・『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
・『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
・『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
・フルビネクという3歳児の碑銘
・邪悪な秘密結社
・解放の時
・『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ
・『プリーモ・レーヴィへの旅 アウシュヴィッツは終わるのか?』徐京植
・『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
・『石原吉郎詩文集』石原吉郎
・必読書リスト その二
フルビネクは虚無であり、死の子供、アウシュヴィッツの子供だった。外見は3歳くらいだったが、誰も彼のことは知らず、彼はといえば、口がきけず、名前もなかった。フルビネクという奇妙な名前は私たちの間の呼び名で、おそらく女たちの一人が、時々発している意味不明のつぶやきをそのように聞き取ったのだろう。彼は腰から下が麻痺しており、足が萎縮していて、小枝のように細かった。しかしやせこけた、顎のとがった顔の中に埋め込まれた目は、恐ろしいほど鋭い光を放ち、その中には、希求や主張が生き生きと息づいていた。その目は口がきけないという牢獄を打ち破り、意志を解き放ちたいという欲求をほとばしらせていた。誰も教えてくれなかったので話すことができない言葉、その言葉への渇望が、爆発しそうな切実さで目の中にあふれていた。その視線は動物的であるのと同時に人間的で、むしろ成熟していて、思慮を感じさせた。私たちのだれ一人としてその視線を受け止められるものはいなかった。それほど力と苦痛に満ちていたのだ。
【『休戦』プリーモ・レーヴィ:竹山博英訳(岩波文庫、2010年/脇功訳、早川書房、1969年)】
ヘネクという15歳のハンガリー人少年がフルビネクの面倒をみていた。ある日のこと、フルビネクが一言しゃべった。だが言葉の意味がわかる者は一人もいなかった。
プリーモ・レーヴィの「見る」という行為は実に静かで淡々としたものだ。それは彼が化学者であったことに起因するのであろうか? わからない。ただその視線が自分の人生をも突き放して見つめることを可能にしたのは確かだ。
若き日のプリーモ・レーヴィ。 pic.twitter.com/Ae5jsLH1g8
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 6月 23
フルビネクは3歳で、おそらくアウシュヴィッツで生まれ、木を見たことがなかった。彼は息を引き取るまで、人間の世界への入場を果たそうと、大人のように戦った。彼は野蛮な力によってそこから放逐されていたのだ。フルビネクには名前がなかったが、その細い腕にはやはりアウシュヴィッツの入れ墨が刻印されていた。フルビネクは1945年3月初旬に死んだ。彼は解放されたが、救済はされなかった。彼に関しては何も残っていない。彼の存在を証言するのは私のこの文章だけである。
フルビネクという3歳児の碑銘である。書く営みは時に刻印となって永く世に残る。プリーモ・レーヴィの観察眼はアウシュヴィッツの日常を歴史化する作業であった。透明で硬質な美しい文体に惑わされて文学と思い込んではなるまい。大文字の歴史の中に小文字の歴史は埋没する。だが自分にとって大きな意味合いのある出来事は、自分の手で大きな文字を記せばよい。たとえそれが誰の目にも留まらなかったとしても、「書いた」事実こそが歴史なのだ。
『アウシュヴィッツは終わらない』の続篇だが、前作とは打って変わって苛酷な中にもユーモアが横溢(おういつ)している。思わず吹き出してしまう場面がいくつもある。個性的でユニークな群像が次々と登場する。レーヴィは650人のイタリア系ユダヤ人と共にアウシュヴィッツへ送られたが、生き残ったのはわずか3人であった。アウシュヴィッツは1945年1月、ソヴィエト軍によって解放された。プリーモ・レーヴィがイタリアへ帰国したのは10月19日のことであった。