2013-12-31

私は少年院に行ってました


【少年犯罪】私は少年院に行ってました。 - てんこもり。

 正当防衛だと思う。頭(こうべ)を上げ、胸を張って生きよ。家族は皆、君よりも弱かっただけだ。

大阪産業大学付属高校同級生殺害事件

2013年に読んだ本ランキング


2012年に読んだ本ランキング
2013年に読んだ本

 ウーム、こうして一覧表にしておかなければ何ひとつ思い出すことができない。加齢恐るべし。これが50歳の現実だ。ランキングは日記ならぬ年記みたいなものだ。自分の心の変化がまざまざと甦(よみがえ)る。ニコラス・ジャクソン著『タックスヘイブンの闇  世界の富は盗まれている!』を書き忘れていたので、今年読了した本は66冊。

 まずはシングルヒット部門から。

  『人生がときめく片づけの魔法』近藤麻理恵
  『写真集 野口健が見た世界 INTO the WORLD』野口健
  『日本文化の歴史』尾藤正英
  『本当の戦争 すべての人が戦争について知っておくべき437の事柄』クリス・ヘッジズ
  『心は孤独な数学者』藤原正彦
  『人間の叡智』佐藤優

 再読した作品は順位から外す。

  『なぜ投資のプロはサルに負けるのか? あるいは、お金持ちになれるたったひとつのクールなやり方』藤沢数希
  『金持ち父さん貧乏父さん アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学』ロバート・キヨサキ、シャロン・レクター
  『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ

 次に仏教関連。『出家の覚悟』は読了していないが、スマナサーラ長老の正体を暴いてくれたので挙げておく。

  『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉
  『つぎはぎ仏教入門』呉智英
  『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英

 これまた未読本。何とはなしに日蓮と道元の関係性を思った。歯が立たないのは飽くまでも私の脳味噌の問題だ。

  『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』マシュー・スチュアート

 以下、ミステリ。外れなし。

  『寒い国から帰ってきたスパイ』ジョン・ル・カレ
  『催眠』ラーシュ・ケプレル
  『エージェント6』トム・ロブ・スミス

 格闘技ファン必読の評伝。ただし内容はド演歌の世界だ。

  『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也

 宗教全般。

  『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
  『宗教の秘密 世界を意のままに操るカラクリの正体』苫米地英人

 マネー本は良書が多かった。興味のある人は昇順で読めばいい。

  『新・マネー敗戦 ドル暴落後の日本』岩本沙弓
  『為替占領 もうひとつの8.15 変動相場制に仕掛らけれたシステム』岩本沙弓
  『マネーロンダリング入門 国際金融詐欺からテロ資金まで』橘玲
  『タックス・ヘイブン 逃げていく税金』志賀櫻
  『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・ジャクソン
  『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康
  『マネーの正体 金融資産を守るためにわれわれが知っておくべきこと』吉田繁治
  『紙の約束 マネー、債務、新世界秩序』フィリップ・コガン
9位『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート

 新しい知識として。

  『アフォーダンス 新しい認知の理論』佐々木正人

 政治関連。増税に向かう今、高橋本は必読のこと。

  『民主主義の未来 リベラリズムか独裁か拝金主義か』ファリード・ザカリア
  『官愚の国 なぜ日本では、政治家が官僚に屈するのか』高橋洋一
  『さらば財務省! 政権交代を嗤う官僚たちとの訣別』高橋洋一
10位『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹

 宮城谷昌光。

  『青雲はるかに』(上下)宮城谷昌光
  『太公望』(全3冊)宮城谷昌光

 ディストピアとオカルト。

  『科学とオカルト』池田清彦
  『われら』ザミャーチン
8位『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー

 科学関連。まあ毎年毎年驚くことばかりである。

3位『そして世界に不確定性がもたらされた ハイゼンベルクの物理学革命』デイヴィッド・リンドリー
  『量子が変える情報の宇宙』ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
7位『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
2位『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド

 宗教原始と宇宙創世の世界。ブライアン・グリーンの下巻は挫折。必ず再チャレンジする。

5位『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
6位『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体』ブライアン・グリーン

 初期仏教関連。

  『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
  『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
4位『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 やはり同い年ということもあって佐村河内守を1位としておく。

1位『交響曲第一番』佐村河内守

2013-12-30

小室直樹、米原万里、稲瀬吉雄、J・H・ブルック、磯前順一、他


 10冊挫折、1冊読了。

首切り』ミシェル・クレスピ:山中芳美訳(ハヤカワ文庫、2002年)/スピード感に欠ける。

チャップ・ブックの世界 近代イギリス庶民と廉価本』小林章夫(講談社学術文庫、2007年)/サブカルっぽいノリで書くべきではなかったか。硬すぎる。

千の輝く太陽』カーレド・ホッセイニ:土屋政雄訳(ハヤカワepiブック・プラネット、2008年)/出だしが弱い。あるいは私が酒を呑み過ぎていた可能性も。

あらためて教養とは』村上陽一郎(新潮文庫、2009年)/雑誌への寄稿を「戯(ざ)れ文」と表現する気取りにうんざり。ま、文系なんてえのあこんなものか。直ぐ本を閉じた。

科学と宗教』Thomas Dixon:中村圭志訳(サイエンス・パレット、2013年)/鋭さを欠く。丸善のサイエンス・パレットというシリーズはなぜこんな不親切な表紙にしたのか?

科学と宗教 合理的自然観のパラドクス』J・H・ブルック:田中靖夫訳(工作舎、2005年)/前掲書でも紹介されている一冊。宗教と科学の互恵的関係を証明しようという試み。その意図に私は賛同できない。都合のよい事実を集めればどんな物語も可能だろうよ。

宗教概念あるいは宗教学の死』磯前順一(東京大学出版会、2012年)/哲学用語が多すぎて読む気がしない。

鳥が教えてくれた空』三宮麻由子〈さんのみや・まゆこ〉(NHK出版、1998年/集英社文庫、2004年)/4歳で失明した著者が鳥の鳴き声によって世界を広げるエッセイ。飛ばし読み。少女趣味の精神世界が肌に合わず。

クリシュナムルティ その対話的精神のダイナミズム』稲瀬吉雄(コスモス・ライブラリー、2013年)/考えることに酔っているような節が窺える。開いた直後に閉じた。それくらい文体が肌に合わない。

打ちのめされるようなすごい本』米原万里〈よねはら・まり〉(文藝春秋、2006年/文春文庫、2009年)/最初は読んだことを後悔した。読みたい本が陸続と増えてしまったためだ。150ページほど読んで宗教関連が少ないことに気づいた。巻末の書名索引を辿って『お笑い創価学会 信じる者は救われない 池田大作って、そんなにエライ?』( 佐高信〈さたか・まこと〉、テリー伊藤:光文社、2000年/知恵の森文庫、2002年)の書評を発見。何と「意外に真面目な本だ」と評価していた。共産党代議士の娘はやはり左翼だったのね。瑕疵(かし)では済まされない致命傷となっている。

 65冊目『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹(ダイヤモンド現代選書、1976年/中公文庫、1991年)/学問の王道を往く傑作。小室直樹の処女作。社会学ではなくして社会科学。経済学と心理学をも駆使して戦前戦後の日本が同じ行動様式に貫かれている事実を暴く。学生運動の件(くだり)はオウム真理教にもそのまま当てはまる。科学とは原理を示すものだ。この泰斗(たいと)を日本は厚遇しただろうか? 否である。しかし彼の数多い弟子たちが学問の花を開かせている。日本型組織の思考モデルを見事に抽出しており、今読んでも古さをまったく感じさせない。

2013-12-29

ENEOS「油売ってます」

2013-12-28

真の学びとは/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

開いた心

 学びとは何かを見出すことは、とても興味深いですね。私たちは本や教師から、数学や地理や歴史について学びます。ロンドンやモスクワやニューヨークがどこにあるのかを学びます。機械の働き方や鳥の巣作りやヒナの育て方などを学びます。観察と研究によって学びます。それが一つの種類の学びです。
 しかし、また他の種類の学び――経験から来る学びがありませんか。静かな河に帆を映した舟を見るとき、それはとてつもない経験ではないですか。そのとき、何が起きるでしょう。心はちょうど知識を貯えるように、その種の経験をも蓄えます。そして、次の夕方、同じような感情――喜びの経験、人生にとてもまれにしか訪れない平和の感覚を得ようと願い、舟を眺めるためにそこに出かけます。それで、心は勤勉に経験を蓄えているのです。そして、私たちが思考するのは、このように経験を記憶として蓄えているからでしょう。思考といわれるものは記憶の応答です。その河の舟を眺めて、喜びの感覚を感じたあとで、経験を記憶して蓄え、そのうえでそれを反復したがります。それで、思考の過程が働きだすのでしょう。
 私たちのほとんどは、どのように考えるのかを本当は知らないでしょう。私たちのほとんどは、本で読んだり、誰かの話してくれたことを単に反復するだけであり、その思考はごく限られた自分の経験の成果です。たとえ世界中を旅して回り、無数の経験を積み、さまざまな人に大勢会い、彼らの言いたいことを聴き、彼らの風俗、習慣、宗教を観察するにしても、私たちはそれらの記憶を保持するし、そこから思考といわれるものが生じるのです。私たちは比較し、判断し、選択し、この過程によって生に対する何らかの合理的な態度を見つけたいと願います。しかし、その種の思考はごく限られていて、ごく狭い範囲に限定されています。河の舟や、死体がガートの焼き場に運ばれていったり、村の女性が重い荷物を運んでいるのを見るような経験はするのです。これらすべての感銘はそこにありますが、私たちはとても鈍感なので、それは私たちに染みこんで熟すことがないのです。そして、ただまわりのあらゆるものへの敏感さによって、自分の条件づけに制限されていない異なった思考が始まるのです。
 何らかの信条に固くすがりついているなら、君たちはその特定の先入観や伝統によってあらゆるものを見るのです。現実との接触を持ちません。君たちは、村の女性が重い荷物を町に運んでいるのに気づいたことがありますか。それに本当に気づくとき、君はどうなり、何を感じるでしょう。それとも、これらの女性が通っていくのはしばしば見ているので、慣れてしまったためにまったく何の感情も持たないし、したがって彼女たちにはほとんど気づかないのでしょうか。そして、初めてあるものを観察するときでさえも、どうなるでしょう。先入観にしたがって見るものを自動的に解釈するでしょう。共産主義者、社会主義者、資本主義者、その他「主義者」という自分の条件づけにしたがってそれを経験するのです。ところが、これらのもののいずれでもなく、そのためにどんな観念や信念の幕をも通して見ず、実際に直かに接触するなら、そのとき君は、自分とその観察するものとの間には、なんというとてつもない関係があるのかと気づくでしょう。先入観や偏見を持たずに開いているなら、そのときは、まわりのあらゆるものがとてつもなく興味深くなり、ものすごく生き生きとしてくるでしょう。
 それで、若いうちに、これらすべてのことに気づくことがとても重要であるわけです。河の舟に気づきなさい。通り過ぎる汽車を眺め、農夫が重い荷物を運んでいるのをごらんなさい。豊かな者の高慢さ、大臣や偉大な人々、自分はたくさんのことを知っていると考える人たちの誇りを観察するのです。ただ彼らを眺めてごらんなさい。批判してはいけません。批判したとたんに、君は関係していないし、すでに君自身と彼らとの間に障壁を抱えています。しかし、単に観察するだけなら、そのとき君は人々や物事と直接に関係を持つでしょう。鋭く機敏に判断せずに、結論を下さずに観察できるなら、思考が驚くほどに冴えてくるのがわかるでしょう。そのときは、いつのときにも学んでいるのです。
 君たちのまわりのいたるところに、誕生と死、金や地位や権力のための闘い、生と呼ばれる果てしない過程がありますね。君たちはたとえ幼い間でも、ときには、これはどういうことだろうと思いませんか。私たちのほとんどは答えをほしがり、それがどういうことかを【教えて】ほしいでしょう。それで、政治や宗教の本を取り上げたり、誰かに教えてほしいと言うのです。しかし、誰も私たちには教えられません。なぜなら、生は本によって理解できるものではないし、その意義は他の人に倣ったり、ある形の祈りによって察することができないからです。君と私はそれを自分自身で理解しなくてはなりません。それは、私たちが充分に生きていて、とても機敏で、見つめて、観察し、まわりのあらゆるものに興味を持つときにだけ、できるでしょう。そのときには、本当に幸せであるとはどのようなことかを発見するでしょう。
 ほとんどの人は不幸せです。そして、心に愛を持たないためにみじめです。君たちが君自身と人との間に障壁を持たないとき、人々を判断せずに、彼らに会って観察するとき、河の帆舟をただ見て、その美しさに喜ぶとき、心に愛が生じるでしょう。自分の先入観のために、ありのままの物事の観察をくもらせてはいけません。ただ観察してごらんなさい。すると、この単純な観察や、木や鳥や、歩いていたり、働いていたり、微笑んでいる人々への気づきから、君の内部に何かが起きるのを発見するでしょう。このとてつもないことが君に起きず、心に愛が生じないなら、生にはほとんど意味がありません。それで、君がこれらすべてのことの意義を理解するのを助けるように、教師が教育を受けることがとても重要であるわけです。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】

「感動」では何かが足りない。クリシュナムルティが説く「学び」とは気づき&理解=変化を意味する。「学んだことのたった一つの証は変わることである」と林竹二〈はやし・たけじ〉は言った(『わたしの出会った子どもたち』灰谷健次郎)。

 変わることは「自分の中にまったく新しい何かが生まれる」ことだ。ここでハタと気づく。諸行無常とは世界の有為転変を説いたものであるが、瞬間瞬間自分自身も更新されている事実を示したのであろう。我々がそれを実感できないのは固定した自我を抱えているためだ。

 数日前に「学術的成果と真の学びとは別物だ」と書いた(歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男)。学問の世界における学びは技術であり、自我の上に構築され蓄積される。そこには常に成功や名利(みょうり)を欲する異臭が漂う。だから功成り名を遂げた学者連中は勇んで御用学者の道を辿るのだろう。

 こんなところにも聖俗の道があるのだ。例えば本を著すチャンスがあったとしよう。大半の人々が何らかの「売る努力」を試みるはずだ。こうして「わかりやすさ」が「大衆迎合」に変貌する。上下の違いはあろうとも迎合に変わりはない。自らの意に随(したが)うことは難しい。

 せっかくなのでもうひとつ紹介しよう。

 結局、生のとてつもない深みを測ったり、神や真理とは何かを見出すには、自由がなくてはなりません。そして、見出し、学ぶ自由は経験をとおしてあるのでしょうか。
 君たちは経験とは何かということを、考えたことがありますか。それは挑戦に応じた感情でしょう。挑戦に応じることが経験です。そして、君は経験をとおして学ぶのでしょうか。挑戦や刺激に応じるとき、君の応答は自分の条件づけや受けた教育、文化的、宗教的、社会的、経済的な背景に基づいています。ヒンドゥー教徒やキリスト教徒や共産主義者や何であろうとも、自分の背景に条件づけられて、挑戦に応じます。自分の背景を離れなければ、どの挑戦への応答もただその背景を強めたり、修正するだけです。それゆえに本当は決して自由に、真理とは何か、神とは何かを探究し、発見し、理解することはできません。
 それで、経験では自由にならないし、経験をとおした学びはただ、自分の古い条件づけに基づいて、新しい型を作る過程にすぎません。このことを理解することが、とても重要だと思います。なぜなら、私たちは大きくなると、経験をとおして学ぼうと思い、自分の経験にますます立て籠もってゆくからです。しかし、何を学ぶのかは背景が指定します。それは、私たちは経験によって学ぶけれども、経験をとおしては決して自由がなく、条件づけの修正があるということなのです。
 そこで、学びとは何でしょう。君たちは読み書きの方法や静かな坐り方、従ったり、従わなかったりするすべなどを学ぶことから始めます。あれやこれやの国の歴史を学んだり、伝達に必要な言語を学びます。生計の立て方や畑の肥やし方などを学びます。しかし、心が条件づけから自由な学びの状態、探究のない状態はあるのでしょうか。質問が理解できますか。
 学びというものは、適応し、がまんし、征服する連続的な過程です。私たちは何かを避けたり、得たりするために学びます。そこで、心が学びではなく、【ある】ということの器になるような状態はあるのでしょうか。違いはわかりますか。習得したり、得たり、避けたりしているかぎり、心は学ばなくてはなりません。そして、このような学びにはいつもたいへんな緊張やがまんがあるのです。学ぶには、集中しなくてはならないでしょう。そして、集中とは何でしょう。
 君たちは何かに集中するとき、何が起きるのか、気づいたことがありますか。勉強したくない本を勉強するように要求されるとき、たとえ勉強したいにしても、他のことはがまんして、わきに置かなくてはなりません。集中するために、窓の外を見たい、人に話をしたいという意向をがまんします。それで、集中にはいつも努力があるでしょう。集中には、何かを獲得するために学ぶ動機や誘因や努力があるのです。そして、人生はそのような努力や、学ぼうとしている緊張状態の連続です。しかし、まったく緊張がなく、獲得がなく、知識の積み重ねもなければ、そのとき心ははるかに深く、早く学ぶことができないでしょうか。そのとき心は、真理とは何か、美しさとは何か、神とは何かを見出す探究の器になるのです――それは本当は、知識や社会、宗教や文化や条件づけの権威であろうとも、どんな権威にも服従しないということなのです。
 何が真実かを見出せるのは、心が知識の重荷から自由であるときだけでしょう。そして、見出す過程には蓄積がないでしょう。経験したり、学んだことを蓄積しはじめたとたんに、それは心を捕える拠点になり、さらに進むことを阻みます。探究の過程では、心は日に日に学んだことを脱ぎ捨ててしまうので、いつもはつらつとして、昨日の経験に汚染されていないのです。真理は生きています。静止していません。そして、真理を発見するような心もまた、知識や経験の重荷を負わずに、生きていなくてはなりません。そのときにだけ、真理の生じてくる状態があるのです。
 こういうことは言葉の意味においてはむずかしいかもしれませんが、心を込めるなら、その意味はむずかしくはありません。生の深い事柄を探究するには、心は自由でなくてはなりません。しかし、学んで、その学びをそれ以上の探究の基本にしたとたんに、心は自由ではないし、もはや探究していないのです。

 クリシュナムルティという風によって脳内のシナプスが舞い上がり、そして飛翔する。

 我々は経験を重んじる。なぜなら経験こそが自我の骨格であるからだ。私が小林秀雄を信用しないのは彼が経験至上主義者であるためだ(『新潮CD講演 小林秀雄講演 第2巻』)。

 認知は必ず誤謬を伴う(認知バイアス)。経験や体験は「自分」というフィルターを通して感得されたものだ。そして記憶は修正と捏造(ねつぞう)を繰り返す(『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー)。

 答えは言葉そのものにある。経験の「験」の字は「ためす」「しるす」を意味する。すなわち経験とはその時その場での感覚的シンボルに過ぎないのだ。

 我々が経験に照らして物事を判断する時、新たな出来事は古いカテゴリーに押し入れられる。そう。血液型占いと一緒だ。このようにして25歳を過ぎたあたりから「新しい何か」は自分の心の中で殺されてゆく。「私」は傷ついた古いレコードのように同じ反応を繰り返す。「これが私らしさだ」と自慢しながら。

 それにしても何ということか。クリシュナムルティは経験も集中も否定する。当然のように努力と理想も否定する(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。彼が肯定したのは自由だけであった。その自由もありきたりではない。極言すれば「感じる自由」であり「見る自由」であった。

 我々の心はいつも波立っている。明鏡止水の如く心を静まらせれば、一滴(ひとしずく)の水からも無限の波紋を生むことができるに違いない。



「知る」ことは「離れる」こと/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳