2018-09-29

読み始める

黒船前夜 ~ロシア・アイヌ・日本の三国志
渡辺 京二
洋泉社
売り上げランキング: 94,363

政治とはなにか
政治とはなにか
posted with amazlet at 18.09.29
岩田温(いわたあつし)
総和社
売り上げランキング: 204,432

曙光の街 (文春文庫)
曙光の街 (文春文庫)
posted with amazlet at 18.09.29
今野 敏
文藝春秋
売り上げランキング: 179,625

白夜街道 (文春文庫)
白夜街道 (文春文庫)
posted with amazlet at 18.09.29
今野 敏
文藝春秋
売り上げランキング: 227,569

凍土の密約 (文春文庫)
今野 敏
文藝春秋 (2012-03-09)
売り上げランキング: 48,761

防諜捜査
防諜捜査
posted with amazlet at 18.09.29
今野 敏
文藝春秋
売り上げランキング: 108,403

出版禁止 (新潮文庫)
出版禁止 (新潮文庫)
posted with amazlet at 18.09.29
長江 俊和
新潮社 (2017-03-01)
売り上げランキング: 38,378

2018-09-28

臨死体験/『死 私のアンソロジー7』松田道雄編集解説


安楽死と臨死体験を巡る議論
身体感覚の喪失体験/『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』酒木保

 ・臨死体験

 10日の深夜から意識がもどってきたが、それと共に苦痛が来た。それは怒涛といってよかった。それに襲われると、眼の前も頭の中も、真赤になった。血の色である。私はふんづけられ、くちゃくちゃにまるめられ、ひきちぎられ、たたきつけられ、うなり声をあげた。その極限で意識はもうろうとなり、幻影じみたものをたびたび眺め、そして昏睡した。また意識がもどってきて、私をふみくだく。私の胸からつき出しているドレンの管に、私が、うっ、と言うたびに血がふき出しているらしい。私は胸の中にたまっている血が喉へつきあげてくるのがわかるが、咳をすることが全く苦しくてできない。そして、熟練したおばさんが私の胸をかるくおしながら血を吐かせる。おばさんが隣のおばさんに、囁くように言う声が、眼を閉じてうめいている私の耳にとてつもなく大きく聞える。
 ――血がとまらないのよ、ドレンの管へびゅっびゅっと、ほら、こんなに、こんなにたまってしまって。
 そして痛みの極みに達した時、私はすうっと飛びはじめたのを感じたのだ。いまにして思えば、これは多分幻覚だろうと思うのだが、私は、その時、私の姿をはっきり見た。私がこなごなに割れて、燃えつきた黒いかたまりになって、果てしない空間を、とてつもない速さで飛んでいくのである。私は地球を離れたと感じていた。ガガーリンは、地球は青かった、という言葉を人間の歴史に刻んだ。私は空間を飛びながら、ああ、おれの地球はあたたかだった、と思っていた。ほんとにあたたかい星である地球の大地、そこから私は離れて、いまとても寒い、と思った。とてもつめたい。いっそうつめたいところへ飛んでいく。そして私の前方は無限の宇宙空間であり、うす青い色からしだいに濃い青へ、そして黒々とした色へとつづいていた。そうだ、このまま飛びつづけてあそこへおちこんだ時、あの手術室のマスクの中で、突然、何もなくなってしまったように、おれは、パタッとなくなってしまうのだ。こうやっていって、そしてパタと。これが死なんだ、と私ははっきり思った。
 その時、私はもう自分の苦痛すら感じ得ないもうろうたる状態にあったらしい。
 ――そうか、こんなぐあいなのだな、苦しくて苦しくて、というのはあるところまでで、そして、そこを越えるとこんなふうにぼうっとしてきて、そして飛びはじめて、飛びつづけて、あの青黒く果てしもない空間の中でパタと、と私は思った。
 そうか、かつて、手術を受けても死んだ人たちは、いまのおれと同じここまで来て、そして、ここから先へ、あの黒い空間の淵へ行ったんだな、そうか、こんなぐあいだったのか。それが、死だったのか。
 そこから不意に私は、全く強引に、荒々しくつれもどされた。私は全然知らなかったが、レントゲンの器械をおして技師が入ってきていたのだ。私の、手術直後の内部の状態を正確に見るために、深夜、ベッドの上で写真をとるのである。これは、私をひきもどす人間の手だった。私の襟をしっかりつかみ、彼は少しばかり私を起こしたらしい。しかし、私は、肉と皮をばりばりはがれるような痛みで悲鳴をあげた。それはどうも声になっていないらしかった。斜めに起こされた私の背中にかたい大きな板がさしこまれ、そして、写真をうつされると、私はもとのようにねかされた。私はもうあのつめたい空間にはいなかった。地球の上で、ベッドの上で、身動き一つできずにうなっていた。私はまた苦痛にひきちぎられていた。(中略)
 しかし、そこを体験し、くぐったために、私は、私が予想していたものとはちがった、新しい事実にぶつかることとなったのである。
 その第一は、これまで述べてきたように、たとえ幻影であろうと何であろうと、私は死の影を見、それを具体的に感じ得た、ということだ。苦痛の果ての死を具体的に考える一つの手がかりを私は得た、ということだ。つまり、苦痛というものも、その極限に達しはじめると、私は苦痛を感ずる能力を失っていったのだ。それは苦痛というものとは別の次元であるように感じた。つまり、苦痛に襲われている間は、私はまぎれもない一個の生命体としてその生の状況を苦しんでいたのだ。そのような状態に追いつめられている傷ついた生そのものを苦しんでいたのである。
 そこを過ぎると死との間の中間帯の次元が現れる。そこでは苦痛を感じ反応し、さまざまの信号を脳が発する能力はしだいに弱まり、あいまいになってしまう。そこに入っていった時、私は、あたたかい地球から離れてしまった、と思ったのである。このまま行けば、いっそう私自身も周囲の空間もつめたくなり、そして、そのきわみに、一切が突然なくなってしまう世界がある、と思ったのである。なるほどこういうものだったのか、というぐあいに私が思った、そのことが鮮明に残っている。
 そこにはもう、ただ一つのことを除いては、どのような人間感情も存在しなかった。おれはいま、燃えつきようとする一個の物体だ、と私は思い、そして私の親しい人々に対しても、また私自身についてすら、喜んだり悲しんだりするすべての感情はもはや消滅していた。これはいまにして思えば全く予想しないことであった。親しい多くの人々と別れて、淋しいとかつらいとか悲しいとか、そういった感情はここにくると、もう存在しなかったのである。
 ただ一つだけ、最後まで残っていた感情がある。それは、何とも言えない無念な思いであった。こうやってついに生命に別れを告げるのか、という確認と同時に、かつて人間であり、ただ一度の生を生きたというその証拠を、自分がこうしてパタッと消えるとしても、やはりつづいていくであろう人間の歴史の上に、たとえどんなかすかな爪あととしてでも刻むことなくして飛び去らなくてはならないという無念さであった。
 これは意外だった。自分なりに精いっはい生きてきたつもりだったのに最後にそんなものが残るとは夢にも思わなかった。どうせ死んだらどんな人間もみな同じだ、と思ったりする人も世の中にほあるが、一回きりの生命というものは、一回きりの名において、最後のどたん場で、私を責めたのである。このことについては、これが出発点となって、それ以後私はその内容をさぐっていくようになるのであるが、それは第3章で追究していくことにする。ただ私なりの考えの一端を書いておくと、どうせ一度きりのいのちだ、どう生きようと自由だ、という考え方は、それはそれで、私は別にどう干渉するつもりもないが、生のまさに終えんとするそのどたん場で、はじめて愕然(がくぜん)として、言い知れぬ無念な思いを抱いて死に突入するほど、凝縮された絶望はほかにあるまいと思えるのである。(『生命の大陸 生と死の文学的考察』小林勝〈こばやし・まさる〉、三省堂新書、1969年)

【『死 私のアンソロジー7』松田道雄編集解説(筑摩書房、1972年)】

 抜き書きの3分の1ほどを紹介する。それでも引用の範疇(はんちゅう)を超えているが(笑)。

「安楽死と臨死体験を巡る議論」を参照してもらえばわかるように、私は2001年の時点では「生命は三世にわたって永遠の存在である」との認識に立っていた。天台三諦論の中諦が永遠に続くと信じていたのだ。

 梵網経で説かれる六十二見(外道の邪見)に常見断見がある。我(アートマン)が死後も続くと考えるのが常見で、死ねば終わりと思うのが断見である。

 キリスト教世界には「パスカルの賭け」という有名な詭弁がある。だったらさっさと死ねよ、と言いたくなる。

 生命とか我とか言ったところで所詮「意識」の問題であろう。私は死とは眠りのようなものだと考える。眠りに落ちた瞬間、意識は消える。「夢はどうなんだ?」という声が出そうだが、夢は半覚醒状態で意識が彷徨(さまよ)っているのだろう。ま、幽霊みたいなもんだ。脳が完全に休まれば夢は見ない。

 小林勝の体験――というよりは覚醒後に構成された体験で、バラバラの脳内情報を夢としてストーリーを付与するのと似ている――は劇的で実に面白い。だからこそ鵜呑みにするべきではないのだ。「科学者は、体験談を証拠とはみなさない」(『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー)。

 若い頃にエリザベス・キューブラー=ロスの『死ぬ瞬間 死とその過程について』(1971年)も読んだが、私が納得できたのは当時の信念と共鳴したためだ。今となっては読む気も起こらない。

 私は数人の後輩を喪っているが、もちろん彼らは私の胸の中で生きている。父も亡くしたが、やはり胸の中で生きている。疎遠になった友人以上に生き生きと生きている。願わくは死後も生命が続いてどこかで再会したいとは思う。だが思うだけだ。決してそれを信じることはない。いるのだったら化けてでもいいから出てきて欲しい。

 臨死体験は脳内現象である。脳を離れた臨死体験はあり得ないのだ。例えば天井から自分の体を見下ろしたとか、病院内で行ったことのない場所の物を言い当てたりするような事例が報告されているが、それは幽体離脱を証明するものではなく千里眼によるものと考える。ま、私にとっては千里眼よりも眼前の物が見える方がはるかに不思議であるが。

 記憶は脳に保管されている。時折過去世を思い出した子供の話があるが、脳は別物だから記憶が引き継がれるわけがない。それが事実であるとすれば認知症や記憶喪失などの説明がつかなくなる。それに過去世を思い出したから何だと言うのだ? 来世を予測できるのならばまだしも、昨日を思い出すのと五十歩百歩ではないか。

 来世があろうとなかろうと死ねば今世(こんぜ)の終わりである。人は今世に生きるべきであり、更に言えば現在只今を生きるべきである。死後の世界については無記の態度が正しい。

私のアンソロジー〈7〉死 (1972年)
松田 道雄
筑摩書房
売り上げランキング: 993,060

生命の大陸―生と死の文学的考察 (1969年) (三省堂新書)
小林 勝
三省堂
売り上げランキング: 2,562,461

2018-09-27

身体感覚の喪失体験/『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』酒木保


 ・自閉症児を「わかる」努力
 ・自閉症は「間(あいだ)の病」
 ・人の批判は自己紹介だ
 ・身体感覚の喪失体験

『生命の大陸 生と死の文学的考察』小林勝
『心からのごめんなさいへ 一人ひとりの個性に合わせた教育を導入した少年院の挑戦』品川裕香
『夜中に犬に起こった奇妙な事件』マーク・ハッドン
『くらやみの速さはどれくらい』エリザベス・ムーン
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍

「私は混沌とした融合しそうな世界から、私を私自身として浮かび上がらそうとした。しかし、それは徒労であった。一瞬気力が失せた時、私は世界に融合した。あたかも流れてとけ込むようであった。世界にとけ込みながら私は発病したと思った。私はどうなるのだろうか。私と密な関係にあるみんなに、何も残せないままで消える。私はうつろいでいて、やがて、無になった。そして無であることすらも消えてしまった。
 無限なのか瞬時なのか、時の流れが感じられない。そこに消えていた私が、私というものになって点のように生まれてきた。私というものが流れに添(ママ)ってモコモコと肥大化してきた。私というものができ上がったようである。私があるのは分かるのだが、私がいるのが分からない。私は私の所在を突き止めようと、必死にもがいた。
 私がどこにも位置しないで、暗黒の中で浮遊し漂っていた。意識だけがあり、その意識が不安定というものでつくられていた。不安定であるというその意識は鮮明であった。鮮明であるがゆえに、とどまることのできる位置を必要としていた。
 私は遊離していた。暗黒に浮かんでいるようであった。不安とか恐怖とは異なる、ネガティブな感情が生まれてきた。やがて私とネガティブな感情とが分離した。分離してもそれはいずれもが私であった。私は細分化していくのであった……。
 私の体が椅子のようなものに座っていた。座っているというよりも置かれているようであった。重いという感じだけが何とか伝わってきた。体がまったく力の入らない状態で、椅子にボッテリとへばりついていた。そこでは再び考えることができた。私はどうなったのだろう。私は死ぬのだろうか。そうだ、私は死につつあるのだ……これは確信であった。ここで少し記憶を辿ることができた。時間を意識することがわずかだができたのだ。私には妻も子どももいるのだ。いいのだろうか、私、30歳、そう私は30歳なのだ、これからなのに、これからなのに、これからなのに……。
 私は私の全体の輪郭を感じとることができた。それは感覚の輪郭であった。薄ぼんやりと外の世界が、私に伝わってきた。そこでは世界が断片化されていた。断片のひとつひとつが、見え隠れしていた。やがてすべての断片が寄り集まって、それが一枚の大きな世界になった。紙をクシャクシャにしたようなものが動いた。そいつが私に覆いかぶさってくるようだ。そいつは人らしかった。平面的ではるが、2カ所が大きくへこんでいた。
 何かが私の中に入ってきた。それは声だった。私はうつろであった。世界にものがぽつぽつ浮かんできた。それらは平坦な世界から、浮かび上がってきて、三次元の形状を持つのであった。人の顔の輪郭がはっきりしてきた。左手に強い痛みを感じた。点滴の針があらぬところに刺さっていた。私ははっきりと背中を感じた。それはまぎれもない私の背中であった。
 私に覆いかぶさっていたのは私の友人だった。大きくへこんでいた2カ所は彼の目と口であった。〈気がつきましたか〉と友人が声をかけてくれた。ようやく麻酔からさめることができたのだ。とてつもなく長い苦痛であった。夢なのか、思考なのか、幻覚なのか、幻想なのか区別がまったくつかなかった」

 これは、手術を受けた患者が、麻酔から醒めた時の様子を語ってくれたものです。

【『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』酒木保〈さかき・たもつ〉(PHP新書、2001年)】

 リツイートされて思い出した一冊。こうした抜き書きが数千もあり、画像保存したページは数万にも及ぶ。増え続ける情報がもはや自分の処理能力をはるかに超えている。縁に触れて時に応じて引き出してゆく他ない。

 存在とは空間と時間における目方であることがよくわかる。患者の言葉は期せずして生誕と死滅の様相を描き出す。それがまるで宇宙創生のようにすら思える。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーの眠りと覚醒の周期が宇宙の生成と消滅を示していると考えられた。

 発想を少し変えてみよう。認知症や狂気を我々が恐れるのは「自我の部分的な死」を意味するためだ。渡辺哲夫は狂気から生と死を浮かび上がらせた(『死と狂気 死者の発見』1991年)。

 ルールや常識が生の躍動を抑制する。阻害といってもよい。現代人は獣性を抑えることで野性をも失ったのだろう。スポーツに魅了されるのはそこに野性の輝きが横溢(おういつ)しているからだ。狂気は解き放たれた右脳の野性である。特に統合失調症の言動は二分心(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ、2005年)時代の人間を髣髴(ほうふつ)とさせる。

 探し続けた関連テキストを今やっと見つけた。小一時間ほどを要した。疲れ切ったので次回紹介する。

自閉症の子どもたち―心は本当に閉ざされているのか (PHP新書)
酒木 保
PHP研究所
売り上げランキング: 737,275

安楽死と臨死体験を巡る議論


身体感覚の喪失体験

 ・安楽死と臨死体験を巡る議論

臨死体験

 自分の過去記事を探していたところ、余りにも懐かしい掲示板抜き書きを見つけたのでリンクを貼っておく。主要メンバーは雪山堂(せっせんどう)の客である。当時、『逆耳の戯言』(ぎゃくじのぎげん)というメールマガジンを複数名で発行していた。尚、安楽死と臨死体験に関する考え方はその後完全に変わったことを申し添えておく。

「安楽死」を問う! 1
「安楽死」を問う! 2
「安楽死」を問う! 3
「安楽死」を問う! 4

『臨死体験』をめぐる書き込み 1
『臨死体験』をめぐる書き込み 2

魔女狩りと骨髄移植/『グレイヴディッガー』高野和明


『13階段』高野和明

 ・魔女狩りと骨髄移植

『魔女狩り』森島恒雄
『幽霊人命救助隊』高野和明
『ジェノサイド』高野和明

 井澤は頷いた。口の中を潤(うるお)すためか、喉をごくりと鳴らせてから語り始めた。「当時のヨーロッパで、イングランドだけが、例外的に魔女狩りの被害を免れていたんです。犠牲者は、数百人程度に抑えられました。大陸とは違って、拷問を受けつけない法体系を持っていたことが理由に挙げられますが、もう一つ、歴史の闇に埋もれた奇怪な話があるのです。『グレイヴディッガー』の伝説です」
 その聞き慣れない単語は、しかし確かな重量感をもって耳の奥で反響した。「グレイヴディッガー?」
「ええ。英語で、『墓掘人』の意味です。魔女迫害の機運がイングランドに及んだ頃、異端審問官たちが何者かによって虐殺されるという事件が起こりました。魔女裁判と同じ拷問の方法を使ってね。それに怖れをなした異端審問官たちが、魔女狩りを自粛したのではないかというのです。今となっては事件の真相は分かりません。しかし当時の人々は、拷問によって殺された男が墓の中から甦り、自分を殺した者たちに復讐をしたのではないかと噂しました。そして、この甦った死者を、『グレイヴディッガー』と呼んだのです」

【『グレイヴディッガー』高野和明(講談社、2002年/講談社文庫、2005年/角川文庫、2012年)】

 筋書きが少々込み入っているのだが十分楽しめた。魔女狩りと骨髄移植の勉強にもなる。

 ただし、「魔女狩りなどを行なう集団は、もはやありません」というのは誤り。キリスト教ではないがアフリカでは現在も魔女を火炙(あぶ)りにすることがあり、動画がアップされている。魔女を殺すのは魔女の力を信じている証拠だ。そこに魔女狩りの矛盾がある。

 高野はもともと脚本家だけあって科白(せりふ)やどんでん返しが巧みだ。グレイヴディッガーが実際に存在したかどうかはわからぬが、これを真似た連続殺人には目を惹かれる。

 物語は一日の出来事である。それゆえ週末の夜に一気読みするのが正しい(笑)。

グレイヴディッガー (講談社文庫)
高野 和明
講談社
売り上げランキング: 96,775