・『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
・『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦
・『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
・『陸奥宗光』岡崎久彦
・長く続いた貧苦困窮
・狂者と獧者
・『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦
・『重光・東郷とその時代』岡崎久彦
・『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦
・『村田良平回想録』村田良平 ・『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克
・日本の近代史を学ぶ
・必読書リスト その四
もう一つ小村について書かざるをえないのは、その貧乏であった。おそらく世界史上、政治家、外交官のなかで、小村より貧乏な人物はいかなったといってよいであろう。
着ているものといえば、夏も冬も着古しのフロック・コート一つだけだった。夏は暑いだろうというと、貧乏していると暑さを感じないと答えたという。昼食時には、そのフロック・コートからほつれて出てくる糸を鋏(はさみ)で切るのを習慣にしていたという。その昼食の金もなく、しばしばお茶だけで過していた。
親が事業に失敗した借金をそのまま引き継いだのが原因であったが、東京中の金貸しから借金をしていて、家のなかに金になりそうなものがあればみな借金取りがもっていくので、家財(かざい)はまったくなく、座布団も2枚しかないので客が来れば布団なしで座ったという。雨が降っても傘はなく、まして車に乗る金もないので、帽子から雨の雫(しずく)をたらしながら歩き、それでも外務省の裏門のほうが家から近いのに堂々と正門から入ったという。
北京の代理行使として赴任するとき、新橋駅に見送りに来た友人が、小村が時計をもっていないのを見て自分の時計を贈ろうとした。小村はそれを遮(さえぎ)って、見送りのなかに高利貸しがいて何か餞別(せんべつ)を貰(もら)えばただちに取り上げようと待ちかまえているから、くれる気があるならば先の駅でくれ、といったという。別の本では、北京赴任に際して陸奥(むつ)は小村に対面をもたせるために金時計を贈ったが、北京着任のときは、小村はもうその時計はまったくもっていなかったという。
【『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、1998年/PHP文庫、2003年)】
北京赴任は1893年(明治26年)のことである。小村寿太郎〈こむら・じゅたろう〉は1855年(安政2年)生まれだから38歳である。没したのが56歳だから人生の大半を貧苦困窮の内に過ごしたといってよい。第1回文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学へ留学していることを思えば、よほど圭角のある人物だったのだろう。貧困は人を惨めにする。志を手放すことがなかったところに強靭な精神力が窺える。
小村を引き上げたのは陸奥宗光である。陸奥~小村という外交官によって日本は不平等条約を解消し、日清・日露戦争を乗り越え一等国の仲間入りを果たした。この二人は真正のエリート(選良)であった。近代人の存在があって近代の扉が開かれる様子がよくわかる。彼らはまた愛国者でもあった。世論の誹謗中傷を恐れることなく、ただただ国の行く末を案じて身を処した。
明治から昭和初期にかけて政治家は辛労の限りを尽くし、絶命することも決して珍しくはなかった。財を成した人物も殆どいない。国を造ることに真剣であった。
小村寿太郎とその時代―The life and times of a Meiji diplomat
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岡崎 久彦
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