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2014-02-14

快楽中枢を刺激する文体/『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳


『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集
『ウパニシャッド』辻直四郎
『はじめてのインド哲学』立川武蔵

 ・快楽中枢を刺激する文体

・『神の詩 バガヴァッド・ギーター』田中嫺玉訳
『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編
『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン
『イスラム教の論理』飯山陽

 アルジュナはたずねた。
クリシュナよ、智慧が確立し、三昧に住する人の特徴はいかなるものか。叡知が確立した人は、どのように語り、どのように坐し、どのように歩むのか」

 聖バガヴァットは告げた。――
 アルジュナよ、意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)においてのみ満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。
 不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡知が確立した聖者と言われる。
 すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎みもしない人、その人の智慧は確立している。
 亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官をすべて収める時、その人の智慧は確立している。
 断食の人にとって、感官の対象は消滅する。【味】を除いて……。最高の存在を見る時、彼にとって【味】もまた消滅する。
 実にアルジュナよ、賢明な人が努力しても、かき乱す諸々の感官が、彼の意(こころ)を力ずくで奪う。
 すべての感官を制御して、専心し、私に専念して坐すべきである。感官を制御した人の智慧は確立するから。
 人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が彼に生ずる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生ずる。
 怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生ずる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破滅する。
 愛憎を離れた、自己の支配下にある感官により対象に向いつつ、自己を制した人は平安に達する。
 平安において、彼のすべての苦は滅する。心が静まった人の知性はすみやかに確立するから。
 専心しない人には知性はなく、専心しない人には瞑想(修習)はない。瞑想しない人には寂静はない。寂静でない者に、どうして幸福があるだろうか。
 実に、動きまわる感官に従う意(こころ)は、人の智慧を奪う。風が水上の舟を奪うように。
 それ故、勇士よ、すべて感官をその対象から収めた時、その人の智慧は確立する。
 万物の夜において、自己を制する聖者は目覚める。万物が目覚める時、それは見つつある聖者の夜である。
 海に水が流れこむ時、海は満たされつつも不動の状態を保つ。同様に、あらゆる欲望が彼の中に入るが、彼は寂静に達する。欲望を求める者はそれに達しない。
 すべての欲望を捨て、願望なく、「私のもの」という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。
 アルジュナよ、これがブラフマン(梵)の境地である。それに達すれば迷うことはない。臨終の時においても、この境地にあれば、ブラフマンにおける涅槃に達する。

【『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦〈かみむら・かつひこ〉訳(岩波文庫、1992年)】

 クリシュナムルティが常々虚仮(こけ)にしているヒンドゥー教の聖典だ。叙事詩『マハーバーラタ』(全18巻)の第6巻に編入されている。


(『マハーバーラタ』の場面を描いたオブジェ)

 実際に読んで私は驚嘆した。その華麗なる文体と思想の深さに。はっきりいって私程度のレベルでは仏教と見分けがつかないほどだ。もっと正確に言おう。「それってブッダが説いたんじゃないの?」と吃驚仰天(びっくりぎょうてん)する場面が随所にある。

 ってことはだよ、多分ブッダはヒンドゥー教的価値観の「何か」をスライドさせたのだろう。現代の我々が考えるように画然(かくぜん)と新宗教の旗を振ったわけではなかったのだろう。

 読むほどに陶酔が襲う。この文体(スタイル)が秘める力はアルコールや薬物に近い。快楽中枢(側坐核)を直接刺激する美質に溢れている。

 ブッダの弟子たちが根本分裂(大衆部と上座部に分裂した)に至った背景には、ヒンドゥーイズムの復興があったというのが私の見立てである。それゆえに大衆部(だいしゅぶ)はブッダの教えを理論化する過程でヒンドゥー教を仏教に盛り込んだのだろう。

 そして本当に不思議なことだが中国を経て日本に伝わった仏教は完全に密教化しており、その内容はヒンドゥー教と酷似している。和製仏教で世界的に評価されているのは座禅(瞑想の様式化)くらいのものだろう。マントラを仏教と見なすことは難しい。

 ま、バラモン教を安易に否定する仏教徒は一度読む必要がある。

 尚、余談ではあるがクリシュナムルティの名前は第8子であったため、8番目の神であるクリシュナ神に由来している。

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

岩波書店
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2014-02-13

タコツボ化する日本の大乗仏教という物語/『インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』竹村牧男


【大乗】人間は誰でも釈尊と同じ仏となれると考えられている。
【小乗(部派)】人間は釈尊にはほど遠く、修行してもとてもおよばないと考えられている。

【大乗】最終的に仏となり、自覚・覚他円満の自己を実現する。
【小乗】最後に阿羅漢となり、身と智とを灰滅して静的な涅槃に入る。

【大乗】一切の人々を隔てなく宗教的救済に導こうと努力し、利他を重視する。
【小乗】自己一人の解脱のみに努力し、自利のみしか求めない。

【大乗】みずから願って地獄など苦しみの多い世界におもむいて救済行に励む、生死【への】自由がある。
【小乗】業に基づく苦の果報から離れようとするのみで、生死【からの】自由しかない。

【大乗】釈尊の言葉の深みにある本意を汲み出すなかで、仏教を考えようとした。
【小乗】釈尊の言葉をそのまま受け入れ、その表面的な理解に終始する傾向があった(【声聞】といわれる。なお、声聞は本来、弟子の意である)。

【大乗】在家仏教の可能性を示唆した。
【小乗】明確な出家主義。

【『インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』竹村牧男(講談社学術文庫、2004年)】

 実際の本文はページの上下に分けて一覧表記されている。テーブルタグの挿入が面倒であるため、このような書き方となった。

 竹村は大乗【主義者】である。そもそも今時「大乗」「小乗」などと表現すること自体が疑問だ。素人の私ですら「大衆部」(だいしゅぶ)「上座部」(じょうざぶ)と称しているのだ(尚、厳密には大乗=大衆部と言い切れないのだが、小乗というネーミングが大乗側のつけた貶称〈へんしょう〉である以上、大乗を採用するわけにはいかない。現代的に申せば大衆派と出家派くらいの意味合いで構わないだろう)。

 しかも「大乗」を上に置き、説明そのもので「小乗」を否定的に扱うという愚行を犯している。

 日本の仏教学者はいつまでこんな真似をするつもりなのか? 「天台ルール」(五時八教)という前提すらきちんと示さず、完全に密教化した平安仏教-鎌倉仏教を「大乗」と言い切っているのだ。学問として世界に通用するとは思えない。どちらかといえば文学や古典のレベルであろう。そもそも鎌倉時代に南伝仏教(≒上座部)は正確に伝わっていなかったはずだ。そろそろ文学や民俗学の次元から離れるべきだ。

「大乗仏教」と呼ぶから私の逆鱗(げきりん)に触れるのだ。「大乗思想」であれば構わない。

 あとは面倒なんで竹村宛ての簡単な質問を掲げて終えよう。

・「釈尊と同じ仏」はどこにいるのか?
・「最終的に仏」になった人は誰か?
・自己実現は諸法無我に反するのではないか?
・「宗教的救済」の内容を示せ。また「救済されていない」人が他人を救済することは可能なのか?
・「生死【への】自由」と「生死【からの】自由」の意味が不明。
・ブッダは「本意」を説かなかったということか?

 竹村の主張は思想・哲学を志向しているようでありながら、その実は仏教から派生したスピリチュアリズム(密教)を擁護する思考法となっているように映る。

 日本の仏教界は束になって掛かってもティク・ナット・ハンアルボムッレ・スマナサーラにかなわないことだろう。


インド仏教の歴史 (講談社学術文庫)

歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男

2013-12-23

歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男


開祖や教団の正統性に寄りかからない
大乗仏教の仏は“真実(リアリティ)の神話的投影”
・歴史的真実・宗教的真実に対する違和感

 さらに、歴史的真実よりも宗教的真実を重んじるとき、必ずしも釈尊に帰れば説得力を持たないこともありうることである。我・法の二空を説き、無住処涅槃を説き、他者への慈悲と永遠の利他活動を説く。こうした大乗仏教は、宗教としては一定の原始仏教部派仏教よりも勝れているという判定は、大いにありうることである。人間として、虚心に宗教性の深みを問うとき、たとえ『阿含経』や『ニカーヤ』が釈尊の語ったことを確かに記録にとどめているとしても、時に非仏説とも批判される大乗経典の方により心を打たれ、より感銘を受けるものがあることも否定しえない事実である。

【『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男〈たけむら・まきお〉(大東出版社、1997年)】

 botの入力をしていたところ目に止まったテキスト。読んだのが5年前なので当時の書評は当てにならない。その後私の価値観が激変しているためだ。

 竹村の学問的アプローチはプラグマティックなもので望ましい姿勢であろう。ただし日本仏教なかんずく鎌倉仏教を擁護する悪臭を放っている。「歴史的真実よりも宗教的真実を重んじる」との言葉づかいにそれが顕著だ。

 ティク・ナット・ハンが法華経の内容に対して「歴史的次元と本源的次元」という枠組みを示している(『法華経の省察 行動の扉をひらく』)。確かに霊山会(りょうぜんえ)と虚空会(こくうえ)を理解するためにはそう解釈せざるを得ない。

 本来であれば「歴史的事実」とすべきであろう(※私の入力ミスである可能性も否定できず)。歴史的事実とはブッダが語った言葉と振る舞いだ。そして宗教的真実とはブッダの悟り以外の何ものでもない。ここから離れて大衆部(だいしゅぶ=大乗仏教)を持ち上げる行為は、悟りを斥(しりぞ)けて理論に接近することを意味する。

 理論が人々を救い、欲望から解き放つのであれば、我々は思考によって所願満足の人生を送ることが可能となる。そんな馬鹿なことなどあるわけがない。

 学術的成果と真の学びとは別物だ。

 学びというのは、不断の、蓄積しない過程であり、「自分自身」というのはつねに変化しつづけるもの、新たな考え、新たな感覚、新たなかたち、新たなヒントです。
 学ぶことは、過去や未来にかかわることではありません。
 私は学び終えたとか、私は学ぶだろうとか言うことはできないのです。
 したがって、精神は絶えず学びの状態でなくてはならないことになりますから、つねに進行中の現在にあり、つねに新鮮なのです。蓄積された昨日の知識を抱えた状態ではないのです。
 それを探ってみるなら、あるのは知識の獲得ではなく、ただ学びということがわかるでしょう。
 そのとき精神はとてつもなく気づき、目覚め、鋭敏に見るようになるのです。

【『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ:竹渕智子〈たけぶち・ともこ〉訳(UNIO、1998年)】

 理論とは説明されるものだ。悟りとは何か、生とは何かを言葉で説明することはできない。テキスト化された言葉は真実から離れてしまう。それゆえソクラテスは書字を嫌ったのだ(『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ)。

 仏法は啓典宗教ではない(『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹)。その一点から開始しなければ、いかなる仏教研究であろうとキリスト教のサブカルチャー的位置に貶(おとし)められてしまうだろう。

 続いてクリシュナムルティが説く「学び」について書く予定だ。

仏教は本当に意味があるのか入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書)あなたは世界だ

真の学びとは/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
タコツボ化する日本の大乗仏教という物語/『インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』竹村牧男
ソクラテスの言葉に対する独特の考え方/『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ

2013-12-06

Walpola Rahula長老とクリシュナムルティの対談『人間性は変えることができるか』(邦訳未刊)

Krishnamurti - Can Humanity Change - 1. We Are All Caught In The Idea Of Progres. sub esp from iser on Vimeo.

















Can Humanity Change?: J. Krishnamurti in Dialogue with Buddhists

2013-11-26

釈迦の生誕年が早まる可能性も、ネパールの遺跡で新発見


 インドとの国境に近いネパール南部のルンビニ(Lumbini)で、仏教の開祖である釈迦(しゃか)が生まれたとされる場所で木造建築物の痕跡が新たに見つかった。これは紀元前6世紀頃のものとみられ、考えられていたより2世紀も早く釈迦が生きていたことを示す証拠であるかもしれないという。考古学者らが25日に発表した。

 古代の宗教的な木造建築物と考えられたこの遺構は、仏教徒にとって非常に重要な寺院であるマヤデビ(Maya Devi)寺院の敷地内で発見された。

Maya Devi Temple

 レンガ造りのマヤデビ寺院とデザインの面では似ているものの、この遺構には何もないスペースが配置されており、そこからかつては木が生えていたとみられている。おそらくここに釈迦が生まれた場所に生えていたとされる木があったとみられる。

 考古学者のロビン・コニンガム(Robin Coningham)氏は、「これは、いつ釈迦は生まれたのか、また彼の教えが発展し、信仰として根付いたのがいつなのかという、長い長い間交わされてきた議論の手がかりになるかもしれない」と語った。

AFP 2013年11月26日

Lumbini



 インドでは、歴史や地理を記録するということがなかったので、釈尊の生存年代を決定するのは極めて困難なことである。
 セイロン、ビルマ、タイなどの国は釈尊の生涯を、
  紀元前624~前544年
 として、1956年に仏滅2500年の記念行事を行なった。西洋の大半の学者は、マガダ諸王の年代論と一致しないことと、11世紀中頃より先に遡ることができないことを理由にこの説を拒絶している。その代わりに、セイロンの『島史』『大史』に基づいた算定を行ない、いずれも仏滅を紀元前480年前後としている。その中でも有力なものは、J.Fleet(1906、1909)、W.Geiger(1912)、T.W.Rhys Davids(1922)らによって採用されている
  紀元前563~前483年
である。類似のものとして、H.Jacobiの「前564~前484年」説もある。
 このほかMax Mullerの「前557~前477年」説、Filliozatの「前558~前478年」説もあるが、これは、異説の多いプラーナ(古伝書)やジャイナ教の伝説に依るものであり、最近では支持されていない。
『歴代三宝紀』に説かれる「衆聖点記」(大正新修大蔵経、巻49、95頁以下)、すなわち仏弟子のウパーリが結集して後、毎年、夏安居(げあんご)が終わった時に代々の長老が伝持した律典に点を記したという記録に従って算定すると、「前565~前485年」になる。けれども、律蔵が成文化されたのは仏滅後数百年後のことなので、その間は点を記すことができなかったはずであるという難点がある。ウパーリもそのころまで生きてはずがない。
 これに対して、宇井伯寿博士は、仏滅からアショーカ王即位までを218年とするセイロンの伝説の信頼性を批判し、北伝の資料に基づいてアショーカ王と仏滅の間隔を116年として、
  紀元前466~前386年
 と結論された。
 中村元博士は、宇井博士の説を踏まえつつも、アショーカ王と同時代のギリシア諸王の在位期間について西洋の学者が新たに研究した成果によって、アショーカ王の即位灌頂の年を修正して、
  紀元前463~前383年
 と改められた。この説の立脚点は、仏滅後100年にしてアショーカが出現したということだが、これは(1)マガダを中心とする地域に古くから伝えられたものであること、(2)セイロン上座部を除く各部派に共通であること、(3)セイロン諸王の空位期間を説明しうること、(4)5人の師による伝承としては妥当な期間であり、セイロンの伝説は218年と長きに失するということ、(5)セイロンの伝記が4~5世紀に作られたものであるのに比べ、北伝は仏滅後400年ごろに作製されたもので記録が古いこと――などの理由により確実性がより高い。平川彰博士も、中村博士の見解を「妥当」と評価されている。

【『仏教のなかの男女観 原始仏教から法華経に至るジェンダー平等の思想』植木雅俊(岩波書店、2004年)】

仏教のなかの男女観―原始仏教から法華経に至るジェンダー平等の思想


 詳細は不明だが「木造建築物の痕跡」だけで生誕年を推測するのは困難だろう。またブッダの生没年が変わったところで教えの内容が影響を被ることはないと考える。そもそも末法思想を厳密に判定しようとする試みが仏道を深めるとは思えない。

Wikipedia:釈迦生没年

仏像 "Statue of Buddha"

2013-10-27

真理をどう捉えるか/『法華経の省察 行動の扉をひらく』ティク・ナット・ハン


 覚え書きを残しておこう。特筆すべき内容はない。言い回しや表現の仕方にキラリと光るものはあるが、斬新さを欠く。ティク・ナット・ハンは『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』が傑作すぎて、他の本はあまり面白味がない。読み物としてはアルボムッレ・スマナサーラの方がお薦めできる。

 われわれは形式上は釈尊がその晩年にインドの霊鷲山(りょうじゅせん)において『法華経』を説いたとしているが、実際には近代の文献学的研究や調査から、この経典が釈尊の死後約700年ごろ、おそらくは紀元2世紀の終わりごろに現在の形に編纂され、書きとめられ、流布したことがわかっている。

【『法華経の省察 行動の扉をひらく』ティク・ナット・ハン:藤田一照〈ふじた・いっしょう〉訳(春秋社、2011年)以下同】

 まず大前提として大乗非仏説は正しい。次に大衆部(だいしゅぶ=大乗)を信じるのであれば、それはブッダの教えから派生した思想を信じることになる。とすると社会の変遷(コミュニティの変化)に伴って新しい仏教が誕生することを認めたも同然だ。

 何が厄介かというと、結局のところ「真理をどう捉えるか」というテーマに帰着するのだ。例えば日蓮を本仏と仰ぐ宗派がある。彼らにとってはブッダが迹仏(しゃくぶつ)となる。迹とは「かげ」の謂(いい)だ。ま、それなりに理論武装をしているのだが、いずれにせよ「真理が変わった」ことを意味している。明らかにマルクス主義の進歩史観と似た思想傾向が見てとれる。つまり遠い将来――あるいは近い将来――日蓮も迹仏となる可能性を秘めているのだ。

 後半の14章は本源的次元(「本門」)を扱っている。本源的次元では、釈尊が前半とは全く異なった次元、つまり時間と空間についてのわれわれの通常の見方をはるかに超越した次元にいることが示されている。それは生きたリアリティとしての仏、つまり法の身体(法身〈ほっしん〉、ダルマカーヤ)としての仏である。本源的次元においては、生まれることと死ぬこと、来ることと行くこと、主体と客体といった二元的観念にもはや関わることがない。本源的次元はそういったあらゆる二元論を超えた真のリアリティ、涅槃、法の世界(法界〈ほっかい〉、ダルマダートゥ)なのである。

『法華経』はそれぞれの章で、また一つの章のなかでも異なった場面で、歴史的次元と本源的次元のあいだを行ったり来たりしている。

 霊山会(りょうぜんえ)を歴史的次元、虚空会(こくうえ)を本源的次元と捉えるのは卓見だ。法華経のSF的手法。

 根本(オリジナル)仏教(あるいは「源流〈ソース〉仏教」とも呼ばれる)は歴史的仏である釈迦牟尼が生きている間に説いた教えから成り立っている。これが最初の仏教である。

 個人的には「最初の仏教」だけでよいと思う。大衆部の教えは政争の臭いを発している。本来の仏教は武装を目的とした理論ではなかったはずだ。とはいうものの正確無比な「最初の仏教」は現存していない。ゆえに上座部(じょうざぶ=小乗)を手掛かりとしてブッダの悟りにアプローチする他ない。

(※初期大乗の空という考えは)言い換えれば、いかなる物も単独では存在しないこと、どのような物も固定的な状態にとどまってはいないこと、絶えず変化している原因(「因」)と諸条件(「縁」)の集合によってはじめて生起するということなのだ。これは相互的存在性(インタービーイング)の洞察に他ならない。

 因縁生起(=縁起)と諸行無常。

 出家者の僧伽は五つのマインドフルネス・トレーニング(五戒)と具足戒(プラーティモクシャ。波羅堤木叉)をその拠り所としていたが、菩薩修行の独自の指針はまだつくられていなかったのだ。

 とすれば修行は目安でしかない。

 したがって、この三つの世界のどこにいても本当の平安と安定を見出すことはできない。それは、罠や危険がいっぱいある燃えている家のようなものだ。(「三界は火宅なり」)
 檻の中にいるにわとりの一群を想像してみよう。かれらはえさのとうもろこしを奪い合ってお互いにけんかをしている。そして、とうもろこしのほうがおいしいか、それとも米のほうがおいしいかをめぐって争っている。数粒のとうもころし、あるいは数粒の米をめぐっってお互いに競い合っているあいだ、かれらは自分たちが数時間後には食肉処理場に連れて行かれるということを知らないでいる。かれらと同じように、われわれもまた不安定さに満ちた世界に住んでいる。しかし、貪欲さや愚かさにがっちりと捕らえられているためにそのことが少しも見えていないのだ。

 まるで仏教内で争う各宗派の姿を思わせる見事な喩えだ。我々は三毒という煩悩の檻に囚(とら)われた存在だ。すなわち囚人なのだ。

監獄としての世界/『片隅からの自由 クリシュナムルティに学ぶ』大野純一

 この声聞の道の成果である涅槃は、文字通りの意味はろうそくの炎を吹き消すように、「吹き消す、滅する」である。それは、流転輪廻という燃えている家をきっぱりと去って、もう決して生まれ変わらないということだ。しかし、愚かさを捨て去ること、涅槃を「消滅」と考えることはまだ真の解脱ではない。それは解脱の最初の部分ではあってもその全体像ではないのだ。涅槃とは消滅であるという考えはあくまでも、人々をして修行の道へと入らせる方便の教えなのである。

諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」(『涅槃経』)だ。涅槃(≒悟り)とは何かを実現することではない。煩悩の炎を吹き消すことなのだ。

 本当に誰かを愛しているなら、その人を自由にしておかなければならない。もしその人を自分の愛情のなかに閉じ込めておこうとするなら、たとえその絆が愛からできていたとしても、その愛は本物ではない。

 これが慈悲。

 話を戻そう。真理は理法である。真理を具体化したのが涅槃であるならば、真理とは「ある状態」を意味する。理は理屈というよりも、「ことわり」であり「道」と捉えるべきだろう。その一点においてブッダとクリシュナムルティは完全に一致している。だから経典を弄(もてあそ)んで学術的な論争をするよりも、クリシュナムルティを辿ってブッダを見つめる方が手っ取り早いというのが半世紀生きてきた私の現時点における結論だ。

法華経の省察―行動の扉をひらく

歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男

2013-10-26

自由と所有/『怒り 心の炎の静め方』ティク・ナット・ハン


 ブッダとその時代の僧や尼僧たちは三着の衣と一つの鉢しか持っていませんでしたが、彼らはとても幸せでした。それは、彼らには最も貴重なもの――自由があったからです。

【『怒り 心の炎の静め方』ティク・ナット・ハン:岡田直子訳(サンガ、2011年)】

 ティク・ナット・ハンは世界を代表する仏教者の筆頭格ともいうべき人物である。「行動する仏教」または「社会参画仏教」(Engaged Buddhism)の命名者でもある。映像からは温厚篤実そのものといった印象を受ける。話し方も実に穏やかで威圧感がまったくない。たぶん権威を嫌う人物なのだろう。

 これを三衣一鉢(さんねいっぱつ)と称する。出家とは世俗の象徴である家庭生活を捨てることだ。そして修行僧は乞食行(こつじきぎょう)を営む。彼らが目指す山頂は悟りの境地である。そのために物欲の否定からスタートするわけだ。

 今、恐るべきスピードで富の集中が進んでいる。先進国における格差拡大の要因はそれ以外に見当たらない。つまり格差の拡大は富の収奪を意味する。

 富裕層が使いきれないほどの富を更に膨らませている。人間の欲望には限りがない。世界から飢えがなくならないのも欲望が膨張し続ける証拠であろう。

 大航海時代(15~17世紀)に始まる資本主義こそは欲望のビッグバンともいうべき大事件であった。その後は植民地主義、黒人奴隷、インディアン虐殺、アメリカ建国まで一直線上にある。

 余談が過ぎた。富裕層は心の安心を富で量る。逆から見れば彼らの富は不安に支えられているといってよい。なぜなら富が失われてしまえば彼らには何も残らないからだ。後継者が失敗する可能性もある。それゆえ彼らは独自のネットワークを形成する。ま、秘密結社やサロンみたいな代物だ。ヨーロッパの歴史は教会と秘密結社の歴史といっても過言ではない。

 不安ゆえにネットワークを作る。そして不安ゆえに秘密を共有する。そんな彼らが落ち着いてぐっすりと眠れるわけがない。彼らの富は貧しき者たちの疲弊と死によって築かれているのだから。

 富める者は富によって不自由である。所有と自由は相反する価値であることを我々は知らねばならない。

怒り(心の炎の静め方)

怒りは人生を破壊する炎
所有
無である人は幸いなるかな!/『しなやかに生きるために 若い女性への手紙』J・クリシュナムルティ

2013-09-02

『阿含経典』増谷文雄訳(筑摩書房、1979年/ちくま学芸文庫、2012年)

阿含経典1 存在の法則(縁起)に関する経典群 人間の分析(五蘊)に関する経典群 (ちくま学芸文庫)阿含経典2 人間の感官(六処)に関する経典群 実践の方法(道)に関する経典群 詩(偈)のある経典群 (ちくま学芸文庫)阿含経典3 中量の経典群/長量の経典群/大いなる死/五百人の結集 (ちくま学芸文庫)

 ブッダはなにを語り、どのように説いたのか。その教えを最も純粋なかたちで伝える最古層の重要な仏教経典の集成。阿含=アーガマとは伝承されてきた聖典を意味する。これらの経典群のなかには、あらゆる宗派を超えた仏教の原初のすがたがあり、その根本がある。本書は厖大な阿含経典群のなかから、よく古形を保ち、原初的な経と判定される諸経をとりあげ、パーリ語原典からの現代語訳と注解で構成。第1巻は、ブッダの悟りの内容を示す「存在の法則(縁起)に関する経典群」と、その法則に即して人間をかたちづくる要素を吟味した「人間の分析(五蘊)に関する経典群」を収録する。

 第2巻は、ブッダの認識論「人間の感官(六処)に関する経典群」と、最初の説法の記録「実践の方法(道)に関する経典群」、それに祇園精舎を訪れた人々との問答とエピソードを収録。

 第3巻は、ブッダとその弟子たちの説法、出家、修行、さとりの消息などの仏教の根本思想と、ブッダの大いなる死を記した「大般涅槃経」、それに経典編集の実情にかんする資料を収録。

中村元-岩波文庫
『原始仏典』中村元監修、森祖道、橋本哲夫、浪花宣明、渡辺研二、岡野潔、入山淳子、岡田行弘、岡田真美子、 及川真介、羽矢辰夫、平木光二、松田慎也、長尾佳代子、勝本華蓮、出本充代訳(春秋社、2003年)

2013-08-16

テーラワーダはテーラー和田?


 笑った。ネタと思わせない芸の細かさが光る。

2013-05-07

渇愛の原語は「好ましい」「いとおしい」/『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英


『つぎはぎ仏教入門』呉智英

 ・渇愛の原語は「好ましい」「いとおしい」

『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑
『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉

宮崎●愛の問題はどうですか。たとえば「ダンマパダ」や「ウダーナヴァルガ」で、ブッダは繰り返し「愛する者に会うことなかれ」と戒めています。なぜかというと、「愛」もその対象も必ず変滅するからです。経典には「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない」とすら記されてある。

呉●トリシュナー(サンスクリットの「渇き」)だね。愛の問題はね、いろんなところで何度も言ってますが、日本人の中で愛がものすごく大きな原理になってきたのは1970年ぐらいからで、それまではそんなに愛っていうのは大きな原理ではなかった。

宮崎●ダンマパダの、この偈の“愛”はパーリ語のピヤで、渇愛というよりは単純に「好ましい」「いとおしい」ぐらいの語意なんですが、それでもこのように否定的に語られているのが興味深い。

【『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英〈くれ・ともふさ〉(サンガ、2012年)】

 宮崎哲弥が“評論家の師匠”と呼ぶ呉智英との対談。マンガネタも豊富。一日で読み終えた。

 同様のテーマは『大パリニッバーナ経』でもアーナンダとのやり取りで「婦人を見るな」とブッダが断言する件(くだり)がある。

 ここらあたりでつまずく人も多いと思われるので少々解説しておこう。

 仏教の哲学性は万人に共通する「苦」を見つめることであった。仏典で仏は医師に喩(たと)えられる。マッサージ師ではない。つまり極言すればブッダの狙いは「抜苦」にあったわけで、最初から「与楽」を目指したものではない。

 果たして苦はどこから生まれるのか? ブッダの瞳は「我」(が)を捉えた。更に我の構成要素をも見極め、瞑想の深度は時空を超えて遂に成道(じょうどう)する。

 日本では愛と聞けば大半の人々が恋愛を思う。呉が1970年台からと指摘しているのは、ベトナム戦争反対運動のラブ&ピースや、ビートルズからフォークを経てニューミュージックに至るサブカルチャー・ムーブメントを指すのだろう。恋愛結婚が増えたのも戦後になってからのことだ。

 恋愛は愛なのだろうか? 私の10代を振り返ってみよう。恋愛感情は断じて愛ではなかった。単なる欲望であった(笑)。それこそ渇愛そのものだ。ただただ相手を手に入れたいという衝動に駆られていた。恋愛が美しいのは、ま、そうだな、最初の1週間くらいだろうな。10年以上連れ添った夫婦を見てごらんよ。半分以上はそっぽを向いているから。

 ブッダが明かしたのは苦と快楽が表裏一体であることだった。欲望がプラスに傾くと快楽で、マイナスに傾くと苦になるわけだ。愛憎もまた表裏一体だ。

 美味しいものを食べれば食べるほど、日常の食事がまずくなるようなものだ。快楽が比較を生み、比較が不幸を感じさせる。比較には限度がない。欲望は更なる高みを目指す。

 愛する者がいるゆえに悲哀が深まる現実を見失ってはなるまい。愛と喪失感は比例関係にある。だがこの愛は仏教的視座に立てば「自我の延長」と見ることが可能だ。

 好き嫌いというのは反応である。道徳的な理由であろうと進化的な理由であろうと反応に過ぎない。生の本質は反応である。政治・経済・科学・宗教・文化といってもそこにあるのは反応だ。

 我々の人生はビリヤードの球みたいなものだ。ある時は教育というキューでつつかれ、またある場合には他人が決めたコースを無理矢理走らせられる。そしてメディアは常に大衆の欲望を操縦する。

「好きこそものの上手なれ」とも言う。確かに技術においてはそうだろう。しかしこれが人生に反映されると機械的な生き方となってゆくことを避けられない。

 欲望は現在性を見失わせる。満たされぬ渇(かわ)きに支配された人は荘厳な夕日の美しさに決して気づくことがない。彼の目は自分の将来しか見つめていないからだ。

知的唯仏論さみしさサヨナラ会議宮崎哲弥 仏教教理問答つぎはぎ仏教入門 (ちくま文庫)

2013-04-27

長尾雅人と服部正明/『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集


『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵

 ・長尾雅人と服部正明
 ・序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり

『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳
・『神の詩 バガヴァッド・ギーター』田中嫺玉訳
スピリチュアリズム(密教)理解のテキスト

 今読んでいる『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人〈ながお・がじん〉責任編集(中央公論社、1969年/中公バックス改訂版、1979年)の序文「インド思想の潮流」(長尾雅人、服部正明)がすこぶる面白い。私は数年前から日蓮の教えが初期仏教よりも、むしろバラモン教と親和性が高いことに気づいた。マンダラ&マントラという化儀(儀式性)は密教由来と考えられるが、その根っこはやはりバラモン教にあったと思われる。この持論の根拠となり得る記述をいくつか見出した。しかも決定的だ。

 続いて『世界の名著2 大乗仏典』長尾雅人責任編集(中公バックス、1978年)に取り組み、更に以下の書籍を読む予定である。

仏教の源流―インド (中公文庫BIBLIO)古代インドの神秘思想 (講談社学術文庫)認識と超越「唯識」―仏教の思想〈4〉 (角川文庫ソフィア)

2013-03-27

中道の極意/『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ


 聖者は愚かな見かけ倒しです。これを見ることが英知です。このような英知はその両極端の対極へと移ってはいきません。英知は両極端を理解し、それゆえそれを避ける敏感さなのです。しかし、それはその両極端の中間にとどまる、用心深い凡庸さではありません。このすべてを明晰に知覚することが、それについて学ぶことです。あることを学ぶためには、一切の結論や偏見から自由でなければなりません。そうした結論や偏見は、意図したり支配したりしようとする中心、つまり自我からの観察なのです。

【『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ:松本恵一訳(めるくまーる、1992年)】

 これが「中道」の極意である。中道は中庸に非ず。

自己の変容 新装版 自己の変容 クリシュナムルティ対話録
(※左が新装版、右が旧版)

体験は真実か?/『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ

2012-10-13

スリランカ仏教と神智学協会


 このように,スリランカ仏教と神智協会(※神智学協会)との関わりは,イギリス植民地支配のもとで,キリスト教への反発から仏教王権が回顧されていた時期に生まれた。仏基論争に触発されたオールコット(※ヘンリー・スティール・オルコット)とブラヴァツキーの2人は,1880年5月に,1人のイギリス人,5人のインド人とともにスリランカを訪れた。オールコットは,すでに1879年より教義論争の主役であったグナーナンダ師やスマンガラ師と親交を結んでいた。そのため,スリランカの側からも,その来島が待望されており,いわば,西洋の仏教理解者のチャンピオンとして歓迎されたのである。

「儀礼の受難 楞伽島綺談」杉本良男、P48(PDF)/一部に注(※)を施した】

「比較による真理の追求 マックス・ミュラーとマダム・ブラヴァツキー」杉本良男(PDF)

 下記リンクの論文では、スワミ・ヴィヴェーカーナンダが神智学協会を批判した事実にも触れている。

2012-10-07

本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ


 ・ただひとりあること~単独性と孤独性
 ・三人の敬虔なる利己主義者
 ・僧侶、学者、運動家
 ・本覚思想とは時間論
 ・本覚思想とは時間的有限性の打破
 ・一体化への願望
 ・音楽を聴く行為は逃避である

『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 3』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 4』J・クリシュナムルティ

 サンニャーシ、同胞愛の士そしてユートピア主義者のいずれも、明日のため、未来のために生きている。かれらは世間的な意味では野心的ではなく、栄光も富も人に認められることも望んでいない。しかしかれらは、もっと微妙な形で野心的なのである。ユートピア主義者は、世界を再生させる力があると彼の信じているある集団と自分を一体化させていた。同志愛の士は、精神的高揚を渇望しており、サンニャーシは自分の目標に到達することを願っていた。いずれも彼ら自身の成就、目標達成、自己拡張に汲々としていた。かれらは、そうした願望こそが、同胞愛を、そして至福を否定するものであることが分かっていないのだ。
 いかなる種類の野心も――それが集団のため、自己救済、あるいは霊的(スピリチュアル)な成就のためであれ――行為を先へ先へと引き延ばすことである。願望は常に未来に関わるものであり、何かになりたいという願いは、現在において何もしないことである。現在(いま)は明日よりもはるかに重要な意義を持っている。【いま】の中に一切の時間があり、そして【いま】を理解することがすなわち、時間から自由になることなのである。何かに【なろうとすること】は、時間を、悲嘆を持続させることである。【なること】は、【あること】を含まない。【あること】は、常に現在におけることであり、【あること】は、変容の至高形態である。【なること】は、限定された持続にすぎず、根源的変容は、ただ現在のうちに【あること】のうちにのみある。

【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年)】

 書名で検索したところ自分で書いた記事を発見した。削除しようかとも思ったのだが、面倒だからそのままにしておく。私の場合、45歳を過ぎてから精神的に目まぐるしい変化を遂げているので主張の変化が激しい。

 今回紹介してきたのは「三人の敬虔なる利己主義者」と題された冒頭のテキストである。オルダス・ハクスレーに促されて書き始め、クリシュナムルティにとっては初めての著作となった(※それ以前に講話集は刊行されている)。

 第二次世界大戦が迫る中で平和を説くクリシュナムルティを人々は受け入れなかった。トークの途中で去ってゆく人々もいた。戦争が始まり、クリシュナムルティは1940年から4年間にわたって講話を中断した。

コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ

 人々が殺戮へと駆り立てられる中でクリシュナムルティは沈黙のうちにペンを執った。

 最初に書かれたのは「時間の終焉」についてであった。これはデヴィッド・ボームとの対談集タイトルにもなっている(『時間の終焉 J・クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集』渡辺充訳、コスモス・ライブラリー、2011年)。

 人生には限りがある。その時間的限定性を打ち破ろうとすれば、ただ現在に生きるしか道はない。将来や来世は所詮自我の延長戦だ。あたかも連続ドラマのように「続く」と終わりたいわけだ。残念ながら続かないよ(笑)。自我なんてものは、脳内で反復し続ける反応に過ぎないのだから。その意味から申せば、「心」や「命」という言葉は概念としては存在するが決して実在するものではない。ゆえに諸法無我となるわけだ。


 時間的有限性を死後に延長するのではなくして、現在という瞬間に無限に押し広げてゆく。これが本覚思想の本質である。検索してみたところ、私以外には本覚思想を時間論で捉えている人はいないようだ。嚆矢(こうし)と威張ってみせたいところだが、ま、クリシュナムルティのパクリに過ぎない(笑)。

「【なること】は、【あること】を含まない」――簡にして要を得た言葉は悟りそのものだ。しかも、「なること」に潜む野心まで明かしている。理想とは形を変えた欲望なのだろう。我々は自我を満たすためにあらゆるものを利用する。時間的な経過が欠乏感を埋めることは決してない。今日よりは明日に、そして今世よりは来世に希望を託しながら現在の不幸を忍ぶ。

 簡単な思考実験をしてみよう。もしもあなたが「明日までの命」と医師に告げられたとしたら、最後の24時間は中途半端で無駄な時間なのだろうか? 大病を経験した人々の多くが劇的な生の変貌を遂げる。医師の井村和清は『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』の中で「世界が光り輝いて見えた」体験を綴っている。これが本覚(ほんがく)だ。






k1

時間を超える/『こうして、思考は現実になる』パム・グラウト
愚かさをありのままに観察し、理解する
『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
自由は個人から始まらなければならない/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

2012-10-06

本覚思想とは時間論/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ


 ・ただひとりあること~単独性と孤独性
 ・三人の敬虔なる利己主義者
 ・僧侶、学者、運動家
 ・本覚思想とは時間論
 ・本覚思想とは時間的有限性の打破
 ・一体化への願望
 ・音楽を聴く行為は逃避である

『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 3』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 4』J・クリシュナムルティ

 彼(※サンニャーシ)の関心と活力とはすべて、自分が来世においてきっとひとかどの者になるのだという確信に向けられていた。われわれはかなり長いこと話し合ったが、彼の強調点は常に、明日、未来に置かれていた。彼は言った、過去は存在するが、それは常に未来との関係においてである、と。現在は単に、未来への通路にすぎず、今日は明日あるがゆえにのみ興味を与えるにすぎないのである。もしも明日がなければ、――彼は問うた――努力して何になるのか? そうならば、人はぼんやりと、おとなしい牛のようにしている方がましだ、と言うのである。
 生の全体は、過去から現在の瞬間を通って未来へと続く、一個の連続運動である。彼は言った、われわれは、未来において何かになるために現在を利用すべきなのだ、と。そしてその何かとは、賢明で、強く、情け深くなることである。現在も未来もともに一時的ではあるが、果実が熟するのは明日においてのみなのである。今日は踏み石にすぎないから、それについて気を使いすぎたり、あれこれ言いすぎてはいけない、と彼は強調した。われわれは、明日の理想を明瞭にし続け、それに向けて首尾よく旅しなければならないのである。要するに、彼には、現在ががまんならない代物だったのである。

【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年)】

 来世や将来を重んじることは「現在を軽視する」という点で一致している。よく考えてみよう。技術の獲得や学問の体得には時間を要する。確かに蓄積や経験が必要だ。しかし「生のアート」を同じ次元で考えてはなるまい。真の幸福が自由を悟ることであれば、それは技術ではないはずだ。

 知識の習得と聡明であることも同様だ。こうしたことを混同するがゆえに我々の生は技術志向となり、機械化してゆくのである。ただ、のんべんだらりと寿命を永らえることを「生きる」とはいわない。

「成仏」という言葉には二つの読み方がある。「仏に成(な)る」と「仏と成(ひら)く」。「なる」と読めば来世志向で、「ひらく」と読めば本覚論である。

本覚論の正当性/『反密教学』津田真一

 つまり本覚思想とは時間論なのだ。凡夫即仏は「凡夫がそのまま仏」という意味ではなくして、「凡夫であり仏でもある」と読むのが正しいのだろう。煩悩即菩提も一緒だ。「煩悩がそのまま菩提と【なる】」と読むのではなく、「煩悩があり菩提も具(そな)わる」と水平次元で見つめているのだ。左脳に煩悩、右脳に菩提ってわけだよ。

 もうひとつ付言すると、日蓮遺文において本覚思想が濃厚なものは偽書の可能性が高いと判断されているが、ひょっとすると作成者の意図は「初期仏教への原点回帰」にあったのかもしれない。

 サンニャーシ(出家者)の言葉を吟味してみよう。「過去は存在するが」――本当にそうだろうか? 存在するのであれば確認できるはずだ。では過去はどこにあるのだろうか? それは「記憶」の中だ。もう一歩突っ込むと、「現在の記憶」の中に過去は存在するのだ。記憶喪失や日常的な忘却によって消えてしまうような存在といってよい。

 人生は川の流れに例えられる。過ぎ去った流れを辿ることは可能だろう。しかし観測した時点でそれは現在となるのだ。おわかりだろうか? 本当は過去も未来も存在しない。我々はただ「現在」を生きるのだ。

川はどこにあるのか?

 資本主義経済は全参加者を「ひとかどの者になる」競争へと駆り立てる。我々は今日の苦役に耐えながら明日を目指して走り続ける。「24時間戦えますか」(リゲインCM)――戦えるとも。こうして多くの人々が過労死していった。

 人間最後は死ぬのである。理想主義や未来志向は死によって灰燼(かいじん)に帰す。【続く】

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈2〉生と覚醒のコメンタリー〈3〉クリシュナムルティの手帖より生と覚醒のコメンタリー〈4〉クリシュナムルティの手帖より

2012-09-30

本覚論の正当性/『反密教学』津田真一


 ・本覚論の正当性

本覚思想とは時間論/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 上級者向け。私の知識不足もあるのだろうが、どうもこの手の本は知に傾いて、溺れているような印象を受ける。ところどころで嫌な臭いが鼻につく。

 尚、「改訂新版」には「『法華経』・願成就の哲学」という論文が追加されている。

 個人的にはブルトマンを読んだ直後にブルトマンの名を目にしたのが嬉しい驚きであった。

新約聖書の否定的研究/『イエス』R・ブルトマン

 書き始めたものの遅々として進まないので、覚え書きを断続的に記しておこう。

「印」とは端的にシールあるいはスタンプ、すなわち何らかの文書や証書に或る人は法人の名前を押す印鑑、ないしは、それによって押されたその人や法人の名前の痕跡のことです。日本では、例えば詔勅といって天皇の声明や宣言が発せられるとき、それが書かれた紙に天皇の【印】、すなわち玉璽が押され、その声明や宣言の絶対性・絶対的な真理性を、その声明や宣言を発した主体である天皇の【存在】において表示します。天皇の【印】は天皇の権威の表示であり、それにとどまらず、さらに、天皇の【存在】の表示なのです。すなわち、その【印】において天皇が現にそこに存在している、さらに言うならば、その【印】が天皇をそこに存在せしめているのです。このことは、アナロジーとして、そのまま『法華経』が「実相」すなわち「法の自性」の「印」であることにあてはまります。

【『反密教学』津田真一(春秋社、2008年改訂新版/リブロポート、1987年)以下同】

 署名捺印の法的根拠もこの辺にあるのだろう。アナロジーについては以下を参照されよ。

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司
アナログの意味/『コンピュータ妄語録』小田嶋隆

 しかしだな、こんな言い分は所詮、大乗仏教ルールに基づく考えであって、外野~観客席~球場外の社会にまで響く言葉ではない。確かにシンボルという点ではマンダラを考えるヒントにはなり得る。だがそこを突き詰めてゆくと、必然的に言葉のシンボル性にまで辿り着いてしまう。「人間は個々の解釈世界に生きる動物である」と私が考えるのはこのためだ。経典・教義は受け手(=信者)の解釈によって歪められる。

 水戸黄門の印籠は水戸黄門そのものではない。にもかかわらず水戸黄門を直接知らない人々にとっては、本人以上に印籠の方が社会機能を果たすのである。これを悪用したのが印章偽造や印鑑盗難だ。

 つまり法華経が悟りや真理を表現したものであったとしても、それ自体が悟りそのものではないということだ。

一乗」とは、やはり、「すべての人は【成仏できる】」、「【仏になりうる】」という思想ではなく、(その前半において)「すべての人は【すでに仏なのである】」(【引用二】における第六一偈)という思想なのです。そして、(おなじ第六一偈における)「その請願はすでに満たされている」という一句が見落とされているが故に、敢えていうならば、件の〈『法華経』のゲニウス〉の見えざる手によって平川博士の慧眼さえも覆われていたが故に、博士ですら、ついにその認識には立ち得なかったのです。

 と前置きした上で津田はこう述べる。

 したがって、「一乗」とは、その完全な形式においては、(ひとまず、)

〈汝は(ないしは一切衆生は)すでに【仏なのである】〉  しかも、 〈汝は(ないしは一切衆生は、すでに【仏である】にもかかわらず、修行して自(みずか)ら仏に【なるべきなのである】)〉

 という命題によって指し示されるべき思想なのであります。この命題は、〈「直接法 INdikativ〉」、しかも、「命令法 Imperativ」〉という、完全な弁証法形式をとっておりますが、このことを念頭に入れた上で、議論を、さきに触れた問題、すなわち、『法華経』が「実相の【印】」、「法自性【印】」であるとして、この「一乗」ということをその「実相」、「法自性」とそのままイコールにしてよいのか、という問題、逆に言うなら『法華経』とはこの「一乗」という論理としての真理を説く経典なのだ、と言ってそこで終ってしまってよいのか、いや、そうではなくて、その奥にもう一つ真の問題、『法華経』の思想の究極の問題があるのではないか、という問題に戻したいと思います。

 これを卓見とすべきではあるまい。原典に忠実であろうとする求道心が誠実な解釈を可能にしたのだ。

 そもそも大乗仏教自体が教団の政治力学に彩られた存在であったことだろう。思想的進化といえば聞こえはよいが、その実態は政治性に基づいた理論武装であったと私は推察する。部派仏教を「小乗」と貶(けな)す姿勢に高い精神性は見受けられない。

 では私なりに敷衍(ふえん)してみよう。まず大前提として宗教はスポーツではない。これを見落とす人が意外と多い。スポーツや芸術など身体が伴う技能を有する人々はそれぞれ何らかの真理を探り当てている。我々はともするとこの延長線上に宗教や信仰を位置づける。

「するとあれか、練習なしでイチローになれるってことか?」とついつい考えがちだ。しかしそうではない。「悟る」とは「気づく」ことだ。気づきは老若男女という条件に支配されない。時に子供の言葉や詩歌に大人が深い感動を覚えるのもこれが理由だ。

子供の詩
『がんばれば、幸せになれるよ 小児ガンと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子
女子中学生の渾身の叫び/『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳

 すなわち悟りとは経験や学識に左右されるものではない。ここ、アンダーライン。修行をしなければ成仏できないとの論理は、大人にならなければ悟りを得られないと言っているようなものである。とすれば夭折(ようせつ)は修正の効かない不幸と化す。

 もしも悟りに時間を要するのであれば、「悟っていない現在」は否定される。このようにして我々は「何者かに【なる】」ことを強要されるのだ。「今がどんなに苦しくとも将来のために頑張れ」などと。

 時間を必要とするのは知識や技術であろう。悟りとは正真正銘の自由を意味する。ブッダはただ「離れよ」と教えたはずだ。

 現在という一瞬の中に無限の広がりを見つめたのが仏法である。瞑想は何十年も先のゴールを目指して行うべき代物ではあるまい。

 それでも尚、修行必要論にしがみつく大乗信徒どもに私は尋ねよう。「でさ、修行して悟りを開いた人ってどこにいるの?」と。悟りが「教わるもの」であれば、それは知識なのだ。

「〈汝は(ないしは一切衆生は、すでに【仏である】にもかかわらず、修行して自(みずか)ら仏に【なるべきなのである】)〉」――同じことをクリシュナムルティが鮮やかに言い切っている。

「いったんはじめられ、正しい環境を与えられると、気づきは炎のようなものです」 クリシュナムルティの顔は生気と精神的活力で輝いた。「それは果てしなく育っていくことでしょう。困難は、その機能を活性化させることです」

【『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ:大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】

 クリシュナムルティの言葉が次々と浮かんでくる。「あなた――あなたの身体、感情、思考――は、過去の結果です。あなたの身体はたんなるコピーなのです」「理想を否定せよ」「あらゆる蓄積は束縛である」「心は心配事から自由でなくてはならない」「悟りはそれ自体が歓喜である」「生それ自体が君の師で、君は絶えず学んでいる境地にいます」「〈もっとよいもの〉は〈よいもの〉ではありません」「〈真理〉は途なき大地であり、いかなる方途、いかなる宗教、いかなる宗派によっても、近づくことのできないものなのです」……。

人はどのようにして変容し、『なる』(ビカミング)から『ある』(ビーイング)ことへのこの根源的変化を起こしたらいいのでしょう?」――クリシュナムルティの問いかけによって私は本覚論の本質を悟った。

 こうしたことは既に事実として判明しつつある。ジル・ボルト・テイラー著『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』によれば、右脳は常に悟っている状態らしい。

反密教学奇跡の脳: 脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)