・『ベトナム戦記』開高健
・『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン
・アメリカが行ったベトナム・ホロコースト
・『ベトナム戦争 誤算と誤解の戦場』松岡完
・『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
・『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン
・必読書リスト その二
「アメリカが戦争に勝ってよかったと思う。日本が勝ったらアメリカ人に対してどれほど残虐なことをしたか知れない」「アメリカのお蔭で日本は民主主義になった」――20~30年前まではこう考える人々が多かった。日本人に対して戦争の罪を刷り込ませるGHQの宣伝工作(ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム)は見事なまでに成功し、長期間にわたって日本人の精神を呪縛した。
東京裁判では「平和に対する罪」というそれまでなかった概念を創作し、新しい基準を設けて過去の罪を裁くトリックまで行った。「平和に対する罪」を犯した人々がA級戦犯で25名中7名が処刑された。誤解している人々が多いが、ABCは罪のランク付けを意味するものではなく、A項・B項・C項の違いにすぎない。
アメリカは日本に平和憲法を与えた。そのアメリカが第二次世界大戦後、朝鮮戦争(1950-53年)・ベトナム戦争(1955-75年)を行った。米兵はベトナムで何をしたのか。ご覧いただこう。
クアンナム省と同様クアンガイ省でも、すさまじい砲撃や空爆が加えられる一方、地上部隊による目を覆うばかりの残虐行為がくり広げられた。数年後、エスクァイ誌の記者、ノーマン・ポワリエが軍の記録をもとに、そうした恐ろしい出来事のひとつを生々しく再現した記事を書いた。このような残虐行為の詳細が雑誌に掲載されるのは、戦争中としては異例のことだったが、そこに書かれた民間人の受難は、少しもめずらしくない、むしろありふれたものだったのだ。
ポワリエの記事によれば、1966年9月23日、海兵隊のある部隊がスアンゴック集落に降り立った。彼らの狼藉は、まず1軒の家に押し入るところからはじまった。家の主人はコメ農家兼大工のグエン・ルウという61歳の男性だった。海兵隊員たちはこの武器を持たない住人に殴る蹴るの暴行を加えた。ひとりの兵士が「このベトコン野郎め!」と叫んでいたという。彼らはルウの民間人身分証明書を破り、家のなかを荒らした。ルウの若い姪たちは恐怖のあまり悲鳴をあげた。70歳近い妻は手荒な扱いを受け、ルウの妹も容赦なく足蹴にされた。
それからほどなく、38歳の農民、グエン・チュックの家の扉がさっと開いた。チュックの妻は5人の子供たちのもとへ駆け寄ろうとしたが、海兵隊員たちにつかまって外へ放り出された。そのあとチュックはさんざんに殴られ、立ち上がることもできなくなった。やがてふたりの兵士が彼の両脚をつかんで逆さ吊りにし、もうひとりが彼の顔を力いっぱい蹴りつけた。悲鳴とすすり泣く声が部屋に満ちた。
何度もあがったその叫び声は、16歳のグエン・チ・マイの家まで聞こえてきた。彼女は母とおばといっしょに地下壕に逃げ込んだ。3人が身をすくめてしゃがんでいると、海兵隊員たちが上からのぞき込み、手招きで出てこいと指示した。母とおばは従ったが、マイは恐怖のあまり動けなかった。手が伸びてきて、片脚をつかまれ、彼女は引きずり出されてしまった。兵士たちは3人の民間人身分証明書を破り捨てた。アメリカ人のひとりがマイの首すじに手をあてがい、もう一方の手で彼女の口をふさいだ。すると別のふたりの兵士が彼女の両脚をつかんで地面に引き倒し、荒々しくズボンを剥ぎ取った。
海兵隊員たちはこのようにしてさらに5~6軒の家に押し入って集落を恐怖に陥れたが、武器も禁制品も見つからず、敵に関する情報さえも入手することができなかった。彼らが次に襲ったのは、18歳のブーイ・チ・フォンとその20歳の夫、ダオ・クアン・ティンの家だった。ティンは農民で、病気のために兵役につけなかったのだ。ふたりは3歳の息子と、ティンの母、姉、その5歳になる娘といっしょに暮らしていた。海兵隊員たちは、ティンをベトコンと決めつけ、ほとんど意識がなくなるまで殴った。彼らはティンを外へつれ出し、家の前の壁にもたせかけておいて、その横に恐怖にすくみ上がった姉と母親とふたりの子供を立たせた。
妻のフォンは家のわきへと引きずっていかれた。ひとりの兵士が彼女の口を手で覆い、ほかの者が両腕と両足を地面に押さえつけた。米兵たちは彼女のズボンを脱がせ、シャツを引き裂き、体をまさぐった。そして輪姦がはじまった。最初はひとりの兵士が、次に別の兵士が襲いかかり、合計5人で彼女を陵辱した。ティンは妻のすすり泣きを聞き、大声で叫んで抗議した。すると海兵隊員たちはまた彼を殴りはじめた。やがて銃が乱射され、その声がやんだ。次の一連射がティンの母親の嗚咽に終止符を打ち、さらなる銃撃が姉を黙らせた。まもなく、子供たちの声もフォンの耳に届かなくなった。パン!という音に続いて閃光が弾け、灼けるような痛みが走ったかと思うと、フォンはどっと倒れた。
海兵隊員たちは、現場の「見栄えをよくする」ために手榴弾を爆発させ、無線で戦果を報告した。ベトコン3名を殺害した、と。だが指揮所に戻ると、彼らは中尉に、あらかじめ決めておいた待ち伏せ場所では銃撃戦が起こらず、誤って民間人を数人死なせてしまったと話した。中尉は隊員たちに集落へ案内させ、自分の目で事実を確かめた。
中尉は部下が大量虐殺を犯したことにショックを受けたが、すぐに犯罪の隠蔽に取りかかった。ティンの遺体を、当初計画していた1キロほど先の待ち伏せ場所まで運んでいき、細工をして、そこで銃撃があったように見せかけた。彼らはスアンゴック集落の殺戮現場にも手を入れた。ティンの5歳の姪は血まみれになり、裸で倒れていた。その体を抱きあげたとき、いきなり彼女が泣きだした。死んでいなかったのだ。しかしジョン・ポッター上等兵が二度と生き返らないようにした。彼はほかの兵士たちにカウントしろと言い、ある隊員によれば、たっぷり時間をかけて「ライフルでぐしゃぐしゃにした」という。別の隊員はこう証言している。「わたしは、1……2……3……と数えました。すると上等兵は(ライフルの)台尻であの子を何度も何度も殴りつけたんです!」
じつはブーイ・チ・フォンもまだ生きていたのだが、隊員たちは気づかなかった。彼女は銃で撃たれたあと、意識を失っていた。数時間後、激しい痛みを感じて目を覚ました。どこもかしこも血まみれだった。手当てをしてもらうため、村人のひとりがもよりの米国海兵隊基地まで彼女をつれていってくれた。そこでフォンはベトナム人通訳者に、自分がレイプされたこと、家族が惨殺されたことを話した。通訳はこのことを同情的なアメリカ人医師に伝えてくれた。医師はフォンを診察し、性暴力被害に遭った確証を得ると、大隊指揮官に犯罪行為がおこなわれたことを報告した。フォンが一命をとりとめなければ、そして海兵隊員たちが戻ってきたあいだも意識が戻らず、基地へ運ばれてから勇気ある通訳者に話をし、その人物がフォンのために働いてくれそうなアメリカ人士官を見つけてくれなければ、ほかの多くの大量虐殺事件と同様、スアンゴック集落の事件も闇に葬られていたことだろう。しかしフォンの証言に基づく公式の捜査が実施されたにもかかわらず、殺戮にかかわったアメリカ人9名のうち、3名は無罪となり、4名は短期の懲役刑を受けただけですんだのだった。
【『動くものはすべて殺せ アメリカ兵はベトナムで何をしたか』ニック・タース:布施由紀子〈ふせ・ゆきこ〉訳(みすず書房、2015年)】
かような事実が300ページにわたって羅列されている。一片の罪もない婦女子や老人を暴行し、切り裂き、銃で撃ち、家屋には火を放ち、避難壕に手榴弾を放り込み、ナパーム弾で焼き尽くした。ありとあらゆる兵器が試され、白リン弾やクラスター爆弾も投入された。白リン弾は破片が体内に刺さっても燃え続ける兵器で、クラスター爆弾は1発の爆弾に数百もの子爆弾が搭載され、金属片の飛散によって人間の手足を吹き飛ばしたり人体を切り刻む。意図的に殺傷能力を低くして多数の怪我人を出すことで社会機能にダメージを与える目的がある。
・白リン弾
・ローラ・ブシュナク: クラスター爆弾の破壊的な負の遺産 | TED Talk
「平和に対する罪」を規定したアメリカの残虐行為をどう考えればいいのだろう? きっと彼らが説く「平和」とは「アメリカに逆らわないこと」なのだろう。かつてアメリカ大陸を【発見】したヨーロッパ人は先住民インディアンを大量虐殺した(『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス)。合衆国政府はインディアンの頭皮に懸賞金をかけた。インディアンは報復のために白人の頭の皮を剥(は)いだ。あろうことかハリウッドは映画作品を通して皮剥ぎの刑をインディアンの一方的な蛮行として描いた。自分たちの悪行を相手になすりつけるプロパガンダを行ったわけだ。日本に対して行われた戦後のイメージ操作もこれとよく似ている。
白人なかんづくアングロサクソンの暴虐振りは人類史の中で際立っている。アジアは平和的であったがゆえに侵略されたのだろう。アジア人がボノボであれば白人はチンパンジーほどの違いがある(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)。
米軍が行ったベトナム民間人の大虐殺は「ベトナム・ホロコースト」と名づけるべきだ。日本に対して行った「原爆ホロコースト」や「東京ホロコースト」(東京大空襲)と同じく人類史に大書される歴史的蛮行である。やがて彼らの血に流れる暴力性によって自ら滅びる時が訪れることだろう。
それにしても北ベトナムはよくぞアメリカの攻撃に耐えたものだ。私がベトナム戦争を意識したのは8歳の頃である。テレビで聴き、児童雑誌で見るたびにベトナム戦争は永遠に続くのだろうと思った。
上記テキストの直後に韓国軍の残虐行為が描かれている。「1961年11月、クーデターにより政権を掌握した朴正煕〈パク・チョンヒ〉国家再建最高会議議長はアメリカを訪問するとケネディ大統領に軍事政権の正統性を認めてもらうことやアメリカからの援助が減らされている状況を戦争特需によって打開すること、また共産主義の拡大が自国の存亡に繋がるという強い危機感を持っていた為にベトナムへの韓国軍の派兵を訴えた。ケネディ大統領は韓国の提案を当初は受け入れなかったが、ジョンソン大統領に代わると1964年から段階的に韓国軍の派兵を受け入れた」(Wikipedia)。カネ目当てで投入された韓国軍は米兵同様、非道の限りを尽くした。韓国兵による強姦でライダイハンと呼ばれる子供が5000~3万人も生まれた。実際は犯された後で手足や頭部を斬り落とされる女性も数多く存在した。韓国は現在でも性犯罪大国でアジアの中では強姦犯罪率が突出している。そんな自分たちの残虐性を基準にして旧日本軍を見ているのだろう。従軍慰安婦にまつわる嘘の物語も韓国の似姿としか思えない。
組織の理想型は軍隊であるが、どの軍隊も必ず嘘をつく現実がある。戦果を偽り、戦争犯罪を誤魔化し、平然と政治家や国民に対して嘘をつく。ここに軍隊の致命的な問題があるように思う。戦闘の最前線では何があるかわらかない。であればこそ「君命をも受けざる所有り」(『香乱記』宮城谷昌光)との孫子の言は重い。時にシビリアン・コントロール(文民統制)を無視する局面があってもおかしくない。ただし、軍という組織の暴走に向かう傾向を踏まえれば、軍法を厳しくするのが望ましい。
私は心底驚いたのだが、クアンナム省もクアンガイ省も南ベトナムである。クアンガイ省にはあのソンミ村がある。ソンミ村虐殺事件を本書ではミライ事件と表記されているが、米兵に殺された500人以上の村人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子供173人)は本来なら米兵が守るべき人々であった。この事件に関与した者も曖昧で中途半端な処分しか受けていない。
ベトナム民主共和国は圧倒的な軍事力を誇る米軍にゲリラ戦で勝った。ナチス・ホロコーストはその量において圧倒したが、ベトナム・ホロコーストはその質において人類史上最悪の大虐殺といえよう。こう考えると、ジョン・F・ケネディ、リンドン・B・ジョンソン、リチャード・ニクソンら米大統領はヒトラーと肩を並べる十分な資格がある。
動くものはすべて殺せ――アメリカ兵はベトナムで何をしたか
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ニック・タース
みすず書房
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