2020-02-23

武士の美学が鉄砲を斥けた/『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』ノエル・ペリン


『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』平川新

 ・武士の美学が鉄砲を斥けた

『武士道』新渡戸稲造:矢内原忠雄訳
『逝きし世の面影』渡辺京二
『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 長篠の合戦信長が勝利をおさめたのち半世紀は、火器の使用が日本で最高潮に達した時代である。火器の使い方を知らねば、兵隊にはなれなかった。しかし同時に、火器に対する最初の抵抗も強まった。なぜなら、この新式の兵器が優れいたがために、武器の使い手の技量が従来ほどに問われなくなったからである。長篠の合戦以前にあっては、日本の合戦は、通常は相当数にのぼる一騎打ちと小ぜり合いとであった。鉄砲隊でなければ、互いに名乗りをあげたあと、一騎打ちとなった。こうした戦いぶりにあっては、それに加わった人数だけの武勇伝を生む。それは一種の道徳性さえともなっていた。というのは、一人一人の運命は自分の能力や鍛錬次第で大きく左右されたからである。むろん甲冑も重要であった。防御用の武具はことに重要なものと考えられた。ジョージ・ストーンは「日本人はさまざまな鎖かたびらを製作し、その数は世界中の鎖かたびらを合わせた数よりも多い」と述べている。そして立派な出来栄えの武具は讃嘆のまととなった。1562年の合戦〔鴻台(こうのだい)の合戦〕の古い物語のなかに近代広告として読んでも十分通じる出来事がある。太田資正〈おおた・すけまさ〉という武将が二度の深手をすでに負わされたあと、敵の清水某なる武士と一騎打ちとなった。
「太田資正に襲いかかった武士は名うての豪傑として知られ、いまや傷を負いすっかり疲労困憊していた資正を投げとばし、首級をあげんとしたところ、首が切れなかった。これを見てとった太田資正は、怒りに眼をかっと見開き、こう叫んだ、『うろたえたか。拙者の首には喉輪(のどわ)がかかっておる。喉輪をとれ。しかる後に首を落とせ』と。
 清水はこれに答えて、『ご教示かたじけない。あっぱれなる死に際、感じ入って候』。しかるに、まさに清水が喉輪をはずだんとする刹那(せつな)、太田資正の家来が飛びかかって清水をなげ倒し、主君を敵の手から助け出して戦場からとってかえし、事なきをえた」という。
 こうした出来事は、火縄銃を用いた大合戦では、めったに起こらない。目標を定めた一千発の一斉射撃は、周章狼狽(しゅうしょうろうばい)していようが泰然自若(たいぜんじじゃく)としていようが、敵とあれば見境いなく、相手を声も届かぬ離れた地点から撃ち殺した。鉄砲に立ちむかう場合、勇敢さはかえって不利になり、攻守ところを変えて自分が鉄砲隊となると、もはや相手の顔かたちは見分けがつかなくなったであろう。その場合、鉄砲隊何千の一員として、攻撃をしかけてくる敵を掃討するべく土塁の背後で待ちかまえておればよいわけだ。それには大した技術もいらない。技量が問われるのは、今や兵士ではなく、鉄砲鍛冶と指揮官たる者に変わったのである。織田信長の鉄砲隊が、本来の武士というよりも、農民もしくは郷士(ごうし)や地侍あがりのものであった、というのもそのためである。ともあれ、鉄砲をもつ農民が最強の武士をいともたやすく撃ち殺せることを認めるのは、誰にとっても大きな衝撃であった。
 その結果、長篠の合戦後まもなく、鉄砲に対する二つの違った態度が現われはじめた。一方で、鉄砲は、遠く離れた敵を殺す武器としてその優秀性をだれにも認められるところとなり、戦国大名はこぞってこれを大量に注文したのであった。少なくとも鉄砲の絶対数では、16世紀末の日本は、まちがいなく世界のどの国よりも大量にもっていた。他方で、正真正銘の軍人すなわち武士階級の者はだれもみずから鉄砲を使おうとする意思はなかった。かの織田信長でさえ、鉄砲をおのれの武器としては避けた。1582年信長は、死を招いた本能寺の変で、まず弓を用い、弦が切れたあとは槍で闘ったと言われる。その翌年、大砲で約200名の兵隊が死んだ合戦で、手柄ありとされた10名ばかりの武勲者は刀と槍で闘った者である。
 武士の戦闘は刀、足軽のそれは鉄砲という分離は、もちろん、うまくいくはずのものではない。

【『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』ノエル・ペリン:川勝平太〈かわかつ・へいた〉訳(中公文庫、1991年/紀伊國屋書店、1984年『鉄砲を捨てた日本人』改題)】


 武士の美学が鉄砲を斥(しりぞ)けたとすれば、鉄砲での殺傷を彼らは「卑怯」と憎んだのだろう。そこにあるのはフェア(公正)の精神だ。銃を持てば中学生でも宮本武蔵に勝つ可能性がある。どう考えてもおかしい。何がおかしいかを考えるのも厭(いや)になるほどおかしい。ところが武器の進歩はどんどんおかしな方向に遠慮なく進んだ。鉄砲→機関銃→ロケット弾→原子爆弾と。武器の産業革命といってよい。殺傷までもが効率化・最大化を目指す。

 日本が中世において世界最大の軍事国家であったことを知る人は意外に少ない。私が知ったのも最近のことである。江戸時代のミラクル・ピースを支えたのが「鉄砲を捨てた」決断であったことは確実だ。ただしその平和はマシュー・ペリー率いる黒船の砲艦外交で止(とど)めを刺された。

 アングロ・サクソンの侵略主義もそろそろ年貢の納め時だろう。歴史は緩やかに大河のごとくうねる。ノエル・ペリンは「鉄砲を捨てた日本人に倣(なら)えば人類は核爆弾を捨てることも可能だ」と説く。そこからもう一歩進めて「軍備増強が損をする」経済状況にまで高めるのが望ましい。日本の伝統と文化にはその最大のヒントがある。

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