訳(岩波書店、2011年)】
これは明後日投票の細川護熙都知事候補の応援演説だが、この都知事選とは関係なく全ての日本人が聞くべき演説だ。/
100万人に届け!南相馬桜井市長の命がけの訴え。 http://t.co/1QVUVJZFbi @HuffPostJapanさんから
— えすっぺ (@Initial__s) 2014, 2月 8
貴公子や高僧はかつらをつけた御者に戦車を操らせ、
昂然と桂冠を戴いて時代の栄華を味わう。
その足元で、見下され、見捨てられ、槍に取り囲まれた男たち。
傷だらけの軍にあって死ぬまで戦う者たち、
戦場の埃と轟音と絶叫に茫然と立ちすくむ者たち、
頭を割られ、目に流れ込む血をぬぐうこともできぬ者たち。
胸に勲章を飾った将軍たちは王に愛でられ、
威勢のよい馬にまたがり、高らかにらっぱを鳴らして行進する。
その陰で、泥にまみれて城を攻め、無名のまま死んでゆく若者たち。
だれもが美酒と富と歓楽を謳い、
堂々たる美丈夫の君主を讃えようとも
私は土と泥を謳い、埃と砂を謳おう。
だれもが音楽と豪華と栄光を愛でようとも、
私は一握の灰を、口いっぱいの泥を謳おう。
雨と寒さに手足を失い、倒れ、盲いた者どもを讃えよう。
神よ、そんな者どものことをこそ
謳わせたまえ、語らせたまえ――アーメン
ジョン・メースフィールド「神に捧ぐ」
【『戦争における「人殺し」の心理学』デーヴ・グロスマン:安原和見訳(ちくま学芸文庫、2004年/原書房、1998年『「人殺し」の心理学』改題)以下同】
なぜ、殺人について研究しなければならないのか。セックスについて研究すると言えば、やはり同じように、なぜセックスを? と問われるだろう。この二つの問いには共通する部分が多い。リチャード・ヘクラーらはこう指摘している――「神話では、アレス(戦争の神)とアプロディテ(美と愛の女性)の結婚からハルモニア(調和の神)が生まれた」。つまり平和は、性と戦争とをふたつながら超克してはじめて実現するものだ。そして戦争を超克するためには、少なくともキンゼー(米国の動物学者。人間の性行動の研究で有名)やマスターズ(米国の婦人科医。男女の性行動の研究で有名)やジョンソン(米国の心理学者。人間の性行動について研究)のような真摯な研究が必要である。どんな社会にも盲点がある。直視することが非常にむずかしい側面、と言い換えてもよい。今日の盲点は殺人であり、1世紀前には性だった。
かつてロバート・ハインラインはこう書いた――生きる喜びは「よい女を愛し、悪い男を殺すこと」にあると。
壊滅的な出来事が発生した直後、災害処理をまたとない市場チャンスと捉え、公共領域にいっせいに群がるこのような襲撃的行為を、私は「惨事便乗型資本主義」(ディザスター・キャピタリズム)と呼ぶことにした。
【『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン:幾島幸子〈いくしま・さちこ〉、村上由見子訳(岩波書店、2011年)以下同】
フリードマンはその熱心な追随者たちとともに、過去30年以上にわたってこうした戦略を練り上げてきた。つまり、深刻な危機が到来するのを待ち受けては、市民がまだそのショック状態にたじろいでいる間に公共の管轄事業をこまぎれに分割して民間に売り渡し、「改革」を一気に定着させてしまおうという戦略だ。
フリードマンはきわめて大きな影響力を及ぼした論文のひとつで、今日の資本主義の主流となったいかがわしい手法について、明確に述べている。私はそれを「ショック・ドクトリン」、すなわち衝撃的出来事を巧妙に利用する政策だと理解するに至った。
ショック・ドクトリンというレンズを通すと、過去35年間の世界の動きもまるで違って見えてくる。この間に世界各地で起きた数々の忌まわしい人権侵害は、とかく非民主的政権による残虐行為だと片づけられてきたが、じつのところその裏には、自由市場の過激な「改革」を導入する環境を考えるために一般大衆を恐怖に陥れようとする巧妙な意図が隠されていた。1970年代、アルゼンチンの軍事政権下では3万人が「行方不明」となったが、そのほとんどが国内のシカゴ学派の経済強行策に版愛する主要勢力の左翼活動家だった。