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2016-04-11

ブッダの教えを学ぶ


     ・キリスト教を知るための書籍
     ・宗教とは何か?
     ・ブッダの教えを学ぶ
     ・悟りとは
     ・物語の本質
     ・権威を知るための書籍
     ・情報とアルゴリズム
     ・世界史の教科書
     ・日本の近代史を学ぶ
     ・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
     ・時間論
     ・身体革命
     ・ミステリ&SF
     ・必読書リスト

「仏教」と呼んでしまえば教条主義(ドグマティズム)に陥る。仏教哲学というのもピンと来ない。やはり「ブッダの教え」とすべきであろう。仏教徒とは教団に額づく者の異名であり、仏教を行じる者は仏教者・仏法者を名乗るべきか。個人的には「ブッダの教えに耳を傾ける者」で構わないと考える。

『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (ワイド版岩波文庫)
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
ブッダとクリシュナムルティ―人間は変われるか?

2015-04-23

止観/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ


 ・努力と理想の否定
 ・自由は個人から始まらなければならない
 ・止観

 そこで問題は、私たちの思考がそこいら中をうろついており、そして当然ながら秩序をもたらすことを望んでいるということです。が、どのようにして秩序をもたらしたらいいのでしょう? さて、高速で回転している機械を理解するためには、それを減速させなければなりません。もし発電機を理解したければ、それを減速させてから調べなければなりません。もしそれを停止させてしまえば、それは死物であり、そして死物はけっして理解できません。そのように、思考を排除、孤立によって殺してしまった精神はけっして理解を持つことはできないのですが、しかしもし思考過程を減速させれば、精神は思考を理解できるのです。もし皆さんがスローモーション映画を見れば、皆さんは馬が跳躍するときの筋肉の見事な動きを理解できるでしょう。筋肉のそのゆるやかな動きには美がありますが、しかし馬が急に跳躍すれば、運動がすぐに終わってしまうので、その美は失われるのです。同様にして、精神が、各々の思考が起こるつどそれを理解したいので、ゆっくり動くときには、思考過程からの自由、制御され、訓練された思考からの自由があるのです。思考は記憶の応答であり、それゆえ思考はけっして創造的ではありえません。新たなものに新たなものとして、新鮮なものに新鮮なものとして出会うことのうちにのみ、創造的な存在があるのです。

【『自由とは何か』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1994年)】

止観」(しかん)の意味がわかったような気がする。想念や思考を止めるのではなく、自分が止まって注意力を全開にしながら、ゆっくりと動き出す想念や思考を見つめればよいのだろう。


 鍵は「スローモーション」という言葉に隠されている。つまり、「全てに気づいた状態」は脳が超並列でフル回転した状態を意味する。馬の筋肉を馬自身は理解していない。理解するためには減速する必要があるのだ。たぶんスポーツ選手よりも、バレリーナや舞踊家の方が身体機能を理解していることだろう。

 現在の行為をひたすら実況中継するヴィパッサナー瞑想の原理もきっと一緒だろう。ただしクリシュナムルティは特定の方法を否定する。「ただありのままに見よ」としか教えていない。

 日本仏教(鎌倉仏教)は後期仏教(大衆部≒いわゆる大乗)のロジックにまみれているため、生の全体性を論理の中へ組み込んでしまうところに致命的な問題がある。初期仏教やクリシュナムルティの言葉は平易でありながらも深遠な哲理をはらんでいる。宗教という宗教が用語の中に埋没している事実をありのままに見つめる必要があろう。


八正道と止観/『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良

2015-01-20

生きるとは単純なこと/『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ


『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・何も残らない
 ・生きるとは単純なこと

『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也

1月1日 生きるとは単純なこと

 生きるとは、複雑なようであって、じつはとても単純です。
 歩いたり座ったり喋(しゃべ)ったり、寝たり起きたり。それ以外、特別なことは何もありません。
 この単純さを認めないことが、苦しみの原因のもとなのです。
 この単純さ以外に、何か人間を背後から支配している「宇宙の神秘」のようなものがあると思うのは、妄想です。
 人生とはいともかんたんに、自分で管理できるものなのです。

【『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ(PHP研究所、2008年/PHP文庫、2017年)】

 本年より書写行を開始。セネカ著『人生の短さについて 他二篇』を終えて、本書と取り組む。新書サイズで上下二段。1ページに2日分の内容となっている。何の解説もないのだが、たぶんスマナサーラ本からの抄録であろう。このエッセンスを理解するには、ある程度スマナサーラ本を読む必要あり。手軽に読んでしまえばかえって理解から遠ざかることだろう。

 業(ごう)とは行為を意味する。日本だと悪業の意味で使われることが多いが善業も含む。その基本は歩く・座る・寝るの三つである。言われてみると確かにそうだ。健康の最低限の定義は「歩ける」ことだろう。身体障害の厳しさは歩くことを阻まれている事実にある。

 悩みがあろうとなかろうと、幸福であろうと不幸であろうと、人間の行為がこの三つに収まることは変わりがない。

 一方には豪華なソファに座る人がいて、他方には擦り切れた畳の上で胡座(あぐら)をかく人がいる。資本主義というマネー教に毒された我々は所有でもって人を測る。だが「座る」ことに変わりはない。つまり「座る」という姿こそが真理なのだろう。

 後期仏教(いわゆる大乗)は絢爛(けんらん)たる理論を張り巡らせ、「宇宙の神秘」を説くことでヒンドゥー教再興に抵抗したというのが私の見立てである。結果的にブラフマンアートマンを採用した(梵我一如)ことからも明らかだろう。

 この神秘主義はなかなか厄介なもので、スピリチュアリズムと言い換えてもよいだろう。後期仏教を密教化と捉えれば神秘主義が浮かび上がってくる。そこには必ずエソテリズム(秘伝・秘儀)の要素が生まれる。

 人間の脳は論理で満足することがない。どこかで不思議を求めている。ミステリーがマジックと結びつくと人は容易に騙される。宗教・占い・通販の仕組みは一緒だ。「物語の書き換え」によって人間を操作する。大衆消費社会を維持するのは広告なのだ。

 歩く、座るといった振る舞いに何かが表れる。颯爽と歩く人には風を感じるし、猫背でとぼとぼと歩く人には暗い影が見える。小学生の歩く姿をよく見てみるといい。悩みがある子は直ぐにわかるものだ。

 これに対して幼児はほぼ全員が歩くこと自体を喜びと感じている節(ふし)がある。だから見ているだけでこちらまで楽しくなってくる。きっと立った瞬間に、また歩いた瞬間に脳は激変している。そりゃそうだ。「見える世界」が変わったのだから。二足歩行を始めた人類の歴史が窺える。

「人生とは単純なものだ」と決めてしまえば、心の複雑性から解き放たれる。怒り、嫉妬、憎悪を生むのは心である。そこに宗教や思想が火をつけ、油を注ぐことも珍しくはない。

 我々は「自分の人生」を失ってしまった。他人に操作された人生を送るがゆえに争いの人生を強いられている。決して心が安らぐことがない。絶えず不安の波が押し寄せる。

 今、大事だと思っていることが、年を重ねるに連れてそうでもないことに気づく。手放せるものはどんどん捨ててしまえ。不要な物を捨て、不要な欲望を捨て、最後は自我まで捨ててしまえというのがブッダの教えである。

【追記】竹内敏晴は「人間が生きている、ということは、基本的には『立って』動いていることである」と指摘している(『ことばが劈(ひら)かれるとき』)。とすれば、人の行為は大別すれば、寝るか・起きるかに分けることができそうだ。

2014-11-30

欲望と破壊の衝動/『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ


『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・欲望と破壊の衝動

『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 ある人に「この世の中を支配している主人は誰ですか?」と聞かれたとき、お釈迦さまは「神様です」とは言わず、いとも簡単にこう答えました。

(※以下原文略)チッテーナ・ニーヤティ・ローコー

 チッテーナとは「心に」「心によって」という意味です。「心が行っているのだ」ということです。
 ニーヤティとは「導かれる」という意味です。
 ローコーというのは「衆生」、つまり「世界や世の中」「生けるもの」ということで、人々や生命を意味します。
 全体では「心が衆生を導く」「衆生は心に導かれる」という意味になります。
 つまりお釈迦さまは、「生命は心に導かれ、心に管理されている。心に言われるままに生命は生きていて、心という唯一のものに、すべてを握られている」と答えたのです。
 私たちは結局、「心の奴隷」なのです。私にはなんの独立性もないし、自由に生きてもいません。
 ですから、「仏教の神はなんですか?」と聞かれたら、私なら「心です」と答えます。「逆らえない」という点では、心は一神教的な神と同じだからです。

【『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)以下同】

 世の中とは人々の心の反応がうねる大河のようなものなのだろう。心は鏡であり、鏡に映ったものが世界であると考えてよい。各人の鏡は曇り、汚れ、ひん曲がっている。一人ひとりの価値観・執着・個性によって。世界とは目の前に存在するものではなくして世界観なのだ。それゆえ我々には見えていないものがたくさんある。優れた教えに触れると、曇りが除かれ心に光が射(さ)し込む。

 心の特徴を、もうひとつ紹介しましょう。
 心は、思い通りにならないと、反対の行動をします。好きなもの、欲しいものに向かって走ることを邪魔されたら、ものすごく破壊的になって、恐ろしいことをするのです。
 人間はいつも何かしら希望や目的があって、それを目指して生きています。
 でも、突然その目的が達成できなくなることもよくありますね。そうすると心はものすごいショックを受けて、破壊の道に走ってしまうのです。「得られないんだったら、いっそぜんぶ壊してやろう」という気持ちです。

 片思いがストーカー行為に変貌する。紙一重のところで愛憎が入れ替わる。陳列棚の前で駄々をこねる子供だって、欲しい物を買ってもらった途端、親に愛情を示す。人間の心は欲望と破壊の衝動に支配されている。ここをよく考える必要がある。考えるというよりも見つめることが相応(ふさわ)しい。瞑想だ。

 自分の希望や願望をひたと見つめる。なぜそれが必要なのか。それが無理だとわかったら自分はどう変わるのか。我々が求めてやまないのは結局のところ「成功」である。「他人からの評価」と言い換えることも可能だ。

「人間が生きる」ということは、「好きなものを得るために行動する」「得られないものや邪魔するものはぜんぶ壊す」のいずれかです。我々の日常生活は、この二つのエネルギーに支配されているのです。

 ああ、これが欲望の正体なのだな。犯人は「自我」である。グラデーションの濃淡はあれども我々の行動はここに収まる。そして人間の生き方を集約する国家もまた同様のエネルギーに支配されている。戦争こそは欲望の最たるものだろう。

 世にある犯罪のほとんどは、希望がかなわないときに起こる破壊的なエネルギーが原因です。

 絶妙な指摘だ。高齢者の万引きも破壊的な衝動と考えれば腑に落ちる。

 心理学の世界では、破壊的なエネルギーで動くことを「病気」とはいいません。「あの人はいろいろなところで負けたけれど、よく闘って頑張っている。行動的で偉い」と、むしろほめるのです。
 ですが仏教的に見れば、それも結局は危ない病気です。「闘う心」は、「ある意味では勝利への希望に満ちた状態」ともいえるのですが、もし闘えないときはどうなるでしょうか?
 他人を害する破壊的な行為には、力が必要です。力が足りない場合は、力が内向きになって、ひきこもりになったり、自殺願望を引き起こしたりすることになります。「嫌な状況をぶち壊したい。他人を破壊したい。でも、できない」というとき、人間は自分自身を破壊してしまうのです。手榴弾を相手に投げようと安全ピンを外したものの、そのまま持っているようなものです。10秒後くらいには自分が死んでしまいます。
 うつ病とか統合失調症とか、いろいろな言葉で表される精神的な病気も、もとをたどればぜんぶ「怒りのエネルギー」です。自分の心でつくった毒で、自分を殺しているのです。

 資本主義は自由競争を旨(むね)とする。競争とは戦いであり他人を蹴落とすことでもある。この社会では「より多くの他人を蹴落とした人物」が勝利者と見なされる。文武の二道は競争ではない。力や技の優劣よりも心の姿勢が問われる(『一人ならじ』山本周五郎)。これに対してスポーツは完全な競争である。

 会社も学校も人々を競争に駆り立ててやまない。なぜなら、競争すればするほどあいつらは儲かるからだ。今時は文化や宗教だって競争だよ。売れてなんぼの世界だ。

 スマナサーラの言葉は深遠な仏教哲理に貫かれているがこの部分は危うい。特に統合失調症については鵜呑みにしてはならない。かような「軽さ」を見極めた上でスマナサーラ本を読むべきだ。ま、精神科医が信用できるかといえば、決してそうではないわけで、どっちもどっちというレベルと考えればよい。完璧な人間はいない。大目に見てやれ。


統合失調症への思想的アプローチ/『異常の構造』木村敏

2014-10-07

「六師外道」は宗教界の革命家たち/『沙門果経 仏道を歩む人は瞬時に幸福になる』アルボムッレ・スマナサーラ


『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「六師外道」は宗教界の革命家たち

 これらの先生方は「六師外道」といわれる人たちです。仏教では、六師外道を「仏教以外の教えを説いている6人の先生」という程度の意味で使っています。でもここに登場する人々は、外道という蔑称で簡単に切り捨てられるものではありません。本当は、インドの当時の宗教世界の革命家として、厳密に考えなくてはいけない人々だったのです。
 その先生方の教えは、我々がインドの宗教として知っているヒンドゥー教のような生ぬるい教えではありませんでした。ヒンドゥー教のもとであるバラモン教は、当時の人々の生活に深く浸透していました。土台であって、かなり根深いものだったのです。そんな中で大胆な教えを説いて宗教革命を起こしたのが、これらの人々です。バラモン教の悪弊に縛られて苦しんでいた社会に天才たちが現れ、とてつもないことを言って人々の目を覚ましてしまったのです。

【『沙門果経 仏道を歩む人は瞬時に幸福になる』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ、2009年)】

 仏教が内道であるのに対し仏教以外の教えを外道という。これが敷衍(ふえん)して「道に外れた者」を外道と呼ぶに至った。現在ではプロレスラーの名前にまでなっている。私の印象では鎌倉仏教も六師外道を異端として扱っているように思う。

 ヒンドゥー教の六派哲学六師外道が対応しているならば、ヒンドゥー教をテーゼとして正反合が成り立つのだろうか? ブッダの場合は当然、止揚ではなく中道だが。

 もちろん私も本書で初めて六師が宗教的天才であり革命家であったことを知った。ただしスマナサーラの筆は勢いあまって「生ぬるい」とか「とてつもない」などと軽々しく余計な表現を盛り込んでいることに注意する必要がある。大体「人々の目が覚めた」ならばブッダの登場は不要だ

 大いなる懐疑の時代を経てブッダが誕生したと考えればよかろう。諸学説を六十二見にまとめて説いたのが梵網経である。

梵網経の検索結果

 ティク・ナット・ハン著『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』で私は六十二見を知った。近いうちに紹介しよう。

2014-07-14

無我/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 シッダールタは、心とも体とも別の自己――すなわち、アートマン(我)――という考えを超え、ヴェーダで提唱されている誤ったアートマンの考え方の虜になっていた自分に気づいて唖然とした。実在の本質はわかれてはいない。無我――すなわち、アナートマン――こそが存在するすべての本質だった。アナートマンは何か新しい実在を表す言葉ではなく、すべての謬見を破壊する雷のごときものであった。シッダールタはあたかも瞑想の戦場で、無我を旗印に、洞察という名刀をふりかざす将軍のようであった。昼も夜もピッパラ樹の下に坐りつづけ、新しい気づきが稲妻の閃光のように次々と解き放たれていった。

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】

 出家したシッダールタは二人の師につくがやすやすと無所有処に至り、驚くべきスピードで非想非非想処(天界の最上位である有頂天)をも体得した。

2.ゴータマ・ブッダの出家と修行
非想非非想処と涅槃
滅尽定とニルヴァーナ

 悟りには明確な段階があるのだ。

 傍目からはなかなか判断できませんが、それぞれの段階の悟りを開いた人は、自分では自分がどの段階に悟ったか、よくわかるようです。それだけ明確な悟りの「体験」と、それによる心の変化が、悟りの各段階にあるからです。

【『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃(サンガ新書、2009年)】

 諸法無我を悟った瞬間が劇的に描かれているのだが致命的な誤りがある。「無我――すなわち、アナートマン――こそが存在するすべての本質だった」――いくら何でも「本質」はないだろう。たぶん翻訳ミスだと思われる。アナートマンとは否定語のアン+アートマンで無我・非我と訳す。訳語としては非我が相応しいような印象を受けるが、非我だとまだ我の存在を払拭できていない。ゆえに無我が正しいと私は考える。

梵我一如と仏教の関係

 デカルトは徹底した思索の果てに我を見据えた。ブッダは瞑想の果てに我を解体した。我は錯覚であり妄想であった。トール・ノーレットランダーシュは意識の正体を「ユーザーイリュージョン」と喝破した。

「私が存在する」という感覚から欲望が生まれる。人生の悩みは一切が私に基づいている。つまり私とは、神・幽霊・宇宙人に匹敵する錯覚なのだ。生はただ縁りて起こるものだ(縁起)。生は川の流れのように一瞬もとどまることがない。そこに「変わらざる自分」を見出すところに凡夫の過ちがある。自分から離れて、ただ生の流れに身を任すことが自然の摂理にかなっている。インディアンは確かにそういう生き方をしていた。

2014-06-15

所有と自我/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳

 ・犀の角のようにただ独り歩め
 ・蛇の毒
 ・所有と自我
 ・ブッダは論争を禁じた

『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ



「お前は何を持っているのだ?」――我々は社会で常に問われる。出自、学歴、職業(勤務会社)、スキル(資格・技術)、地位、財産、家族を。社会はヒエラルキーを構成する。相手の位置を常に確認するのが我々の流儀だ。

「ひとはじぶんでないものを所有しようとして、逆にそれに所有されてしまう。より深く所有しようとして、逆にそれにより深く浸蝕される。ひとは自由への夢を所有による自由へと振り替え、そうすることで逆にじぶんをもっとも不自由にしてしまうのである」(『悲鳴をあげる身体』鷲田清一)。所有物が自我を形成する。思い出の品が私を規定する。認知症になれば記憶は瓦解する。私が私であることを証明するのは思い出の品に他ならない。物は残せる。私が死んだ後まで。

 マニアを証明するものはコレクションだ。そんな関係と似ている。コレクションが増えるにつれてこだわりも増す。年を重ねるごとに自我意識も強化されるはずだ。私とは私の過去だ。

 ヒエラルキーを登り詰めることが人生の目的であれば、我々はバラモンを目指していると見ることができよう。バラモンとはインドカーストの最高位であり、高貴・有徳を示す。

 バーラドヴァーシャ青年は「生まれによってバラモンとなる」と主張した。これに対してヴァーセッタ青年は「戒律と徳行によってバラモンとなる」と反論した。結論を出せない二人はブッダを訪れ、問うた。

六二〇 われは、(バラモン女の)胎(はら)から生まれ(バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは〈きみよ、といって呼びかける者〉といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二一 すべての束縛(そくばく)を断(た)ち切り、怖(おそ)れることなく、執著を超越して、とらわれることのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二二 紐(ひも)と革帯(かわおび)と綱とを、手綱(たづな)ともども断ち切り、門をとざす閂(障礙〈しょうげ〉)を滅して、目ざめた人(ブッダ)、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二三 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二四 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二五 蓮葉(はちすば)の上の露のように、錐(きり)の尖(さき)の芥子(けし)のように、諸々の欲情に汚(けが)されない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二六 すでにこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り、重荷(おもに)をおろし、とらわれのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二七 明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的を達した人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二八 在家者(ざいけしゃ)・出家者(しゅっけしゃ)のいずれとも交わらず、住家(すみか)がなくて遍歴(へんれき)し、欲の少い人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二九 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さず、また殺させることのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三〇 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあって執著しない人、──かれをわたし(ママ)は〈バラモン〉と呼ぶ。

六三一 芥子粒(けしつぶ)が錐(きり)の尖端(せんたん)から落ちたように、愛著(あいじゃく)と憎悪(ぞうお)と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三二 粗野(そや)ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人(なんぴと)の感情をも害することのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三三 この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうとも粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも、すべて与えられていない物を取らない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三四 現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

六三五 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑(ぎわく)なく、不死の底に達した人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三六 この世の禍福(かふく)いずれにも執著することなく、憂(うれ)いなく、汚(けが)れなく、清らかな人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三七 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三八 この障害・険道・輪廻(りんね〈さまよい〉)・迷妄(めいもう)を超(こ)えて、渡りおわって彼岸(ひがん)に達し、瞑想し、興奮することなく、執著がなくて、心安らかな人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三九 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四〇 この世の愛執(あいしゅう)を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生活の尽きた人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四一 人間の絆(きずな)を捨て、天界の絆を超え、すべての絆をはなれた人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四二 〈快楽〉と〈不快〉とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った健(たけ)き人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四三 生きとし生ける者の死生をすべて知り、執著なく、幸せな人、覚(さと)った人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四四 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方(ゆくえ)を知り得ない人、煩悩(ぼんのう)の汚れを滅しつくした人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四五 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、すべて無一物で、何ものをも執著して取りおさえることのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四六 牡牛(おうし)のように雄々(おお)しく、気高(けだか)く、英雄・大仙人・勝利者・欲望のない人・沐浴(もくよく)した者・覚った人(ブッダ)、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四七 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を減し尽くすに至った人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四八 世の中で名とし姓として付けられているものは、名称にすぎない。(人の生まれた)その時その時に付けられて、約束の取り決めによってかりに設けられて伝えられているのである。

六四九 (姓名は、かりに付けられたものにすぎないということを)知らない人々にとっては、誤った偏見が長い間ひそんでいる。知らない人々はわれらに告げていう、『生れによってバラモンなのである』と。

六五〇 生れによって〈バラモン〉となるのではない。生れによって〈バラモンならざる者〉となるのでもない。行為によって〈バラモン〉なのである。行為によって〈バラモンならざる者〉なのである。

六五一 行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって傭人(やといにん)となるのである。

六五二 行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者となり、行為によって王ともなる。

六五三 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起(えんぎ)を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。

六五四 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。――進み行く車が轄(くさび)に結ばれているように。

六五五 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、――これによって〈バラモン〉となる。これが最上のバラモンの境地である。

六五六 三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は、諸々の識者にとっては、梵天や帝釈[と見なされる]のである。ヴァーセッタよ。このとおりであると知れ。

 このように説かれたので、ヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年とは師に向って言った、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。ゴータマさま。譬(たと)えば、倒れた者を起こすように、覆(おお)われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るように』といって暗夜に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで理法を明らかにされました。いまわたくしはゴータマさまと真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまはわたくしたちを、在俗信者として受けいれてください。わたくしたちは、今日から命の続く限り帰依いたします。」(第三 大いなる章「九、ヴァーセッタ」)

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)以下同】

 話を戻そう。我々が目指しているのはバラモンより前の段階の金持ち・成功者・有名人であろう。つまり「王」になりたがっているのだ。バラモンはその上に位置する。そしてブッダが説いたバラモンは世間で受け止められているバラモンとは明らかに異なる。これこそブラフマンではなくブッダ(仏)なのだ。随所に如来十号が散りばめられていることからも明らかだ。

 ヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年は「人間の位」を問うた。それに対してブッダは「真実の位」を説いた。ヴァーセッタ青年は「それ見たことか、俺の言った通りだろうよ」とは言わなかった。二人は同じ感激に打ち震えている。そして彼らの目は開いた(目覚めた)。

一三六 生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為(こうい)によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。(第一 蛇の章「七、賤しい人」)

「七、賤しい人」には資本主義のあらゆる形態が描かれている。

「生れ」とは過去である。地位・名誉・財産も過去を示すものだ。すなわち我々は常に「相手の過去」を見つめているのだ。これによって現在の行為は過小評価・拡大解釈をされる。ブッダの指摘は「過去の完全否定」を意味する。

「発見するためには、自由がなければならない。もしもあなたが束縛され、重荷を背負っていたら、あなたは遠くまで行けない。もしもある種の蓄積があれば、いかにして自由がありうるだろうか?」(『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ)。財産であれ悩みであれ荷物であることに変わりはない。「私」を成り立たせている過去が私自身を束縛するのだ。二人の青年と同じように目を開けば、まったく新しい過去の延長線上ではない現在が生き生きと流れ始める。

 殆どの聖職者や僧侶が王を目指した。彼らは俗人以上の俗人だ。クリシュナムルティは王になろうとはしなかった。弟子やファンをも拒んだ。

 ヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年がブッダの弟子ではなかったことにも注目する必要がある。ブッダには誰でも会うことが可能であった。クリシュナムルティもそうだ。彼らは一切の差別からも自由であったのだ。

 尚、文庫版はあまりにも活字が小さいため、当ブログではワイド版をお薦めする。

 

2014-05-30

何も残らない/『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ



『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・何も残らない
 ・生きるとは単純なこと

『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也

1月22日 何も残らない

 人類の文明そのものが、「私は死なない」というウソを前提にしてできています。
「死なない」という思いから、名誉や財産を自分のものにしようとします。他国を征服した指導者は、自分の銅像を建てたりして、永遠に自分が存在し続ける気持ちになるのです。しかし、栄華を極めたローマ帝国と同じで、何ひとつ残りません。
 名誉や財産をたくさんもっていても、みじめに死んでしまう。最期は墓場です。
 事実を認めて、「みんな死ぬ」という前提で生きれば、日々美しく平和に暮らそうということになります。

【『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ(PHPハンドブック、2008年/PHP文庫、2017年)】

 仏教には南伝と北伝がある。日本に伝わったのは北伝ルートで大乗を標榜する(大衆部〈だいしゅぶ〉)。これに対して南伝ルートでスリランカ・タイ・ミャンマーなどの出家教団に受け継がれたパーリ語経典の教えをテーラワーダ仏教(上座部〈じょうざぶ〉)と呼ぶ。

 日本などいわゆる大乗仏教の諸国では、お釈迦様の初期経典に説かれたヴィパッサナーなどの実践方法が伝わってきませんでした。そのために思弁哲学の学問仏教、あるいは現世利益信仰や儀式儀礼の呪術的宗教になってしまった面もあります。テーラワーダ仏教はいわゆる「小乗」とも「大乗」とも無縁です。ただお釈迦様の説かれた教えとその実践方法の一つ一つを、当時のまま、今日まで伝えてきた純粋な体系なのです。

テーラワーダ仏教とは?:日本テーラワーダ仏教協会

 スマナサーラ長老の言葉は平易である。理屈をこね回すような姿勢がどこにもない。大衆部の教義が絢爛(けんらん)を目指して複雑化したのに対して、上座部は初期経典に忠実であることに努め、極めてシンプルな教えだ。日本の仏教界に必要なのは初期経典に照らして大衆部の政治的欺瞞を取り除くことであろう。

 キリスト教には永遠という概念がある。スケールは異なるが日本では「名を残す」という考え方が根強い。「最期は墓場です」とあるが、墓そのものが死後にも名を残そうと企てる人間の哀しい所業だ。我々は誰かに思い出される存在であることを望み、より多くの人々に死を悲しんでもらいたがる。自分はいないのに。

 文明の発達は個々人の欲望を掻き立て、人間の細断化を促した。そして私は死んでも私の所有物は残る。文字の発明によって生前の経験や思考をも記録として残せるようになった。今では音声や映像まで残せる。アメリカの非営利団体アルコー延命財団では遺体の冷凍保存を行っている。子孫を残すのも自分の分身と考えればわかりやすい。文明は不老不死を目指す。死んだ人々を置き去りにしながら。

 多くの人々が望む地位・名誉・財産も一緒であろう。極めるとピラミッドや古墳に落ち着きそうだ。

 スマナサーラは我が身を飾る一切のものを「かぶり物」だと本書で指摘している。何ということか。我々の人生そのものがコスプレと化していたのだ。大事なのは何をやったかよりも、勲章であり賞状でありメダルなのだ。功成り名を遂げて周囲の連中を睥睨(へいげい)しながら黒い満足感に浸っている中で死を見失ってゆく。彼の幸福とおもちゃやお菓子を与えられた子供の幸福に違いはあるだろうか?

 100年後を思え。今生きている人の99%は死んでいることだろう。そう考えると道で擦れ違う見知らぬ人にも親切な気持ちが湧いてくる。争っている時間などないはずだ。

2014-05-29

八正道と止観/『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良


 仏教の実践は梵行(ぼんぎょう)と呼ばれます。それは清浄(しょうじょう)な行であり、「三学」(さんがく)をその内容としております。三学とは戒・定・慧(かい・じょう・え)の学び、実践です。仏道の根本である「八正道」(はっしょうどう)にほかなりません。すなわち正見(しょうけん)・正思(しょうじ)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうしょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)という中正の道、一語で言えば「中道」です。「戒」は正語・正業・正命の道に、「定」は正精進・正念・正定の道に、「慧」は正見・正思の道に相当します。
 仏教には、このような三学、八正道という生活全体にかかわる重要な実践があり、その八正道を含む三十七菩提分法(さんじゅうしちぼだいぶんぽう)という法、実践の体系もあります。そしてまた、坐を中心とした「止観」(しかん)と呼ばれる瞑想の修習(しゅじゅう)、実践があります。
 止観とは、すなわち止の修習と観の修習です。「止」(śamatha サマタ)は、諸煩悩を寂止(じゃくし)させる心の修習、またはその静まりをいいます。「定」の因であり、心が一点に集中する心一境性(しんいっきょうしょう)を本質とします。それに対して「観」(vipaśyanā ヴィパッサナー)は、三界(さんがい)における身心(しんじん)の相(無常〈むじょう〉・苦〈く〉・無我〈むが〉)を観察し、道(どう)・果(か)・涅槃にいたる智慧の修習、またはその智慧をいいます。苦の生滅を知る智慧、「慧」の因であり、知る慧を本質とします。たとえば、釈尊はつぎのように説いておられます。

「あらゆる行は無常なり、と 智慧をもって観るときに
 かれは苦を厭(いと)い離れる これ清浄(しょうじょう)にいたる道なり」(『法句』277)
「あらゆる行は苦なり、と 智慧をもって観るときに
 かれは苦を厭い離れる これ清浄にいたる道なり」(『法句』278)
「あらゆる法は無我なり、と 智慧をもって観るときに
 かれは苦を厭い離れる これ清浄にいたる道なり」(『法句』279)

と。

 これは「観」という「清浄にいたる道」を示されたものです。智慧によって諸行(しょぎょう)の無常、苦を見るとき、また諸法の無我を見るとき、苦を離れる。苦は苦でなくなる。生死(しょうじ)という輪廻の苦は、すなわち輪転の苦のない涅槃である、と言われたものです。苦は苦であり、苦でない、というのです。
 この観は『大念処経』に説かれる最上の実践であり、智慧でもあります。

【『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良〈かたやま・いちろう〉(大法輪閣、2012年)】

 文章に臭みがあり、いかにも坊さんっぽい。片山は駒澤大学教授で精力的にパーリ語仏典を翻訳している人物だ。

「智慧をもって観る」とはクリシュナムルティが説く「ありのままに見る」行為でもある。「観察者は、同時に観察されるものだ。そこに正気があり全体があり、神聖なものとともに、愛がある」(『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ)。

瞑想とは何か/『クリシュナムルティの瞑想録 自由への飛翔』J・クリシュナムルティ
瞑想は偉大な芸術/『瞑想』J・クリシュナムルティ
現代人は木を見つめることができない/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
クリシュナムルティの悟りと諸法実相/『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ

 片山は曹洞宗(そうとうしゅう)寺院の住職を務めているようだ。悪臭の原因がわかった。パーリ語経典の禅宗的解釈によるものだ。つまりブッダの言葉を利用する根性がどこかにある。宗教の「宗」の字は中心・根本の意である。片山は根本がズレている。

パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ―『大念処経』を読む
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止観/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

2014-03-19

クリシュナムルティの三法印/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムルティ


クリシュナムルティはアインシュタインに匹敵する
コミュニケーションの本質は「理解」にある
クリシュナムルティ「自我の終焉」
・クリシュナムルティの三法印

 ですから、非難もせず、正当化もせず、自己を他のものと同一化もせずに、【あるがままのもの】を【あるがまま】に認識したとき、私たちはそれを理解することができるのです。自分自身がある一定の条件と状況のもとに置かれていることを知ることが、すでに自己解放の過程にあるということです。これに反して、自分が置かれている条件や、内なる葛藤を自覚していない人間は、自分とは別の人間になろうとして、その結果、それが習慣になってしまうのです。そういうわけですから、ここで次のことを銘記しておきましょう。私たちは【あるがままのもの】を【あるがままに】考察し、それに偏向を加えたりせずに、実際にある通りのものを観察し、認識したいのだということを。【あるがままのもの】を認識し追求していくためには、きわめて鋭敏な精神と柔軟な心を必要とします。というのは、【あるがままのもの】は絶え間なく活動し、絶えず変化し続けているからなのです。そしてもし精神が、信念や知識というようなものに束縛されていたりすれば、その精神は追求をやめ、【あるがままのもの】の素早い動きを追わなくなってしまいます。【あるがままのもの】は、決して静的なものではなく、厳密に観察してみると分かるように、絶えず活動しているのです。そしてその動きについてゆくには、非常に鋭敏な精神と柔軟な心の働きが必要なのです。ですから精神が静止していたり、信念や先入観に囚(とら)われていたり、自己を対象と同一化してしまっていると、そのような働きが出てこないのです。また干からびた精神や心は、【あるがままのもの】を素早く敏捷に追っていくことができません。

【『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ:根木宏〈ねぎ・ひろし〉、山口圭三郎〈やまぐち・けいざぶろう〉訳(篠崎書林、1980年)以下同】

 諸法実相を覚知するためには諸法無我が前提となり、あるがままのものは諸行無常である。つまり諸法の実相を見ることが涅槃寂静なのだ。専門用語をひとつも使うことなく三法印をあますところなく説いている。

 ブッダとクリシュナムルティの不思議なる一致に私は恐れをなす。仏とはたぶん人を意味するのではない。それは「現象」なのだ。法が人の姿を通して現れた現象なのだろう。我々の瞳は光を捉えることができない。目に映るのは可視光線だけだ。月光や稲妻は塵(ちり)などに当たった光の反射であろう。ブッダとクリシュナムルティは人類にとって光であった。それゆえ「捉えた」(=わかった)と錯覚してはなるまい。

 我々は「【あるがままのもの】を【あるがまま】に認識」できない。その事実が延髄に衝撃を走らせる。アントニオ猪木の蹴りでさえ、これほどの衝撃を与えることはできない。私は「私」というフィルターを通して世界を見ているのだ。色眼鏡は暗く、鏡は歪んでいる。思考・解釈・類推が私の世界だ。不幸な者にとって世界は忌むべき対象であり、幸福な者にとっては揺りかごみたいな場所なのだろう。

 では「私」を通すことなく世界を見つめることは可能だろうか? 「可能だ」とクリシュナムルティは説く。ならばグズグズ理屈をこねることなく実践しようではないか。諸法無我に至った時、諸法実相が見える。その内容は『クリシュナムルティの神秘体験』に詳しく描かれている。

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2014-02-23

怒りの終焉/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・怒りの起源
 ・感覚は「苦」
 ・怒りの終焉

『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

「幸福」「幸せ」「楽しみ」というのは妄想観念です。なぜかというと、「生きることは苦」ですから、「幸福」「楽しみ」は、本当は経験したことがないのです。
 われわれはお腹が空くと苦しいから「嫌だ」と思います。そのとき、おいしいものを食べることが幸福だと思って、食べ物に飛びつきます。あるいは、子どもたちは好きなマンガやゲームを買ったりできれば幸せだと思ったりします。大人になっても同じです。お金に幸せあり。名誉に幸せあり。なにかの記録をつくることに幸せあり。人気があること、有名になることに幸せあり。権力に幸せあり。からだを美しく見せることに幸せあり……限りなく挙げることができます。
 このような生き方を、ブッダは、「それは智慧のない世間が探し求める道である」と説きます。「これがあれば幸せ」というのは、ぜんぶ「嫌だ」という気持ちから出発しているのです。

【『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年/だいわ文庫、2021年)以下同】

 さ、書けるうちにどんどん書いてしまおう。ツイッターにうつつを抜かしている場合ではないぞ(笑)。

 現代人は幸福病に冒されている。我々は不幸を実感しやすい環境にあるのだろう。そもそも幸福という言葉は明治期の翻訳語であると思われる。元々「幸せ」は「仕合わせ」と書き「巡り合わせ」を意味した。すると生命の次元においては苦楽が本質なのだろう。たぶん幸福を産んだのは大量生産だ。

「これがあれば幸せ」というのが前々回に書いた「気分が良くなる条件」である。人は特定の条件下で幸福感を覚える。つまり無条件に怒りを抱えているのだ。「幸せになりたい」との願望が現在の不幸を雄弁に語る。幸せを誓った男女が幸せになることも少ない。限りなく少ないな(笑)。ま、幸せをチラつかせるような相手は最初っから信用しないに限る。

「生きることは苦」であり、人は苦から別の苦へ乗り換えているだけ。一度も幸福になったことはありません。経験していない「幸福」をイメージすることはできません。ですから、勘違いの幸福を求めているのです。
「嫌だ」という怒りから、勝手に自分が「幸福」だと思っているものを求めます。その結果どうなるかというと、幸せになるどころか、逆に苦しみ増えるのです。
 本当なら、求めるものを獲得すれば幸せになるはずですが、世間の幸福を求め続けるなら、どんどん苦しみが増えてしまいます。

「苦から別の苦へ乗り換えているだけ」との指摘が鋭い。チビがノッポになり、ハゲ頭がフサフサになり、出っ歯が矯正され、ブスが美女(あるいはブ男がハンサム)になり、病気が治り、老婆(あるいはジジイ)が若返ることが我々の幸福だ(女性差別とならぬよう配慮をした)。だったら後者は元々幸福なはずだろう。しかしそうは問屋が卸さない。皆が皆、それぞれの幸福を追い求めながら不幸をひしひしと感じているのだ。

 苦しみが増えるとは幸福の条件が増えることだ。幼い頃はキャラメル一粒でも幸せになれた。大人の場合そうはいかない。自動車の運転免許が欲しい、自動車が欲しい、もっと大きな自動車が欲しいと際限なく欲望は肥大する。で、ベンツを買った翌日に誰かをひき殺してしまえば、もう何のための人生かわからない。

「このシステムはなんなのだ?」と、とことん現象のあり方を観察してみると、瞬間、瞬間、ものごとが消えていることに気づくのです。滝のように、泡のようにはじけてはじけて、次々に新しい現象が生まれている。「なんだ、そんなものか」とわかるのです。「それならしがみついたって価値がないだろう」と諦めて、無執着の心が生まれるのです。それを仏教は「覚(さと)り」と呼びます。「覚り」にいたる道こそが、聖なる道なのです。「覚り」に至ることで、一切の苦しみがなくなるのです。それが運命的な怒りの終焉でもあります。

 これが諸行無常であり、である。そして諸法無我と悟れば涅槃寂静となる。怒りから希望へ向かう時、欲望が生じる。三悪趣(地獄、餓鬼、畜生)に三毒を対応すれば、瞋(いか)り→地獄、貪り→餓鬼、癡(おろ)か→畜生である。不幸の構図としてこれにまさる生命の実相はあるまい。

 日蓮は「当(まさ)に知るべし、瞋恚(しんに)は善悪に通ずる者也」(『諌暁八幡抄』)と説いた。日本の中世における個人意識の芽生えと受け止めることも可能だが、私はここに日蓮の限界があったと思う。似たようなことは三木清も言っている(『人生論ノート』)。日蓮が比叡山(延暦寺)で学んだのは天台ルールであった。折伏(しゃくぶく)という言論活動はディベートの様相を呈しており、日蓮は火を吐くように言葉を放った。彼は怒れる人であった。そこに弟子たちが分断・分裂を繰り返す要因があったのだろう。日蓮系教団がいつの時代も混乱に陥るのは日蓮の怒りに由来していると思われる。

 怒りは暴力への扉でもある。大虐殺も小さな怒りから始まる。怒りを正当化する思想を恐れ、忌避せよ。正義の名の下で人類が残虐の限りを尽くしてきた歴史を忘れてはなるまい。

2014-02-22

感覚は「苦」/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・怒りの起源
 ・感覚は「苦」
 ・怒りの終焉

『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 立っていても苦痛です。座っていても苦痛です。ちょっと走るのも、走り続ければ苦痛になります。「今日は疲れたから」といって寝たとしても、寝過ぎればやはり苦痛です。
 食事も同じです。ちょっとお腹が空いたら、「空腹」という苦痛を感じます。だからといってごはんを食べ過ぎるとこれまたお腹がいっぱいで苦痛です。
 ですからはっきりしています。感覚は「苦」なのです。

 生きることは「感覚があること」、そしてその感覚は「苦」なのです。そして、この「苦」が消える瞬間はありません。ただ変化するだけです。
 たとえば、1時間ぐらい座っていると腰が痛くなってしまいます。そこで立ったら、立った瞬間は「ああ、楽になった」と思うかもしれませんが、実際に起こっていることというのは「座っている苦」から「立っている苦」への変化です。一瞬、それまでの「座っている苦」が消えますから、幸福に感じるかもしれませんが、それは勘違いです。ただ、新しい「苦」に乗り換えただけのことです。
 私達は瞬間、瞬間に、「苦」という感覚を味わっているのです。

 私たちは、いつも「苦」のなかにいます。しかし、ふだんは「苦」を感じていることに気づいていません。「とても苦しい」という感覚が起こって、はじめて苦痛を感じるのです。たとえば、お腹が空いても、ほんのちょっとの空腹だったら気にしないでしょう? ずっと放っておいて今にも倒れそうだったり、飢え死にするかもしれない状態になったりすれば、かなりの苦痛を感じます。
 それは、私たちに訪れる絶え間ない「苦」は、ある程度、大きくならないと気にならないというだけのはなしです。「苦」のレベルを表示するメーターがあって、そこに苦を認識する赤い水準線が付いているようなものです。絶え間ない「苦」がある程度大きくなって、赤いラインより上に振れたときにはじめて気にする、それまでは気にしないというはなしなのです。実際は「苦」のメーターがゼロになることはありません。

【『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年/だいわ文庫、2021年)以下同】

 多少を問わず仏教の知識がある人ならスマナサーラの卓越した説明能力がわかることだろう。しかも一読すればその説明能力が才覚ではなく、初期仏教(=上座部)の教えから導かれたものであることが理解できる。テーラワーダ仏教シャム派)は和製仏教(平安仏教および鎌倉仏教でありその実体は密教)を揺るがす破壊力を秘めている。


 八正道(はっしょうどう)よりも四諦(したい)の重要性を示したのは馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』春秋社、2008年)だ。

・苦諦(くたい):この世界は苦しみに満ちていると明らかにする
・集諦(じったい):苦の原因がなんであるかを明らかにする
・滅諦(めったい):苦の原因を滅すれば苦も滅することを明らかにする
・道諦(どうたい):苦の滅を実現する道を明らかにする

Wikipedia

 三車火宅の譬えで知られる法華七譬(ほっけしちひ)も元来は苦諦を示すものであったと推察される。だが大衆部(だいしゅぶ)は自らを「大きな乗り物」(=大乗)と位置づけるために「希望」を語って(=騙〈かた〉って)しまった。希望というプロパガンダは悟り(=自由)から離れて幸福を目指す。仏道修行は幸福実現のための手段と化した。これが和製仏教の実態であろう。

 仏法は個人(自分)の苦と向き合うところに基本がある。にもかかわらず大衆部は菩薩道などと称して布教を励行した。悟りから離れた人物の騙る希望が誤ったコースに導くことは避けようがない。

 生の本質は「苦に対する反動」である。何と重い指摘か。我々は「生きたい」から生きているのではなくして、「苦しみたくない」から生きているだけなのだ。何だか急に人生がつまらないものに思えてきた(笑)。

 生きるという仕事は、あらゆることすべてが「苦」と「苦は嫌」という働きで成り立っているのです。
 つねに無常で変化し続ける「苦」という感覚があり、その「苦」の感覚が嫌で、「変えなくちゃいけない」という希望があります。その二つの働きが「生きること」になるのです。
 もし、「苦は楽しい」と思ったら、死んでしまいます。ですから、「苦は嫌だ」と思わないと生きていられません。この「嫌だ」という反応が「怒り」です。これがいちばん基本的な怒りのポイントです。
 つまり、「怒りをもたずに生きることはできない」のです。人は、生命は、本来的にずーっと「怒り」をもち続けているのです。生きるとは、そのように基本的に怒ってしまう構造にはめられていることなのです。

「生きることは反応すること」というのが私の持論ではあるが、それが「怒り」に基いている事実にまでは思い至らなかった。生きとし生けるものは皆苦痛を回避する。釣り針を呑み込んだ魚みたいなものだ。そして溺れる者は藁をも掴み、財布の紐を緩め、高価な壷を買ってしまう。他人の苦に付け込むのがあいつらの手口だ。

 人生は思い通りには運ばない。肚(はら)の底に諸行無常を叩き込む。そうすれば上手くゆかなかったとしても「当然のこと」として受容できる。願ったりかなったりとなっても「単なる偶然に過ぎない」と達観することだろう。

 西洋では仏法が人生に消極的な態度を勧めるニヒリズムの教えと長らく誤解されてきた。最大の犯人はショウペンハウアー(1788-1860年)だ。

神智学協会というコネクター/『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール

 キリスト教を始めとするアブラハムの宗教が天にまします神が軽やかに劇的に言葉を操るのに対し、仏法は生の水底(みなぞこ)に沈潜する。その積極性を見よ。深海のごとき生命の深層にブッダは座る。怒りの波に翻弄される人生を拒むのであれば、我々も海に潜らなければならない。

2014-02-21

怒りの起源/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・怒りの起源
 ・感覚は「苦」
 ・怒りの終焉

『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 生命にはかならず怒りがあります。残念ながら例外はありません。なかなか納得できないことだと思います。なぜ生命は怒ってしまうのか、そのしくみをご説明したいと思います。いってみれば「怒りの起源」です。怒りが起こるには、明確な発生原因があります。それは「無常」ということです。ブッダのもっとも根本的な発見が無常です。そして、その無常こそが怒りの原因なのです。
 皆さんも無常という言葉をご存じだと思います。日本人は情緒的、感傷的にとらえているのですが、無常の本当の定義は「ものごとは瞬間、瞬間で変化し、生滅していく」ということです。自分も世界も、けっして一瞬たりとも同じではありません。無常とは、一切のものごとの真理です。私であろうが、他人であろうが、環境であろうが、世界であろうが、宇宙であろうが、すべて無常です。つまり、変わり続けているのです。そしてこの「変わり続けている」ということが、怒りを生む原因なのです。一切のものごとは無常であり、「無常が怒りの起源」だとすると、一切が怒りに通じているように聞こえるかもしれません。しかしその通りなのです。はっきりいってしまえば、実は、生命は基本的に怒りの衝動で生きています。
 怒りの衝動で生きるということは、悪いとか良いとかいえることではなく、われわれの生命はそういう構成になっているのです。

【『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年/だいわ文庫、2021年)】

 怒りと逆の状態を考えればわかりやすいとスマナサーラは続ける。例として「気分が良い」場合を挙げる。色々な場面が想定できるわけだが、結局のところ「なにかの条件によって気分が良くなっている」。だがその状態は長く続かない。なぜなら人生も世界も無常であるからだ。更にもう一つの例として「希望」を挙げる。人は誰もが未来に向かって何らかの希望を抱いている。しかし希望通りに人生が進むことはない。無常は生老病死・成住壊空(じょうじゅうえくう)のリズムを奏で肉体は必ず衰えてゆく。

 スマナサーラは実にやさしい言葉で仏法の深淵を巧みに説く。私は30年近く仏教を学んできたが、怒りの起源が無常にあるという指摘は初耳だ。驚くべき卓見である。

 これは死を思えばもっとわかりやすい。例えば夭折(ようせつ)、事故死、自殺など不慮の死に遭遇した時、我々が覚えるのは怒りであろう。それが神の定めた運命であろうと過去世の宿命であろうと変わらない。理不尽・不条理に対する怒りがムラムラと沸き起こる。

 自分の死を想像してみよう。静かに安祥として息を引き取るわけにはいかない。絶対に。まだやり残したことがいっぱいある。その時になって初めて人生で得たものの貧しさに気づくかもしれない。死ぬ瞬間に怒りのマグマが噴出することだろう。目の前に神が現れたら迷うことなく石打ち刑にするよ。俺は。

 文明の発達や資本主義経済が怒りに拍車をかける。便利さや豊かさは恩恵に与(あずか)れぬ者たちに不幸の影を落とす。不幸とは怒りの異名だ。我々は満たされないから怒るのだ。

 無常を受け入れることは難しい。これにまさる困難はないといってよい。ありとあらゆる不測の事態、人生の荒波、逆境、リスクを引き受ける覚悟が求められるためだ。そこまで考えてやっと気づくのだが、我々は「自分の死」を受け入れていない。先にあることはわかっているのだが、絶対に見つめようとしないし、思ったり、考えたりもしない。だから日常の中で怒りに翻弄されるのだろう。

 怒りの感情が毒であり、戦争の原因であり、人々を不幸にする元凶であることを自覚しながら怒りから離れる。欲望よりも怒りから離れることの方が重要だ。徐々にとか少しずつではダメだ。「今日から怒らない」と決めた者が勝つ。

2014-02-20

正しい怒りなど存在しない/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 正義の味方になるためには悪人を倒さなければなりませんね。では、人を倒したり殺したりするために必要なのは何かというと、「怒り」なのです。
 ということは「正義の味方」という仮面の下で、我々は「怒り」を正当化していることになります。正義の味方は「悪人を倒してやろう」などと、わざわざ敵を探して歩きまわるのですから、よからぬ感情でいっぱいというわけです。
 正義の味方までいかなくても、そういう「何かと戦おう」という感情が強い人は、すごくストレスが溜まっていて、いろいろな問題を起こします。(中略)
「悪に向かって闘おう」「正義の味方になろう」というのは仏教の考え方ではありません。「正しい怒り」など仏教では成り立ちません。どんな怒りでも、正当化することはできません。我々はよく「怒るのは当たり前だ」などと言いますが、まったく当たり前ではないのです。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)以下同】

 私憤は否定しても公憤を肯定する人は多い。そこに落とし穴がある。そもそも私憤と公憤の間(あわい)は人によって異なり、グラデーションを描いている。ともすれば私憤を公憤に見せかける人もいる。「皆が困っている」と言いながら実は自分が一番困っていたりする。

 私は幼い頃から困っている人を見ると放っておけない。親切といえば聞こえはいいが、困らせている人物に対する怒りがとてつもなく激しい。中年期を過ぎてからは殺意にも似た感情が芽生えるようになってきた。怒鳴って引き下がるような相手ならいいのだが、それでもダメとなればいつでも実力行使をする準備ができているのだ。「感情には『どんどん強くなる性質』がある」とも書かれているが本当にその通りだ。私はゴミをポイ捨てする人を見ただけで「ぶっ殺してやろうかな」と思う。しかも本気で。

 怒りを甘くみてはいけません。怒りが生まれた瞬間に、からだには猛毒が入ってしまうのです。たとえわずかでも、怒るのはからだに良くないとしっかり覚えておいてください。怒りはまず自分を燃やしてしまいます。本当に自分のからだが病気になってしまうのです。
 陽気で、もう底抜けに明るいような人が深刻な病気になったという話はほとんど聞きません。そういう人はたとえ病気になっても、お医者さんとすぐに友だちになったりして治療効果も上がるので、治りが早いのです。入院したのが明るい人だったら、看護師さんたちも楽しくなって親切に面倒を見てくれるし、みんなが治るようにと願ってくれますからね。

 本書でも引かれているが「怒りが猛毒である」というのはスッタニパータ冒頭の指摘である。

蛇の毒/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

 つまり正当化された怒りとは毒に酔っている状態なのだ。魯迅は「水に落ちた犬は叩け」(「『フェアプレイ』はまだ早い」)と言った。婦女子だけは生かしておいて、男であれば幼児でも殺してしまう発想と一緒だ。林檎堂との論争でさすがの魯迅も筆の勢いが余ったか。

 相手を滅ぼそうとする怒りが実は自分を滅ぼす。仏法では迷い(≒不幸)の根本的な原因は三毒にあると説く。その筆頭が瞋恚(しんに/=怒り)だ。瞋恚は地獄の門を開く。地とは最低を表し、獄には束縛の意がある。すなわち地獄とは外部環境ではなく自分の生命が最低の境涯にあることを示す。

 怒りには明るさが伴わない。明るさとは智慧の異名だ。老子曰く「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富み、強めて行なう者は志を有す」と。

 スマナサーラは具体的なアドバイスを欠かさない。

 けれどよく考えてください。ただ「お茶を入れなさい」と言われただけなのに、悩んだり苦しんだり、怒って自分の健康まで害したりするなんて、本当にバカげたことですよ。
「お茶を入れて」と言われたら、お茶を入れればいいのです。べつにどうということもありません。会社に行ったらどうせ終業時間まで会社に縛られているのですから、お茶を入れようが、便所の掃除をしようが、すべては給料のうちなのです。仕事をする時間は決まっていますし、その時間にできることも決まっています。ですから、「私にお茶を入れさせるなんて」などと考えずに、自然の流れの中で、できることをやればいいのです。

 確かにそうだ。怒りは合理性を見失わせる。怒りとは狂気なのだ。そして自分を傷つける凶器でもある。

 不殺生戒とは怒りの否定なのだろう。怒りっぽい仏など存在しない。本物の強さは穏やかな表情をしている。


天才博徒の悟り/『無境界の人』森巣博

2014-02-18

「私は正しい」と思うから怒る/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 怒らないほうがよいとわかっているのに、我々はなぜ怒るのでしょう。
 いつでも、我々には「こういうことで怒ったのです」という理由があります。その理由をひとつひとつ分析してみると、「自分の好き勝手にいろいろなことを判断して怒っている」というしくみがあります。
 人間というのは、いつでも「私は正しい。相手は間違っている」と思っています。それで怒るのです。「相手が正しい」と思ったら、怒ることはありません。それを覚えておいてください。「私は完全に正しい。完全だ。完璧だ。相手の方が悪いんだ」と思うから怒るのです。
 他人に怒る場合は「私が正しくて相手方が間違っている」という立場で怒りますが、自分に怒る場合はどうでしょうか。
 そのときも同じです。
 何か仕事をしようとするのだがうまくいかないという場合、すごく自分に怒ってしまうのです。
 たとえば「自分がガンになった」と聞いたら、自分に対して「なぜ私がガンになったのか」とずいぶん怒るのです。「なぜこの仕事はうまくいかないのか」「どうして今日の料理は失敗したのか」とか、そういうふうに自分を責めて、自分に怒る場合もあります。「私は完璧なのに、なぜ料理をしくじったのか。ああ嫌だ」「私は完璧に仕事ができるはずなのに、どうして今回はうまくいかないのか」と怒ります。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

 この前に絶妙な例えで「怒りという感情が生じるプロセス」を教えている。美しいバラを見て「きれいだ」(愛情)と思う。再び目をやるとそこにゴキブリがいる。「ああ、嫌だ。気持悪い」(怒り)との感情が芽生える。これらの感情は誰のせいにすればよいのか、と。

 感情とはある対象への反応にすぎない。喜びも怒りも自分の内側から湧いたもので、バラが喜ばせてくれたわけでもなければ、ゴキブリが怒らせたわけでもない。ひょっとすると感情は妄想の可能性さえある。いや妄想なのだ。我々は自分勝手に周囲の世界を低いレベルで創造するから互いを理解し合うことができないのだろう。

 怒りの元(原因)は自分の中にある。何らかのきっかけ(条件/縁)によって、怒りという現象(結果)が生じ、自分と周囲に影響を及ぼす(報い)。これを因縁果報という。

 例えば韓国を憎むようになった「きっかけはフジテレビ」という人もいる。確かに。ま、一理ある。と私が思うのはフジテレビに対して同じ感情を抱いて、その物語に乗っかっているためだ。自分の憎悪や怒りそのものを正面から見つめることは決してない。

 とすれば、より多くの人々に共有される感情を煽り、皆が求める妄想を示すところに政治家、宗教家、芸術家、音楽家の役割があるのだろう。感情の手配師。

 またスマナサーラはバラの例えで「受け入れること」(愛情)と「拒絶すること」(怒り)と示す。自我の形成や社会における自己存在性もこうした条件に大きく左右される。

 ああ、わかった! 今書きながら悟った。「感情は比較から生まれる」のだ。

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ

 泥棒にとっては盗むことが正しいのだ。吟味されない正義が何と多いことか。

「怒り」が生まれると「喜び」を失う/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 怒りというのは愛情と同じく、心にサッと現れてくるひとつの感情です。
 私達は自分の家族を見たり、自分の好きな人を見たりすると、心の中にすぐ愛情という感情が生まれます。何かを食べる場合、おいしい食べものを見たときも口に入ったときも、楽しい感情が生まれてきます。それは瞬時に起こるのです。怒りは、愛情と同じように人間の心に一瞬にして芽生える感情です。
 大雑把にいうと、我々人間はこの2種類の感情によって生きていると言えます。ひとつは愛情で、もうひとつが怒りの感情です。

 怒りを意味するパーリ語(お釈迦さまの言葉を忠実に伝える古代インド語)はたくさんありますが、一般的なのは《ドーサ》です。この《ドーサ》という言葉の意味は「穢れる」「濁る」ということで、いわゆる「暗い」ということです。
 心に、その《ドーサ》とうい、穢れたような、濁ったような感情が生まれたら、確実に我々はあるものを失います。それは、《ピーティ》と言って、「喜ぶ」という意味の感情です。我々の心に怒りの感情が生まれると同時に、心から喜びが消えてしまうのです。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

 パーリ語は省略しカタカナを二重山括弧でくくった。

私のダメな読書法」で紹介した通り、気に入ったテキストを見つけると片っ端からデジカメで撮影し、SkyDriveに保存するというのが私のやり方だ。付箋を挟んだままにしておくと本が傷んでしまう。時に半分以上のページに付箋をつけることもあるため本の形が実際に変形したこともある。デジカメのカウンターを何気なく見たところ、既に2万枚を軽く超えていた。Windows8に買い換えたところ、なんと最初からSkyDriveが内蔵されていた。以前より格段に作業効率もアップ。ノートパソコンの15.6インチでも画面を2分割できるので頗(すこぶ)る重宝している。

 ただし問題が一つだけある。ウェブ上からログインできなくなってしまった。で、アップロードしたフォルダの更新日がなぜか全部一緒になっているのだ。タイトルをつけたフォルダーはあいうえお順で表示される。今のところ私に解決策はない。ってなわけでこれまでは読了順に紹介してきたわけだが、今後はランダムに展開してゆく予定である。

 スマナサーラの言葉は極めてやさしい。たぶん中学生でも理解できるだろう。ただしそこでわかったような気になるのが凡夫(ぼんぷ)の浅はかなところだ。人間の残酷さはすべて怒りから生まれる。怒りこそ暴力の温床だ。ゆえに我々の暴力的な現実世界を変革するためには、怒りのメカニズムを知り、勇気を出して怒りを捨て、怒りから離れることが重要なのだ。

 本書は微に入り細を穿(うが)つようにして怒りの様相を示す。短気な私にとっては耳が痛い話ばかりだ。「私が怒るのは怒るだけの理由があり、その理由は絶対に正しい」と誰もが思い込んでいる。これが国民の総意となるところに戦争が生まれる。日本では反中国・半韓国感情が昂(たかぶ)りつつある。中国や韓国の首脳が国際舞台で扇情的な日本叩きを続ければ、日本国民の間で静かに開戦への気運が高まることだろう。

 バブル景気が弾け、失われた20年の間にソフトな暴力が社会を雲のように覆った。貧富の格差、セクシャルハラスメント、パワーハラスメント、児童虐待、いじめ問題、銀行による貸し渋り・貸し剥がし、振り込め詐欺、検察の国策捜査、メディアリンチ、就職時の圧迫面接、増税……。鬱屈した思いや鬱積した感情がはけ口を求めている。そして慢性的な疲労が人々の判断力を誤らせる。

 暴力行為は必ず弱い者に向かう。これが暴力の法則だ。喧嘩っ早い私だって、相手が本物のやくざ者やプロレスラーであれば必ず下手(したて)に出る。日本は韓国や中国と戦争をする可能性はあるがアメリカとは絶対にやらない。

「怒り」が生まれると「喜び」を失う。ということは怒りこそが不幸の最たる原因と考えてよかろう。怒っている人と喜んでいる人とが喧嘩になることはない。「自分は大したものだ」との錯覚から怒りは生まれる。「自分なんて何者でもない」と自覚すれば諸法無我だ。怒りの恐ろしさはエゴを強化するところにある。そして強化されたエゴはどこまでも肥大化し、怒りの波に翻弄されてゆくことだろう。西洋の神を見よ。あいつは怒ってばかりいたよ。

聖書の中で、人を一番殺してるのは誰なの?


怨みと怒り/『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎
テーラワーダ仏教の歩み寄りを拒むクリシュナムルティ/『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ

2013-09-20

クリシュナムルティ流「筏の喩え」/『クリシュナムルティ・目覚めの時代』、『クリシュナムルティ・開いた扉』


筏の喩え」に関する思索がまとまっていないのだが、クリシュナムルティが全く同じことを語っていたので紹介しよう。昨日、偶然見つけた。

 まず星の教団を解散する前の発言から。

 あなたがたは、私に言われるからではなく、私に反対してでも、解き放たれた者にならなければなりません。これまでの生を通して、特にここ数か月間は、私は自由になるために格闘してきました――友人たちから、私の本から、私の絆から自由になるために、あなたがたも、同じ自由のために苦闘しなければなりません。内側には絶え間ない動揺があるにちがいありません。自分の前に常に鏡を置きなさい。そして、もしあなたが自らのために創り上げてきた理想に照らして無価値なるものが見えるなら、それを変えなさい。……私をひとつの権威にまつりあげてはなりません。もし私があなたにとって必要欠くべからざるものとなったら、私が去ってしまったときあなたはどうしますか? ……私はあなたがたに、あなたがたを自由にする飲み物を与えることができ、あなたがたを解放する手段を与えることができる、と考えている人がいます――そうではありません。私は扉になることはできます。しかしあなたがたはその扉を通り抜け、その向こうにある解放を見出さなければなりません。……真理は、あなたが最も予期せぬときに盗人のようにやって来ます。新たな言葉を創り出せればよいのですが、それができないので、私はあなたがたの古い文体や概念を破壊したいのです。誰ひとり、あなたを解放することはできません。あなたはそれを自分の中に見つけなくてはならないのです。しかし私は見つけたので、あなたにその道を示しましょう。……解放に到達した人は、私のように〈教師〉となってきました。炎に入り、炎となる力は、われわれ各自の中にあるのです。……私はここにいるので、あなたがたがもし心(ハート)で私をとらえるなら、私は達成する力を与えるでしょう。……解放は、少数の者たち、選ばれた者、選抜された者たちのためのものではありません。それは、カルマを創り出すことをやめたときに、すべての人のものとなります。苦悶と苦痛の輻(スポーク)をもったこの誕生と死の車輪を回しはじめるのは他ならぬあなたであり、止めることができるのも、あなたをおいて他にありません。そのとき、あなたは自由です。ほとんどの人は、この個性、私というこの感覚にしがみついています。それがカルマを生み出すのです。解放は、生と、生の停止です。それは偉大な炎のようなものであり、あなたがそこに入っていけば、あなたがその炎となるのです。そしてそのとき、あなたは火花として、その炎の一部として出て行くのです。

【『クリシュナムルティ・目覚めの時代メアリー・ルティエンス:高橋重敏訳(めるくまーる、1988年)】

「私は扉である」と宣言している。扉とは「通過するもの」に他ならない。クリシュナムルティは依存心から遠く離れた人物であったが、「依存される」ことをも断固として拒んだ。

「おのれ自身を学び、理解するには、すべての権威はおしのけられなくてはならない。明らかに権威はわれわれ自身の一部である。……私も含めて誰からも、学ぶものなど何もない。ことに話し手である私に影響されてはならない。……私があなたに教えるものは何もない。私はたんに、あなたがその中にあなた自身を見ることのできる鏡としての役目を果たしているだけである。だから、あなた自身がはっきり見えるようになったら、鏡は捨て去ることができるのだ」

【『クリシュナムルティ・開いた扉』メアリー・ルティエンス:高橋重敏訳(めるくまーる、1990年)】

 これはインタビューに応じたもの。「私は鏡である」と。人生の大半を鏡の前で過ごす人はいない。鏡とは自分の姿をチェックするものだ。これまた「自らを島とせよ」(依法不依人)というブッダの遺言と完全に一致している。

 自我とは欲望の当体であり、執着を機能とする。その執着から完全に解き放たれるためにはこれほどの厳しさが求められるのだ。ブッダとクリシュナムルティは真の自由を体現していた。

クリシュナムルティ・目覚めの時代

クリシュナムルティ・実践の時代 クリシュナムルティ・開いた扉

クリシュナムルティが放つ光/『クリシュナムルティ・実践の時代』メアリー・ルティエンス

2013-09-19

筏の喩え






クリシュナムルティ流「筏の喩え」/『クリシュナムルティ・目覚めの時代』、『クリシュナムルティ・開いた扉』

2013-07-04

バイロン・ケイティは現代のアルハットである/『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル


『ものぐさ精神分析』岸田秀
『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『生きる技法』安冨歩
『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには 論理療法のすすめ』アルバート・エリス
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎、古賀史健
『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル
『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍
『NLPフレーム・チェンジ 視点が変わる〈リフレーミング〉7つの技術』L・マイケル・ホール、ボビー・G・ボーデンハマー
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『過去にも未来にもとらわれない生き方 スピリチュアルな目覚めが「自分」を解放する』ステファン・ボディアン

 ・バイロン・ケイティは現代のアルハットである
 ・認識のフレームを転換するメソッド

『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン
『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
『ニュー・アース』エックハルト・トール
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
悟りとは
必読書リスト その五

 世界にはたった3種類の領域しかありません。私の領域、あなたの領域、そして神の領域です。私にとって、神という言葉は「現実」を意味します。現実こそが世界を支配しているという意味で、神なのです。私やあなた、みんながコントロールできないもの、それが神の領域です。
 ストレスの多くは、頭の中で自分自身の領域から離れたときに生じます。「(あなたは)就職した方がいい、幸せになってほしい、時間通りに来るべきだ、もっと自己管理する必要がある」と考えるとき、私はあなたの領域に入り込んでいます。一方で、地震や洪水、戦争、死について危惧していれば、神の領域に入っていることになります。私が頭の中で、あなたや神の領域に干渉していると、自分自身から離れてしまうことになります。

【『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル:ティム・マクリーン、高岡よし子監訳、神田房枝訳(ダイヤモンド社、2011年/安藤由紀子訳、アーティストハウスパブリッシャーズ、2003年)】

 私が「現代のアルハット(=阿羅漢)」と考える人物は二人いる。その筆頭格がバイロン・ケイティである(もう一人はジル・ボルト・テイラー)。彼女は元々悪い母親であった。ところが病気を通して悟りを得る。そこから導き出されたのが「ザ・ワーク」である。

 相手(もちろん自分でも構わない)の悩みに対して四つの質問をするだけという極めてシンプルなものだ。

「それは本当でしょうか?」
「その考えが本当であると、絶対言い切れますか?」
「そう考えるとき、(あなたは)どのように反応しますか?」
「その考えがなければ、(あなたは)どうなりますか?」

 たったこれだけだ。だがこの深遠なる問いによって悩みは完全に相対化されるのだ。つまりブッダの説法と同じ原理だ。ま、論より証拠、見てごらんよ。


 凄い……。何が凄いかって、彼女は全く誘導していないのだ。にもかかわらず問い掛けるだけで、相手は自ら問題の本質を悟っている。つまり、「世界が変わった」のだ。バイロン・ケイティが言うところの「ストーリー」と私が常々触れている「物語」とは全く同じ意味だ。

 彼女は「領域」という言葉で異なる世界を表現している。親が子に「お前はこうするべきだ」と語る時、子は親の所有物と化していることが多い。親はよかれと錯覚しながら、子の人生を操縦しようとするのだ。教育や宗教も同様であろう。

 感化と言えば聞こえはよい。だがブッダは感化を否定している。


 もちろんクリシュナムルティも否定している。

 学びとは理解することを愛し、ものごとをそれ自体のために行なうことを愛することを含蓄している。学びは、一切の強制がないときにだけ可能である。そして強制は、さまざまな形をとるのではないだろうか? 感化、固執、脅し、言葉たくみな激励、あるいは微妙な形の報いによる強制があるのだ。

【『未来の生』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1989年)】

 たとえその子が、彼に対するあなたの愛ゆえにいたずらをやめたとしても、それでは一種の感化であり、それは本当の変化でしょうか。それは愛かもしれませんが、それでも、何かをしたり、何かになるようにという、その子に対する一つの形の圧力です。そしてあなたが、子供は変化しなければならないと言うとき、それはどういうことでしょう。何から何への変化でしょうか。ありのままの彼が、【あるべき】彼に変化するのでしょうか。あるべき彼に変化するなら、彼はかつての自分を単に修正しただけであり、それゆえにまったく変化ではないのでしょう。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 バイロン・ケイティのワークは在りし日のブッダを彷彿(ほうふつ)とさせる。ブッダもクリシュナムルティも「偉大なる問い」を発する人であった。安易な答えを人々に教えるだけであれば、彼らの名前はこれほどの響きを持たなかったはずだ。

 占ってもらう必要はない。祈ってもらう必要もない。本書を開いてただワークシートに記入するだけでよいのだから。



すべてが私を支えている/『探すのをやめたとき愛は見つかる 人生を美しく変える四つの質問』バイロン・ケイティ
血で綴られた一書/『生きる技法』安冨歩
序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり/『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集、『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵
『歴史的意識について』竹山道雄

2013-01-14

蛇の毒/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳

 ・犀の角のようにただ独り歩め
 ・蛇の毒
 ・所有と自我
 ・ブッダは論争を禁じた

『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 第一 蛇の章

一 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘〈びく〉)は、この世とかの世をともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)】

 数え50歳にしてスッタニパータと取り組む。実は数年前に一度読んでいるのだが、その時は「フーン」としか思わなかった。46歳でクリシュナムルティと巡り会った。その後ブッダの言葉は一変した。自分でもびっくりした。乾いたスポンジが水を吸うようにスーッと染み込んできた。

 ルワンダ大虐殺を知り、私は変わった。むしろ思想的に行き詰まったといった方が正確だろう。45歳になった直後のこと。それまでに築いてきた価値観がまったく通用しなかったのだ。1年ほど煩悶と懊悩の間を行ったり来たりしていた。そんな私にとってクリシュナムルティの言葉は光明となった。

『スッタニパータ』は最古の経典である。このため原始仏教と称されることもあるが、「原始」という表現は誤解を生じかねない。それゆえ私は初期仏教と表記する。また、古いことそれ自体に価値があるわけではなく、「より正確なブッダの言葉」を探るべきだと考える。飽くまでも「誰か」が伝えた言葉で、「誰か」が翻訳した言葉である事実を念頭に置く必要があろう。テキストを真に受けることはブッダの姿を人影に隠してしまうようなものだ。

 スッタとは縦糸のことで「経」と訳される。スマナサーラ長老は「式=フォーミュラ」としている。縦に時間を貫くのが経であれば「理」(ことわり)すなわち理法と考えてよかろう。ナンバーが打たれているのは一つ一つが独立した式であるため。

 蛇の毒は脈動によって波のように押し寄せ、波紋を広げ、余韻を伸ばしてゆく。「よくも俺を馬鹿にしたな」「私に恥をかかせたわね」――怒りは痛みから生まれる。まさしく蛇に噛まれたようなものだ。だがその毒は自分の内側に拡大してゆくのだ。そして我々は毒を吐き捨てる機会を虎視眈々と窺う。

 果たして毒蛇に噛まれた人が毒蛇を追い掛けるだろうか? 蛇を打ちのめし、切り刻んだところで毒が消えるわけでもない。しかし我々が日常で行っているのはこういうことである。国家や民族も同様だ。人類全体が毒=怒りに駆られて行動している。

 怒りを制するためには怒りをただ観察する。否定するのはダメだ。否定は抑圧となるため怒りの根が深まってしまう。「あの野郎、俺のことを馬鹿にしやがって」「今度会ったら何か言い返してやろう」「一発殴ってやろうかな」「仲間を集めて袋叩きにするか」「いざという場合に備えてサバイバルナイフでも買っておくか」「あんな奴は生きている価値がないな」「いっそのこと……」――私は怒りやすい方なのでよくわかるが、怒りは常に殺意をはらんでいる。怒りは大なり小なり相手の死を願っているのだ。

 今日、愛については誰も語っている。誰が怒について真剣に語ろうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るということは今日の人間が無性格であるということのしるしである。
 切に義人を思う。義人とは何か、── 怒ることを知れるものである。

【『人生論ノート』三木清(創元社、1941年/新潮文庫、1954年)】

 不正を憎み、社会を改革してゆくことは正しい。敗戦後の混乱から学生運動に至るまでの時期は「怒りの季節」であった。それで何かが変わったのかもしれないし、変わらなかったのかもしれない。社会の制度や仕組みが変わっても、そこにはいつも変わらぬ人間の姿があった。

 正義から発せられた怒りが正しければ、人類が行ってきた革命はもっと上手くいってしかるべきではないか? 共産主義だって成功したはずだろう。真正なる怒りは必ず暗殺に向かう。その意味では革命もテロも一緒だ。

「殺したい」との願望をありのままに見つめる。私は殺人鬼だ。あいつとこいつと、そうだあの野郎も殺してしまいたい。あんな人間を育てた親も殺そう。近所に住んでいた連中も同罪だ。あいつと同じ民族も絶滅させるべきだ。同じ種を滅ぼすべきかもしれない……。殺意は巡り巡って自分に向けられる。

 これが数千年間にわたって繰り返されてきた人類の歴史だ。脱いでしまえば旧(ふる)い皮に価値はなくなる。

 実際にやってみると至難ではあるが、修行と心を定めて行っていると怒りが静まる時間が短くなる。怒りっぽい私が言うのだから本当だ。


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