2020-07-12

進歩的文化人の亡霊を甦(よみがえ)らせる/『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』馬場公彦


『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一

 ・頭隠して尻隠さず
 ・進歩的文化人の亡霊を甦(よみがえ)らせる

『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『ビルマの竪琴』竹山道雄

 竹内は、『竪琴』の主人公である水島安彦が累々たる同胞の骨を見捨てて立ち去ることに恥を覚えたことについて、回心の動機には、「同胞愛と人類愛」があるとし、その動機は、「私を打つのである。たしかにわれわれは、この種の人道的反省に足りぬものがある」とする。
 そのうえで竹内は、「いったいこの世には、何故このような悲惨があるのだろうか」という設問を水島が発し、次のように水島によって自答されているくだりを引用している。

 この「何故に」ということは、所詮人間にはいかに考えても分らないことだ。われらはただ、この苦しみの多い世界にすこしでも救いをもたらす者として行動せよ。その勇気をもて。そうして、いかなる苦悩・背理・不合理に面しても、なおそれにめげずに、より高い平安を身をもって証しする者たりの力を示せ、と。

 この叙述に対し、竹内はこう論評した。

 これは解決ではなくて、解決の回避である。心の平安がすべてであるという、水島の口を借りて述べられている作者の中心思想が、本来は美しい物語に結晶すべきこの作品に、いくつかの致命的破綻を与えているように思う。

 この「解決の回避」という一語に、竹内好が『竪琴』に抱いた疑念が集約されている。水島が同胞の骨を打ちすてては帰れないと反省するさいの回心の動機は、「同胞愛と人類愛」であった。そこで日本兵であることを放棄し、ビルマ僧となって人類愛の地平に経った。そして鎮魂と和解が敵味方の傷ついた兵士同士で達成された。だが、このプロセスは一足飛びのプロセスである。その間の鎮魂と和解をつなぐ結節環が省かれてしまっている。
 この竹内の違和感を筆者もまた共有する。普遍的な人類愛の立場に立って敵味方双方に和解が成立したようにみえて、実は一方的自己愛にすぎないのではないか。敵味方が双方なじんだ歌を唱って、感情の共鳴板が和音を奏でても、それは戦争が投げかけた問題を解消することにはつながらないのではないか。少なくとも、そこで心を動かしてはいけないのではないか。

【『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』馬場公彦〈ばば・きみひこ〉(法政大学出版局、2004年)】

 谷沢永一が「北京政府の忠実な代理人」と評した竹内好〈たけうち・よしみ〉である。同胞愛と人類愛は宗教的感情である。「心の平安」という言葉からもそれが窺える。竹内や馬場が思い描く「解決」とは“人民による革命”なのだろう。古い体制を転覆せずして訪れる平和を彼らは認めないのだ。

 テキストに目を凝らそう。「自己愛にすぎないのではないか」「戦争が投げかけた問題を解消することにはつながらないのではないか」と来て、「心を動かしてはいけないのではないか」と踏み込む。冷静な筆致で「感動するな」と他人に強要しているのだ。「心を動かすな」という言葉は普通の人間では思い浮かばない。唯物論者でもない限り、人の心をこれほど簡単に扱うことはできまい。

 本書の目的は進歩的文化人の亡霊を甦(よみがえ)らせることにあるのだろう。こんな本を出版する法政大学出版局も賊の一味と考えてよかろう。

2020-07-10

金属製の容器(ヤカンや水筒)は酸性の飲み物と反応し、金属が溶け出すことがある






2020-07-08

頭隠して尻隠さず/『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』馬場公彦


『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一

 ・頭隠して尻隠さず
 ・進歩的文化人の亡霊を甦(よみがえ)らせる

『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『ビルマの竪琴』竹山道雄

 だが、長く続いた冷戦は終わった。竹山が身を挺して告発した東ベルリン住民への人権抑圧や、台湾に住む大陸中国の亡命者からの共産中国批判の聞き書きには、たとえそれがのちに事実であったと判明しても、情報としての価値はもはや皆無に近い。となると、『竪琴』の作家ということ以外、消去法でかろうじて残るのは、失われていく日本の伝統文化を愛惜し擁護しようとした、日本主義的ディレッタントということにとどまるかもしれない。
『竪琴』の命運も安泰とは言えないようだ。(中略)最近の『竪琴』を取り上げた戦後世代による評論群からうかがえることは、『竪琴』はアジアを舞台として近代小説としても、日本の戦争に題材をとった戦争文学としても、取り扱い注意品目に指定されつつあるということだ。
 
【『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』馬場公彦〈ばば・きみひこ〉(法政大学出版局、2004年)以下同】

 馬場は編集者のようだ。こなれた文章で論理的なのだが直ぐに私の鼻は異臭を嗅ぎ取った。読むほどに嫌な臭いを放っている。池上彰佐藤優と同じ体臭がする。肝心な情報は伏せておいて、都合のいい事実だけを組み合わせて我が田に水を引くという寸法だ。左翼の常套手段は不作為という作為だ。

 馬場の意図は竹山を美術評論家に留(とど)め置くことなのだろう。刊行された2004年という時を思えば竹山道雄は既に「忘れられた作家」であった。そこそこ本を読んできた私も竹山の著書は一冊も読んでいなかった。『ビルマの竪琴』の名場面は知っていたが食指は動かなかった。それでもかような本を出す目的はネトウヨブームに釘を刺し、竹山の著書を禁書扱いしたかったのだろう。そうでもなければ気取った悪口をこれほど延々と綴ることは難しいだろう。

 馬場は上記テキストで竹山の共産主義批判を正面からは取り上げずに時事評論の印象づけを行っている。思わず舌を巻く狡猾(こうかつ)さである。更に返す刀で『ビルマの竪琴』のストーリーは完全に無視した上で誤った時代考証を指摘する。馬場は本書の中で繰り返し竹山を持ち上げてから落とすことを繰り返す。竹山道雄のようなきらめく英知は一つもないし、時流に抵抗する精神も見受けられない。それこそ「皆無」である。

 最近の『竪琴』を取り上げた戦後世代による評論群からうかがえることは、『竪琴』はアジアを舞台として近代小説としても、日本の戦争に題材をとった戦争文学としても、取り扱い注意品目に指定されつつあるということだ。

 本書を読むきっかけとなったのは“志村五郎「竹山を今日論ずる人がないことを私は惜しむ」/『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘”で紹介した“馬場公彦著「『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史」2004年法政大学出版局刊・3の2 | 知的漫遊紀行 - 楽天ブログ”による。米原子力空母エンタープライズの寄港に関する詳細を知りたかった。ところが馬場が行っているのは朝日新聞と全く同じことなのだ。悪い冗談としか思えない。編集者は創作者ではない。他人をあげつらったり、自分の知識をひけらかしたりするだけの気楽な商売なのだろう。

 本書が平川祐弘〈ひらかわ・すけひろ〉の心に火を点(とも)し、『竹山道雄と昭和の時代』(2013年)や新たな全集『竹山道雄セレクション』(全4冊、藤原書店、2016-17年)の推進力となったことは間違いあるまい。馬場の歯ぎしりが聞こえてきそうだ。

 東ドイツや中国といった共産圏を擁護した馬場だが、現在の香港弾圧やウイグル人虐殺をどう見ているのだろうか? 竹山道雄が終生にわたってノーを突きつけたのは全体主義であった。オールドリベラリズムの所以(ゆえん)である。「全ての日本人が今こそ竹山道雄を読むべきだ」と私は声を大にして言いたい。