2019-12-01

絵画のような人物描写/『時流に反して』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘
『精神のあとをたずねて』竹山道雄

 ・昭和19年の風景
 ・絵画のような人物描写

『みじかい命』竹山道雄

竹山道雄著作リスト

 ある日のこと、私はいまは共に故人となられた岩元、三谷両先生がここを登って来られるのにゆきあった。両先生ともにこの登りが苦しそうだった。意外に思っている私を見て立ちどまり、私が降りてゆくのを微笑をうかべてうず高い石塊の上に立って待たれた。一人はつよく澄み、他はきよく澄みきった瞳をして、並んでいられた。
「いまな、柳君の民芸館に琉球のものを参観してきたのよ」と岩元先生が、いささかなまりのつよく館や観をはっきりクヮンと発音しながら、よく響く声でゆっくりといわれた。
 老先生は片眉を下げて前屈みになったまま、光が束になって発しているような眼差しや、はげしい意力のあらわれた下唇に微笑を浮べて、先生の癖で、相手の体をまじまじと見ながら話された。三谷先生はこの頃からますます全身が霊化して、スピリットのような感じを増してゆかれたが、この日も息づかいが苦しそうに、薄い外套が肩に重そうだった。しばらく立ち停まって話の末、私は両先生に夕飯のお伴をすることとなり、両先生の学校の用をすませてから、50銭の円タクをつかまえた。
 その夕は主として岩元先生が元気よく話された。話題はきわめて広かった。「ホメアのオデュッセイアにある豚汁とわたしの国の薩摩汁とは、調理の法が同じじゃ。大きな鉄の鍋があってのう……」「西郷が戦死した城山の戦の鉄砲の音を、わたしは子供のとき鹿児島できいた」「床次は禅をやった。それで進退の責任感がないのじゃ。禅をやるとそうなる」「田中の世話でヴァチカン法王庁からトマス・アクイノズンマ・テオロギカを送ってもらって幸せしてる」――こんな言葉を断片的に憶えている。一体岩元先生はあれほど厳格な激しい気性の方であり、随分極端な伝説の主でありながら、近く接して圭角といったようなものをついに示されたことがなかったのは、不思議なくらいだった。むしろヘレニストでありエピキュリアンである一面をよく示された。
 三谷先生はこれという話題をもって人に談ずるということはない方であった。しかも、先生ほどその何気ない言葉が相手の(求むるところのある若い人の)魂の底に浸みこんで、そこに火花を点じ、襟を正さしめ、同心せしめ、生涯の転機とすらなった人は、他にはけっしてなかった。この混沌として解きがたい世界人生にも何か動かすべらからざる真実があることを身を以て証(あか)しする人――傍らにいてそんな気のする人であった。(「空地」)

【『時流に反して』竹山道雄(文藝春秋、1968年)】

 入力することが喜びにつながる稀有な文章である。まるで絵画のような人物描写だ。テキストで描かれた印象派といってよいだろう。

 検索したところ岩元禎〈いわもと・てい〉と三谷隆正のようだ。どちらも大物である。Wikipediaによれば岩元は「夏目漱石の『三四郎』に登場する広田先生のモデルであるとする説がある」。三谷は内村鑑三の弟子で「一高の良心と謳われた」とある。

 空地の西側にある坂道のスケッチである。今は亡き一高の元老を描くことで政界の元老がいなくなったことを浮き彫りにしようとしたのだろうか。あるいは戦後に向かって戦前の校風を書き残そうとしたのだろう。

 老人は歴史の生き証人である。上京してから数年後のこと、私にも元老と呼べる存在のご老人がお二方あった。手に負えない問題を抱えて困り果てた時は必ずどちらかを頼った。涙を落とすほど厳しいことを言われたこともある。私の祖父母は既に亡くなっていたが、血がつながっていればこうした関係を結ぶことは難しかったことだろう。敬愛できる長老を知り得たことはその後の人生を開く鍵となった。

 以下に巻末資料を掲載しておく。書籍になっていないテキストも多い。












読み始める

 

リベラル派が日本海軍をダメにした/『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通


『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』世界戦略研究所編
『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
『新・悪の論理』倉前盛通
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通
『自然観と科学思想』倉前盛通
『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通

 ・リベラル派が日本海軍をダメにした

『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『悪の宗教パワー 日本と世界を動かす悪の論理』倉前盛通

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 大体、学校の成績などというものは、専ら左脳の言語と論理の領域の働きできまるものである。しかし武人として一番大事な決断力、直観力、動物的カン、総合判断力、創造性、臨機応変の発想転換、勇気、冒険心、一見無謀に見えることでもその背後に活路があることを見抜く力、敵の陥穽の察知、その他、一流の軍人としての主な資質はほとんど右脳の非言語的分野の守備範囲である。
 陸士や兵学校や陸軍大学、海軍大学等でトップクラスだった者は往々にして、言語分野の勉強にかたよりすぎて、軍人として一番大事な右脳の活動能力を低下させてしまうおそれがある。
 それが今次大戦の戦場で多くの将軍や提督たちが失態を演じた最大の原因であろう。決して、単なる運、不運の問題ではなかった。多くの人々の反撥を買うかもしれぬが、私は米内光政山本五十六井上成美という提督たちは、その意味では結局一流の武人ではなかったのかもしれないと思っている。
 一流の大将であったか、二流の大将であったかをきめるという「はからい」そのものが、ある意味ではきわめて不遜なことであるが、井上成美大将自身がそれをされていたようであるから敢えていうが、軍人は戦場でどのような戦(いくさ)をしたかによって、その評価はきまるべきものである。武運の強い人もあろうし、武運拙い人もあろう。しかし、武運拙く下手な戦さをした軍人は、その人がいくらリベラルな思想の持主であろうが、人間的に良い人であろうが、武人としては二流、三流の評価に甘んじなければならない。
「あの相撲取りは相撲は弱いですが、人柄が良いし、リベラルな思想の持主だから一流の力士です」
 などという評価は、世の中には通用しまい。少しくらい強情でも相撲に強いのが一流の力士ではないのか。
 私が常に奇怪に思うことは、米内、山本、井上というリベラル派の提督たちが日本海軍の主流を握って以来、明らかに日本海軍の運命慣性はマイナスの方向へ流され始めたように思われることである。あるいは、日本海海戦であまりにも見事な勝利を得たことで海軍の戦略思想にかたよりがあったかもしれぬ。しかし、世界で最初に航空艦隊を保有したのも日本であったはずだ。試行錯誤は日本も米国も同じようにやっている。責任を古い海軍の将星に転嫁するのは卑怯というものだろう。
 もちろん、陸軍がシナ大陸で無謀な消耗戦を何年も続けて国力を消耗したことが、日本そのものの命運を狂わせた最大の原因かもしれぬが、その一番困難な時期に海軍の首脳が揃って、いわゆるリベラル派で占められたことは不幸であった。しかも、これらの人々には過去の海軍の先輩たちを悪しざまに批判することで自分たちの立場を弁護しようとする傾向があったように見える。それは武人のとるべき態度ではない。
 軍人は勝たねばならぬ。勝てない戦とわかっていたなら、三人揃って腹でも切って日米戦の不可を断乎主張すべきであったはずだ。はじめから深層の無意識で敗北のシナリオを描きながら、ずるずると戦争に入りこんでしまったのではないのか。それがリベラル派などと称される人々の弱さであり、武将として二流に堕しやすい原因である。
 まして、ロンドン軍縮会議に反対したから東郷元帥は二流の軍人だったなどとは、珊瑚海海戦で下手な戦をした井上成美大将は口が裂けてもいうべきではなかった。
 戦後の日本海軍に対する評価は、多分にアメリカ海軍の見方に左右されている。米海軍としては、日本海軍にとってマイナスのシナリオを書いた人々を、リベラルで立派な提督だったと賞讃するだろう。
 しかし、それは米海軍の勝手であって、日本人としての評価は、いかにして米海軍と良い勝負をしたかという視点から、大東亜戦争の武人の評価はなされるべきである。

【『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉(プレジデント社、1983年)】

 先に桜井章一著『運に選ばれる人 選ばれない人』(2004年)を読んでおくといいだろう。

 私自身はあまり運不運を意識したことはない。ただ人との出会いには恵まれてきた方だと思う。特に20代から30代にかけて尊敬できる先輩と知遇を得たことは大きな財産となった。

 歴史を振り返ると運不運を感じることは少なくない。特に二・二六事件から大東亜戦争まで日本は不運の連続であった。倉前盛通は明治維新後に生まれた陸軍士官学校・海軍兵学校出身のエリートがその原因であったと言い切る。学生時代の序列を引きずる日本とは異なりアメリカが実力主義だったことを思えば、人事という点においても日本は既に敗れていた。

 昔は、陸士(陸軍士官学校)や海兵(海軍兵学校)を何番で出たか、その後の陸軍や海軍の大学校を何番で出たかで出世が決まった。そんな連中が仕切った戦争は、ことごとく現場を無視した机上の空論ばかりで、無残な大敗を喫した。

【『56歳でフルマラソン 62歳で100キロマラソン』江上剛〈えがみ・ごう〉(扶桑社文庫、2017年)】

 倉前は海軍出身で、陸軍よりも海軍組織の方が柔軟性に優れ、戦後を見据えて人材を確保したことも高く評価している(これらの人々が戦後の工業を支えた。ソニーなど)。その上で米内、山本、井上を批判しているのだ。

 悪しきエリート主義は東大法学部に受け継がれて日本を蝕み続ける。試験が得意な彼らが現実を見誤り、政策をミスリードし、失われた20年を30年にまで引き延ばそうとしている。武士であれば切腹は避けられない。

 国を憂える人はどこにいるのだろうか?

2019-11-30

走らずにはいられなかった


 もともと走るのは苦手だった。幼い頃から運動神経はいい方だったがそれは球技に限られていた。走るのが嫌いだったのは汗をかきにくい体質と関係があったのかもしれぬ。ただ苦しいだけで何も報われないような気がしてならなかった。私が得意なのは技だ。陸上競技の単調な動きは嫌悪の対象でしかなかった。

 昨年から自転車に乗り始めて体調がよくなった。1年ほど経った時、走行距離が伸びなくなった。100km近くまで走れたのが50km前後にまで落ちてしまった。私が走るのは宮ヶ瀬湖周辺で峠道が多いので脚にかかるダメージがわかりやすい。大体、半原越(愛川町川)付近や土山峠で脚のコンディションがはっきりする。スピンバイクの時間も30分から10分に低下した。

 ここで無理をしてしまうとバドミントンと同じ轍(てつ)を踏んでしまう。一昨年のことだが1ヶ月の間に三度も肉離れを起こしたことがあった。中高年の運動において最も大事なのは「頑張らない」ことだ。

 そこでウォーキングを行ってきたのだが、どうも負荷が弱すぎる。体が温まっても汗をかくほどではない。ムラムラと走る衝動が湧いてきた。

 実はランニングは体に悪い。激しい運動によって活性酸素が発生するためだ。活性酸素は老化や癌の原因となる。プロスポーツ選手が意外なほど短命なのも活性酸素によるものだ。要は体が錆(さ)びてくるのだ。もちろん長距離のサイクリングも健康を阻害する。

 それでも尚走らずにはいられなかった。理由は三つある。まず汗をかきたかった。次に極度の寒がりを克服したかった。そして煙草の本数を減らしたかった。ウォーキングやサイクリングだといくらでも煙草が吸える。肺を痛めつければそうはいかない。私の頭にあの名場面が浮かんだ。

 とうとう足は地面を蹴(け)りはじめた。すぐ息が上がった。水ぶくれのおれの体から汗が噴き出した。額から頬をつたってアゴの下へ汗がたまった。肺は水が詰まったように重かった。ただ走ることだけが、おれの唯一の避難所へ通じる道のようだった。激しく体を消耗させることだけが、この信じられないことだらけの、ひどい夢のような現在(いま)を消すたった一つの方法のようだった。

【『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1989年/リバイバル版 小学館、2000年/小学館文庫、2003年)】

 意を決して11月25日から走り始めた。初日は数百メートルだ。時折右膝が痛むことがあるので慎重に足を運んだ。そして27日に3kmほど走った。私にとっては偉業である。こんなに走ったのは高校の部活以来だ。目標の信号からは歩いて流した。驚くほど脚が前に出る。翌日、案の定太腿の前側が筋肉痛となった。散歩やサイクリングでは鍛えることのできなかった部位なのだろう。ミッドフット走法の効果だ。年をとると翌々日の筋肉痛が最も激しくなる。心地よい痛みだ。

 タイミングよく読んだ江上剛〈えがみ・ごう〉著『56歳でフルマラソン 62歳で100キロマラソン』が背中を押してくれた。私は56歳だ。レースに興味はないが100kmマラソンは大きな目標となる。

2019-11-28

『悪魔の飽食』事件の謎/『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通


『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』世界戦略研究所編
『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
『新・悪の論理』倉前盛通
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通
『自然観と科学思想』倉前盛通

 ・『悪魔の飽食』事件の謎

『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『悪の宗教パワー 日本と世界を動かす悪の論理』倉前盛通

 レフチェンコが表情の撮影を拒否していると聞いた時、思い出したのは“『悪魔の飽食』ニセ写真事件”の時の記者会見の様子だった。
 57年夏にニセ写真の使用が暴露された際、『悪魔の飽食』の著者・森村誠一氏は、取材パートナーと称する下里正樹氏と共に、写真提供者A氏なる人物を正面に出して、弁明の記者会見を行なった。その時のA氏の様子たるや、珍妙さを通り越して異様な印象を与えるものであった。
 ホテルの室内にもかかわらず、ハンチングをかぶり、黒いサングラスにガウン姿、ボクサーやレスラーではあるまいに、こんな奇妙な姿で記者会見に臨んだ人物が、かつてあっただろうか。森村氏らは、石井部隊(旧関東軍の細菌部隊で別名731部隊)関係者にA氏の身許が割れて危険が及ばないための措置としているが、そこに大いなる作為を感じるのである。(中略)
 そもそも、『悪魔の飽食』の誕生からして、マインド・コントロールの臭いがぷんぷんしているのである。日本共産党の幹部党員のもらしたところによれば、『悪魔の飽食』の赤旗日曜版への連載は、当時の宮本顕治委員長(現・最高幹部会議長)の一存で決まったという。
 当時、森村誠一氏は赤旗日曜版に小説『死の器』を連載中であった。連載開始は55年6月22日で、完結は56年9月27日である。この完結直前の56年7月19日から、74回にわたる『悪魔の飽食』の連載が突如開始される。
 同じ紙面に同じ筆者の連載が2ヵ月半にわたって続く形になるのだが、これはいかに党機関紙とはいえ、ブルジョワ・マスコミにできるだけ近い紙面形態を採ろうとしている赤旗にしては、異常なことである。ある幹部党員は、その背後の事情を“ミヤケンのツルの一声”と説明していた。
 日共にとって、『悪魔の飽食』の空前のヒットは、日本国民に対するマインド・コントロールという意味から、絶大なる効果を持つ戦略兵器となり得る存在であった。日米同盟の強化と“日本の右傾化”に対して、日本国民に戦時中の悪夢を思い起こさせ、警戒の念を抱かせるのに、これほどの効果的な“紙爆弾”はないと考えていたのだろう。
 この一大戦略に従って、流行大衆作家であり日共シンパの森村氏に白羽の矢が立てられたのである。しかし森村氏には泣所があった。取材力に乏しく、ノンフィクションを書く素養があまりないという点である。
 そこで、取材パートナーという形で、筋金入の党員が実質的な筆者として送り込まれた。それが下里正樹氏である。日共内での正式な肩書は、赤旗特報部長とういレッキとした幹部党員で、囲碁、将棋の世界ではかなり有名な観戦記者でもある。

 しかし、日共の一大野望も“ニセ写真事件”によって破綻してしまった。否、破綻したというよりむしろ、アメリカ側のマインド・コントロールに乗せられて“悪魔の飽食作戦”を開始した日共が、アメリカ側のスケジュール通りに陥穽にはまったと見たほうが正確かもしれない。
 問題になった例のニセ写真は、終戦直後の戦犯裁判用に中国の国民党や共産党が大量に作成したという経緯がある。その大部分が、日露戦争のあと、満州でペストが大流行したとき、その救援活動を日本赤十字と日本軍が協力して行なった当時の写真を修正したものであった。それを森村・下里チームは、前述のA氏から提供されたと主張している。
 だが、日共の幹部党員によれば、取材開始時点での1ヵ月にわたるアメリカ取材旅行の際、下里氏が米軍関係者もしくはアメリカの情報筋から入手したものだという。日共としては“米軍提供”と書くわけにはいかず、提供者A氏なる人物をデッチ上げたのではないか。
 それにしても、あの抜け目のない日共が、あんな粗悪なニセ写真にだまされたのか、あるいは知っていてもわざと使ったのかは別にして、この事実は、なによりも日共そのものがアメリカのマインド・コントロール下に置かれていたとでも考えるほかないのではなかろうか。日共は、米ソ双方からマインド・コントロールされているのかもしれない。
 また、森村氏自身についても、不審な点がある。ヒューマニズムと正義を売り物にしている森村氏にもかかわらず、「ああいう写真を見付け出すのが、ゾクゾクするほどうれしい」と語っている。これは異常な表現ではないか。人間なら心が痛むような写真である。ゾクゾクするとは尋常ではない。
 これには、焼跡左翼の野坂昭如氏も、「ゾクゾクするほどうれしいとは何事か」とカミついていた。これが当り前の人間の反応であろう。良心の痛みもなくあいいう発言をした森村氏自身、中国はソ連を旅行した際、なんらかの形でマインド・コントロールを受けた可能性はないか、自己点検してみてはいかがだろうか。

【『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉(太陽企画出版、1983年)】

 このテキストの直前にラストポロフ事件が紹介されている。佐々淳行〈さっさ・あつゆき〉の著書も関連書として挙げておく。

『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行
『私を通りすぎたスパイたち』佐々淳行

 志位正二〈しい・まさつぐ〉の名を初めて知った。日本共産党の志位和夫委員長の伯父に当たる人物だ。ラストボロフ事件発覚後、志位正二は自首した。その後航空機内で急死する。親交のあった倉前は「殺(や)られた!」と確信する。それがKGBによるものかCIAによるものかは不明だ。

『悪魔の飽食』は私も若い頃に読んだ。当時は本多勝一〈ほんだ・かついち〉を読んでいたこともあり、若き精神は反日に傾いていた。本多の山本七平批判がカッコよく見えた。私の歴史館は『中国の旅』に染められていた。『週刊金曜日』も創刊号から購入していた。私が戦後史観の迷妄から覚めたのは数年前のことだ。

 本書は竹村健一が企画した「日本の進路シリーズ」の一冊で、軽めの読み物となっている。超心理学とはマインド・コントロールと超能力のことで、ヒカルランド系の内容だ(笑)。

 尚、下里正樹〈しもざと・まさき〉はかつて松本清張の秘書を務めた人物らしい。