・『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
・『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦
・『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
・単純な史観
・『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦
・『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦
・『重光・東郷とその時代』岡崎久彦
・『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦
・『村田良平回想録』村田良平 ・『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克
大衆的な歴史小説に限らず、専門家の方々の学問的な著作の中にも、違和感を持たざるを得ないものも多々ある。
ある人物や時代について、特定の部分の引用は必ずしも間違っていなくても、その人物や歴史の全体像から見てバランスを失しているような引用は、やはり、歴史をゆがめてしまうと思う。
戦前の歴史は、偉人をほめるために、しばしばその人物の全体像と関係のないような片言隻句を取り上げては、「尊皇の志があった」と書いた。そして、戦後の反体制運動華やかなりし頃は、個人でも社会の集団でも、「権力に抵抗した」ときのことだけを、他の事実と較べてアンバランスに大きく取り上げて、その意義を強調している。こういうことも、気になるのである。
これほど単純でわかり易い史観もない。むしろそうなれば、もう、歴史を読む必要さえもないのではないかと思う。読む前から、「尊皇の志をもつのは偉い」、あるいは「権力に抵抗するのは良い」ということだけ覚えていれば、それ以上、歴史から学ぶものがないからである。
反体制史観のようなものは、戦後のある時期のあだ花に過ぎなかったのであろうが、平和主義は、戦後史観の一貫した金科玉条であり、また人類の思想の一部としてしばしば歴史の中にそれなりの意義ある役割を果たしている。
だからといって、戦前の歴史は豊臣秀吉の帝国主義を讃えたから悪いけれども、戦後の歴史は、たとえば、最近のテレビ・ドラマのように徳川家康を一方的に平和主義と描写して、その平和主義をほめているのだから、良いのだ、などと言うのは、やはりおかしいのではないかと思う。
【『陸奥宗光』岡崎久彦(PHP研究所、1987年/PHP文庫、1990年)】
『陸奥宗光とその時代』を開けば自ずから本書を読まずにはいられなくなる。書かれた本が書いた著者を動かし、編集者をも動かしたのだろう。本書によって「外交官とその時代シリーズ」が誕生するのである。
尊皇史観は同調圧力で、反体制史観は思想のための歴史流用に過ぎない。日本人は生活において実利を追求する傾向が強いにもかかわらず、ものの考え方には合理性を欠くところがある。明治維新における攘夷(じょうい)から開国への変わり身の早さが日本人の政治態度をよく示しているように思う。たぶん「祭り的体質」があるのだろう。
大東亜戦争の敗因もここにある。日本は帝国主義の甘い汁にありつこうとした(当時この目的自体が誤っていたわけではない)。アメリカは開戦前から戦後世界のグランドデザインを描いていた。具体的な戦闘においてアメリカはオペレーションズ・リサーチ(OR)を採用し、日本は玉砕と特攻をもって兵士とエリート学生を犠牲にした。【徒(いたづら)に】それを繰り返した。「こうすれば勝てた」という議論が石原莞爾〈いしわら・かんじ〉以降、現在に至るまで盛んであるが欺瞞も甚(はなは)だしい。そもそも「勝つためのシステム」すら構築していないのだから負けるべくして負けたと断言してよい。当時の精神論は確かに崇高であった。それを嘲笑う資格は誰にもない。だからこそ尚更悔やまれるのである。
戦後70年以上に及ぶ精神的鬱積が中国・北朝鮮・韓国を導火線として爆発する可能性が高まりつつある。歴史を知らない若者であっても「なぜこれほど虚仮(こけ)にされないといけないのか」との疑念を覚えるような出来事が次々と起こっている。自衛隊という擬制の軍隊を有する擬制の国家が限界を迎えつつある。