ジョン・ノックス教会を見つけて横道に車を入れ、ロシナンテ号を見えないところに停めた。チャーリーに番をするように命じ、目も眩むほど白い板壁の教会に向かって行儀よく歩いていった。しみ一つなく磨き抜かれた礼拝所の後ろの席に座った。
祈りの文句は的を射ていた。全能の神は人間の弱さや不信心を見ておられると説いたのだ。まさに私のことだったし、ここに集まっている人たちも同じだと思うしかなさそうだった。
この礼拝は私の心を動かした。私の魂も少しはよくなったと思いたい。あんな説教の仕方を聞いたのは久しぶりである。
今の時代、少なくとも大都会では、礼拝は精神分析という聖職者によって行われている。「そんなの、ちっともあなたの罪じゃありません。不可抗力のアクシデントですよ」と言ってもらうわけだ。しかしこの教会ではそんなでたらめなど存在しなかった。
厳格な牧師は、鋼鉄のような瞳とドリルのような舌鋒を持っていた。祈りの言葉を皮切りに、彼は我々が実に惨めな存在なんだと思い出させた。その通りである。我々は最初から大した者ではなかったし、安っぽい努力しかせず、道を誤ってばかりいる。
こうして我々の気を楽にした時、彼は見事な説教へと進んだ。地獄の炎の説教だ。我々(いや私だけかもしれない)はろくでもない馬鹿者だと証明した後、性根を入れ替えないと将来どんなひどいことが起こるのか、牧師は冷徹な確信と共に語ってみせた。そのくせ性根を入れ替えることなんてちっとも期待していなかった。
地獄について、彼は専門家として説明してくれた。軟弱な昨今のふにゃふにゃした地獄ではない。一流の技術者が働き、景気よく燃やされた業火が白熱している地獄についてである。この牧師は我々が分かりやすいように話をかみ砕いた。激しく燃え上がる石炭の炎、そこに風を送る無数の穴、命懸けで炉を燃やす悪魔の一団。そこで燃やされているのは私だった。
私はすっかり気分がよくなってきた。ここ数年、神様を我々の友達みたいに思って共にあるよう祈っていたのだが、そのせいで父と息子でソフトボールをしているような虚しさを感じていた。ところがこのヴァーモントの神様ときたら、私を気づかうあまり数多くの困難を設け、私の中の罪悪を暴き出してくださった。新たな見地から私の罪を白日の下に晒してくれたのである。
小さくて卑しい汚らわしい私の罪は、すぐに忘れ去られるようなものだった。しかし牧師は、その罪を大きく膨らまし、華やかで堂々たるものにしてくれた。ここ数年、私は自分を大した奴だとは思っていなかったが、私の罪がこれほど大したものだったのなら、ちょっとは誇ってもよさそうだ。私はいたずら小僧ではなく一流の罪人であり、その罪の報いを受けようとしているのだ。
魂ごとたっぷりと元気づけてもらったように感じたので、教会の献金皿に5ドルほど入れさせてもらった。その後、教会の前で牧師やできるだけたくさんの会衆者たちと温かな握手を交わした。おかげで悪事を働いているのだという快感が味わえたし、そんな気分を火曜日までたっぷりと味わい続けることができた。
チャーリーにもこんな満足感を味わわせるために、ぶん殴ってやろうかとまで思い立った。私ほど罪深くはないにせよ、チャーリーだって似たりよったりだからである。
【『チャーリーとの旅』ジョン・スタインベック:竹内真訳(ポプラ社、2007年/大前正臣訳、弘文堂、1964年)】
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