2016-07-26

精神医学のバイブルが新たな患者を生み出す/『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス


『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

 ・精神医学のバイブルが新たな患者を生み出す

『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
『うつ消しごはん タンパク質と鉄をたっぷり摂れば心と体はみるみる軽くなる!』藤川徳美
『心と体を強くする! メガビタミン健康法』藤川徳美
『最強の栄養療法「オーソモレキュラー」入門』溝口徹
『食事で治す心の病 心・脳・栄養――新しい医学の潮流』大沢博
『オーソモレキュラー医学入門』エイブラハム・ホッファー、アンドリュー・W・ソウル
『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク

 DSMとは「精神障害の診断と統計マニュアル(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)」の略だ。それも当然なのだが、1980年まで、DSMは目立たないちっぽけな本で、たいして注目されていなかったし、読まれてもいなかった。そこへ突然、DSM-III(スリー)が現れた――この分厚い本はすみやかに文化の象徴となり、息の長いベストセラーになり、精神医学の「バイブル」としてむやみな崇拝の対象になった。
 DSMは正常と精神疾患のあいだに決定的な境界線を引くものであるため、社会にとってきわめて大きな意味を持つものになっており、人々の生活に計り知れない影響を与える幾多の重要な事柄を左右している――たとえば、だれが健康でだれが病気だと見なされるのか、どんな治療が提供されるのか、だれがその金を払うのか、だれが障害者手当を受給するのか、だれに精神衛生や学校や職業などに関したサービスを受ける資格があるのか、だれが就職できるのか、養子をもらえるのか、飛行機を操縦できるのか、生命保険に加入できるのか、人殺しは犯罪者なのかそれとも精神障害者なのか、訴訟で損害賠償をどれだけ認めるのかといった事柄であり、ほかにもまだまだたくさんある。
 定期的に改訂されるDSM(DMS-IIIR、DSM- IV)に20年間にわたってかかわってきた私は、落とし穴をしっており、改訂につきまとうリスクを警戒していた。これに対して私の友人たちは新参者であり、DSM-5の作成に自分らが果たす役割に興奮していた。

【『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス:大野裕〈おおの・ゆたか〉監修、青木創〈あおき・はじめ〉訳(講談社、2013年)以下同】

 アレン・フランセスはDSM-IV(1994年)の編集委員長を務めた人物である。DSMの第5版は単なる更新ではなかった。それは製薬会社からのリクエストに応じる新たな症状の創造であった。聖書が罪を定めるようにDSM-5が病気を決めるというわけだ。病気が増えれば薬は売れる。

 DSM-IVでは小さな誤りも許されないことを私は承知していた。DSMは度を越して重要になりすぎ、それ自身のためにも、社会のためにもなっていなかった。ささいに思える変更であっても、甚大な災いをもたらしかねない。そしていまや、DSM-5がまさに大きな誤りを犯そうとしているように思えた。友人たちがあまりにも無分別に後押ししていた疾患は、のべ何千万もの新たな「患者」を生み出すものだった。じゅうぶんに正常な人々がDSM-5の広すぎる診断の網にとらわれるのが私には想像できたし、多くの人々が必要なものにともすれば危険な副作用のある薬の影響にされされる恐れがあった。製薬企業も、お得意の病気作りに新しい格好のターゲットをどう利用してやろうかと、舌なめずりをしているはずだった。

 DSM-5は製薬会社にとって打ち出の小槌となった。

 DSM-IIIでは主要な診断名の有病率が著しく高く報告されるようになり、過剰診断を促していると批判されたため、DSM-IVでは7割以上の診断基準に「著しい苦痛または社会的、職業的、その他の領域での機能の障害を引き起こしている」という項目を追加した。しかし、その後も主要な製薬会社は強力なマーケティングを展開し、アメリカでは精神障害の罹患率が毎年上昇し続け、注意欠陥多動性障害が3倍、自閉症が20倍、子供の双極性障害が40倍、双極性障害は2倍となり。伴って処方箋医薬品による死亡が違法薬物によるものを超えることとなった。

Wikipedia

 以下に批判を列挙する。



精神科医・鈴木映二教授による「DSM5の問題」に関する連続ツイート

 平成23年5月にアメリカ精神医学会から発刊された『精神疾患の診断と統計の手引き第5版』(DSM-5))において,「インターネットゲーム障害」が今後研究が進められるべき精神疾患の一つとして新たに提案されました。

PDF:インターネット依存症について

アスペルガーの診断が消えたと話題に 自閉症一本化の恐怖

DSM-5:アメリカ精神科協会出版利益至上主義がもたらした弊害 →精神疾患診断への信頼性危機増大

「DSM-5、聖書ではない」

 要はアメリカ精神医学会が薬を売る目的で嘘をついたということである。今までは「正常」とされたものが、これからは「異常」となる。もちろんあなたも私も。資本主義も共産主義も最終的には「管理~支配」に向かう。『すばらしい新世界』や『一九八四年』が現実となりつつある。



現実の虚構化/『コレステロール 嘘とプロパガンダ』ミッシェル・ド・ロルジュリル

2016-07-25

支離滅裂な文章/『子ども虐待という第四の発達障害』杉山登志郎


 ・支離滅裂な文章

『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史

 徐々に筆者は、被虐待児は臨床的輪郭が比較的明確な、一つの発達障害症候群としてとらえられるべきではないかと考えるようになった。
 筆者は現在、被虐待児を【第四の発達障害】と呼んでいる。【第一は、精神遅滞、肢体不自由などの古典的発達障害、第二は、自閉症症候群、第三は、学習障害、注意欠陥多動性障害などのいわゆる軽度発達障害、そして第四の発達障害としての子ども虐待である】。

【『子ども虐待という第四の発達障害』杉山登志郎〈すぎやま・としろう〉(学研のヒューマンケアブックス、2007年)】

 杉山は発達障害の権威らしい。日本で軽度発達障害という概念を樹立した人物でもある。海外の研究や事例も豊富だ。しかし人間性が伝わってこない。本の体裁も変わっていてフォントが大きい二段組で読みにくい。尚、私が誤読しているかもしれないので、お気づきの点があればご指摘を請う次第である。

 障害と病気は異なる(※通常は「障碍」と表記しているが発達障害との絡みで今回は「障害」とする)。昔は精神障害を精神病と呼んだ。1982年(昭和57年)には山本晋也が口にした「ほとんどビョーキ」というセリフが流行語となった(流行語 共通史年表)。当時はまだ、普通でない=病気という感覚が支配していた。因みに「気違い」という言葉に苦情が出始めたのは1974年のことである(Wikipedia)。ただしマニアを意味する言葉としてカーキチや釣りキチなどは1980年代まで通用していたと記憶する。少年マガジンで『釣りキチ三平』の連載が終了したのは1983年であった。

 現在、精神障害の分類はアメリカ精神医学界が出版しているDSM(精神障害の診断と統計マニュアル)の第3版以降に基くが、2013年に発表された第5版についてはアレン・フランセス(第4版編集委員長)からの批判もある(『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』)。この業界はきな臭い話が多い(『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン)。

「被虐待児は」→「一つの発達障害症候群」、「被虐待児」→「第四の発達障害」とあるが「人=障害」となっていて支離滅裂な文章だ。そもそも本書のタイトルが致命的で虐待には加害者と被害者が存在するわけだが、親なのか子なのかわからぬ「子ども虐待」という言葉を発達障害に直接結びつけている。

 上記引用箇所では「被虐」と読めるが、「表3 発達障害の分類」では第四群の定義を「子どもに身体的、心理的、性的加害を加える。子どもに必要な世話を行わない」とある。これだと「加虐」となる。学研には編集者がいないのだろうか?

 説明の拙さや言葉の曖昧さが読み手に不安を募らせる。こんな人物が本当に権威なのか?

 私の理解では杉山の主張は「被虐待によって脳がダメージを受け、発達障害と酷似した症状が現れる」ということなのだろう。それにしても被虐(状況)=障害(症状)という設定そのものがおかしい。

 拘留中の渡邊博史〈わたなべ・ひろふみ〉に香山リカが差し入れた一冊である。

2016-07-23

修行としての掃除/『人生がときめく片づけの魔法』近藤麻理恵


『「捨てる!」技術』 辰巳渚
・『1週間で8割捨てる技術』筆子

 ・修行としての掃除

『たった1分で人生が変わる片づけの習慣』小松易
『大丈夫!すべて思い通り。 一瞬で現実が変わる無意識のつかいかた』Honami
『人生を掃除する人しない人』桜井章一、鍵山秀三郎
『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』佐々木典士

 このように、私自身が片づけについて真剣に向き合ってきた経験と、たくさんの「片づけられなかった人」たちを「片づけられる人」に導いてきた経験から、自信を持っていえることが一つあります。それは、【家の中を劇的に片づけると、その人の考え方や生き方、そして人生までが劇的に変わってしまう】ということです。

【『人生がときめく片づけの魔法』近藤麻理恵〈こんどう・まりえ〉(サンマーク出版、2010年/河出書房新社改訂版、2019年)以下同】

「そんな馬鹿な……」と思う人は掃除をしない。「そうなのか!」と受け止めた人は直ちに掃除を開始する。コンマリを「一時的にテレビで持てはやされた女だろ?」などと侮ってはならない。幼い頃から好きだった片づけで大学時代に起業し、2015年のアメリカ『TIME』誌で「世界で最も影響力のある100人」に村上春樹と共に選ばれたのである(近藤麻理恵さんってどんな人 TIME誌「世界で最も影響力のある100人」に選ばれる)。「芸は身を助く」を極めた人生といってよい。アメリカでも100万部を超えるベストセラーとなり、「ときめき片づけ法を使って片づけを実践することを“Komaring”“Kondoing”と表現するワードも浸透しているという」(「片づけで人生がときめく」で世界600万部超の大ヒット、その理由とは)。まるで「パレアナ現象」だ。

 では、なぜ家の中を片づけると、このように考え方や生き方が、つまりはその人の人生までもが変わってしまうと思いますか。
(中略)【ひと言でいうと、片づけをしたことで「過去に片をつけた」から。その結果、人生で何が必要で何がいらないか、何をやるべきで何をやめるべきかが、はっきりとわかるようになるのです。】

 近藤の「片をつける」という発想が、桜井章一の「間に合う」(『運に選ばれる人 選ばれない人』)を思わせる。一つひとつ小さな決着をつけてゆくことが、大きな判断を確かなものとするのだろう。

 片づけは目に見える形で必ず結果が表れます。【片づけはウソをつきません】。だから、私がお伝えしている片づけの極意は、【「片づけの習慣を少しずつつける」のではなく、「一気に片をつけることで、意識の変化を劇的に起こす」】ことにあります。

「塵も積もれば山となる」というが実際にできた山はない。地殻変動がマグマを噴火させることで山は生まれる。劇的な変化は一瞬で決まる。心の底にはヘドロが堆積している。怠惰という名のヘドロが。それを一掃することから掃除は始まる。

【「片づけは祭りです。片づけを毎日してはいけません」】

 蓋(けだ)し名言である。

【驚かれるかもしれませんが、私は自分の部屋の片づけを今ではまったくしていません。なぜなら、すでに片づいているからです】。

 掃除は修行なのだ。「行(ぎょう)を修める」とは行為を正しくする・整えることである。修行とは何かを単純に繰り返すことではない。心構え次第では日常生活の全てが修行となる。

【片づけを真剣にしていると、瞑想状態とまではいかないまでも、自分と静かに向き合う感覚になっていくことがあります。自分の持ちモノに対して、一つひとつときめくか、どう感じるか、ていねいに向き合っていく作業は、まさにモノを通しての自分との対話だからです】。

 ブッダの弟子にチューラ・パンタカ(周利槃特)がいる。双子の兄のマハー・パンタカは頭脳明晰であったが、チューラ・パンタカは愚かで3ヶ月かかっても一偈を暗誦することができない。自分の名前すら覚えられなかったとの説まで伝わる。出産の時刻が兄と隔たっているようなので何らかの障碍(しょうがい)があった可能性も高い。

 兄に連れられて出家したものの、あまりの愚かさゆえに弟を哀れんだ兄が還俗(げんぞく)を命じた。それを聞いたブッダがチューラ・パンタカを訪ねる。ブッダは1枚の布を渡し、心を込めて「塵や垢を除け」と唱えて掃除をすることを教えた。やがてチューラ・パンタカは「清浄な布が汚れていく」事実をありありと見て諸行無常を悟る。掃除はまさしく修行であった。(「悟りを開いた人たち A・スマナサーラ長老」を参照した)

 はたきを使っていると私の頭では「お祓(はら)い」の文字が明滅する。清浄・浄化を目指すのが宗教であれば、掃除が悟りにつながることは決して不思議ではない。「婦」の字も白川静によれば、「『帚』(ほうき)を持って宗廟(そうびょう)を清めるという大切な役割をする女」という字義がある(第21回 人の形から生まれた文字 5 女の人の姿 2「婦」 主婦が掃除する廟)。

 掃除は聖と俗を往来する道なのだろう。取り敢えず現段階では自分の部屋を振り返ることはしない。


J・クリシュナムルティ、那智タケシ、岡崎勝世、小林よしのり、他


 1冊挫折、5冊読了。

チームワークの心理学』國分康孝〈こくぶ・やすたか〉(講談社現代新書、1985年)/國分の著書には外れがない。多少古くても十分読める。「ワンマンショウ」という言葉に思わず笑った。既に死語である。良質なビジネス書としても通用する一冊。

 105冊目『ゴーマニズム宣言SPECIAL 天皇論』小林よしのり(小学館、2009年)/小林の漫画作品を初めて読了した。名著といってよいと思う。日本人の自覚は天皇陛下を知ることから生まれる。否、そこからしか生まれ得ない。続く『ゴーマニズム宣言SPECIAL 新天皇論』では女系天皇制を支持して評価が割れている。

 106冊目『聖書 vs. 世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世〈おかざき・かつよ〉(講談社現代新書、1996年)/再読。やはり名著。そして冒頭50ページがやはり難解。

 107冊目『世界史とヨーロッパ』岡崎勝世〈おかざき・かつよ〉(講談社現代新書、2003年)/途中で何度かあきらめようかと思ったのだが最後まで読んで正解だった。今こそ読まれるべき一冊である。9.11テロ後の世界における国家主義の潮流は、アンチ啓蒙主義としてのロマン主義と軌を一にするものだ。歴史は繰り返す。何度でも。

 108冊目『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ(ナチュラルスピリット、2014年)/文という文字には「あや」との訓読みからもわかるように「かざる」義がある。その意味からいえば「かざっている」ようにも見える。ひょっとすると悟りが酔いをもたらすのかもしれない。あるいは年齢的な問題(=成熟)か。断片というキーワードと心身脱落という禅語の組み合わせに新味がある。日蓮が「禅は天魔の所為」と批判した理由は独善の陥穽を指摘したのだろう。悟りにはそうした危険がつきまとう。

 109冊目『時間の終焉 J・クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集』J・ クリシュナムルティ:渡辺充訳(コスモス・ライブラリー、2011年)/自問自答のアクロバットである。時間とは「なりゆく過程」を指す。1980年の4月から9月にかけて断続的に行われた対話である。逝去の5~6年前だから、これが最後の作品かもしれない。私は梵天勧請として読んだ。仏と凡夫の差異を乗り越えんとするところに仏の苦悩があった。クリシュナムルティは一人二役を演じながら、ボームを通して人類に語りかける。対話の波長が合っているように感じるのは錯覚で、理(理論)と事(事実)の相違がある。

津波のメカニズム/『人が死なない防災』片田敏孝


『人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』広瀬弘忠
『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦

 ・東日本大震災~釜石の奇蹟 生存率99.8%
 ・釜石の子供たちはギリギリのところで生き延びることができた
 ・津波のメカニズム

気づき(アウェアネス)に関する考察
『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ
『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ

『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

必読書リスト その二

 津波は、断層が動いて、海の中で海底の地形が変化することで起きます。よく、10メートルとか15メートルの津波が来たといいますね。なぜそんなに大きな波が起こるのかということについて説明します。
 海の中で断層ができますね。例えば、3メートルの断層ができる。すると、そのまま海面の水も3メートルの段差がつきます。この段差が津波そのものとなります。これがそのまま移動していくわけです。ただ、普通の波は周期が短いので、海がしけたときに「今日の海上は5メートルの波です」ということを聞きますが、家を壊すほどのものではありません。波長が短いので、ザバッと来て、それで終わりです。ところが津波の高さ5メートルというのは、もはや波ではないわけですね。波だけれども、ものすごく周期が長い。無尽蔵の水が一挙に入ってくる。そうすると、陸地に、海から水の壁が大挙して押し寄せてくる。海からの大洪水となって、家々を全部壊し、瓦礫にして流していく。それが津波の恐さです。
 例えば、海底の段差が3メートルなら最初の津波は3メートルです。ところが実際に陸地に上がってくるときには、これが5メートル、7メートル、10メートルと、大きい波になる。
 津波は、海底の深いところでは時速800キロぐらいのスピードで伝播していくので、チリ津波は丸一日あれば日本に来てしまうわけですね。けれども、浅くなると急ブレーキがかかります。水深500メートルで新幹線並み、100メートルで電車並み、10メートルで人間が走るぐらいのスピードになる。そうなると、津波は背後からすごいスピードで来るのに、進む前面で急ブレーキがかかってしまう。そのため次から次へと津波が積み重なって、どんどん高くなっていく。向こうの沖合に白波が立ったと思ったら、目の前に来たときに波が急に立ち上がってくるのは、こうしたメカニズムに則(のっと)ったことなのです。

【『人が死なない防災』片田敏孝(集英社新書、2012年)】

 無知は恐ろしい。波浪と津波が全くの別物だったとは。チリ津波の場合、ハワイにぶつかることで内側に角度をつけた波が日本で収束するという。


 被災地を飲み込んだ大津波のメカニズムを初めて知った。片田の防災教育が「知は力なり」(フランシス・ベーコン)を証明した。知ることは備えることでもある。知っていれば対処できる。

 動物は恐怖を感じると闘争か逃走かを迫られる(ウォルター・B・キャノン)。安全に慣れきって本能の力が弱まると立ちすくんでしまう。東日本大震災の教訓は「逃げ遅れたら死ぬ」という単純な事実である。

 そして助かるべくして助かった人々と、たまたま助かった人々が存在する。多くの証言集は運のよさを示すだけで学べることが少ない。むしろ迂闊さを際立たせる内容となっている。本書が稀有なのは災害に対する正しい姿勢が即座の行動を生み、ほぼ100%といってよい人々が大災害を生き延びた事実にある。そんな小中学生たちが必ずや東北の未来を照らすことだろう。

人が死なない防災 (集英社新書)