2009-07-11

ネアンデルタール人も介護をしていた/『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠


 ・ネアンデルタール人も介護をしていた

『病が語る日本史』酒井シヅ

 人類の進化をコンパクトにまとめた一冊。やや面白味に欠ける文章ではあるが、トピックが豊富で飽きさせない。

 例えば、こう――

 北イラクのシャニダール洞窟で発掘された化石はネアンデルタール人(※約20万〜3万年前)のイメージを大きく変えた。見つかった大人の化石は、生まれつき右腕が萎縮する病気にかかっていたことを示していた。研究者は、右腕が不自由なまま比較的高齢(35〜40歳)まで生きていられたのは、仲間に助けてもらっていたからだと考えた。そこには助け合い、介護の始まりが見て取れたのだ。「野蛮人」というレッテルを張り替えるには格好の素材だった。

【『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠(講談社現代新書、2005年)】

 飽くまでも可能性を示唆したものだが、十分得心がゆく。私の拙い記憶によれば、フランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』(早川書房、2005年)には、チンパンジーがダウン症の子供を受け入れる場面が描かれていた。

 広井良典は『死生観を問いなおす』(ちくま新書、2001年)の中で、「人間とは『ケアする動物』」であると定義し、ケアをしたい、またはケアされたい欲求が存在すると指摘している。

人間とは「ケアする動物」である/『死生観を問いなおす』広井良典

 つまり、ケアやホスピタリティというものが本能に備わっている可能性がある。

 ネアンデルタール人がどれほど言葉を使えたかはわからない。だが、彼等の介護という行為は、決して「言葉によって物語化」された自己満足的な幸福のために為されたものではあるまい。例えば、動物の世界でも以下のような行動が確認されている――

「他者の苦痛に対するラットの情動的反応」という興味ぶかい標題の論文が発表されていた。バーを押すと食べ物が出てくるが、同時に隣のラットに電気ショックを与える給餌器で実験すると、ラットはバーを押すのをやめるというのである。なぜラットは、電気ショックの苦痛に飛びあがる仲間を尻目に、食べ物を出しつづけなかったのか? サルを対象に同様の実験が行なわれたが(いま再現する気にはとてもなれない)、サルにはラット以上に強い抑制が働いた。自分の食べ物を得るためにハンドルを引いたら、ほかのサルが電気ショックを受けてしまった。その様子を目の当たりにして、ある者は5日間、別のサルは12日間食べ物を受けつけなかった。彼らは他者に苦しみを負わせるよりも、飢えることを選んだのである。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)】

「思いやり」などといった美しい物語ではなく、コミュニティ志向が自然に自己犠牲の行動へとつながっているのだろう。そう考えると、真の社会的評価は「感謝されること」なのだと気づく。これこそ、本当の社会貢献だ。

 人間がケアする動物であるとすれば、介護を業者に丸投げしてしまった現代社会は、「幸福になりにくい社会」であるといえる。家族や友人、はたまた地域住民による介護が実現できないのは、仕事があるせいだ。結局、小さなコミュニティの犠牲の上に、大きなコミュニティが成り立っている。これを引っ繰り返さない限り、社会の持続可能性は道を絶たれてしまうことだろう。

 既に介護は、外国人労働力を必要とする地点に落下し、「ホームレスになるか、介護の仕事をするか」といった選択レベルが囁かれるまでになった。きっと、心のどこかで「介護=汚い仕事」と決めつけているのだろう。我々が生きる社会はこれほどまでに貧しい。

 せめて、「飢えることを選んだ」ラットやサル並みの人生を私は歩みたい。


頑張らない介護/『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね

2009-07-09

束縛要因/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム


 ・服従の本質
 ・束縛要因
 ・一般人が破壊的なプロセスの手先になる
 ・内気な人々が圧制を永続させる
 ・アッシュの同調実験

『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス
『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ
『マインド・コントロール』岡田尊司
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー

権威を知るための書籍
必読書リスト その五

 社会心理学を確固たる学問の領域に高からしめた名著。人類が犯してきた虐殺の歴史や、オーウェルが『一九八四年』(あるいは『動物農場』)で描いた全体主義の構造を説き明かしたといっても過言ではない。(※『一九八四年』は高橋和久訳で今月復刊予定)

 美しい言葉で人権の重みを説かれるよりも、「人間はこのように反応するのだ」という現実が衝撃的だ。

 ミルグラム実験はアイヒマン実験とも言われる。新聞広告で「記憶に関する実験」の被験者を募集。被験者は教師役と生徒役に振り分けられる。そして、生徒が質問に間違えると電気ショックを与えるというもの。間違いが続くと、電流の強いショックが与えられる。電流は15ボルトから始まり、450ボルトに至る。

 実は生徒役がサクラだった。電流も実際は流れていない。システマティックな実験手法は、被験者が躊躇した際、あらかじめ決められたセリフで実験を促すことになっていた。生徒役が苦痛の叫び声を上げ、反応しなくなっているにもかかわらず、教師役の多くが指示に従ってしまう。ミルグラムはまず、道徳的判断の脆弱(ぜいじゃく)さを指摘する――

 この状況での適切な行動について道徳的判断を下せと言われたら、みんな非服従が正しいと言うだろう。だが実際に進行中の状況で作用するのは、価値判断だけではない。価値観は人に影響するあらゆる力の中で、非常に狭い幅しかない動因の一つでしかない。多くの人は行動の中で自分の価値を実現させられず、自分の行動に不服だったのに、実験を続けてしまった。

【『服従の心理』スタンレー・ミルグラム:山形浩生〈やまがた・ひろお〉訳(河出書房新社、2008年/河出文庫、2012年/同社岸田秀訳、1975年)以下同】

「自由な世界」とは「たった一人の世界」であろう。人間社会は人の数に応じて力学が働き、それぞれのコミュニティが形成する別々の世界がある。「郷に入っては郷に従え」。「実験室に入ったら管理者に従え」。

 個人の道徳観の力は、社会的な神話で思われているほど強いものではない。道徳律の中で「汝、殺すなかれ」といった能書きはずいぶん高い位置を占めるが、人間の心理構造の中では、それに匹敵するほど不動の地位を占めているわけではない。新聞の見出しがちょっと変わり、徴兵局から電話があって、肩モールつき制服の人物から命令されるだけで、人々は平然と人を殺せるようになる。心理学の実験で動員できる程度の力でさえ、かなりのところまで個人の道徳的抑制を取り除いてしまう。情報と社会的状況を計算ずくで再構成すれば、道徳的要因はかなり簡単に脇に押しやれるのだ。

「情報と社会的状況を計算ずくで再構成すれば」とは、評価基準を変えることである。たったそれだけの操作で、殺人を競い合わせることが可能になるのだ。では、あっさりと道徳を踏みつけて服従する背景には何があるのか。ミルグラムは「束縛要因」を指摘する――

 では、人が実験者に服従し続けるのは何が原因なのだろうか。まず、被験者をその状況に縛りつける「束縛要因」がある。被験者自身の礼儀正しさ、実験者を手伝うという当初の約束を守りたいという願望、途中で止めるのが気まずいといった要因だ。第二に、権威と手を切ろうとする決意を弱めるような、各種の調整が被験者の思考の中で起こる。こうした調整は、被験者が実験者との関係を保つ一方で、実験的な葛藤から生じる緊張を和らげる働きを持つ。これは抵抗できない第三者を害するような行動を権威に指示されたとき、服従的な人物の中で生じがちな考え方の典型となる。

 これは、マズローの欲求段階説と照らし合わせるとわかりやすい。我々は平和を享受しながら自己実現を望むが、こんなものは三角形の上の狭い部分に過ぎない。戦争ともなれば、食うことが先決であり、生きることとは相手を殺す意味になるのだ。状況は一変する。

 基本的欲求は三角形の下層になるほど生死に関わっていて深刻だ。つまり、服従心理の深層には、「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」「承認の欲求」が複雑に絡み合っていると考えられる。これを、「生きるための経済的合理性」と言い換えてもいいだろう。

 服従実験は、ヒトという動物が簡単にコントロールされることを証明してしまった。少なからず実験に抵抗した人物も存在した。だが、この人々に妙な理想を託すべきではないだろう。集団力学に抗しきれない人間心理の現実を受け入れるのが先決だ。


2009-07-05

キティ・ジェノヴィーズ事件〜傍観者効果/『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス


『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 ・服従心理のメカニズム
 ・キティ・ジェノヴィーズ事件〜傍観者効果
 ・人間は権威ある人物の命令に従う
 ・社会心理学における最初の実験

『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ
『マインド・コントロール』岡田尊司

権威を知るための書籍

 28歳の魅力的な女性キティ・ジェノヴィーズが1964年に刺殺された。この事件が注目されたのは、38人もの目撃者がいながら、誰一人警察に通報する者がいなかったためだ――

 もっと前の1964年には、ミルグラムとポール・ホランダーは、キティ・ジェノヴェーゼ(ママ)事件についての「解説記事」を『ザ・ネイション』に共同で執筆している。
 キティ・ジェノヴェーセ(ママ)は28歳の魅力的なバーの経営者で、1964年3月13日の夜、クイーンズのキュー・ガーデンにある自分のアパートへ帰る途中に殺された。犯人は彼女の後をつけ、30分以上もの間何度も刺したのである。その後、ジャーナリストが調べたところわかったのは、近所に住んでいた38人がその殺人事件を少なくとも一部分を目撃したか、あるいは「助けて」という叫びを聞いていたが、一人も助けに出てこなかった。これには国中が衝撃を受けた。そして、これは都市生活がもたらす疎外の象徴となったのである。また、この事件は、ニューヨークの二人の心理学者であるコロンビア大学のビブ・ラタネとニューヨーク大学のジョン・ダーレイが「傍観者の効果」についての一連の実験をはじめるきっかけとなった。こうしたことから、一般の人たちも社会心理学に対する興味を持ち始めたのである。
『ザ・ネイション』の記事は、キティ・ジェノヴェーゼが襲われて殺される間、住民たちが何もしないという状況を生んだのが、都市に住むことがもたらす行動上の帰結の一つであるということを指摘する概念的な分析であった。ミルグラムとホランダーが論じたのは、このような治安のよい地域では、暴力行為のようなものが発生するということは思いもかけないし、また、その地域には似合わないということだ。そこで、住民たちの多くは、若い女性が殺されるというような非常事態が発生していることを受け入れることさえもできなかったのである。かわりに人びとはこの出来事を、よりもっともらしく、心を悩ますことのないものであると考えようとした。たとえば、恋人同士のケンカや、酔っぱらいが騒いでいるだけであるというような解釈をしがちになるのである。こうした悲劇的な事件が起こると怒りのために一般大衆の見解は焦点がぼやけてしまうことが多いが、この記事は、合理的でなおかつ断罪的ではないほかでは見られないような考え方を示している。「この38人の目撃者に対して正義という概念から非難をするときには、目撃者たちは殺人を犯したのではなく、それを阻止するのを失敗したに過ぎないということを忘れてはならない。この間には道徳的な点での違いがある」。

【『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス:野島久男、藍澤美紀〈あいざわ・みき〉訳(誠信書房、2008年)】

傍観者 - ありふれた生活、いくつもの週末、日日是好日
Kitty Genovese キティ・ジェノヴェーゼ事件
キティ・ジェノヴィーズ事件
傍観者効果
(※尚、表記に関しては、キティ・ジェノベーゼ、キティ・ジェノヴィーゼなどがある)

 昨年、日本でも同様の事件があった(「バスで携帯を注意の男性に暴行、死なせた58歳を送検」)。尚、Wikipediaのリンク先にJ-CASTニュース「車内レイプしらんぷり 『沈黙』40人乗客の卑劣」という記事があるが、「男が泣いている女性を連れて行ったのだから、レイプを予測できたはずだ」という勝手な憶測に基づいており、読み手のマイナス感情を煽るだけの稚拙な内容となっている。

 ミルグラムの服従実験が1963年に行われている。そして、翌年に起こったこの事件で、それまで軽んじられていた社会心理学がクローズアップされることとなった。つまり、都市化が進むに連れて孤独な人間が増えたという背景があった。

 アッシュの同調実験や、それを発展させたミルグラムの服従実験は、社会という関係性から同調や服従の心理メカニズムを読み解いている。だが、キティ・ジェノヴェーゼ事件における「傍観」は、テレビの影響もあったのではないかと私は考える。テレビという媒体はスイッチを入れた途端、我々に傍観を強いる装置である。決して参加することはできない。それどころか、テレビ局のスタジオにいるギャラリー――あるいはサクラ、またはアルバイト――を第一傍観者とするならば、テレビ視聴者は二重の意味で傍観していることになるのだ。傍観地獄。手も足も出ない。

 日米間の衛生中継が開始されたのが1963年11月22日(日本時間は23日)だった。この時、流れてきたのが何とケネディ大統領暗殺というニュースだった。

初の太平洋横断テレビ中継でケネディ暗殺放映
衝撃のケネディ暗殺(日米衛星中継)プロジェクトX

 実は、私が生まれた年の父の誕生日でもあった。

 当然、アメリカ国内においてテレビは普及していたと見ていいだろう。それまでは、映画やスポーツ観戦など、直接足を運んで見物していた(=傍観者)わけだが、テレビによって傍観は日常的な行為へと昇格した。これ以降、確実に「傍観する癖」がついたはずだ。

 マスコミュニケーションやマスメディアの「マス」とは、「多数、大量」「一般大衆」との意味である。テレビの前で呆(ほう)ける私は自動的に「大衆の一部」となり、細分化・断片化される。この自覚が傍観を強化しているのではないか。ブラウン管の向こう側にいるみのもんたと私との間には、彼岸と此岸ほどの乖離(かいり)がある。

 その意味から言えば、ミルグラムの「阻止するのを失敗した」という指摘は十分冷静なものであるが、私の考えだと「コミット(関与)できる立場を自覚できなかった」ということになる。

 キティ・ジェノヴィーズは、あと10分早く病院に運ばれていれば命が助かったという。しかし、刺されてから既に1時間も経過していた。

2009-07-03

帝国主義による経済的侵略/『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン


 ・信用創造のカラクリ
 ・帝国主義による経済的侵略

『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳、グループ現代

 ポーカーとトレードに共通する心理に迫りながら、「経済とはギャンブルに過ぎない」と断言している。具体的なポーカーネタが多いのだが、無視してもお釣りが来る内容だ。とにかく文章が闊達で警句の趣がある。

 私は以下のテキストを帝国主義による経済的侵略の姿として読んだ――

 昔ながらの生活を送っているある先住民が、10枚の鹿皮と引き換えに、20頭の鹿を殺せるだけの銃と弾薬の提供を受けたとしよう。
 これは素晴らしい取引のように思われる。銃を使えば弓矢を使うよりも狩りがずっと簡単になる。これだけの鹿肉があれば村中を一冬養えるし、取引の後に残った10枚の鹿皮を使って、金属製のナイフや毛布や、そのほか手作業で作るのは骨が折れるか不可能な物品を買うこともできる。
 問題なのは、鹿皮に換算した弾薬の価格がどんどん上がっていくことだ。彼はほどなくして、働きどおしても何とか生きていけるだけの物品しか得られないことに気づく。もはや村中を養うどころか、一家族を養うことすらできない。彼は弾薬の提供者のなすがままになり、飢え死にしたくなければ、いかなる屈辱にも甘んじなければならない。
 とはいえ、元の生活に簡単に戻れるわけでもない。そもそも伝統的な生産環境は複雑で、長い時間をかけてものを収集し、植え付け、乾かしたり風味を付けたりなどして加工する必要がある。こうしたことをおろそかにすると、一からやり直すことは難しい。技術は忘れ去られ、専門家も散ってしまった。
 獲物も捕らえにくくなった。集中的な銃猟が鹿の頭数を減らし、鹿を用心深くさせてしまったからだ。そしておそらく何よりも重要なのは、今や隣人たちが銃を持っているということだ。つまり銃を持たなければ、自分の身を守れない。

【『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン:櫻井祐子訳(パンローリング、2008年)】

 経済的発展が伝統文化を破壊する。それだけではない。今まで仲良く暮らしていた人々の間に、不信感を渦巻かせ、敵意を抱かせ、遂には反目させ合うまでに至るのだ。内部に撹乱(かくらん)要因をつくるという手口は、現在のアメリカが中東に対して行っているものだ。

 麻薬や覚醒剤の類いだってそうかも知れない。エシュロンがあるにもかかわらず、いまだに撲滅することができないのは、やる気がないという問題などではなく、大国を動かす権力者のコントロール下にあることを示しているのではないか? きっとアヘン戦争で味を占めたのだろう。販売窓口となっているギャングや暴力団の類いは、完全な支配化に治められている。

 資本主義というシステムの問題は銀行にある。銀行が行っているのは、レバレッジ1000倍の貸付業務なのだ。

 だが、アーロン・ブラウンの指摘を踏まえると、お金そのものが問題なのかも知れない。尚、著者はインチキギャンブラーではなく、モルガン・スタンレーの常務取締役である。

 貨幣は等価交換を可能にした。だが、「等価」とは何なのだろう? それを誰が判断するのか? 等価の代表選手といえば金融マーケットである。株式にせよ、為替にせよ、売買が成立するには必ず一対の合意が形成されている。上げ相場だろうが、下げ相場だろうがそれは変わらない。最終的には同じ数だけの売り手と買い手が存在する。だから、「トレード」(交換)というのだ。

 つまり、マーケットが自由競争というルールで機能していれば、価格には根拠があると考えられる。しかし、だ。自由競争で動いているのかね? 例えば、国家単位の年金運用なんぞが恣意的な売買をしちゃいないだろうかね? しているよ。間違いなくしている。それが証拠に、日本は米国債を絶対に売れない。売らないのではなく、「売れない」のだ。

(※1997年)6月23日、米コロンビア大学で講演した橋本首相が「私は何回か、日本政府が持っている財務省証券を大幅に売りたいという誘惑に駆られたことがある」と発言、これを受けてニューヨーク市場の株価が急落した。

【「橋龍『米国債発言』の真意」高尾義一(野村総合研究所研究理事)】

 もちろん、橋本龍太郎は本気で言ったわけではない。所詮ブラフだよ。だが彼はその後どうなったか? 日歯連からの闇献金(※2004年7月に発覚)で葬られてしまった。そして2006年に死去。田中角栄同様、CIAが動いたという噂がある。

 等価交換によって、アメリカは他国を手なずけるのが巧みだ。米国債を保有しているのは、1位が中国で、2位が日本という現状。アメリカを滅ぼすことは簡単だが、心中する覚悟が必要となる。しかも、だ。アメリカが崩壊すれば、「これからは誰が物を買ってくれるんだ?」ってな話になってしまう。

 人類の未来を長期的に見渡せば、物々交換にした方がいいのかも知れない。



信用創造の正体は借金/『ほんとうは恐ろしいお金(マネー)のしくみ 日本人はなぜお金持ちになれないのか』大村大次郎

2009-06-28

時間の複層性/『死生観を問いなおす』広井良典


『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサスキリスト教を知るための書籍
・『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世(宗教とは何か?

 ・キリスト教と仏教の「永遠」は異なる
 ・時間の複層性
 ・人間とは「ケアする動物」である
 ・死生観の構築
 ・存在するとは知覚されること
 ・キリスト教と仏教の時間論

『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

必読書リスト その五

 広井良典は時間を捉え直すことで、死生観を問い直す。果たして時間は主観なのか客観なのか。また時間は一種類しかないのか。そして広井は、時間の複層性を注視する――

「時間のより深い次元」ということをやや唐突な形で述べたが、たとえて言うと次のようなことである。川や、あるいは海での水の流れを考えると、表面は速い速度で流れ、水がどんどん流れ去っている。しかしその底のほうの部分になると、流れのスピードは次第にゆったりしたものとなり、場合によってはほとんど動かない状態であったりする。これと同じようなことが、「時間」についても言えることがあるのではないだろうか。日々刻々と、あるいは瞬間瞬間に過ぎ去り、変化していく時間。この「カレンダー的な時間」の底に、もう少し深い時間の次元といったものが存在し、私たちの生はそうした時間の層によって意味を与えられている、とは考えられないだろうか?

【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)以下同】

 考えさせられる指摘である。例えば、受精してから誕生に至る十月十日(とつきとおか)の間に、新生児は進化の過程を辿るといわれる。何とはなしに、羊水の中で人類の悠久の歴史が流れているような印象を受ける。あるいは、DNA的時間というのも存在するかも知れぬ。一本の川を宇宙の歴史と考えれば、それこそ無数の時間が流れていそうだ。

 広井の考察は時間と空間との関係に及ぶ――

 こうなってくると、時間と空間とは相互に独立したものではなく、互いに関係し合ったものとなる。つまり、例えば先にふれたようにシリウスまでの距離は8.6光年、一方七夕の彦星であるアルタイルまでの距離は16光年だそうなので、ということは私たちはいつも「8.6光年前のシリウス、16光年前のアルタイル」を同時に見ていることになり、いわば異なる過去に属する星々を「いま」見ていることになる。単純に言えば、「遠い」星ほどその「古い」姿を見ているわけであり、時間と空間はこうして交差する。私たちは宇宙の「異なる時間」をいまこの一瞬に見ている、といってもよいだろう。

 これまた座布団を三枚差し出したくなるような例え話だ。浦島太郎は竜宮城で数日間を過ごしたが、地上では700年が経過していた。こうした時間の複層性が示しているのは何か?――

 つまり、時間というものは、「世界そのものの側」に存在するのではない。それは認識する「人間の側」にあるもので、世界を見る際の枠組み、色メガネのようなものである。

 時間は「私が認識する」ものだった。主観。なぜなら、変化を観測する人物がいないと時間は存在しないからだ。人類が滅亡した時点で時間は消失する。それでも納得できなければ、宇宙が消滅した時点で時間は存在しなくなると言っておこう。

 この相対化の方向を、極限まで推し進めたのがアインシュタインだった、ということができる。相対論の体系では、先にもふれたように、絶対時間、絶対空間の存在は否定され、時間や空間は、事象を観測する主体(座標系)を特定して初めて意味をもつことになる。つまり、時間や空間は認識主体との関係でまさに「相対的」であり、それらとは別に唯一の客観的な時間・空間が存在しているのではない。したがって、異なる個人、たとえばAさんとBさんとは異なる「時間」の中に存在していることになる(ただし、これは光速の有限性ということがあって初めて出てくる結論だから、光速が有限であることがほとんど無視できるような地球上の現象に関する限りは、そうした時空の相対性は事実上無視できるものになる)。
 ふり返って見ると、カントの段階では、先にふれたように時間は世界の側から「人間の側」にもって来られたが、それでもなお、人間の世界の内部では、ある普遍的な、絶対的な(唯一の)時間が存在していたのだった。それがアインシュタインの相対論に至ると、時間はおのおのの個人によって異なるものとなり、唯一の「絶対時間」なるものは存在しなくなる。つまり共通の“時間という色メガネ”すら実は存在しない、というのが相対論の結論である。ニュートンからカント、マッハ、アインシュタインへの歩みは、したがって絶対時間あるいは「直線的時間」というものが解体してゆく歩みであるということもできる。

 まったくもって凄い展開になっている。これは思索の要あり。ある人物の人生を生と死で結べば、それは「直線的時間」といえよう。だが、死へと向かいつつある我々の時間は、あっちへ行ったりこっちへ行ったりとウロウロすることが珍しくない。しかも、時間というものは過ぎてしまえば一瞬なのだ。

 若くして亡くなる人がいると心が痛む。だが、我々は資本主義に毒されてしまい、人生七十年という平均値を8時間労働のように考えている節がある。更に恐ろしいことに、人生そのものを仕事量で判断する傾向すらある。

 広井良典の知的作業は永遠をも峻別しながら、豊穣なる時間を志向している。



物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人
光は年をとらない/『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン